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2010.06.18

白河から小田川宿

本日の万歩計37,666(24.5Km)

関東も梅雨に入ったようである。今日の昼間は何とか大丈夫そうだが、夕方からは雨が降り始め、その後は一週間は雨が続きそうである。そこで今日を外すと当面は歩きに行けないと思い、出かけることにした。
前回と同じく、東京駅6時16分発の「やまびこ201」に乗車し、新白河で乗り換えて白河には8時17分着。東京から2時間。だいぶ遠くに来たものだ。
まずは、前回切り上げた「女石」に最短で向うため、駅の横の「こみね・ふれあい通り」と書かれた通路で東北本線の向こう側に出て、線路脇の道を進んで「女石」に向う294号線に出る。
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阿武隈川を過ぎて、峠の切り通しに差しかかると、前回気になった急な階段ががあり、上ってみると「石仏群」があった。明らかに昔の街道はここを通っていて、道路の切り通しの切削で旧道は取り残されたものであろう。
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「女石」に着き、右の旧道に進むと、100mほどで右に石碑群がある。中央付近の碑に説明板が立っている。内容を要約すると、「志げ女は越後三条生まれで、幼少の頃白河の坂田屋に引き取られ、性質が順良で人から愛されていた。長じて遊女となり戊辰戦争の折、奥羽鎮撫参謀長州藩士世良修蔵が志げ女と遊ぶが、世良はこの地が危険であると察して白河を脱した。このことから会津藩士は志げ女を憎み殺害した。これを知った遊女屋の下男が会津藩士を殺害して、仇を打った」とある。
遊女の仇を討つのも稀有なことであり、まして碑まで建てるとは、よほど「志げ女」は周りの人達から愛されていたのであろう。
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旧道は直ぐに終わり国道4号線に合流する。その後短い区間で左に旧道が現れ、直ぐに右に旧道の入口が見えてくる。
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旧道に入ると、直ぐに「手打ち蕎麦の大清水」が目に付く。ここが、湧き水が豊富で旅人が喉を潤した場所で、地名の大清水のもとになった場所である。周りにも石仏、石碑が多く見られるが、道の反対側の廃屋の放置等、保存状態は劣悪で、白河市の対策を願いたいものである。
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進むと、「庭渡神社」の鳥居と神社名碑が見えてくる。庭渡は鶏の神でニワトリからニワタリとなったようで、漢字はいろいろに書かれ、村の守り神となっている例が多いようである。
さらに先には、立派な門構えの家が見えてくる。「からだ楽」の看板が見えるが、どのような家なのであろうか。
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高橋川を渡ると、右に「根田醤油合名会社」の建屋が見えてくる。進んで右折すると「根田醤油」で、門を入った左には「郵便局」もある。みそと醤油を造って200年とのこと。
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ここで、チョット寄り道して国道4号線を渡ると、安珍堂がある。昭和60年(1985)3月に、東北新幹線上野駅乗り入れ記念として、和歌山県川辺町の道成寺に所蔵されていた安珍蔵を譲り受け、安珍堂を各種団体と市民有志から寄せられた浄財で建立したとのこと。
「安珍忌」の3月27日には、安珍堂の前で県無形民俗文化財「安珍歌念仏踊」が奉納される。この歌念仏踊は江戸時代から続く。
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根田宿に戻って進んで行く。少し先は新小萱(にこがや)地区で、江戸期は根田と合わせて一つの宿場を構成していた。宿の終わりは桑ケ作川に架かる岩崎橋で渡って左折し、「小田川宿」に入って行く。
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直ぐに、右方向に「石雲寺」が見えてくる。白河結城氏の一族新小萱氏を開基として、白河市表郷地区の峯全院二代、子賢が開山したと伝えられている。白河結城氏の没落にともない衰退していたが、江戸時代に入った元禄年間(1688?1703)に、厳龍という僧が再興した。
この先は、南街道端の集落で、道が適当にうねっており、旧街道の香りが感じられる。
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道の左には、無造作に放置されたような二十三夜塔、庚申塔がある。この辺りから先は、北街道端集落で、最後に「白河だるま製造所」があり、倉庫には夥しい数の「だるまのパーツ」が収蔵されていた。2月11日の建国記念日に開かれる「白河だるま祭り」は毎年、約15万人の人出で賑わうとのこと。
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国道に合流する。国道の左に、部分的だが僅かに旧道が残されている。500mほど先で、国道から左に分かれて、泉田の集落に入って行く。
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泉田地区を進む。国道から別れ静かな集落である。右側に石仏が集められていた。
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進んで行くと、右に分かれる道が見えてくるので、そちらに進む。少し先で、舗装はなくなりその先で再び分かれ道となる。左が旧街道だが、国道の切り通しの開削で途切れているので、右に進み国道に出る。
