2010.07.05
郡山から高倉・・・(旧奥州街道)
本日の万歩計45,431(29.5Km)・・・二本松まで
昨夜は、ホテルのテレビでサッカーのワールドカップのダイジェスト版を見て、早くに寝てしまったので、今朝は早い時刻に眼が覚めてしまった。
朝食の時刻には、かなりの間があるので、昨日、訪れ損ねた如寶寺に行ってみた。
真言宗豊山派の寺院で、郡山の有力者、虎丸長者が都に上り、平城天皇より馬頭観音像を賜って帰郷、大同2年(807)に観音堂を建立して笹久根上人を招いて開眼供養を行ったのが始まりと伝えられる。下の写真の左側は、観音堂と本堂で、右側は書院である。
境内には数多くの古碑があり、鎌倉時代の刻銘のある石造笠塔婆、板石塔婆は、国指定重要文化財である。
ホテルに戻り、朝食を済ませての再出発は7時25分であった。商業地区なので当然かも知れないが、早朝で大町通りもひっそりとしている。大町交差点を過ぎて進むと、左側に「阿邪詞根(あさかね)神社」がある。由緒によると、平安時代・康平年間(1058?1065)、伊勢国阿邪詞より勧請して、はじめは道祖神社として猿田彦命を祀る。その後、寛治3年(1086)、源義家の副将軍として、前九年・後三年の役に出征した平忠通の霊を合祀し、御霊宮と改称された。さらに、明治2年(1869)には、忠通神社に改称され、明治22年(1889)3月に阿邪詞根神社に改称して現在に到るとある。
境内の中央には、神木が貫禄を見せ、左の方には福島県重要文化財に指定されている石造法華曼荼羅供養塔と、郡山市指定文化財の石造浮彫阿弥陀三尊塔婆がある。
説明板によると、源頼義・義家が奥州平定後の治暦3年(1067)に敵、味方の戦死者を弔うために建てたといわれており、高さ2.43m、厚さ30Cmで、塔の表面は風化が進んでいるが、仏の姿を表す梵字を配した曼荼羅が刻み込まれているとのこと。
柵の内側左下には、高さ91Cmの石造浮彫の阿弥陀三尊塔婆がある。鎌倉時代末期に作られたものと推定されている。
この辺りは、まだまだ街道らしい趣のある家屋も残っている。そして少し先で、逢瀬川を安積橋で渡る。逢瀬川は、古来歌枕で有名で多くの歌が詠まれたところであったが、高度経済成長期の住宅街の急激な広がりに下水道の整備が進まず、さらに不法投棄などの増加により日本でも屈指の水質汚濁の激しい河川となってしまった。しかし、最近では環境意識も高まり、豊かな自然を取り戻しつつあるとのこと。
浅香山 さも浅からぬ 敵とみて 逢瀬に勇む 駒の足並み 源 頼義(1051年)
ほどなくも 流れぞとまる 逢瀬川 変わる心や 井堰なるらん 新続古今和歌集(1439年)
磐越西線のガードが見えてきた。郡山と会津若松経由新潟県の新津駅を結ぶ線である。
ガードをくぐって進むと、佐藤酒造店がある。前身である藤屋本店は宝永7(1710)年に創業で、上質の井戸があり、佐藤酒造店でも近年まで井戸水を酒造りに用いていた。蔵の裏手にある日吉神社には当時からの井戸も残っているという。さらに、蔵の敷地に美しい藤が咲いていたことから、通りかかった二本松藩主丹羽公が「藤乃井」の銘を授けたと伝えられている。
300mほど進むと左側に「日吉神社」がある。16基の石造塔婆が県指定重要文化財となっている。
また、境内には、仙台仏と呼ばれる伊東肥前守碑があり、郡山市指定史跡である。
天正16年(1588)、伊達政宗はここに本陣を築き佐竹、蘆名、二階堂、結城、相馬、田村など当時の奥羽南部のほとんどの連合軍と戦った。伊達政宗の生涯で最大の戦いの郡山合戦である。このとき、政宗の危機を救って死んだのが伊藤肥前で、仙台藩4代藩主の伊達綱村が碑を建立した。その後、参勤交代の仙台藩主は、この碑を参拝するのが慣例だったという。
その少し先には、山門を始め本堂も新しい「阿弥陀寺」がある。享保2年(1717)江戸神田の鋳工師藤原長政の作の銅鐘は郡山の指定重要有形文化財である。いわき市勿来(なこそ)の松山寺の鐘楼にあったが、1886年久保田に留まり1888年阿弥陀寺の銅鐘となったとのこと。
