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2007.05.26

蒲原から江尻(2)

興津川に出ると「川越遺跡」があり、東海道線の線路を潜って「浦安橋」を渡る。「浦安橋」は欄干の形や傷み具合などから判断すると相当に古い橋のようだ。それにしても橋の傍らには太いパイプが走っているが、送水菅だろうか。
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yui_042.jpg国道を歩いて行くと、宗像神社の道標がある。宗像神社は奥津島比売命(おきつしまのひめのみこと)などの女神が祀られていて、興津の名前もここから来たと言われている。大変古い神で格式は高いが、江戸時代に女神であることから、弁財天信仰との混乱が生じ、神社の森をなまめかしい「女体の森」と呼ぶようになったという。近くの茶屋に美人が居たのも、なんらか期待感を抱かせるのを助長したようである。
やがて、右手に「清見寺」の山門が、ポツリと建っているのが見えてくる。階段を登り、JR東海道線を跨いでいる歩道橋を渡る。すなわち寺域がJR東海道線で分断されているのだ。
「清見寺」の創建は天武天皇とのことで、大層古いが、幾多の戦乱を潜り抜け現在に続いており、徳川家康も今川家への人質の子供時代には良く訪れたと伝えられていて、家康が接木した梅の大木(臥龍梅)もある。
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島崎藤村の「桜の実の熟する時」という小説の最後に出てくるという、五百羅漢の石像もある。この中から、自分の知っている人に似た顔を必ず見付けられると言うが、本当に500個の顔で日本人の全てを表せるかは疑問である。
また、「高山樗牛清見寺鐘声文碑」もあるが、石碑の刻印が浅くほとんど消えていて読めなかった。傍に立て札が立っていたので、文はそちらで読む。(碑をクリックしてください)
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山下清が清見寺を訪れたとき、なかなかに興味深い一文を残している。以下に引用する。
『清見寺スケッチの思い出』より
「清見寺という名だな このお寺は
古っぽしいけど上等に見えるな
お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかな
お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな
お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな
お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか
自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」

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清見寺から少し進むと、道路の左手に西園寺公望公の別荘の「坐漁荘」があった。
本物の建物は愛知県の明治村に移設され、興津では跡地は清見潟公園とされて、全く面影もなかったということだが、2004年4月に忠実に復元したものとのこと。無料で公開されていたので、見学させてもらったが、流石に洗練された美を感じさせる建物であった。
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「坐漁荘」を過ぎた後は、国道を淡々と進むのみで、全くうんだりだ。やっと国道から別れられてほっとしたが、相変わらず。楽しいとは言い難い道行だったが、JR清水駅を過ぎて右折すると急に綺麗な通りになった。後で調べると銀座通りと言う通りであった。暫くして、左折して「稚児橋」を渡った。
江尻を流れる巴川に橋が架けられたのは慶長12年(1607)だが、伝説では橋完成の渡り止めに地元の老夫婦を選んでいたが、橋を渡ろうとすると突然 童子が現れ橋を渡った。実はこの童子は河童であったとされ、橋の欄干の飾りとして、4つの河童の像が設けられているのである。
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ひたすら歩いて行くと、「身延山」へ道路が分岐しているところに達し、道標が建っている。
また、そこには元禄8年創業という「追分羊羹」の店があった。お土産に買うと、冷たいお茶とお絞りに羊羹一切れを小さなお盆に載せだしてくれた。お茶は冷たく、羊羹ともよくマッチしておいしかった。暫く休息を取らせてもらって、お礼を言って店を出た。
yui_051.jpgyui_052.jpgyui_053.jpg「追分羊羹」の店から、少し進んだところに、都田吉兵衛の供養等があった。都田吉兵衛は都鳥(みやこどり)という通称で呼ばれていたが、酒好きの「森の石松」が次郎長から酒を止められていたのを、言葉巧みに酒を進めて100両の金を奪う。森の石松は命に関わる傷を負わされているにも拘わらず金を取り返しに行き殺されてしまう。
怒った清水の次郎長は、手下とともに都鳥を石松の仇とばかりに、討ちとった。その当時は誰も都鳥を供養しようとするものは居なかったが、しばらくして里人が憐れに思って供養等を建てたという。日本人の優しさの現われである。
yui_054.jpgまた、ひたすら歩を進めてゆくと、「上原延命子安地蔵」があった。狭い境内を滑り台などの子供の遊具が埋めており、清溢さとは縁のなくなった地蔵尊であるが、ここは徳川家康と穴山梅雪が会談を行ったところである。
yui_055.jpg草薙駅に向かって歩いて行くと、ビル建設工事現場の片隅に比較的大きな一里塚の石碑が建っていた。ビルでも建った後はどのような感じになるのであろうか。
yui_056.jpgやっと、草薙駅の近くまできたが、大きな草薙神社の大鳥居が目に付いた。草薙神社と言えば、日本武尊が賊に襲われ草に火を放たれたが、天叢雲剣(あめのむらぐものつるぎ)を抜き放ち草をなぎ倒したところ、火は賊の方に向かって、難を逃れたとされるのを思い出す。このときより天叢雲剣は草薙の剣と名前が変わったと言う。
ともかく、草薙神社は大鳥居より1.5Kmも先とのことで、今日はここまでにすることにした。
駅前で茶屋(喫茶店)を見つけ、無性にアイスコーヒーを飲みたくなって入った。何時もは健康上の理由で砂糖、ミルクを押さえているが、今日ぐらいはとシロップをいっぱいとミルクも入れて飲んだ。うまかった。