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国道の切り通しを進み、1Kmほど先で左の小田川(こたがわ)宿に入って行く。直ぐに「小野薬師堂」がある。創建は大同年間(806?810)と伝わる古社で、小野小町は故郷である秋田に帰郷する際小田川付近で病にかかり、病が治るよう「南無薬師 かけし諸願の根も切れば 身より薬師の名こそ惜しけれ」と詠い祈願したところ薬師如来が夢枕に立ち「村雨の 雨は一時のかりの宿 みのかさなれば ぬぎすててゆけ」と応えた。小町が目を覚ますと病がすっかり平癒し無事秋田へ帰郷することが出来たとのことである。この伝説により、古くから信仰の対象となり奥州街道の往来時には道中祈願として多くの人達が参拝したという。
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小田川宿を進んで行く。長く続く塀の見事な家があった。
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宿の中央付近で右に入る小道があり、進むと国道を挟んだ向こうに「寶積院(ほうしゃくいん)」がある。
真言宗豊山派(ぶざんは)の寺で14世紀中頃、鏡範上人による開山と伝えられる古刹である。結城宗広の菩提を弔っていたようであり、白河結城家と繋がりがあったと考えられるとのこと。
街道に戻ると、白い蔵と松の木の調和がとれた、街道らしい家が建っていた。本当に立派な家が多い。
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ようやく、泉川に架かる馬橋が見えてきた。ここで小田川宿は終わり、左に東北自動車道の防音壁を見ながら田園の中を進む道となる。東北自動車を潜る道路がある角には、八幡神社入口の石碑が建っていたが、自動車道の向こう側に八幡神社があるのか、自動車道の工事で神社が無くなり、入口の石碑のみ残ったのか分からなかった。
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その後、1Kmほどは旧街道特有のうねりのある道が続き、ようやく向こうに森が見えてくる。
森の入口には、左の木立の中に「武光地蔵」がある。思っていたより、大きくて存在感のある地蔵である。伊達藩の居合抜きの達人が、江戸へ向かうため、この地を通ろうとしたとき、妖しい女の影が現われたので、持っていた「武光」で斬り捨てた。さて、侍は用事を終え江戸から帰りにふたたびこの地を通ると、道ばたには真っ二つに切断された石地蔵が転がっていたという。村人が切られた首を修復してお祭りをしたが、切った刀が「武光」だったので、「武光地蔵」と呼ばれるようになったとのこと。
しかし、地元では最近、「首切り地蔵」もしくは「二身堂地蔵」と呼ばれているようだ。
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大田川から鏡石(笠石宿)

「武光地蔵」のある森を抜けて坂を下ると、太田川宿に入って行く。進んで行くと左に「常願寺」が見えてくる。遠くから見ても、枝垂れ柳の大木がお寺全体を覆っているように見える。
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常願寺の本堂は、建替えられていて真新しいが、枝垂桜は「願い桜・樹齢600年」の表示杭が立っていた。謡曲隅田川の梅若伝説の人買い信夫藤太は、この地の出身で、梅若伝説に登場する梅若丸という少年の悲運な死を哀れんで古くより梅若丸の命日の旧暦3月15日に村指定無形民俗文化財「太田川梅若歌念仏踊」が古くより行われていた。ところが、昭和50年代の終わり頃より行われることが無くなり、四半世紀もの間途絶えてしまっていた。しかし、2009年4月10日(旧暦の3月15日)に復活させ常願寺境内で披露したとのこと。
このあたりが宿の中心で、道の片側には水路が流れ、立派な家が並んでいる。
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蔵か住居か不明の石造りの家屋があり、その先で道は丁字路となるが、その突き当りには「愛宕神社」の鳥居が建っている。しかし、神社は荒廃していて、真新しい常願寺との対比が思われる。
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愛宕神社の鳥居から150mほど進み左折して、緩やかな峠道を上がって行く。左に多数の石碑が、新しい石の社を囲むように集められていた。
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峠を一つ越えると、左側に溜池があり、さらに林の中の道を進むと、左側に見逃してしまいそうな小道がある。これが旧道である。
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小道を進むと、竹藪の脇を通る道で、笹の葉が積もった軟らかい感触の道であった。これが本来の人が歩く道なのであろう。
下右の写真は、旧道から舗装道に出て、振り返って撮ったものである。
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直ぐの左に「新池」がある。農業用水として利用されているのだろうが、樹木にも囲まれ美しい。
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進んで、国道4号線を横切ると、踏瀬(ふませ)宿である。宿の入口の左には、枝垂桜の木に隠れるように愛宕神社の鳥居が見えており、周辺には二十三夜塔などの石碑が多数建っている。
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静かな街並みを進んで行く。門の両側に白い蔵を構えた屋敷があり、後で調べたら踏瀬宿の庄屋で問屋を務めた箭内(やない)家であった。貴重な古文書多数残っているとのこと。また、庭先には、明治天皇聖蹟之碑がある。
