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2010.06.10

境の明神から女石の追分

本日で、奥州街道の第一章・宇都宮から白河宿までが完了。4回の旅であった。

下野側の境の明神の「玉津島神社」である。説明板によれば、奥羽側の住吉神社と並立している。創立は古く、天喜元年(1053)4月14日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝えられる。明治39年12月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。

asino_053.jpg紀州は私の生まれ故郷だが、今でもここからは遠く、天喜元年という古い時代に勧請したとは驚きである。確かに、和歌浦の玉津島神社は、神亀元年(724年)2 月に即位した23歳の聖武天皇が、和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発する。この時同行した万葉歌人山部赤人の詠んだ歌が「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」の有名な歌と言うのだから、古い神社で格式は高い。
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asino_055.jpg「お気をつけて・とちぎ県」の標柱と、「ようこそ・福島県」の看板がある。かつての下野の国(しもつけのくに)と陸奥の国(みちのくのくに)の境界線が、そののまま現在の栃木県と福島県の境界となったのである。国道であるにもかかわらず、ここはセンターラインも無い、細い道になっているのは、明神を移すのが憚られ、拡幅工事が出来なかったためであろうか。
ともかく、長かった下野の国ともお別れである。
境界を越すと、陸奥側の「住吉明神」がある。説明板によれば、境の明神の由緒は不詳であるが、文禄4年(1595)に当時白河を支配していた会津藩主の蒲生氏が社殿を造営している。現存するのは、弘化元年(1844)に建てられた小祠である。奥州街道は五街道の一つで、奥州、越後の諸大名が参勤交代で通行し、旅人や商人などの往来も盛んであった。このため、道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり灯籠や碑の寄進が盛んに行われているとある。
また、芭蕉の「風流の はじめや奥の 田植え唄」の句碑を初めとして多くの歌碑等も多く建立されている。
なお、玉津島明神(女神・衣通姫(そとおりひめ))と住吉明神(男神・中筒男命(なかつつおのみこと))は、国境の神・和歌の神として、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰があり、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としているとのこと。
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国道を挟んで境の明神の反対側に、白河二所関址の看板がかかっている。ここは、峠の茶屋「南部屋」があった場所で、横の階段を上ると、直ぐ右に「境の二所之関址」の碑が建っていた。建立は、理学博士・東京学芸大学名誉教授・国士舘大学教授 岩田孝三、白河関守 石井浩然 昭和57年(1982)5月となっており、碑文によれば、江戸時代よりの関守の家である石井浩然(南部藩士で、故あって南部藩の参勤交代路にあたる白河の関守となった石井七兵衛の子孫)とその考証に当たり、遂にその関屋跡を確認する事が出来た。茲に白河二所ノ関址立証を機とし、白坂道白河関址に紀念碑を建立し、永く白河二所ノ関の意を伝承せんとするものであるとある。 
なお、岩田教授は相撲の出羽海部屋と並ぶ名門、「二所ノ関部屋」の名も、この関の名と関係しているとの説を掲げているとのこと。
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両方から樹木が茂り、涼しく心地よい。昔は、どこでも樹木が茂っていて、現在よりはるかに歩き心地が良かったのではなかろうか。
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峠から坂を下って行くと、大きな楓の傍に「衣がえの清水」の立て札が立っていた。
急な斜面を降りると、今もこんこんと湧く泉があり、「古くは弘法大師が、この清水で衣を濯ぎ、芭蕉も門人曽良と共に元禄2年(1689)新暦6月7日 白河入りし、境の明神を参拝後この清水に立ち寄り休息をしたところである」と書かれた説明板が立っていた。
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坂道を下り終えると、左側に馬頭観音他の石碑群があり、ようやく白坂の街並みが見えてきた。
