2010.09.29
八丁目宿(松川)から福島・・・(旧奥州街道)
境川から700mほど進むと、「奥州八丁目天満宮」がある。奥州八丁目宿の入り口である。本堂は、粋を凝らした彫刻で彩られていた。なお、八丁目宿の名前は、境川から八丁離れているとこから名付けられたとのこと。
300mほど進むと、水原川(かつては松川と呼ばれていた)に架かる松川橋(めがね橋)がある。明治18年に完成したアーチ形の石橋で空石積工法の橋である。橋のアーチと水面に映った影がメガネのように見えることから「めがね橋」と呼ばれるようになったとのこと。なお、松川町の地名もこの川の古名の松川に起因する。
めがね橋のたもとには、真言宗豊山派の西光寺がある。天正年間(1573?1592)の開山である。阿弥陀如来坐像、は奈良東大寺にあった阿々弥作の像で、1760年に大円坊と通禅坊が中町の藤倉清左右衛門を施主として持ち運んで来たことが台座に銘記されていて県文化財である。
めがね橋を渡ると、本流の水原川が接するように流れていいる。こちらの橋は天明橋である。
橋を渡って、300mほどで街道は右折するが、その手前の左側に稲荷神社がある。境内には明治天皇御駐輦の地(めいじてんのうごちゅうれんのち)の碑がある。
稲荷神社から街道に戻り、左折して僅か100mほどで右折する。ここで、ようやく食事処を見付け昼食をとり、休憩の後歩き始める。直ぐに松川駅入り口の交差点に達するが、左に細い参道が見えている。辿るとここにも諏訪神社が鎮座している。この地方は諏訪神社に縁のある豪族でも住んでいたのであろうか。また、境内には昭和58年に福島県文化財に登録された、樹齢約400年、樹高10m、胸高周囲4.5mの桜の大木がある。天正年間(1573?1587)に伊達政宗公が江戸で苗木を大量に買い求め仙台に運搬の途中、懇願して苗木3本を頂いた内の1本と伝えられているとのこと。
右折して街道を500mほど進むと、相馬道追分である。古い道標の回りには六地蔵が彫られている。ここで右折して、いまは住宅開発地となってしまった道を進み、突き当たって右折すると、東北本線の下り踏み切りに行き当たる。浅川踏切である。この辺りは、東北本線の上り線と下り線の線路が離れている。
左の写真は、郡山方面に向かって撮ったものであるが、踏切を過ぎると街道は、県道114号線に合流し、300mほどで再び離れ、東北本線の上り線のガードをくぐり再び合流する。
114号線を1Kmほど進むと、福島大学の入り口である。福島大学のある場所の地名は福島市金谷川だが、かつての金谷川村で、松川町と合併の際に消失した地名である。しかし、1999年の福島大の町名変更の際に、大学敷地に関してのみ復活されたとのこと。
また、福島大学の敷地を横切れば、金谷川駅でJRの東北本線の駅名としても残っている。一瞬、福島大を横切って金谷川駅に出たい誘惑に駆られたが、まだ午後1時半である。頑張って歩かねばと思い直した。
進んで行くと、600mほどで右側に八幡神社の鳥居が見えてきた。浅川新町宿である。慶長9年(1604)、浅川村から集落が移転して新しい町を作った時に造られた神社だという。
400mほど先で右に分岐して、国道4号線の下をくぐり、大きく左にカーブして進んで行く。
500mほど進むと、道は緩やかに右に曲がり、清水町宿に入って行く。左側に「出雲大神宮」がある。
神社案内によれば、800年の昔、炭焼きの藤太が氏神として祀ったのが始まりで、藤太が京から迎えた阿姑耶姫との間に4人の子供をもうけ、その内の一人が有名な「金売り吉次」。藤太の屋敷は長者屋敷と呼ばれ村人とともに栄えていたが、文治5年(1189)の鎌倉幕府による奥州合戦・石名坂の戦いで消失。しかし出雲大神はその後も村人が祀り続け、慶長年間にこの地に移して村の鎮守として崇拝してきた、と書かれていた。
「出雲大神宮」を後にして、300mほど進むと、左側に伸興寺がある。境内には多くの石仏、石塔が集められており、ひときわ大きな馬頭観世音の石碑の左側には、安永3年3月10日(1774年)、藤原宗興卿がこの宿場で倒れ、亡くなる時に詠んだ歌の歌碑がある。享和3年(1803年)に清水町宿の有志が建立したと書かれており、「とても身の 旅路に消へば 塩釜の 浦のあたりの 煙ともなれ」と刻まれているとのこと。
