2007.05.20
沼津から蒲原(2)
やっと吉原に到着した。最初に迎えてくれるのは、毘沙門天妙法寺。かなり疲れた足を引きずって階段を昇ると、日本のお寺とはかなり違う雰囲気の建造物に対面した。ラマ教系のお寺だとのこと。
妙法寺を後にして、JR東海道の踏切を渡り、大昭和製紙工場の脇の道を通って北に向かい、河合橋を渡る。海が近いためか、プレジャーボートが沢山係留されていた。ある程度の大きさの川では良く見られる光景である。
やがて、左富士神社を通り過ぎ、左富士の碑に到達した。道路が急にカーブしたことにより、富士山が左手に見える地点である。東海道で富士が左に見えるのは、ここと茅ヶ崎の左富士のポイントの2箇所である。
しかし、富士山上空にはしつこく雲がまとわり付いており、富士の姿を見ることは叶わなかった。
また、ここの左富士の碑の横には静岡県統一の「夢舞台道標」が建っていた。原宿の宿境まで二里九町、富士川町宿境まで一里十七町とある。ほんとうに、よい道標である。
さらに進むと、和田川の橋のたもとに「平家越」の碑がある。源氏軍と対峙した平家の大軍が、水鳥の羽音に驚き退却したという、富士川の大戦の記念碑である。
平家軍が陣取ったのは、富士川と浮島ケ原の沼沢地の間のこの辺りだったのであろうが、周りの風景は水鳥が羽を休めていたころと全く違って、製紙工場の乱立である。
「平家越」の碑を過ぎ、暫くすると岳南鉄道の「吉原本町駅」近くで踏み切りを渡り、賑やかな商店街に入っていく。お昼の時間も過ぎ昼食を摂るため、適当なレストランを物色しながら歩く。日曜のためか、閉まっている店が多い。やっとそれらしい店を見付けて昼食を摂り、しばらく休息を取った。
昼食の後は、地図と首っ引きで忠実に旧東海道を辿る。「潤井川」を渡って、歩いて行くと、ほどなく民家の前に「鶴芝の碑」があるのに遭遇した。この付近から富士山を見ると富士の中腹に白鶴が舞うように見えたことから、鶴の絵と詩文を加えて「鶴の茶屋」に建てたものとのこと。
この辺りは街道の面影が残っていないことから、貴重な碑であるが、本当に民家の玄関脇で写真でも自転車を停めているのが写っている。なんとか、ならないものだろうか。
「鶴芝の碑」を過ぎて、広い道路と交差する地点(十字路)で、なんと広い道路に中央分離帯があって横断できないようになっているのに出くわした。そして、中央分離帯には「迂回してください」の表示があった。
全く歴史に関心を持たない、馬鹿な役人の仕業だろうと腹が立った。しかし、「迂回してください」の表示板の脇は明らかに通って踏み固められた形跡があるので、このやろうと思いながら渡った御仁がいるのだ。それでは、私もと強引に中央分離帯を突破して渡ってしまった。渡った先には、とても古い型の秋葉常夜灯が道しるべとして待っていてくれた。
JR身延線の柚木駅を過ぎて、ようやく富士川に到達する。橋の直前の右側に「水神社」があった。水流が早いことで有名だった富士川を静めるための神社であろうか。
いよいよ、富士川橋を渡る。富士川は、いままでで一番水量が多い川である。上流を望むと東名高速の橋が見える。
富士川橋を渡り、少し上流に向かって歩き、細い階段を登り、間の宿であった岩淵宿の街道に出る。直ぐに「秋葉常夜灯」があり、正しい旧東海道を辿っていることが知れる。
歩いて行くと、「小休本陣」の常磐家住宅に到達した。無料で公開されており、見せていただいた。古いが、やはり立派な家である。最近まで実際に住んでいたとのこと。今となってはとても貴重である。
また、庭には根回り6mという槙(まき)の大木があった。槙の木は生長が遅く、これほどの大木は珍しい。
常盤家で、富士川町ウォーキングマップをいただき、手持ちの地図と見比べながら歩いて行くと、「岩淵の一里塚」に到達した。左と右の両方が残っている。特に右側は型も崩れておらず、エノキの木も大木に育っている。
大変立派な一里塚だ。
時計を見ると3時30分を過ぎており、「富士川駅」から帰るか、蒲原まで足を伸ばすか迷ったが、蒲原までは一里程度なので、行くことに決めた。
街道は右に折れ、直ぐに東名高速の下を過ぎる。その後、東名高速と平行している道を歩きながら徐々に高度を増し、最後にかなり急な坂を上って、今度は東名高速の上を過ぎる。
横断橋から高速道路を見ると、我、彼の移動速度の差異にあらためて感じ入る。
やっと、蒲原に到着。宿の始めの方に一里塚の跡の石碑があり、少し進むと「諏訪神社」のお祭りに遭遇した。かなり、賑やかだ。
「諏訪神社」の次は、日軽金の発電用送水管だ。直径が4.4mの鉄管が4本だから、壮観だ。驚くほどの存在感をもって迫ってくる。この太いパイプで富士川の水を引いて来ている。
この3階建ての土蔵は、渡邊家の土蔵で蒲原宿でも一番古く、四方具(しほうよろい)という、4方の柱が上に行くにしたがって少しづつ狭まる方式で耐震性に優れた建て方とのこと。しかし、さすがに年数を経て修復が必要とされるが、修復には1億かかると言われ、渡邊家では、どうすることも出来ないのだという。この土蔵には貴重な江戸時代の資料が多数保管されていると案内板に記されているのにである。
蒲原の宿は海と山に挟まれた細長い土地に作られた小さな宿であり、静かで落ち着いていて、江戸時代の人々の子孫がそのまま住んでいるような感じがして心が休まる。
本当は、蒲原は製塩が盛んで、その作った塩を商いしてあるいたそうで、声が大きく「バラカンもの」と呼ばれ、怖がられたという。
ともかく、ゆっくり見ている体力も尽き、次に訪れたときにゆっくり見学することにして、「新蒲原駅」に向かった。