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少し先の左手に、大垣藩士の墓がある。説明板には、「五月二十六日、白坂天王山の戦いにおいて、大垣藩銃隊長・酒井元之丞重寛は、自軍の先頭に立ち兵を指揮していたが持っていた軍旗が、東軍の銃撃目標となり胸部に銃弾を受け陣没した。この碑には妹のかづが詠んだ「進み出て 績を尽くしたこの神の いまは偲びて たつる石ふみ」の歌が刻まれている。墓地は白坂観音寺にあり、大垣藩三名が合葬されている」とある。その「観音寺」が、少し先にあった。
真偽のほどは確かでないが、金売吉次の隠し金伝説にまつわる寺で、吉次が遺した最後の言葉「朝日さす夕日さす からすの横ばえ すずめのちょんちょん 三つ葉うつぎの下にある」の夕日とは、この観音寺の夕日観音のことだそうである。
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向こうに、「白坂泉岡」の交差点が見えてきた。時刻は12時を回ったところであるが、白坂には入ろうと思うような食事処がなかった。やむなく、白河への峠道に入って行く。少し先には、早速新しい牛頭観音の石碑が建っていた。
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延々と続く峠道で、空腹がつのってきた。やむなく横道に入ってリュックに入れておいたコンビニのおにぎりを食べる。芦野の丁子屋とまでは言わないが、少しは食指の動く食事処がないものかと思う。
2kmほど歩いたであろうか、皮籠(かわご)の交差点に着いた。智将・直江兼続が徳川軍を迎え撃つべく主戦場に選び数キロにおよぶ防塁を築いたところで、今も、防塁跡と思われる遺構の一部が残されているとのこと。当時はこの地は革籠原と記されていた。この交差点からしばらくは、殊更に大きな家が散見されるが、何か関係があるのだろうか。
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数百メーター進むと、左側に金売吉次の墓の案内表示があり「八幡神宮」の小さな社がある。500mほど横道に入って行くと林の中で、石囲いの中に三基の石塔があり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられている。石塔は白河石で作られた宝篋院塔(ほうきょういんとう)で、製作年代は特定できないが、作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されている。なお、石塔の石囲いは元治元年(1864)である。
承安4年(1174)、吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害され、里人がこれを憐れみ、この地に葬り供養したと伝えられている。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、八幡宮に合祀したという。それで、この八幡を「吉次八幡」とも呼ぶそうである。また、皮籠の地名は、吉次が襲われ、皮籠の中の金などを奪われたことから、そうと呼ばれるようになったとも言われている。
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街道に戻ると、少し先の左側に座り地蔵と石仏が並んでいた。今日何体目の座り地蔵であろうか。進むと、左側に溜池が見えてくる。一里段という地域である。遠くに那須連山が望めるところらしいが、午後になって空は晴れていても、霞がかかったようになり見ることは出来なかった。
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新白河中央病院が左手に見えてきて、その先の坂道を下って行くと、同じく左に数本の木が意味ありげに立っているのが見え、近づくと髭文字の題目碑が建っていた。
その先で、国道から右に分かれ西小丸山の集落に入って行く。
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やはり車の通らない道は楽である。道は大きく左にカーブして5?600m程度で元の国道に合流する。
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国道に合流した地点の風景は、小さな集落の西小丸山から一変したもので、山道を歩いていて突然に都会の喧騒に出くわしたような戸惑いを覚えると言ったら大げさだろうか。直ぐに、西大沼の交差点で向こうには戊辰戦争の激戦地の稲荷山が見える。
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街道は、稲荷山に突き当たり右折するが、その曲がり角の右側に「長州大垣藩戦死六名墓」と彫られた碑がある。また、道の左側には「戦死墓」と刻まれた大きな石碑が見える。戊辰の役古戦場の説明板も建てられていて、以下の記述がある。
慶応4年(1868)、奥羽諸藩鎮定の為、薩長、大垣等の西軍が大挙して、3方から白河を攻めた。東軍の会津、仙台、棚倉の兵は城の南西の山地に陣し、これを迎え撃った。