ここで、街道は左折して進む。右に杉妻自動車学校を見て1Kmほど進むと、国道4号線を跨いで、同伴ホテルの前を進んで行く。
道は細く、山道の様相となる。車も全く通らないので気持ちが良い。
道を進むと、木立の切れ目から福島市街が望見できる。
1Kmほど進むと、「共楽公園」の名前の公園となっていて、きれいに整備されていた。人影は見られないが、桜の咲く季節の休日には賑わうのであろうか。
公園の出口付近には、馬頭観世音の大きな石碑も見られ、かつての街道であることを伺わせる。
その後、急坂を下って一気に広い道路に出るが、坂の途中からは福島市街がより近くに見ることが出来るようになった。 広い道路に合流して、直ぐ左に須川南宮諏訪神社がある。かなり古い神社のようである。
濁川を渡る。鴨が数羽泳いでいた。橋を渡って次の信号を左折すれば、南福島駅である。夏を過ぎて初めての歩行で、疲労も感じる。もう一駅の歩行だ。
1Kmほど市街区域を進んで、鎮守日吉神社を左に見る。
次に大森川を渡る。
300mほどで、荒川を跨ぐ「信夫橋」である。本日の歩行で一番大きな川で、直ぐに阿武隈川に合流する。
信夫橋を渡ると、右の橋の袂に柳稲荷がある。説明書きによると、貞享年間(1684?1688)に、荒川氾濫で町が流出寸前の時、稲荷のご神体が流れてきて人々を救った。神殿は明治14年の福島大火(甚兵衛火事)に消失し、昭和8年に再建された、とある。
進むと、左手の奥に「真浄院」。創建は天長2年(825)に弘法大師空海が現在の伊達市霊山に開基したと伝わっている。当初は遍照寺と称していたが荒廃し、慶長年間(1596?1615)に上杉家の祈願所として快翁が中興開山し信夫山にある羽黒神社の別当となる。寺宝には「こもかぶり観音」と呼ばれる羽黒山聖観世音菩薩、チベットで造られた(9?10世紀)密教法具である金剛鈴と金剛杵が国重要文化財に指定されている他、金剛界、胎蔵界からなる両界曼陀羅(表具は伊達政宗が寄進したとされる)が福島市指定有形文化財に指定されているとのこと。 本堂の外観も清楚で美しい寺院である。
次いで、左手奥に康善寺(清明町)がある。創建は親鸞の弟子である明教が開山したと伝えられていて、当初は黒岩村に草庵を結び秀安寺と称していたが天正の乱などで堂宇が焼失し一時荒廃する。13世宗覚の時代、上杉氏の家臣古川善兵衛が故郷である信州から康楽寺の僧を招き中興開山させ現在地に堂宇を再建し、寺名は康楽寺と善兵衛の名前から一字とって康善寺と改められた。古川善兵衛は上杉氏から福島の郡代として派遣され、西根下堰を自費を投じて開削するなど良政を行なった人物であったが、資金が枯渇すると藩の軍用米を無断で借用し堰の費用にあてた事で寛永14年(1637)に自決した。今も康善寺の境内には古川善兵衛の墓が祀られているとのこと。
ホテルサンルート福島に宿を取ったので、ここでホテルにチェックインし、シャワーを浴びてサッパリして、夕食がてら駅の方に進んでいった。直ぐのところに明治元年開業で、明治9年(1876)の明治天皇巡幸に同行した木戸孝允が宿泊し、大正時代には竹久夢二が泊まったという旅館・藤金があった。
そして、駅前の広場に到着すると、芭蕉・曾良の旅姿立像がある。この像は、奥の細道300年を記念して、福島商工会議所の有志が平成元年(1989年)に建立したとのこと。
また、古関裕而のモニュメントもあった。古関祐而の生誕100年を記念して、平成21年に設置されたものである。明治42年福島市に生まれ、昭和54年に最初の名誉市民となっている作曲家である。代表曲は「とんがり帽子」、「イヨマンテの夜」、「ニコライの鐘」、「君の名は」、「高原列車は行く」、「オリンピックマーチ」等多数ある。他にも戦争中は、「暁に祈る」、「ラバウル海軍航空隊」など多くの軍歌を作った。
なお、福島駅の発車メロディーは在来線は「高原列車は行く」、新幹線ホームは「栄冠は君に輝く」で、共に古関の曲が使用されている。
振り返って見る福島駅も夕暮れの様相となってきた。
その後、帰りに食事をしてホテルに戻り、疲れのためか早くに眠ってしまった。