蒲原から江尻(1)

本日の万歩計42,817(28.25Km)
先週帰宅した蒲原駅にam7:05に到着して、今日は江尻か、あわよくば府中まで行く積りで歩き出した。
yui_001.jpgまず、前回寄れなかったところを見ようと一里塚まで戻り、気になっていた北条新三郎の墓を訪れた。
通りから細い道を登って、森の中に一歩足を踏み入れたところに、ひっそりと墓石が建っているが、北条新三郎の墓と書かれた新しい石碑は、最近になって地元で建てたものだろう。
北条新三郎綱重は北条早雲の3男 幻庵の子で、1千の兵で蒲原城を守っていたが、武田勝頼率いる武田軍に敗退し、城主北条新三郎をはじめ弟長順、北条家の重臣の多くが戦死した。戦国時代の1ページだったのである。
yui_002.jpg蒲原の宿の中心付近に引き返し、歩いて行くと見事な「塗り家造り」の家が建っていた。「塗り家造り」の壁は土蔵より薄いものの優れた防火効果がある。また、「なまこ壁」と言われるコントラストのはっきりした壁が美しい。なお、この家は「佐野屋」という元商家であった。
yui_003.jpg左に折れれば新蒲原駅という地点を過ぎて、小さな流れに沿って左折すると、安藤広重の「雪の蒲原」の記念碑がある。大きな石碑とプレートにした「雪の蒲原」が石に嵌め込まれていた。
30年に1度くらいしか雪の降らない温暖な蒲原で「雪の蒲原」を絵にした「安藤広重」の創作力の勝利だ。
元の街道の通りに戻ると、元は「和泉屋」という旅籠であったが、今は天保年間(1830-1844)の旅籠時代の建物をそのまま使用している「鈴木商店がある」。また、その向かいは本陣であり、中には たたみ1畳より大きな石があり大名の籠を下ろす用いられたと言うが、いまだ個人の住宅として使用されており、屋敷内を見ることは出来なかった。
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大正時代の洋館の「旧五十嵐歯科医院」は、外観は洋風で内部は和風の建物で内部を見学できるようだが、少し時間が早く、開いていなかった。
やがて、長栄寺の大きな寺名碑を見て左折すると、蒲原の西木戸跡に達する。この角は「茄子屋の辻」とも言われ、かつて「茄子屋」と言う茶屋があったところで、以下のような事件があった。
承応2年(1653)に高松藩の槍の名人 大久保甚太夫が薩摩藩の大名行列に出合い、槍の穂先が触れ合ったと口論となり、散々辱めを受けるがその場は我慢した。しかし、甚太夫は、茄子屋の辻で待ち伏せ、大乱闘となり、70人を倒したが、終に力尽き討たれたと言う。竜雲寺の住職が甚太夫を弔い、槍の穂先は寺宝として保管しているとのことであるが、それにしても1人で70人とはすごい。
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蒲原の西木戸を過ぎて由比に向かって旧国道を進む。車の通りが激しく、早く静かな道を歩きたいと思いながら、ひたすら進んでゆくと、やがて東名高速の下を潜り、すぐに車の通りとは離れほっとする。ほどなく由比の入り口に到着した。道路が鍵型に曲がっている「枡型」の説明板があり、「御七里役所跡」の表示があった。
お七里役所は、写真をクリックして説明文を読んでもらえば分かるが、紀州藩の専用宅急便組織のようで、通常は8日、急げば4日で江戸と紀州を行き来したという。
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直ぐに、由比正雪の生家として有名になった、江戸初期の創業の染物屋の「正雪紺屋」を右側に見る。
yui_012.jpg入って左側の土間には4×4列の染料を入れた甕が埋められていて、往時の様子を伺わせる。
現在でも染物屋は続けていて、和風に染めたハンカチなどをお土産として販売している。

