Home > 6月 1st, 2010

2010.06.01

越堀宿から芦野宿

那珂川に架かる「昭明橋」を渡って左折し、「越堀宿」に入って行く。右側に「浄泉寺」がある。
ohtawara_050.jpgohtawara_051.jpg
本堂と立派な不動堂がある。
ohtawara_053.jpgohtawara_054.jpgohtawara_052.jpg
境内のお堂の前に、「黒羽領境界石」と「明治天皇御駐輦の碑」が建っていた。
説明板には、「黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩との境界を明らかにする為文化10?11年(1813?14年)に何箇所かに境界石建てた。ちょうど、増業が大坂城勤務の時であったので、碑を大坂で作らせ船で運んだ」と書かれていた。
ここの標柱には「従此川中東黒羽領」と刻まれており、背面には「於摂州大坂作江西横堀小島屋石工半兵衛」と書かれている。
もともとは那珂川の左岸、越堀宿(黒羽領)側に立てられていたが、大正7?8年(1918?19)頃、保存のため、ここに移されたとのこと。那須塩原市の指定文化財となっている。
少し先には、左に「奥州街道越堀宿・枡形の地」の新しい石板が建っていたが、整備された道路のため、枡形がハッキリとは、分からなくなっていた。
その先には、昭和13年建立の「征馬之碑」と昭和61年建立の「殉従軍馬之碑」が建っていた。戦争に駆り出され命を落とした馬の供養として建てたものであろう。
ohtawara_055.jpgohtawara_056.jpg
越堀宿・坂本屋という石碑や奥州街道「右・これより江戸四十里」、「左これより白河宿七里」と彫られた石碑もある。
ohtawara_056a.jpgohtawara_057.jpg
越堀宿の外れから、右にカーブしながらの上り坂となり、再び民家が見えてくると右に「伊勢神宮遥拝所」がある。そして右に曲がる地点で、何の神を祀っているのか不明だが、石碑と小さな社が並んで祀られていた。昔は個人の屋敷内でも、このような小さな社が祀られているのを良く見かけたものである。
ohtawara_058.jpgohtawara_059.jpg
その後、木立の中の道を富士見峠に向って上って行く。別荘地の売り出しの看板も見かけられる。やがて、寺子の交差点が見えてきて、その脇に「寺子一里塚公園」がある。一里塚とともに二基の馬頭観音の石碑が建っていた。
ohtawara_060.jpgohtawara_061.jpgohtawara_062.jpgohtawara_063.jpg
寺子交差点を過ぎると、道は余笹川(よささがわ)に向って下って行く。しばらく進んだ左に「會三寺(えさんじ)」がある。會三寺「第14代法印 旺盛」のころハシカが流行し幼児が沢山亡くなった。これを哀れんだ法印が111体の地蔵を彫り菩提を弔ったと言われている。この地蔵を収めた「はしか地蔵堂」が今も現存している。
ohtawara_064.jpgohtawara_065.jpg
余笹川に架かる寺子橋に向って坂道を下って行くと、橋の手前右側が小公園のように整備されていた。見ると、「天皇・皇后行幸啓記念-平成11年9月14日」の石碑が建っていた。平成10年(1998)8月の台風第4号による水害で民家が流されるなど大きな被害が発生したが、この災害見舞いの行幸啓記念である。ちなみに、天皇の外出を行幸(ぎょうこう、みゆき)と言い、皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃の外出を行啓(ぎょうけい)と言い、両方を併せて行幸啓(ぎょうこうけい)と言う。
また、橋の手前左側には寺子地蔵尊がある。
ohtawara_066.jpgohtawara_067.jpg
地蔵尊の横には、新しい願い文が書かれた木の板が掲げられており、馬頭観音、常夜燈も置かれていた。
ohtawara_067a.jpgohtawara_067b.jpg
いよいよ、余笹川を渡る。寺子橋から川面を見ると、大きな石が散見される。平成10年(1998)8月の大災害をもたらした台風の名残であろうか。
ohtawara_068.jpgohtawara_069.jpgohtawara_070.jpg
寺子橋を渡ると、石田坂の集落である。300mほど進むと、石田坂自治公民館があり、その傍らに馬頭観音、庚申塔が並んでいる。その中でも特に目に付いたのは、牛の像である。天満宮の牛の像がここにもと思ったが、「蓄魂碑」と書かれていた。牧畜を営んでいる人達が、牛を弔うために建てたのであろう。
その後、上り坂となる。右側に干草をパックした白い円筒が輝いて並んでいた。その先には那須モータースポーツランドのオートバイのサーキットがあり、甲高いエンジン音が聞こえて来る。
坂を上り詰めると、「SUZUKI HOLSTEIN FARM」の看板がある。近くに乳牛の牧場があるようで、これで干草のパックの集積も理解できる。
ohtawara_070a.jpgohtawara_070b.jpg
やがて信号機のある交差点を過ぎると、豊岡の集落である。小さな集落で直ぐに通り過ぎてしまい、再び上り坂となる。上り坂の中腹には、2つの常夜燈が建っているのが見えたが、その後ろに2列に並んで杉の木が続いているのは、何か小さな神社でもあったのであろうか。
ohtawara_070c.jpgohtawara_071.jpg
豊岡の坂を上りきると、那須塩原市から那須町に入り、境界に看板が立っている。緩やかな坂道を下って行くと、黒川の集落が見えてきた。自動車道は集落の手前で左に分かれるが、街道は真っ直ぐ進んで黒川に突き当たる。もちろん渡しはない。左を見ると黒川橋が見えるので、川に沿って進んで行く。
