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2007.05.20

沼津から蒲原(2)

hara_028.jpgやっと吉原に到着した。最初に迎えてくれるのは、毘沙門天妙法寺。かなり疲れた足を引きずって階段を昇ると、日本のお寺とはかなり違う雰囲気の建造物に対面した。ラマ教系のお寺だとのこと。
hara_029.jpg妙法寺を後にして、JR東海道の踏切を渡り、大昭和製紙工場の脇の道を通って北に向かい、河合橋を渡る。海が近いためか、プレジャーボートが沢山係留されていた。ある程度の大きさの川では良く見られる光景である。
hara_030.jpgやがて、左富士神社を通り過ぎ、左富士の碑に到達した。道路が急にカーブしたことにより、富士山が左手に見える地点である。東海道で富士が左に見えるのは、ここと茅ヶ崎の左富士のポイントの2箇所である。
しかし、富士山上空にはしつこく雲がまとわり付いており、富士の姿を見ることは叶わなかった。

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また、ここの左富士の碑の横には静岡県統一の「夢舞台道標」が建っていた。原宿の宿境まで二里九町、富士川町宿境まで一里十七町とある。ほんとうに、よい道標である。
hara_034.jpgさらに進むと、和田川の橋のたもとに「平家越」の碑がある。源氏軍と対峙した平家の大軍が、水鳥の羽音に驚き退却したという、富士川の大戦の記念碑である。
平家軍が陣取ったのは、富士川と浮島ケ原の沼沢地の間のこの辺りだったのであろうが、周りの風景は水鳥が羽を休めていたころと全く違って、製紙工場の乱立である。
hara_035.jpg「平家越」の碑を過ぎ、暫くすると岳南鉄道の「吉原本町駅」近くで踏み切りを渡り、賑やかな商店街に入っていく。お昼の時間も過ぎ昼食を摂るため、適当なレストランを物色しながら歩く。日曜のためか、閉まっている店が多い。やっとそれらしい店を見付けて昼食を摂り、しばらく休息を取った。
昼食の後は、地図と首っ引きで忠実に旧東海道を辿る。「潤井川」を渡って、歩いて行くと、ほどなく民家の前に「鶴芝の碑」があるのに遭遇した。この付近から富士山を見ると富士の中腹に白鶴が舞うように見えたことから、鶴の絵と詩文を加えて「鶴の茶屋」に建てたものとのこと。
この辺りは街道の面影が残っていないことから、貴重な碑であるが、本当に民家の玄関脇で写真でも自転車を停めているのが写っている。なんとか、ならないものだろうか。
「鶴芝の碑」を過ぎて、広い道路と交差する地点(十字路)で、なんと広い道路に中央分離帯があって横断できないようになっているのに出くわした。そして、中央分離帯には「迂回してください」の表示があった。
全く歴史に関心を持たない、馬鹿な役人の仕業だろうと腹が立った。しかし、「迂回してください」の表示板の脇は明らかに通って踏み固められた形跡があるので、このやろうと思いながら渡った御仁がいるのだ。それでは、私もと強引に中央分離帯を突破して渡ってしまった。渡った先には、とても古い型の秋葉常夜灯が道しるべとして待っていてくれた。
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JR身延線の柚木駅を過ぎて、ようやく富士川に到達する。橋の直前の右側に「水神社」があった。水流が早いことで有名だった富士川を静めるための神社であろうか。
いよいよ、富士川橋を渡る。富士川は、いままでで一番水量が多い川である。上流を望むと東名高速の橋が見える。
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富士川橋を渡り、少し上流に向かって歩き、細い階段を登り、間の宿であった岩淵宿の街道に出る。直ぐに「秋葉常夜灯」があり、正しい旧東海道を辿っていることが知れる。
歩いて行くと、「小休本陣」の常磐家住宅に到達した。無料で公開されており、見せていただいた。古いが、やはり立派な家である。最近まで実際に住んでいたとのこと。今となってはとても貴重である。

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hara_044.jpgまた、庭には根回り6mという槙(まき)の大木があった。槙の木は生長が遅く、これほどの大木は珍しい。
常盤家で、富士川町ウォーキングマップをいただき、手持ちの地図と見比べながら歩いて行くと、「岩淵の一里塚」に到達した。左と右の両方が残っている。特に右側は型も崩れておらず、エノキの木も大木に育っている。
大変立派な一里塚だ。
時計を見ると3時30分を過ぎており、「富士川駅」から帰るか、蒲原まで足を伸ばすか迷ったが、蒲原までは一里程度なので、行くことに決めた。