さらに進むと、左側に行健小学校があり、見事なレリーフを見せていた。この小学校は、明治6年に久保田小学校として阿弥陀寺を校舎に代用して創立され、その後現在の校名に改称された。
街道左に「豊景神社(とよかげじんじゃ)」がある。天喜4年(1056年)、源頼義・義家父子の創建と伝えられ、後の天養元年(1144)に鎌倉権五郎景政公を合祀し、現在に至る。
この神社に伝わる太々神楽は、福島県の重要無形民俗文化財に指定され、格調の高い神楽と高評されている。
「豊景神社」から100mほどで、「本栖寺(ほんせいじ)」がある。由緒によれば、元弘元年(1332)田村莊司田村輝定(輝顕)公が臨済宗の高僧大光禅師復庵宗己大和尚を迎え八丁目恵日台に恵實山福聚寺を開山創建。その後永正元年(1504)田村義顕公に至り、三春大志多山に舞鶴城を築城し移住するに当り福聚寺もともに移ることとなり、本来の福聚寺跡に建つ寺として其のまま恵實山として寺号を本栖寺として残された。
なお、田村輝定はこの陸奥の地に土着した征夷大将軍坂上田村麿の子孫である。
それにしても、建屋、石仏像等の全てが真新しく、光り輝いている。この財力はどこから来るのであろうか。
福原宿の終わりで、内環状線の道路標識のある信号を渡り、左の道路に入って行くと宝沢(ほうざわ)沼がある。寛永4年(1627)加藤嘉明が会津領主となるや工事に着工し、延人員4,628人を使役して寛永7年に完成した。古い潅漑用水池である。
沼を一周する1.5Kmは「一周ふれあい小路コース」として100m毎に距離表示杭を立てるなど整備されており、多くの人のウォーキングコースとして利用されている。また、沼の北東の隅には、鳥居と小さな祠の水神社がある。江戸期の創建とのこと。
水神社の前を右に折れると、馬頭観世音の石塔が4体も建っていた。そして、宝沢沼の増水時の水を阿武隈川に流す照内川を左に見ての桜並木で、街道に復帰する。
照内川に架かる高江橋を渡ると上り坂でとなり、姿の良い松が見えてくる。街道の松並木の名残である。坂を下ると、牛ケ池の碑があり、記述によれば、文化年間(1804?1818)の始め、名主の滝田佐野右門が牛ケ池開拓を志し、二本松藩主より許可を得て私財を投じて開拓したことを後世に伝えようとするものであった。
さて、肝心の牛ケ池だが、一面に葦が茂って、水面は全く見えなかった。しかし、牛ガエル(食用ガエル)の野太い声が、僅かにここが池であることを語っていた。
牛ケ池から100mほどで、街道は左に別れ、自動車の通行が減って有り難い。断片的に松並木が残っていて、馬頭観世音等の石碑が見られる。
1Kmほど進むと、道は右にカーブしながら上って行き、藤田川と東北本線を跨ぐ。自動車は、ぐるりと一巡して下の道路に下りるが、歩道は線路を跨いだところで、下りる階段がある。
階段を下りると「日和田宿」である。300mほど進むと、左に八幡神社がある。「日和田宿」の総鎮守である。
三春駒で有名な三春藩への追分を過ぎ、日和田駅入口を過ぎると、左側に「蛇骨地蔵堂」がある。参道には多くの石仏、石塔が延々と並んでいる。蛇骨地蔵堂は、養老7年(713)に開山され、現在の建物は享保3年(1718)の再建とのこと。当初は東勝寺の所管であったが、幕末に東勝寺が廃寺となり西方寺に移された。禅宗様式を基調として、柱や架構も雄大で、使用部材も良く、郡山市随一の仏堂建築で、市の重要文化財に指定されている。
しかし、蛇骨地蔵堂とは特異な名前の地蔵堂であり、その由来を調べると、下記のような物語が存在した。
「昔、この地は、安積左衛門忠繁という領主が治めていた。忠繁には、あやめ姫という美しい娘がおり、彼女に心を寄せる若者が多く、あるときこのあやめ姫に恋した家臣の安積玄蕃が、結婚の申込みをしたが断られ、これを恨んだ玄蕃は、母親と父の忠繁を殺してしまった。
あやめ姫は大変嘆き悲しみ、館の近くの安積沼に身を投げてしまったが、悲しみと恨みの心は、その姿を大蛇に変え、荒神となって天変地異を起こすようになった。不作が続く里人は、毎年村の娘を一人づつ人身御供に捧げることにして、あらぶる霊をなぐさめようとした。