この地は白河口での激戦地で、閏4月25日、会津兵は一旦西軍を退けたが、5月1日、再び来襲し激戦、弾尽き刀折れ、戦死者数知れず遂に敗退し、小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。戦後両軍、各々の戦死者の碑を建て、霊を慰めた
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下の左側の写真は 田邊軍次の墓である。会津藩士田邊軍次は、戊辰の役、白河口での戦いで東軍が敗れたのは、後に白河県から白坂町取締りに任命された大平八郎が、西軍の道案内をしたためであると信じ、白坂宿鶴屋で八郎を斬殺し、自らもその場で割腹して果てた人物である。八郎の養子直之助は、義父の仇である軍次の墓を建て白坂観音寺に葬ったという。戊辰戦争の悲劇の一駒である。
また、右の写真は、戊辰戦争の会津藩士の墓で、ここは白河口最大の激戦地であった。この碑には、会津藩若年寄・横山主税、海老名衛門等304名の戦没藩士の名が刻まれている。
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右折して300mほど進むと、権兵衛稲荷神社がある。狛犬として配された狐は、阿吽(あうん)の形であるとのこと。長い階段は、稲葉山の上にある本殿に続いている。
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街道は丁字路で、左折して進む。道なりに進むと、谷津田川(やんたがわ)を南湖橋である。この橋を渡ると白河市街である。
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谷津田川を渡ると、一番町に入る。街道らしい家屋が見える。
この先で、街道は直角に右に曲がる。江戸幕府の道中奉行が管轄した奥州道中最後の宿場の白河宿である。
曲がり角に「月よみの庭」と名付けられた白河石を敷き詰めた小公園がある。白河石とは福島県白河市で産出する安山岩の名称である。埋蔵量数千万トン以上と言われ、今後も安心して使える豊かな天然資源である。
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街道は、右折するが、左側には「天神神社」が見える。さて、街道を進むことにする。白河の中心街である。
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進んでいるのは、天神町で雰囲気のある家も残っている。200mほど先には「今井醤油店」がある。
さらに、200mほど進むと枡形で、ここを右折して「関川寺(かんせんじ)」を訪れる。関川寺は古くは天台宗だったとされているが、中世、白川城主の結城宗廣が中興開山し、天正9年(1581)に現在地に移ってきて、近世は妙徳寺などと共に寺町を形成し小峰城の南方の防衛ラインを呈した。境内には赤穂四十七士の1人中村勘助の妻の墓がある。勘助の父は白河藩士だった事もあり、家族を討ち入り前に白河にいた親戚に預けたのである。寺宝である銅鐘は案内板によると宝暦11年(1761)に鋳造されたものとのこと。
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山門代わりの常夜燈も巨大で迫力がある。門前の通りにある薬局も古い造りで、50年ほど前の商店風景を思い起こさせる。
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関川寺の近くの「天恩皇徳寺」を訪れた。お目当ては「小原庄助」の墓である。寺の前を通り、裏地の墓地の中にあるが、案内板が建てられていて分かり良い。徳利に盃を伏せた格好の墓石がユニークである。説明板によると小原庄助は、谷文晁の高弟である羅漢山人に絵付けを習いに来て安政5年没した会津塗師久五郎とのこと。戒名は「米汁呑了信士」で、時世の句は、「朝によし昼になほよし晩によし飯前飯後その間もよし」と書かれていた。誰かの創作としても良く出来た話しである。
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街道に戻り、さらに東北本線を潜って、小峰城址を訪れた。三重櫓が復元されていて、しかも木造なのが嬉しい。
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白河集古苑と名付けた、結城家古文書館と阿部家名品館がある。ゆっくり見学したいが、時間がなくスキップして、本丸跡に向う。石垣の組み模様が素晴らしい。
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本丸跡に通じる門からみた三重櫓と本丸跡の広場である。
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階段を上ると、城内のバラ園と市街がよく見下ろせる。「おとめ桜の碑」が建っていた。
案内板には、以下のように書かれていた。