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「正雪紺屋」の向かい側には由比の本陣跡があるが、本陣跡は1,300坪もあって本陣公園として整備され、公開されている。
ともかく、見たいと思っていた「広重美術館」は9時からであり、到着したのが8時40分で、適当に時間を潰すことになったなった。最初に大きく目立ったのは、「東海道由比宿交流館」の建物で、中は由比の風景のスケッチ画などの展示販売、お土産品売り場、旅人の休憩場所などになっていたのでブラブラとしていた。
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やっと、9時になり切符を買って美術館に入館しようとするが、入館料は500円だが、900円出すと御幸亭にも入れるとのことだったので、900円の切符を買い「広重美術館を」見学した。
版画を自分で試して見るコーナー、版画の技法の解説と合わせ「幕末の絵師の競演」と題し、大名の上洛の様子の版画を展示していた。
その後、明治天皇も休憩した御幸亭を復元した建屋に行き、菓子と抹茶を入れて貰い、すっきりと纏まった庭を望みながら上等な時間を過ごした。
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本陣公園で相当時間を費やし、次に進もうと正面の門を出ようとしたら、自転車でやって来たという若い夫婦が、写真を撮ろうとしていたのでシャッターを押してあげ、私も撮ってもらった。
1人旅で、なかなか自分を撮るチャンスには恵まれない。
本陣公園を立ち去ろうとしたら、公園の塀の外に馬の水のみ場として使用された水路があった。大きな亀が1匹いて、清掃姿の中年女性がミミズを餌として与えていた。
yui_016.jpgyui_017.jpgyui_020.jpg由比宿で、もう一つ楽しみにしていたのは「桜海老」料理を食べることであった。
「おもしろ宿場館」というのがあり、入り口には後で述べる「望嶽亭」当主で亡くなられた 松永宝蔵氏の弥次喜多の絵の等身大の人形が据えられている。2階が「海の庭」というレストランとなっているが、レストランは10時からで時計を見ると9時45分であった。1階はみやげ物売り場だが、そこのおばさんが少し待てば10時だよと言う。土産物売り場をうろうろしていたら、ハイもう良いですよと言って2階への階段脇にある準備中の札を外した。時間は9時55分であった。早速、2階に上がり「桜海老御膳」と言うのを注文。海が見え、これから向かう「さった峠」も見え景色が良い。
ほどなく、運ばれてきた料理は期待を裏切らなかった。桜海老の佃煮、サラダ、刺身、掻揚げ、お吸い物と桜海老尽くしのような料理。
考えてみれば旧東海道を歩き始めて、初めてまともな食事をした気がした。
yui_018.jpgyui_019.jpgyui_022.jpg蒲原もそうであったが、由比の宿も良く古い雰囲気が残されてい。さらに町のあちこちに旧東海道をアッピールする気持ちが見られる。この橋のたもとの、常夜灯等もその一環であると思える。
通りには「桜海老通り」の表示も多く見られることから、これも観光資源として活用しようとの姿勢がうかがえる。
観光資源としての利用価値も有るであろうが、この桜海老は戦後の町の維持に大いに役立つ産業であったことだろう。働き口としての富士の製紙工場の隆盛もあっただろうか。
通りを左折すると、数十メータで港があるので、寄ってみた。直ぐ前を国道1号が走っており、コンパクトだがなかなかの良港とみた。
また、由比駅に近づいた通りにも、桜海老を象ったゲートがあり、町の特徴を訴えていた。