それから30年余りが過ぎたある日の事、33人目の人身御供に選ばれた娘の父親はあきらめきれず、娘の命を助けて欲しいと長谷の観音に参拝し、そこで佐世姫という両親ともに死別した娘に出会った。佐世姫はこの話を聞くと、自分が身代わりになるという。大蛇の棲む沼の傍で佐世姫がお経を読み始めると、水面がにわかに波立ち、中から大蛇が現れた。
佐世姫はかまわず静かに経を読み続けると、初めは荒ぶっていた大蛇はやがて静まり、あやめ姫が現れた。あやめ姫は、「あなたの気高い心とお経のおかげで、やっと迷いからさめて往生できました」と、天女となり天界へ舞い上がっていった。
あとには、大蛇の骨が残され、佐世姫はその蛇骨で地蔵尊を彫り、あやめ姫の冥福を祈ったと云う。この佐世姫と、人身御供になった32人の娘達を祀ったという三十三観音が、地蔵堂の後ろに並んでいる。」
また、境内には、西方寺の笠松と呼ばれる見事な松がある。樹齢250年と推定され樹高4m、枝張りが東西南北とも11mもあり、とても立派な体裁を保っている。管理も行き届いて、郡山市の天然記念物に指定されている松は、この1本だけとのこと。
さらに、参道にはイチイの木がある。福島県指定の天然記念物である。
日和田宿の終わりは西方寺で、永世年間(1504?1521)の開基と伝えられる。当初は現在地より約1km西方にあったようだが、享保年間(1716?1736)に現在地に移ったとの事。ここの木造大日如来坐像は、福島県指定の重要文化財となっている。
西方寺を過ぎて、600mほど進むと万葉の時代から歌枕として有名な「安積山(あさかやま)」があり、現在では「安積公園」として整備されている。万葉集には「安積山 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を吾思はなくに」の歌が由縁書きを添えて巻十六に記されている。また、古今和歌集には「みちのくの あさかのぬまの 花かつみ かつみみる人に 恋ひやわたらん」があり、多くの歌が詠まれるようになった。ところで、この歌の「花かつみ」であるが、あやめ、花菖蒲等、諸説ありハッキリしないが、明治9年6月17日、明治天皇の巡幸のさい、ヒメシャガを花かつみとして天覧に供し、以後、「ヒメシャガ」が「花かつみ」とされ、昭和49年、郡山市の花に制定された。
芭蕉も旧暦元禄2年(1689)年5月1日に曽良と訪れ、万葉集に名高い「花かつみ」を尋ね歩いている。奥の細道にも、「等窮が宅を出て五里斗、檜皮(ひはだ=日和田)の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども更知人なし。・・・」と記している。
芭蕉の訪問を記念して、芭蕉の小道が作られ、その奥にある山の井の清水に続いていた。
また、入口の門が造られ、歌まくらの地に相応しく、ここで詠んだ歌の佳作が展示されていた。
少し進むと、右側に横森新田の姉ヶ茶屋跡がある。明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)御遺跡の碑が建っているだけだが、景色の良い所であり、参勤交代の行列が必ず休憩所とした所である。
その後、磐越道をくぐって山際の道を2Kmほど進むことになる。歩道も無いので、道がカーブしているところは、突然に車が現れるので気が抜けない。
ようやく、民家が立ち並び始め、右手に濁り池が現れ、さらに700m程進むと、右手に竜宮門を構えた「山清寺」がある。ここは、中世以来、畠山氏が居城した高倉城の入り口である。天正13年(1585)に行われた伊達政宗の二本松攻撃には、佐竹、葦名、相馬、二階堂、岩城、白河結城、石川が連合して戦ったが、高倉城主の高倉近江は政宗側に寝返り、その後この山城は政宗の郡山合戦の前線基地となったようである。
1Kmほど先で、道は左に曲がる。その角に村社・鹿島神社がある。長い石段を上ると、夫婦杉があり、迫力のある狛犬が睨みを効かせていた。
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