初代藩主丹羽長重は、幕府の命により小峰城の大改修を行い、石垣造りの城郭を築きあげました。その際、本丸の一角にある石垣が幾度となく崩れ落ちてしまうことから、人柱を立てることになりました。たまたま父に会う」ためにやって来た藩士・和知平左衛門の娘「おとめ」が、不運にも捕らえられ人柱となったと伝えられています。小峰城の完成後、人々はおとめの悲運を哀れんで城内に桜を植え、これが「おとめ桜」と呼ばれるようになりました。
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櫓の中を見学した。無料である。矢や銃を撃つ狭間、石を投げ落とした石落としも忠実に復元されていた。
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街道に戻り、2つ目の枡形を通って進む。左に萩原朔太郎の妻・美津子の生家があった。萩原朔太郎と言えば、詩集「月に吠える」の名しか知らない。
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歩いている街道は、現在の呼び名では294号線で、枡形から300mほどの交差点で左折する。進むと「白河だるま総本舗」の看板が見える。白河のだるまは、江戸時代、白河城主・松平定信が、江戸の絵師に図柄を描かせ、特産物にしたのが始まりで毎年2月11日には、だるま市も開かれてにぎわうとのこと。
先に、東北本線のガードが見えてきた。潜って進むと、右側に「津島神社」があり、鳥居が三つ並んでいる。津島神社は、愛知県津島市に総本社があり、織田氏が氏神として崇拝した。なお、織田氏の家紋も津島神社の神紋と同じ木瓜紋(もっこうもん)である。
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遂に阿武隈川に架かる田町大橋が見えてきた。阿武隈川は、那須連山の一つ旭岳(1896m)を源流とする河川で、流路延長は239Kmで、東北では北上川に次ぐ長さの川である。流石に水量が多い。車道と歩道が分離されているが、歩道側の欄干に蛇が寝そべっているのを見つけたが、続いて通る人は大騒ぎとなった。30分後に引き返してきたときは居なくなっていた。道路を歩いていて蛇を見たのは久しぶりである。
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田町大橋を渡ると、右のたもとに水難殃死者供法塔が建っていた。思いがけない災難で水死した人を弔ったようである。200mほど進むと左側に聯芳寺(れんぽうじ)がある。結城宗広の伯父、広綱が娘の菩提を弔うために建立した寺であると伝えられる。もとは太田川(泉崎村)にあったのが、いつの頃か現在の場所に移ってきたようである。
100mほど進んで、左の小道を入ると、「硎姫(えなひめ)神社」がある。兵法家鬼一法眼の娘、皆鶴姫を祀る神社である。
縁起によると、平治の乱で平清盛に敗れた源氏の棟梁源義朝の遺臣である吉岡家3兄弟のうち、長兄の鬼一法眼は京都堀川に住み、兵法家として中国伝来の兵法の秘伝書を秘蔵していた。源義経は鬼一法眼より、その秘伝書を入手したが平家の圧迫が激しく、金売吉次と共に京都を脱出し、平泉の藤原秀衡のもとに向かった。皆鶴姫も旅装を整え、恋する義経を追ったが、なれぬ長旅で病気になり、里人の手厚い看病の甲斐なく息を引き取り、この地に埋葬された。その時懐中に梅の実があり、里人は遺品としてこれを蒔くと、「八房の梅」で花咲、実を結び、大事に育て、社を建立し祀ったという。
硎姫神社の「硎」とは、胎児が生み出されたのち、排出された胎盤・卵膜などを言う。皆鶴姫は妊娠していたのであろうか。しかし、妊娠していて京からここまで来ることが出来るとは思えない。鬼一法眼も実在の人物であるかが、定かでなく、全般的に信憑性に欠ける話しではある。また、梅には「八房の梅」の立て札が立っていたが、まだ植えて1?2年の様相であった。
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街道に戻り峠を越えて、ようやく女石の追分に達する。車は丁字路に突き当たり、黒磯方面と郡山方面に分かれるが、旧街道は少し手前で右に別れて行く。
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ここ女石も、戊辰戦争で激戦が展開され、その時に戦死した仙台藩士150余名の供養碑が、左側に建てられていた。奥州街道の第一章の白河宿までが完了した。
時刻は16時20分である。日も傾いてきた。急いで白河駅に戻り、17時発の電車に乗り帰宅した。
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下の写真は、白河駅前広場である。次にここを訪れるのは、奥州街道の第二章・仙台までの歩行となる予定である。
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芦野から陸奥入口

本日の万歩計47,582(30.9Km)・・・白河(女石追分)まで

