2010.06.10
芦野から陸奥入口・・・(旧奥州街道)
本日の万歩計47,582(30.9Km)・・・白河(女石追分)まで
東京駅を6時16発のやまびこ201号に乗り、那須塩原、黒磯で電車を乗り換え、黒田原には7時59分に到着した。那須高校の男女学生が大勢降りてきた。都合が良いことに、8時10分に伊王野行きのバスが出るので乗車するが、前回の芦野から乗ったときと同じく乗客は、私一人である。8時22分に芦野仲町の停留所に着く。丁子屋は今日は休みでない様だが、この時間ではどうしょうもないと、早速歩き始める。
前回訪れた、石の美術館を過ぎると商店もなくなり静かな通りとなる。少し先で枡形であろうか、右折して直ぐに左折して進むと、右の方に「建中寺」の参道が見えてくる。「建中寺」は、江戸時期に旗本で2,500石を与えられた芦野氏の菩提寺で歴代の墓がある。
芦野宿の終わりには、新町の地蔵尊がある。享保2年(1717)に建立されたもので、厄災を宿に入れない役目も持っていた。昔はこの広場で盆踊りも行われていたそうである。ここで、奈良川を渡り国道に合流する。芦野庵と称する無人の休憩所が設けられていた。近くに有名な「遊行柳」があることで、訪れる観光客も多いからであろうが、「遊行柳」は、西行が訪れ芭蕉も訪れた、歌詠みのスポットなので、詠んだ歌の投稿箱があり、優秀作品が掲示されていた。庵の裏手には、田圃の中に「遊行柳」のこんもりした柳の木が望まれる。
芦野庵の横の道から、田圃の中の道を進むと「遊行柳」への真っ直ぐな道が伸びている。もともとは、その向こうにある「湯泉神社」への参道である。
大きな柳の木が2本立っており、特に大きいのに石囲いが施されている。那須の名木にも指定されていて、幹回り90Cm、樹高10mと書かれていた。またその脇には芭蕉の歌碑が建っていた。
「田一枚 うえてたち去る 柳かな」
また、西行が詠んだ歌は、
「道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」
そもそも、西行は、桜を殊更に愛したことから、室町の初め、西行の庵にある老木の桜を題材に謡曲「西行桜」が世阿弥によって作られたが、室町後期になって、観世信光 (1435?1516)は、西行が那須・芦野で詠んだ上の歌の柳を主題にして、謡曲「遊行柳」を創作した。
これにより芦野の柳は「遊行柳」として広く世に知られるところとなり、歌枕の地となったとのこと。
やはり、ここでは、一首詠む必要があるようだ。
「蛙なき 早苗なびいて いにしえの 姿伝える 柳なりけり」・・・Naka
「遊行柳」を通り過ぎ、湯泉神社に向う。鳥居の代わりの巨木が2本立っていた。
国道に戻って進むと、「甦る豊郷」と書かれた大きな石碑が建っていた。「芦野地区圃場整備事業完成記念碑」とある。
500mほど進むと、左に「岩倉右大臣歌碑」が建っていて、峯岸の集落に入って行く。立派な民家の前には「大黒天」、「十九夜塔」などが建っている。
立派な蔵も残っている。そして、左に「愛宕神社」の細い急な階段が続いている。
直ぐ先には、「べこ石の碑」がある。寛永元年(1848)芦野宿の学者・戸村忠恕(ただひろ)が民衆教化の為に建立したもので、約3,500文字を刻んだものである。なお、「べこ石の碑」は牛の形の石というのではなく、炎帝神農氏という牛面人身の姿が彫られているからである。
「べこ石の碑」を過ぎると、一旦国道に出るが、300mほどで再び左の旧道に入って行く。左の土手には、小さな石碑が散見されるが、ひときわ大きな峯岸館兵従軍之碑がある。明治維新の戊辰戦争に黒羽藩は官軍として戦ったが、この時藩領だった峰岸、板屋、高瀬、寄居、白井、蓑岡の各集落の農民が、峰岸に設けられた峯岸館で洋式兵隊の訓練を受けて各地で転戦し戦功をたてた。この顕彰のため明治27年(1894)に建立されたものである。
国道に出て、200mほどで今度は右の方に入って行く。間の宿の板屋で、静かな集落である。