ohtawara_072.jpgohtawara_073.jpg
橋には、平成10年8月27日未明に襲った大水の水位が印されていた。橋を渡って、右にカーブして坂道を上って行くと、まだ鯉のぼりの上がっている家が見えたが、この集落が平成10年8月に大きな被害を受けたのである。
ohtawara_074.jpgohtawara_075.jpgohtawara_076.jpg
道は大きく左にカーブして、田園風景が見えてくる。田圃の中に小さな木の茂みが見える。夫婦石神社である。神社の由来記を要約すると、「戦国時代に敵に追われた男女がこの石の割れ目に隠れると、白蛇があらわれ、敵が逃げ帰ったので命拾いした。時代の移り変わりとともに「見落とし石」「めおと石」になり、夜になると互いに寄りそうという話が伝えられ、いつの頃からか「夫婦石」と呼ぶようになり、諸願成就、縁結びの神として毎年御祭礼を行っている」と書かれていた。しかし、石の割れ目は人が隠れられるほどの大きさではない。たまたま場違いに大きな石があったので、ストーリーが創作されたのであろうか。
ohtawara_077.jpgohtawara_078.jpg
400mほど進むと、「夫婦石の一里塚」がある。江戸より43里の一里塚で、珍しく道の左右に残っている。説明板の建っている方が、進行方向に向って右側の一里塚である。
ohtawara_079.jpgohtawara_080.jpg
少し進むと旧道は72号線から左に別れ、下って行くと、右に「足尾大神」の大きな石碑があり、ぞうりやスリッパ様の履物がぶら下がっていた。その先には、小さな流れの菖蒲川があり、そこに架かった菖蒲橋を渡ると、再び72号線に合流する。
ohtawara_080a.jpgohtawara_080b.jpg
72号線に合流して進むと、「芦野氏旧墳墓/健武山温泉神社」の道標があり、芦野氏旧墳墓側の入口に「ほ場整備竣工記念碑」と書かれた大きな石碑がある。この辺りの土地整備の記念碑である。
ohtawara_080c.jpgohtawara_081.jpg
高速で走る車が見えてきた。国道294号線である。交差点を渡ると、ようやく奈良川に架かる橋が見えてきた。芦野宿の入口である。
ohtawara_082.jpgohtawara_083.jpg
橋を渡ると左に大きな石地蔵尊がある。宿場の入口にある地蔵尊で、左足を前に出していることから座り地蔵と呼ばれている。宿場への厄除けを願って造られたものであろう。地蔵前を通過すると、常夜燈を模して屋号を記した石柱が家の軒先に設置されている。木の掛札で屋号が書かれたものは、見かけることはあったが、石造りの屋号表示は初めて見る。街道の雰囲気造りに力を注いでいるのが分かる。
ohtawara_084.jpgohtawara_085.jpg
少し進むと枡形があり、その先で右に、三光寺に行く、細くて急な階段があった。
ohtawara_086.jpgohtawara_087.jpg
三光寺には本堂の他にも立派な聖天堂があり、浅草待乳山、武蔵妻沼(めぬま)とともに日本三聖天とのことである。聖天とは、仏教を守護する天部の善神で大聖歓喜自在天のことである。
ohtawara_088.jpg
また、境内には那須の名木で「松翁」と名付けられた見事な松がある。文化8年(1811)、白河城主松平定信が植樹したとのこと。
ohtawara_089.jpg
三光寺を後にして、芦野宿の中心街に進んで行く。中世の芦野氏の城下町として発展し、江戸時代は旗本芦野氏の知行地となる。下野最北の宿場である。
ohtawara_090.jpgohtawara_091.jpg
創業300年の旅籠の丁子屋があった。 今は旅館と割烹の兼業で、当時より鰻が名物である。残念ながら本日休業の札が出されていた。丁子屋と言えば、東海道の丸子(鞠子)の宿の「とろろ汁」を食わせるのも丁子屋であった。
その先には、比較的新しい「奥州道中芦野宿」の石碑が建てられていた。
ohtawara_092.jpgohtawara_093.jpg
芦野の交差点で右折して、芦野郵便局の横を通って進むと、見事な枝垂桜がある。那須の名木で「平久江家のしだれ桜」である。推定樹齢400年、幹周り252Cm、樹高18mである。
下の右の写真は平久江家の門である。棟門の一種でこの地域における比較的上級武家の門構えである。なお、平久江家は江戸初期から芦野家の重臣の家柄であったとのこと。表札が掛かっていて、ご子孫が今も住まわれている。
ohtawara_093a.jpgohtawara_094.jpg
平久江家を過ぎると、右に道路が延びていて「那須歴史探訪館」に通じている。ガラス張りの綺麗な建物であるが、時間がなく外から写真撮影して引き返した。
(下の左の写真)
先ほど右折した地点に引き返し、直進すると「掦源寺」があり、本堂の左には推定樹齢600年の那須の名木・アスナロがある。幹周り450Cm、樹高21.6mである。
ohtawara_095.jpgohtawara_096.jpgohtawara_097.jpgohtawara_098.jpgohtawara_099.jpg
芦野の交差点まで戻り、少し進むと「石の美術館 STONE PLAZA」があった。(株)白井石材の運営で、歴史探訪館と同じ隈研吾氏の近代的な設計である。地元の芦野石を使い、石の加工技術を披露するのが目的でもあるようだ。
時刻は16時40分で、16時53分の黒田原駅行きのバスに乗るべく、丁子屋横の芦野仲町停留所まで引き返した。