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左に、「慈眼寺」がある。枝垂桜の大木が茂っている。この辺りのお寺は枝垂桜の大きな木が植えられているのが多く見られる。桜の季節は見事であろう。
「慈眼寺」を過ぎると、松並木が見えてくる。説明板によれば、白河藩主松平定信が街道沿いに2,300本の松を旅人の日除け、風除けとして植えたのが始まりで、現在の松並木は明治18年(1885)年頃に補植されたものとのこと。
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松並木を抜けると、右側に「卯右衛門茶屋と文七茶屋」という看板があった。ここ大和内七曲がりはその昔「富士見峠」と称され、峠を越えて二つの茶屋が軒を連ね、大縄を使い数十尺の深井戸からくみ上げる美味しい水が名物であった。明治中頃、鉄道の開通で街道がさびれ店じまいを余儀なくされたが、その井戸は現在もここに残っている。
この先で、「あぶくま高原道路」を陸橋で渡る。
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「あぶくま高原道路」を過ぎると「七曲り峠」となり、林間の気持ちの良い道となる。この道は明治になり造られた旧国道で、それ以前の街道は左の木立の中にあるが、国道工事で寸断され、放置されて通るのは困難であるとのこと。そして、「七曲りの峠」を抜けると「大和久宿」である。
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承応元年(1652)建立の「山王寺」がある。山門の両側には立派な枝垂桜の木があるが、この山王寺は、樹齢は約200年の臥竜の松が有名だという。しかし、松枯れ病に犯されたと見え、松葉が茶色く変色していた。街道を歩いていると松の名木が松枯れ病で枯れてしまったのに時々出くわすのは、本当に残念である。
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先に進むと、雑木林の中に執心地蔵尊が12体屋根付きで建っていた。
ここを過ぎると、大和久宿から奥州街道33番目の宿場・中畑新田宿に入って行く。集落の中程に幸福寺があり、戊辰戦争時の野戦病院となったところだといわれる。境内に戊辰戦争時の旧幕府軍の戦死者の墓がある。
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道路の反対側には、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)がある。山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。
交差点を渡ると、左に枝垂桜の大木の茂る「しあわせ観音」がある。参道の石畳は苔に覆われている。
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そして、進むと「矢吹宿」である。
矢吹宿は天正6年(1578)に奥州街道の宿場として成立し、天正18年(1590)に町割りが行なわれたとされている。江戸時代に入り宿場制度と参勤交代制度が確立し、本陣なども設置された。そして、当時の矢吹宿の名物が蕎麦だったようである。
宿の中心付近であろうか、右側に慶応元年(1869)に、初代代吉氏が良質の水を求めて白河で酒造りを始めた大木代吉本店がある。早くから自然に恵まれた環境を活かした酒造りを目指し、有機農法米や独自の酵母を使用して、ふくよかな香味を持つ、やや辛口でスッキリとしたお酒を造っているとのこと。
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進んで行くと、左に会田病院の大きなビルが見え、その先の矢吹町北町に入ると「下ノ地蔵」と呼ばれている地蔵がある。
小学生の女の子達が、大騒ぎで留めてある軽トラックの運転席に迷い込んだツバメを助けるのに夢中になっていた。
矢吹町を抜けて、1.5Kmほど進むと街道は国道4号線に合流し、鏡石町に入って行く。新菊島温泉の大きな看板がある。1軒宿の温泉で、アルカリ性単純泉とのこと。
そして、200mほどで、再び街道は左に国道から分かれて行く。奥州街道35番目の宿場・久来石(きゅうらいし)宿の入口である。
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下左の写真は久来石宿の街並みである。静かな街を1.5Kmほど進むと、街道は国道4号線を横切って、奥州街道36番目の宿場の笠石宿に入って行く。直ぐに、右側に熊野神社がある。無形文化財の壮麗な舞で有名とのこと。
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笠石宿の街並みである。進んで、宿の中心付近に「寶泉寺(ほうせんじ)」がある。丁寧に境内の掃除を行っていた。
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右側の民家の前に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)之所」碑があった。明治9年6月14日とある。そして、進むと、交差点を渡った左に笠地蔵がある。由来記には、明暦4年(1658)の記述はあるが、他は不詳である。近世になり地蔵信仰が盛んになり、この板碑に笠があるところから笠地蔵として里人の信仰と結びついて今日に到ったとある。また、覆いかぶさっている笠地蔵の枝垂桜は推定樹齢250年、目通り2.7m、樹高18.5mと記載されていた。
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時刻は3時半近くだが、今日は体調に難があり雨も降り始めたので、ここで終えることにして、鏡石駅に向った。駅に着いたのは3時34分で、3時36分の黒磯行きの電車に乗ることができた。