緩やかな上り坂となる宿の終わり近くに「諭農の碑」が民家の庭に道路の方を向いて建っている。病害虫対策や飢饉への備えなどを農民に教える内容で、建立は「べこ石の碑」と同じく戸村忠恕である。
宿の終わりには「一里塚」が道の両方に残っている。「板屋の一里塚」で、江戸から44番目一里塚である。しかし、道路が切り通しに改修されたときに大きく削り取られ、もとの姿は崩されている。
板屋の集落を過ぎると、次は蟹沢集落で、道の右上の木立の中に馬頭観音が見えてきた。とにかく、馬頭観音の石碑が他の街道と比べても多い道である。集落は短くて直ぐに終わってしまう。
蟹沢の集落が終わると、向こうに高瀬の集落が見えてくる。日本の原風景のような道を進み、高瀬集落に入ると、民家の脇に大きな「馬頭観音の石碑」と左に「大黒天」と書かれた石碑が建っていた。
高瀬の集落の終わりはには、高徳寺がある。入口に建っているお堂、本堂ともに美しい姿である。
国道に出て進むと、白井石材への入口に大きな常夜燈がある。白井石材は、「芦野の石の美術館」のオーナーでもあり、手広く石材の採掘、加工を行っているようだ。しかし、石材屋さんとはいえ、大きいのを造ったものだ。
この辺りまで来ると、寄居の集落が見えてきた。右の道路わきに「座り地蔵」があり、左の旧街道に入って行く。芦野宿以降、本当に良く地蔵を見かける。
寄居宿に入って行くと、入口付近に常夜燈が建っており、赤い瓦の立派な家が目に付く。
そして、右側に「與楽寺(よらくじ)」がある。那須三十三所観音霊場の10番の札所である。その境内には、那須の名木の山桜がある。推定樹齢150年で、幹回り450Cm、樹高20mとある。
寄居の終わりが近づき、旧街道に相応しい、家がある。どのような方が住まわれているのだろうか。ここを過ぎれば、少し進んで国道に合流する。合流点の直前で右折すると、「白河の関」のある旗宿への道である。
国道を300mほど進むと、左側に「泉田の一里塚」がある。江戸から46番目の一里塚で下野(しもつけ)の最後の一里塚である。車の休憩場所を作り、併せて造り直したように思える。さらに、1Kmほど進むと、左側に「寄居大久保」の道標が見えてくる。ここからが大久保の集落となる。
この辺りは、石の産出が盛んなのか、石切り場があった。さらに、進んで行くと、右側に馬頭観音、二十三夜塔などの多数の石碑が並んでいた。
右側に、「初花清水碑」が建っていた。石碑というより、表示杭の感じである。初花と言えば、箱根の上りでの「初花の瀑布の碑」を思い出す。何故ここで初花が出てくるのかと思ったが、「箱根霊験躄仇討」の主人公・飯沼勝五郎は、この東の棚倉藩の武士であった。初花とともにこの地に隠れ住んだのである。
この清水は、今も枯れることなく流れているのだが、配水管様のパイプから流れ出しているのは興ざめである。水は冷たく、コップが置かれているので飲めるようだが、その気にはなれない。ここで、野良仕事のおばさんが、暑いですね、どこから来ましたかと声を掛けてきた。少し言葉を交わして進むと、国道との合流点に「馬頭観音」、「瓢石(ふくべいし)」と彫られた石碑、瓢箪の形に掘られた石像がある。「瓢石」は足を病んだ飯沼勝五郎が、ここに初花と隠れ住み足が直るのを待つ間に彫ったと言われている。
国道を700mほど進むと、左側に山中の集落への入口である。ここも小さな集落だが、立派な蔵のある家があると思って、眺めると「明治天皇山中御小休所」の石碑が建っていた。
また、国道に合流して進む。快晴の日の国道歩きは、汗が頬をつたう。1Kmほど進むと、右側に大きく立派な馬頭観音が建っていた。昔も今も辛い場所であったのであろうか。そして、ようやく境の明神が近づいてきて、栃木県ともお別れである。「お気をつけて」と書かれた那須町のモニュメントが建っている。反対側には、当然「ようこそ那須へ」となっている。昔の旅人も下野にお別れとの感を持ったことであろう。
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