ohtawara_099a.jpgohtawara_100.jpg
ohtawara_101.jpg
4分遅れでバスが来たが、乗客は私一人で15分ほどで黒田原駅に着き、17時33分発の電車を待つ。待合室には、高校生男女の賑やかな声が響いている。電車が来て、黒磯、宇都宮で乗り換えて帰宅した。

大田原から鍋掛

本日の万歩計41,367(27.3Km)・・・芦野まで

西那須野駅に9時1分に着き、9時10分発のバスに乗り、前回終えた那須与一の銅像前から歩行を開始した。時刻は9時25分くらいである。
進んで、金燈籠の交差点に来たが、肝心の金灯篭が見あたらない。後でゆっくり探すこととして、とりあえず左折して江戸時代から続く、味噌・醤油製造の和泉屋を見に行く。古い土蔵には貫禄がある。
ohtawara_001.jpgohtawara_002.jpgohtawara_003.jpg
さて、金燈籠の交差点に戻ったが、やはり「金燈籠」が見つからない。通りかかった人に尋ねたら、もと金燈籠があった場所は整地の工事中で、ブロック塀で囲われた中に仮置きされていると教えてくれた。文政2年(1819)に建立されたものであるが、太平洋戦争末期に供出され、旧会津中街道の三斗(さんど)小屋にあった同型の灯籠を譲りうけたが、その後昭和54年に造り直したものである。台座は往時のもので、「江戸」、「白川」と大きく彫られており、道標を兼ねている。
金燈籠の交差点を過ぎ、次の信号で左折して進むと、「旧奥州街道 大田原 寺町」と書かれた新しい道標が建っているので、ここで右折する。300mほど進むと、左に真新しい本堂の「龍泉寺」がある。
左脇の道路に入って行くと左にカーブして、仁王を配した「光真寺の山門」がある。
ohtawara_004.jpgohtawara_005.jpg
光真寺は、天文14年 (1545)大田原資清が建てた大田原藩主の菩提寺で、流石に立派な本堂であり、本堂の左には大田原資清像がある。
ohtawara_006.jpgohtawara_007.jpg
さらに、左奥には、歴代の大田藩主の墓が並んでいる。中山道の鴻巣で見た関東郡代の伊那氏の墓と同型である。山門の方に引き返すと、その脇に33体の観音像が並んでいた。
ohtawara_008.jpgohtawara_009.jpg
元の街道に復帰して、進むと左に大田原神社の階段が見えてくる。大田原神社の創建は大同2年(807)に勧請され当初は温泉神社と称していたが、大田原資清が大田原城築城に際し、城内の鎮守社として遷座し、代々の崇敬社なったとの由である。急な階段を上ると、左に折れ曲がって木々の茂った参道が続き本堂がある。
ohtawara_010.jpgohtawara_011.jpgohtawara_012.jpg
街道に戻り、右にカーブしている道を下ると大田原城址である龍城公園の上り口がある。大田原城は、天分14年(1545)大田原資清によって築城された城である。大田原氏は関が原の戦いで戦功があり、5,000石加増され12,000石となって大田原藩が形成され、明治維新まで続いた。石垣は無いが、見事に急峻な土手を形成した城であり、奥州の要路の城として家康、家光も重視した。また、木立を通して大田原の街並みも良く望見される。