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街道は右に折れ、直ぐに東名高速の下を過ぎる。その後、東名高速と平行している道を歩きながら徐々に高度を増し、最後にかなり急な坂を上って、今度は東名高速の上を過ぎる。
横断橋から高速道路を見ると、我、彼の移動速度の差異にあらためて感じ入る。
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やっと、蒲原に到着。宿の始めの方に一里塚の跡の石碑があり、少し進むと「諏訪神社」のお祭りに遭遇した。かなり、賑やかだ。
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「諏訪神社」の次は、日軽金の発電用送水管だ。直径が4.4mの鉄管が4本だから、壮観だ。驚くほどの存在感をもって迫ってくる。この太いパイプで富士川の水を引いて来ている。
hara_052.jpghara_053.jpghara_054.jpgこの3階建ての土蔵は、渡邊家の土蔵で蒲原宿でも一番古く、四方具(しほうよろい)という、4方の柱が上に行くにしたがって少しづつ狭まる方式で耐震性に優れた建て方とのこと。しかし、さすがに年数を経て修復が必要とされるが、修復には1億かかると言われ、渡邊家では、どうすることも出来ないのだという。この土蔵には貴重な江戸時代の資料が多数保管されていると案内板に記されているのにである。
hara_055.jpg蒲原の宿は海と山に挟まれた細長い土地に作られた小さな宿であり、静かで落ち着いていて、江戸時代の人々の子孫がそのまま住んでいるような感じがして心が休まる。
本当は、蒲原は製塩が盛んで、その作った塩を商いしてあるいたそうで、声が大きく「バラカンもの」と呼ばれ、怖がられたという。
ともかく、ゆっくり見ている体力も尽き、次に訪れたときにゆっくり見学することにして、「新蒲原駅」に向かった。

沼津から蒲原(1)

本日の万歩計55,203(36.4Km)
今日は電車を2回乗り換え(戸塚、熱海)沼津に到着しての歩行である。
hara_001.jpg前回に見落としたところを拾うつもりで、沼津駅から歩き始め、最初に城岡神社を訪れた。
ここは、大政奉還後の混乱のなかで、藩としての再生を模索する一環として旧幕臣達が洋式の陸軍士官の養成を目指し「沼津兵学校」を設立した場所で、石碑のみが境内に残っている。廃藩置県後に陸軍兵学校に吸収されるが、短期間ではあったが多くの人材を養成したとのこと。
hara_002.jpg沼津の「さんさん通り」を歩いて行くと、ビルの壁に「三枚橋城の石垣」が再生されていた。
三枚橋城は武田が築城したものだが、織田信長の台頭により駿河から撤退を余儀なくされ、その後徳川の配下となったが、終には廃城となった。近年のビルの工事で埋もれていた石垣が発見され、再生したとのこと。
hara_003.jpg海岸に広がる「千本松公園」に向かって進んで行くと、「乗運寺」があり、「若山牧水」の墓がある。
この「乗運寺」の開祖は増誉上人である。
千本松公園の入り口には増誉上人の像がある。増誉上人が松の植林をするに至った経緯は掲示板の写真をクリックして、読んでいただきたい。

