2007.05.12
箱根から沼津(2)
三島市街に入って、まず、「三島大社」を訪れた。鳥居をくぐると、最初に大きな「たたり石」に遭遇する。「たたり」とは、元来 糸のもつれを防ぐの意味があり、最初旧東海道の道の真ん中にあったという。行き来する人が増え、取り除こうとすると、災いが起こり「祟り」の意味に転じたという。その後、大正3年の道路工事でやっと取り除かれ三島大社の境内に運び込まれたと掲示板は述べる。そして、今では交通安全の霊石として信仰されているそうだ。
右の写真は三島大社の本殿である。三島大社は伊豆国の総社として建立されたが、大きく発展したのは源頼朝が旗揚げに際し戦勝を祈願し、勝利を修めたことから、手厚く保護したからである。鎌倉時代から武家の奉納した甲冑が多く保存されていて、源義経が奉納した「国宝・赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)・大袖付」もある。
また、境内には日本一の「金木犀」の木がある。秋の開花時期には10km離れても香りがたなびくと言われている。
三島大社を離れ「白滝公園」の方に桜川に沿って進んで行く。綺麗な湧き水の流れが民家の前を流れ、散歩道となっているが、その通り道に文学碑が建っている。 文は写真をクリックしてご覧いただきたいが、撮影した私の姿が映っている。司馬遼太郎の書き出しは柳の枝が邪魔して見えないが「この湧水というのが・・・」と続く。
「白滝公園」の入り口には「富士の白雪朝日に溶けて、三島女郎衆の化粧水」と「農兵節」の一節が書かれた碑が建っている。農兵節というと、富士の白雪ノーへ,富士の白雪ノーへ,富士のサイサイ,白雪や朝日に溶ける溶けて流れてノーヘと延々と続くが、昔はあんな歌を歌って宴会をやっていたとは、いまから思うと不思議だ。近年まで歌われて大いに流行した歌だと思うのだが、流行歌辞典などには載っていないそうだ。明治政府からすると賊軍の教練で歌われた歌など、リストから抹殺しろとなったのであろうか。
次に「楽寿園」を訪れた。旧小松宮別邸で名園とされる。残念ながら、昔は豊富であった湧き水が細り、池の水が干上がっている。池を主体に設計された庭園であるだけに、なんとかならないものかと思う。
気がつくと午後2時になっていた、朝コンビニで買っておいた「おにぎり」を「山中城跡」で食べたが、さすがに腹が減ってきた。本町の交差点に戻りながら、「蕎麦屋」があれば入ろうと見渡しながら歩くのだが、「ラーメン屋」ばっかりだ。どうも旧東海道を歩いていて中華は食べる気がしない。やはり和食系にしたい。
本町の交差点に戻ったが、もう本陣跡の形跡は損なわれていて、わずかに店先に飾られた「世古本陣跡」の薄っぺらな石板が目に付いたぐらいである。
伊豆箱根鉄道の「三島広小路」を過ぎて、数百m進むと「千貫樋」の掲示板があった。表示にもあるが、これが今川家へ養子に出す氏真の結婚の引き出物だったとは・・・。懐柔策としては良いアイデアであったのだろう。
やがて、宝池寺の境内に復活された一里塚があった(左の写真)が、道路を隔てた向こう側の「玉井寺」にも一里塚の表示があった。確かに一里塚は道路の両側あるものなので、2つあっても可笑しくはないが、お互いに張り合ってるようで良い感じではない。寺の境内そのものも、墓地分譲のいわば不動産屋が本業のようにも思えてくる。
宝池寺で国道1号線の方に曲がり、少し三島方向に戻る感じで「柿田川」の源流の「柿田川公園」に向かった。
結局、蕎麦屋は見つからなかったが、さすがに何か食べねばと公園の前の「すかいらーく」に飛び込み遅い昼食を摂り少し休憩することにした。
下の10枚の写真は全て「柿田川公園」で撮影したものだが、テレビなどで良く見る もやもやと川底の砂が動いて、水が湧き出しているところや、とうとうと流れる柿田川、子供用の水遊びの浅い湧水池などがある。
湧水量は1日に100万トンとのことだが、町の中でいきなり大量の水が湧き出し、かなりの水量の川が突然始まるのだから驚く。そして柿田川は僅か1.2Kmで「狩野川」に合流するのである。
公園は柿田側の源流地域として樹木も含め大事にされているようで、清々しい空間を見せている。が、10数年前には、近くの製紙工場の廃液が柿田川に流され、酷い状態だったという。10年に亙るボランティアの根強い製紙工場への働きかけなどを通じ、いまの美しい柿田川が復活したとのこと。
だいぶ日も傾いてきたので、少し急いで沼津に向かって歩き始めた。それほどの距離ではないと思っていたが、やはり足の疲れがかなりなレベルに達しているため、遠く感じた。
まず、「八幡神社」に到達した。参道は鶴岡八幡宮の段蔓のように、桜並木が続いている。本殿近くにもう一つ鳥居があり、本殿の左横の奥の方に「義経」が奥州で「頼朝」挙兵の報に接し、駆けつけて対面したと伝えられる向かい合わせの石があった。 頼朝の座ったとされる石の傍に絡み合うように生えた2本の柿の木があるが、これは「頼朝」が食べた柿が渋柿だったので、ねじって捨てたところ2本の柿が芽を出し、幹をねじりあいながら立派な木になったと掲示板に書いてあった。
そんなアホな。鎌倉時代が始まる時代に生えた柿が現在まで生きているはずがないし、見たところ歳を重ねた木とも見えなかった。
沼津が近づいてきて「狩野川」に掛かる「黒瀬橋」を過ぎると直ぐに、日本三大仇討ちの一つと言われる平作ゆかりの平作地蔵尊がある。
少し進むと、今から千数百年前に玉を磨くのに使ったという「玉砥石」が2個置かれている。見た目にはただの普通の石に見えるのだが、考古学的には貴重なものとのこと。また、砥石が並べられている広場には「一里塚」も復元されていた。
沼津の狩野川沿いの旧東海道は「川郭通り」と呼ばれていて、町並みは、もう昔の面影は損なわれているが、綺麗に敷石舗装が施されている。箱根の石畳と比ぶべくもないが、本当に綺麗で歩き易く気持ちの良い道だ。
ともかく、今日はここまでとしてJR沼津駅に急いだ。もうJR東日本の領域を外れ、SUICAも使えない。しかも、帰りは熱海、戸塚と2回も乗換えが必要だ。