ohtawara_013.jpgohtawara_014.jpg
蛇尾川(さびがわ)を渡り、かなり時間を使った大田原市街から離れて行く。橋の名前も蛇尾橋である。蛇尾川は、那須塩原市の大佐飛山地に源を発する支流、大蛇尾川と小蛇尾川が山地を抜けた地点で合流して蛇尾川となり、那須塩原市を南東に流れ、扇状地で熊川を合わせ、大田原市片府田で箒川に合流する。
なお、「サビ」とは栃木の方言で、斎日(さび)のこと。祭日を決めて神様に身を清めてもらう行事を行った流域を流れる川の意味とのこと。
ohtawara_015.jpgohtawara_016.jpg
川を渡って直ぐに左折し、大きく右にカーブして進む。少し先の左手には富士電機の広大な工場がある。配線用遮断器、漏電遮断器、高圧真空遮断器などの製造を行っている。そして、700mほど先で「巻川」を渡る。
ohtawara_017.jpgohtawara_018.jpg
「巻川」を渡ると少し先に、セブン・イレブンがありその駐車スペースの隅に「中田の一里塚」がある。当初は道の両側にあったが、南側の方は宅地建設の際に取り壊された。北側は道路拡幅の際、平成12年に約1.5メートル後方に移築されたとのこと。
さらに、1Kmほど進むと市野沢小入口の交差点で、右方向が棚倉街道であり、その追分である。寛永6年(1629)に起こった「紫衣事件」で上山と棚倉に流罪になった沢庵と玉室がこの追分で別れたところである。古道標と聖徳太子碑があり、古道標は風化して文字は読み難いが、正面は「南無阿弥陀仏」と彫られており、側面には「右たなくら、左しらかわ」と彫ってあるとのこと。
最初に目に付くのが、「黒羽刑務所、お気軽にお寄りください」と書かれた看板であるが、この看板は、ブラックユーモアかと街道歩きの人々の間で話題になっているものである。もちろん、お気軽にお寄りくださいは、その下に書かれている「刑務所作業製品の展示場」のことである。
ohtawara_019.jpgohtawara_020.jpgohtawara_021.jpg
次の大きな交差点である市野沢交差点には、与一の里おおたわら名木に指定されている、高野槙(こうやまき)がある。目通り3.1m、樹高17m、推定樹齢400年である。しかし、昭和36年3月22日の指定では樹高30mとなっている。台風で折れたのだろうか。
1.5Kmほど先の左側には「弘法大師碑」があり、その先で相の川を高野橋で渡る。