東京駅を6時16発のやまびこ201号に乗り、那須塩原、黒磯で電車を乗り換え、黒田原には7時59分に到着した。那須高校の男女学生が大勢降りてきた。都合が良いことに、8時10分に伊王野行きのバスが出るので乗車するが、前回の芦野から乗ったときと同じく乗客は、私一人である。8時22分に芦野仲町の停留所に着く。丁子屋は今日は休みでない様だが、この時間ではどうしょうもないと、早速歩き始める。
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前回訪れた、石の美術館を過ぎると商店もなくなり静かな通りとなる。少し先で枡形であろうか、右折して直ぐに左折して進むと、右の方に「建中寺」の参道が見えてくる。「建中寺」は、江戸時期に旗本で2,500石を与えられた芦野氏の菩提寺で歴代の墓がある。
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芦野宿の終わりには、新町の地蔵尊がある。享保2年(1717)に建立されたもので、厄災を宿に入れない役目も持っていた。昔はこの広場で盆踊りも行われていたそうである。ここで、奈良川を渡り国道に合流する。芦野庵と称する無人の休憩所が設けられていた。近くに有名な「遊行柳」があることで、訪れる観光客も多いからであろうが、「遊行柳」は、西行が訪れ芭蕉も訪れた、歌詠みのスポットなので、詠んだ歌の投稿箱があり、優秀作品が掲示されていた。庵の裏手には、田圃の中に「遊行柳」のこんもりした柳の木が望まれる。
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芦野庵の横の道から、田圃の中の道を進むと「遊行柳」への真っ直ぐな道が伸びている。もともとは、その向こうにある「湯泉神社」への参道である。
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大きな柳の木が2本立っており、特に大きいのに石囲いが施されている。那須の名木にも指定されていて、幹回り90Cm、樹高10mと書かれていた。またその脇には芭蕉の歌碑が建っていた。
田一枚 うえてたち去る 柳かな
また、西行が詠んだ歌は、
道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ
そもそも、西行は、桜を殊更に愛したことから、室町の初め、西行の庵にある老木の桜を題材に謡曲「西行桜」が世阿弥によって作られたが、室町後期になって、観世信光 (1435?1516)は、西行が那須・芦野で詠んだ上の歌の柳を主題にして、謡曲「遊行柳」を創作した。
これにより芦野の柳は「遊行柳」として広く世に知られるところとなり、歌枕の地となったとのこと。
やはり、ここでは、一首詠む必要があるようだ。
蛙なき 早苗なびいて いにしえの 姿伝える 柳なりけり」・・・Naka
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「遊行柳」を通り過ぎ、湯泉神社に向う。鳥居の代わりの巨木が2本立っていた。
国道に戻って進むと、「甦る豊郷」と書かれた大きな石碑が建っていた。「芦野地区圃場整備事業完成記念碑」とある。
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500mほど進むと、左に「岩倉右大臣歌碑」が建っていて、峯岸の集落に入って行く。立派な民家の前には「大黒天」、「十九夜塔」などが建っている。
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立派な蔵も残っている。そして、左に「愛宕神社」の細い急な階段が続いている。
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直ぐ先には、「べこ石の碑」がある。寛永元年(1848)芦野宿の学者・戸村忠恕(ただひろ)が民衆教化の為に建立したもので、約3,500文字を刻んだものである。なお、「べこ石の碑」は牛の形の石というのではなく、炎帝神農氏という牛面人身の姿が彫られているからである。


asino_022.jpg「べこ石の碑」を過ぎると、一旦国道に出るが、300mほどで再び左の旧道に入って行く。左の土手には、小さな石碑が散見されるが、ひときわ大きな峯岸館兵従軍之碑がある。明治維新の戊辰戦争に黒羽藩は官軍として戦ったが、この時藩領だった峰岸、板屋、高瀬、寄居、白井、蓑岡の各集落の農民が、峰岸に設けられた峯岸館で洋式兵隊の訓練を受けて各地で転戦し戦功をたてた。この顕彰のため明治27年(1894)に建立されたものである。
国道に出て、200mほどで今度は右の方に入って行く。間の宿の板屋で、静かな集落である。
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緩やかな上り坂となる宿の終わり近くに「諭農の碑」が民家の庭に道路の方を向いて建っている。病害虫対策や飢饉への備えなどを農民に教える内容で、建立は「べこ石の碑」と同じく戸村忠恕である。
宿の終わりには「一里塚」が道の両方に残っている。「板屋の一里塚」で、江戸から44番目一里塚である。しかし、道路が切り通しに改修されたときに大きく削り取られ、もとの姿は崩されている。


