2010.06.01
越堀宿から芦野宿
那珂川に架かる「昭明橋」を渡って左折し、「越堀宿」に入って行く。右側に「浄泉寺」がある。
本堂と立派な不動堂がある。
境内のお堂の前に、「黒羽領境界石」と「明治天皇御駐輦の碑」が建っていた。
説明板には、「黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩との境界を明らかにする為文化10?11年(1813?14年)に何箇所かに境界石建てた。ちょうど、増業が大坂城勤務の時であったので、碑を大坂で作らせ船で運んだ」と書かれていた。
ここの標柱には「従此川中東黒羽領」と刻まれており、背面には「於摂州大坂作江西横堀小島屋石工半兵衛」と書かれている。
もともとは那珂川の左岸、越堀宿(黒羽領)側に立てられていたが、大正7?8年(1918?19)頃、保存のため、ここに移されたとのこと。那須塩原市の指定文化財となっている。
少し先には、左に「奥州街道越堀宿・枡形の地」の新しい石板が建っていたが、整備された道路のため、枡形がハッキリとは、分からなくなっていた。
その先には、昭和13年建立の「征馬之碑」と昭和61年建立の「殉従軍馬之碑」が建っていた。戦争に駆り出され命を落とした馬の供養として建てたものであろう。
越堀宿・坂本屋という石碑や奥州街道「右・これより江戸四十里」、「左これより白河宿七里」と彫られた石碑もある。
越堀宿の外れから、右にカーブしながらの上り坂となり、再び民家が見えてくると右に「伊勢神宮遥拝所」がある。そして右に曲がる地点で、何の神を祀っているのか不明だが、石碑と小さな社が並んで祀られていた。昔は個人の屋敷内でも、このような小さな社が祀られているのを良く見かけたものである。
その後、木立の中の道を富士見峠に向って上って行く。別荘地の売り出しの看板も見かけられる。やがて、寺子の交差点が見えてきて、その脇に「寺子一里塚公園」がある。一里塚とともに二基の馬頭観音の石碑が建っていた。
寺子交差点を過ぎると、道は余笹川(よささがわ)に向って下って行く。しばらく進んだ左に「會三寺(えさんじ)」がある。會三寺「第14代法印 旺盛」のころハシカが流行し幼児が沢山亡くなった。これを哀れんだ法印が111体の地蔵を彫り菩提を弔ったと言われている。この地蔵を収めた「はしか地蔵堂」が今も現存している。
余笹川に架かる寺子橋に向って坂道を下って行くと、橋の手前右側が小公園のように整備されていた。見ると、「天皇・皇后行幸啓記念-平成11年9月14日」の石碑が建っていた。平成10年(1998)8月の台風第4号による水害で民家が流されるなど大きな被害が発生したが、この災害見舞いの行幸啓記念である。ちなみに、天皇の外出を行幸(ぎょうこう、みゆき)と言い、皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃の外出を行啓(ぎょうけい)と言い、両方を併せて行幸啓(ぎょうこうけい)と言う。
また、橋の手前左側には寺子地蔵尊がある。
地蔵尊の横には、新しい願い文が書かれた木の板が掲げられており、馬頭観音、常夜燈も置かれていた。
いよいよ、余笹川を渡る。寺子橋から川面を見ると、大きな石が散見される。平成10年(1998)8月の大災害をもたらした台風の名残であろうか。
寺子橋を渡ると、石田坂の集落である。300mほど進むと、石田坂自治公民館があり、その傍らに馬頭観音、庚申塔が並んでいる。その中でも特に目に付いたのは、牛の像である。天満宮の牛の像がここにもと思ったが、「蓄魂碑」と書かれていた。牧畜を営んでいる人達が、牛を弔うために建てたのであろう。
その後、上り坂となる。右側に干草をパックした白い円筒が輝いて並んでいた。その先には那須モータースポーツランドのオートバイのサーキットがあり、甲高いエンジン音が聞こえて来る。
坂を上り詰めると、「SUZUKI HOLSTEIN FARM」の看板がある。近くに乳牛の牧場があるようで、これで干草のパックの集積も理解できる。
やがて信号機のある交差点を過ぎると、豊岡の集落である。小さな集落で直ぐに通り過ぎてしまい、再び上り坂となる。上り坂の中腹には、2つの常夜燈が建っているのが見えたが、その後ろに2列に並んで杉の木が続いているのは、何か小さな神社でもあったのであろうか。
豊岡の坂を上りきると、那須塩原市から那須町に入り、境界に看板が立っている。緩やかな坂道を下って行くと、黒川の集落が見えてきた。自動車道は集落の手前で左に分かれるが、街道は真っ直ぐ進んで黒川に突き当たる。もちろん渡しはない。左を見ると黒川橋が見えるので、川に沿って進んで行く。