ohtawara_022.jpgohtawara_023.jpg
道の左の草生した中に、新しく建て替えられた「麻疹地蔵堂」があり、周辺には石仏が並んでいた。時刻は11時30分を回ったが、食事処は見つからず、地蔵堂の軒下を借りてコンビニで買ったパンを食した。
しかし、歩き始めると、直ぐにラーメン屋があったが、街道歩きでは往々にして起こることである。
ohtawara_024.jpgohtawara_025.jpg
練貫十文字に到達した。この辺りでは交差点を十文字と言う。直接的な表現で分かりよい。那須塩原駅に行くには左折して4Kmほどだが、まだまだ早い時刻で、先に進んで行く。進むと道標を兼ねた「永代常夜燈」(左側)があり、正面に永代常夜橙、側面に右奥州海道、左原方那須湯道と刻まれているとのこと。その後ろには2つの念仏碑があり、十九夜塔がある。そして最後尾に真新しい「旧奥州道中」の石碑が建っていた。今後も旧奥州道中を大事にする現れであろうか。
ohtawara_026.jpgohtawara_027.jpg
進んで行くと、左側に「明治天皇駐輦記念碑」が建っていて、やがて大田原市と那須塩原市の境界の表示板が見えてくる。那須塩原市は、平成17年に黒磯市と西那須野、塩原町が合併して出来た新しい市である。
ohtawara_028.jpgohtawara_029.jpg
那須塩原市に入って1Km程行くと「大野牧場」の大きな文字が目に入る。「口蹄疫」が流行っているため、牧場に通じる道には石灰が撒かれている。
ohtawara_030.jpgohtawara_031.jpg
樋沢(ひざわ)地区に入ると、左に「樋沢神社」がある。思っていたより小さな神社である。最近建てられた鳥居をくぐり、階段を上ると、大きな石が2つお堂の左に鎮座している。前方の大きい方の石は「八幡太郎義家愛馬馬蹄の石」であり、後方は「葛篭(つづら)石」である。後三年の役(1083年?)で、源義家が奥州に向かう途中、源氏の氏神であるこの神社の坂を馬で一気に駆け上ったところ勢いの余り、石に蹄の跡が岩に付いたという。葛篭石の方は、形が似ているから義家が名付けたというが、似ているようには見えなかった。
ohtawara_032.jpgohtawara_033.jpg
周辺には、石仏が幾つも配置されている。しかし、お堂はコンクリートブロック造りで、いささか貧弱である。歴史は時に疎しと言うことであろうか。
ohtawara_034.jpgohtawara_035.jpgohtawara_036.jpg
500mほど先の左の上の方に「鍋掛の一里塚」の表示が見える。道路が掘り下げられて、一里塚が高い場所に残ったのであろう。階段を上ると、「鍋掛神社」への参道が続いているのが見える。


ohtawara_037.jpgohtawara_038.jpgohtawara_039.jpg
鍋掛十字路に到達した。コンビニがあったので少し休憩を取り、交差点を横断すると直ぐの左に「清川地蔵尊」がある。延宝7年(1679)建立で、子育て地蔵として女性の信仰を集め、毎年4月には集落の女性が集り念仏会が行われるという。周辺には数体の石仏も見られる。


ohtawara_040.jpgohtawara_041.jpg
鍋掛十字路を通過して、鍋掛宿に入ると、歩道と車道の境界に、自然石を荒く加工したのが並んでいる。鍋掛宿は、那珂川の渡しの直前で、川留めなどで大いに賑わい、本陣1、脇本陣1、旅籠23、総戸数100余戸であったとのことだが、面影は残っていない。那珂川は、防御ラインとして徳川幕府も重視しており、鍋掛は天領としていた。
ohtawara_042.jpg
進んで行くと、左に「八坂神社」があり、その境内に「芭蕉句碑」が建っている。「芭蕉句碑」には、「野をよこに馬ひきむけよほととぎす はせお」と書かれていて、元禄2年(1689)3月(旧暦)、奥の細道行に旅立ち、4月16日に手綱をとる馬子の願いにより作ったと書かれていた。
その隣の「正観寺(しょうかんじ)」には、樹齢250年の見事な枝垂桜があり、参道の片側には火の見櫓、もう一方には蔵造りを模した「鍋掛宿消防小屋」がある。
ohtawara_043.jpgohtawara_044.jpgohtawara_045.jpgohtawara_046.jpg
鍋掛宿は、那珂川の渡しで終わるが、現在では自動車道路は、左にカーブして「昭明橋」に向い、旧道は真っ直ぐに川に向って進む。「昭明橋」は、歩行者用と自動車用に別れているが、もともとは歩道者用の橋が両用であったのが、自動車専用橋を新規に架設したようである。
ohtawara_047.jpgohtawara_048.jpg
今日は、6月1日で鮎釣りの解禁日である。早速、友釣りの竿を振る釣り人の姿が望見できた。
橋を渡って、今日の旅は、まだまだ続く・・・
ohtawara_049.jpg