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板屋の集落を過ぎると、次は蟹沢集落で、道の右上の木立の中に馬頭観音が見えてきた。とにかく、馬頭観音の石碑が他の街道と比べても多い道である。集落は短くて直ぐに終わってしまう。
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蟹沢の集落が終わると、向こうに高瀬の集落が見えてくる。日本の原風景のような道を進み、高瀬集落に入ると、民家の脇に大きな「馬頭観音の石碑」と左に「大黒天」と書かれた石碑が建っていた。
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高瀬の集落の終わりはには、高徳寺がある。入口に建っているお堂、本堂ともに美しい姿である。
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国道に出て進むと、白井石材への入口に大きな常夜燈がある。白井石材は、「芦野の石の美術館」のオーナーでもあり、手広く石材の採掘、加工を行っているようだ。しかし、石材屋さんとはいえ、大きいのを造ったものだ。
この辺りまで来ると、寄居の集落が見えてきた。右の道路わきに「座り地蔵」があり、左の旧街道に入って行く。芦野宿以降、本当に良く地蔵を見かける。
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寄居宿に入って行くと、入口付近に常夜燈が建っており、赤い瓦の立派な家が目に付く。
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そして、右側に「與楽寺(よらくじ)」がある。那須三十三所観音霊場の10番の札所である。その境内には、那須の名木の山桜がある。推定樹齢150年で、幹回り450Cm、樹高20mとある。
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寄居の終わりが近づき、旧街道に相応しい、家がある。どのような方が住まわれているのだろうか。ここを過ぎれば、少し進んで国道に合流する。合流点の直前で右折すると、「白河の関」のある旗宿への道である。
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国道を300mほど進むと、左側に「泉田の一里塚」がある。江戸から46番目の一里塚で下野(しもつけ)の最後の一里塚である。車の休憩場所を作り、併せて造り直したように思える。さらに、1Kmほど進むと、左側に「寄居大久保」の道標が見えてくる。ここからが大久保の集落となる。
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この辺りは、石の産出が盛んなのか、石切り場があった。さらに、進んで行くと、右側に馬頭観音、二十三夜塔などの多数の石碑が並んでいた。
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右側に、「初花清水碑」が建っていた。石碑というより、表示杭の感じである。初花と言えば、箱根の上りでの「初花の瀑布の碑」を思い出す。何故ここで初花が出てくるのかと思ったが、「箱根霊験躄仇討」の主人公・飯沼勝五郎は、この東の棚倉藩の武士であった。初花とともにこの地に隠れ住んだのである。
この清水は、今も枯れることなく流れているのだが、配水管様のパイプから流れ出しているのは興ざめである。水は冷たく、コップが置かれているので飲めるようだが、その気にはなれない。ここで、野良仕事のおばさんが、暑いですね、どこから来ましたかと声を掛けてきた。少し言葉を交わして進むと、国道との合流点に「馬頭観音」、「瓢石(ふくべいし)」と彫られた石碑、瓢箪の形に掘られた石像がある。「瓢石」は足を病んだ飯沼勝五郎が、ここに初花と隠れ住み足が直るのを待つ間に彫ったと言われている。
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国道を700mほど進むと、左側に山中の集落への入口である。ここも小さな集落だが、立派な蔵のある家があると思って、眺めると「明治天皇山中御小休所」の石碑が建っていた。
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また、国道に合流して進む。快晴の日の国道歩きは、汗が頬をつたう。1Kmほど進むと、右側に大きく立派な馬頭観音が建っていた。昔も今も辛い場所であったのであろうか。そして、ようやく境の明神が近づいてきて、栃木県ともお別れである。「お気をつけて」と書かれた那須町のモニュメントが建っている。反対側には、当然「ようこそ那須へ」となっている。昔の旅人も下野にお別れとの感を持ったことであろう。
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