橋には、平成10年8月27日未明に襲った大水の水位が印されていた。橋を渡って、右にカーブして坂道を上って行くと、まだ鯉のぼりの上がっている家が見えたが、この集落が平成10年8月に大きな被害を受けたのである。
道は大きく左にカーブして、田園風景が見えてくる。田圃の中に小さな木の茂みが見える。夫婦石神社である。神社の由来記を要約すると、「戦国時代に敵に追われた男女がこの石の割れ目に隠れると、白蛇があらわれ、敵が逃げ帰ったので命拾いした。時代の移り変わりとともに「見落とし石」「めおと石」になり、夜になると互いに寄りそうという話が伝えられ、いつの頃からか「夫婦石」と呼ぶようになり、諸願成就、縁結びの神として毎年御祭礼を行っている」と書かれていた。しかし、石の割れ目は人が隠れられるほどの大きさではない。たまたま場違いに大きな石があったので、ストーリーが創作されたのであろうか。
400mほど進むと、「夫婦石の一里塚」がある。江戸より43里の一里塚で、珍しく道の左右に残っている。説明板の建っている方が、進行方向に向って右側の一里塚である。
少し進むと旧道は72号線から左に別れ、下って行くと、右に「足尾大神」の大きな石碑があり、ぞうりやスリッパ様の履物がぶら下がっていた。その先には、小さな流れの菖蒲川があり、そこに架かった菖蒲橋を渡ると、再び72号線に合流する。
72号線に合流して進むと、「芦野氏旧墳墓/健武山温泉神社」の道標があり、芦野氏旧墳墓側の入口に「ほ場整備竣工記念碑」と書かれた大きな石碑がある。この辺りの土地整備の記念碑である。
高速で走る車が見えてきた。国道294号線である。交差点を渡ると、ようやく奈良川に架かる橋が見えてきた。芦野宿の入口である。
橋を渡ると左に大きな石地蔵尊がある。宿場の入口にある地蔵尊で、左足を前に出していることから座り地蔵と呼ばれている。宿場への厄除けを願って造られたものであろう。地蔵前を通過すると、常夜燈を模して屋号を記した石柱が家の軒先に設置されている。木の掛札で屋号が書かれたものは、見かけることはあったが、石造りの屋号表示は初めて見る。街道の雰囲気造りに力を注いでいるのが分かる。
少し進むと枡形があり、その先で右に、三光寺に行く、細くて急な階段があった。
三光寺には本堂の他にも立派な聖天堂があり、浅草待乳山、武蔵妻沼(めぬま)とともに日本三聖天とのことである。聖天とは、仏教を守護する天部の善神で大聖歓喜自在天のことである。
また、境内には那須の名木で「松翁」と名付けられた見事な松がある。文化8年(1811)、白河城主松平定信が植樹したとのこと。
三光寺を後にして、芦野宿の中心街に進んで行く。中世の芦野氏の城下町として発展し、江戸時代は旗本芦野氏の知行地となる。下野最北の宿場である。
創業300年の旅籠の丁子屋があった。 今は旅館と割烹の兼業で、当時より鰻が名物である。残念ながら本日休業の札が出されていた。丁子屋と言えば、東海道の丸子(鞠子)の宿の「とろろ汁」を食わせるのも丁子屋であった。
その先には、比較的新しい「奥州道中芦野宿」の石碑が建てられていた。
芦野の交差点で右折して、芦野郵便局の横を通って進むと、見事な枝垂桜がある。那須の名木で「平久江家のしだれ桜」である。推定樹齢400年、幹周り252Cm、樹高18mである。
下の右の写真は平久江家の門である。棟門の一種でこの地域における比較的上級武家の門構えである。なお、平久江家は江戸初期から芦野家の重臣の家柄であったとのこと。表札が掛かっていて、ご子孫が今も住まわれている。
平久江家を過ぎると、右に道路が延びていて「那須歴史探訪館」に通じている。ガラス張りの綺麗な建物であるが、時間がなく外から写真撮影して引き返した。
(下の左の写真)
先ほど右折した地点に引き返し、直進すると「掦源寺」があり、本堂の左には推定樹齢600年の那須の名木・アスナロがある。幹周り450Cm、樹高21.6mである。
芦野の交差点まで戻り、少し進むと「石の美術館 STONE PLAZA」があった。(株)白井石材の運営で、歴史探訪館と同じ隈研吾氏の近代的な設計である。地元の芦野石を使い、石の加工技術を披露するのが目的でもあるようだ。
時刻は16時40分で、16時53分の黒田原駅行きのバスに乗るべく、丁子屋横の芦野仲町停留所まで引き返した。
4分遅れでバスが来たが、乗客は私一人で15分ほどで黒田原駅に着き、17時33分発の電車を待つ。待合室には、高校生男女の賑やかな声が響いている。電車が来て、黒磯、宇都宮で乗り換えて帰宅した。