hara_009.jpghara_010.jpghara_004.jpgそれにしても、大変な松の木の本数である。千本松と言うが、このような状態の松林が「吉原」の近くまで続くのである。千本どころではなく、もっとはるかに多いと思う。
hara_005.jpg千本松公園には「井上靖」の歌碑があり、また「若山牧水」の歌碑もあった。
若山牧水の「幾山河越え、さりゆかば・・・」は名調子で、ちゃんと記憶に残っていた。
hara_006.jpghara_008.jpghara_007.jpg公園を海の方に抜け、堤防に上ると、大勢の人が釣りを楽しんでおり、また遠くまで松林が続いているのが望見された。遥かに遠くまで歩く必要があるのが実感される。
再び松並木に戻り歩いて行くと、鳩に遭遇した。やはり木が多いと鳥も多く集まるのだろう。
少し歩いて、千本松街道に出て「六代松の碑」を訪れた。平維盛(たいらのこれもり)の長子で、平家最後の嫡流の六代は、関東に送られ斬られようとしていたが、文覚上人(もんがくしょうにん)に一度は救われた。しかし、結局は処刑され、この地に首が埋められたという。
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続いて八幡神宮にある、「榜示杭」を見学した。この「榜示杭」は沼津と原の宿の境界線である。
その後、また直ぐに松林に戻ったが、この辺は松の木が主であるが、他の種類の木も混じり、これはこれで良い感じである。江戸時代の街道は、こんな感じではなかったのだろうか。とても歩き易い。
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hara_015.jpg片浜駅が近づいてくると、「神明塚」と呼ばれる5?6世紀ころの豪族の前方後円墳がある。全長54mで沼津市では最大のものであるとのことだが、相当に形が崩れていて、住民の無関心さも影響しているのか手入れもなされているようには見えなかった。
hara_016.jpgやっと、原宿の中心地に近づいてきた。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と言われる白隠禅師が再興した、松陰寺を訪れる。
白隠禅師は臨済宗の中興の祖と言われたが、生まれ故郷に帰って松陰寺を再興した。世に聞こえた名僧であり、参勤交代の大名も立ち寄ることが多かったが、特に備前の池田氏とは懇意であったようだ。あるとき、小坊主が「すり鉢」を割ってしまい、藩主池田継政から備前焼きの「すり鉢」を贈られたが、大風で折れた松の枝の雨よけに、「すり鉢」を被せたのだという。その後松の木は「すり鉢」を載せたまま大きくなり、やっと今から20ほど前に白隠禅師生誕300年を祝い、白隠禅師の松の枝に被せた「すり鉢」を京焼きのものに交換し、元の「すり鉢」は大事に保存することにしたのだそうだ。
下の写真で左側は「すり鉢松」全体を写したものであり、右側は乗かっている「すり鉢」を写したものである。
hara_018.jpghara_017.jpghara_019.jpg原駅を過ぎて少し行ったところに、「地酒 白隠正宗」の高嶋酒造があり、醸造用に使用している富士山の霊水が旅人にも飲めるようにしてあった。近くの住人が切れ目なく水を容器に入れに来ていた。
hara_020.jpg東田子の浦駅が近づいてきたころ、JR東海道線の線路脇に「庚申塚」という1500年ほど前の豪族の古墳がある。
この古墳を訪れるには、JR東海道線を横切るのが手っ取り早いが、踏み切りでもないところを渡るのはスリルがある。危険だから渡るなとの注意書きがあったが、線路に下りるための階段もあり、そもそも注意書きがあること自体が、渡る人がいるからだろう。そして今渡らなければ一生JR東海道の線路を渡ることは無いと、変な気を起こして、思い切って渡ってしまった。古墳から戻ろうとしたら、20mほど離れている踏切の信号機が鳴り出したので、これはいかんと、戻りは踏み切りの方に回わることとした。
hara_021.jpg「東田子の浦駅前」には「六王子神社」があるが、この神社には悲しい話が伝わっている。
昔、原宿一帯がまだ、沼地であったころは、海の潮が満ちてくると沼地で潮が吹き上がることがあったという。
これは、龍神のしわざだと、毎年15歳の少女を生贄に捧げていたが、適当な少女がいなくなって困っているときに、7人の巫女さんが通ったので無理やりくじを引かせ、当たった一人を生贄とした。ところが、村の若者が1人のみ生贄では残った6人と較べ不公平だと、6人を強姦してしまったのだという。全く、勝手な理屈だ。巫女は処女性が絶対条件で、強姦されては巫女を続けられなくなる。それで、6人は世をはかなんで沼に身を投げ、後日不憫に思った村人が6人を祭る神社を作ったとのこと。
説明板にも、この話が書かれているが強姦されたくだりが伏せられており、何故沼に身を投げたのかが、よく理解できない。
なお、生贄になった少女の名前は「おあじ」と言ったそうだが、おあじは別途「阿宇神社」に祀られているとのこと。
東田子の浦駅を過ぎて少し進むと、「望嶽碑」で有名な「立圓寺」がある。尾張藩の侍医、柴田景浩が碑を建てたとのこと。詳細は説明板をクリックのこと。
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hara_022.jpgまた。境内にはインドネシア船籍のグラテック号が昭和54年台風で遭難して、そのときの船の錨が2人の慰霊碑とともに飾られていた。
やがて「昭和放水路」に行き着き、放水路建造の先駆者の増田平四郎の像に対面する。浮島ケ原と呼ばれた沼沢地を干拓して農地を造るのは大変な努力を要したであろう。
なお、「原宿」は「浮島ケ原」が省略されて原と呼ばれるのが定着して「原宿」となったとのこと。
hara_025.jpghara_026.jpghara_027.jpgようやく、吉原に近づいてきて向こうの方に吉原(富士市)の主力産業である、製紙工場の煙突の煙が見えてきた。もうすぐ、吉原の宿だが、この続きは新しいエントリーで・・・

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