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後は、さった峠に向かうばかりと、歩いていたら名主の家であった「小池邸」が休憩所として改修されて自由に立ち寄ることが出来るようになっていた。また、その向かい側にも、民家を改修した「東海道あかりの博物館」があったが、本陣公園と食事で時間を取ってしまったのでスキップした。
なお、さった峠の”さ”は薩の字で、”た”は土偏に垂の字を書くが、Windowsでは表示できないので、さった峠と記す。
yui_026.jpgyui_025.jpgyui_027.jpgいよいよ期待感が高まり、富士山も顔を出している。
さった峠への急な上り坂が始まるところに由比の一里塚跡があり、また、「望嶽亭」と呼ばれる家がある。
「望嶽亭」は、室町時代末期、すでに名所図会にもその名を残していると言われていて、特に江戸時代に入り東海道五十三次の「由比」と「興津」との間宿で脇本陣・お立場・茶亭・網元の「藤屋」として有名になったとのこと。
入り口を入ると「望嶽亭」の書の額が掛かっていたが、静かで誰も居ないように思われたが、玄関には7?8人の靴が脱いであった。勝手に靴を脱いで奥に進むと、右手の方から話し声が聞こえ、進んでゆくと10人ほどの人が思い思いの場所に腰を下ろしているなかで80歳は越したと思われるおばあさんが熱心に何か話しておられる。
おばあさんも私が廊下を進んで来たのに気が付き、どうぞと声を掛けてくれた。
後で分かるのだが、おばあさんは数年前に当主の松永宝蔵氏が亡くなられてからは、娘さんと家を守っている「さだよ夫人」であった。
幕末に府中で西郷隆盛と江戸開城についての話し合いをするために、「さった峠」を越えようとして官軍に追われ「望嶽亭」に逃げ込んできて、隠し階段から逃がした顛末を瑞々しく話すのである。話は30分は続き、貴重な話を伺ったが、それ以外にも山岡鉄州が残していったピストル、宝蔵氏が書き残した顛末記の巻物、文人の残した書などを見せていただいた。
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yui_029.jpgyui_030.jpgyui_032.jpgさだよさんは、帰りには玄関まで見送ってくれたが、松永家はかつては、「さった峠」も含めこの辺の土地は全て持っていて、かつ網元でもあったが、ずいぶん小さな家となってしまったと言っていたが、それでも室町時代に遡る松永家を守るとの気迫は感じさせられた。
「さった峠」への上り坂を登り始めると、東名高速の橋桁が海上になっている場所であるのが良く分かる。やがて上り坂が一段落したと思ったところに、2つの石碑が建っており、大きい方は文字が読めなくなっていたが、小さい方は「さったぢぞうみち」と書かれていた。さった地蔵」とは興津井上町(旧さった村)所在の東勝院の通称で、この先で東海道から分かれて参詣道がつながっているとのこと。
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峠の休憩広場にはトイレも完備されていて、車で駐車場まで上ってきた人達でごったげしていたので、さらに進むと「さった峠の「絶景ポイントの展望台」があり、薄く霞んでいるが、富士山も何とか見えていた。
やはり、くっきりとした富士山を望むなら秋にでも来る必要がありそうだ。
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「さった峠」を通り過ぎると、峠での今川兄弟の戦い、武田と後北条の戦いなどの表示板があり、さらに進むと、中道と上道の分岐点に達するので、中道を選ぶため、左側の道を下って行くと、樹林のトンネルになっているような場所を通って、墓場の真ん中を通る場所にでる。もう峠は通り越して興津の宿ももう直ぐだ。
続きは、新しいエントリーで・・・・

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