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2010.07.04

鏡石(笠石宿)から須賀川・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計43,675(28.4Km)・・・郡山まで

鏡石から郡山の歩行ルート

梅雨に入り、街道歩きに出かけられない日が続いている。九州では大雨で被害も出ているが、福島県の天気予報を見ると7月4,5日は曇りなので、暑さも晴れの日に比べればかえって良いのではと、出かけることにした。歩き始める場所がだいぶ遠くなってきたので、奥州街道では初めて一泊しての二日の旅となった。
kagamiishi_01.jpg東京駅6時12分発の「つばさ101(MAXやまびこ101と連結列車)」に乗り、郡山駅に着き在来線で戻り、ちょうど8時に鏡石に到着した。
前回、乗車した「鏡石駅」であるが、改めて眺めると、商工会の事務所のスペースが大きく、駅は付属物のような形態である。切符の販売も商工会への簡易委託で改札口も無く、JRの駅の分類上でも無人駅となっている。
駅前通を進み、街道に復帰して北東方向に真っ直ぐに延びている道を進むと、鏡沼地域に「西光寺」がある。真言宗智山派のお寺で、案内板には永禄年間(1558 – 1570)須賀川城主の二階堂の属臣「鏡沼藤内」の菩提のために建立と書かれている。参道には多くの石仏があり、境内には鏡石町の天然記念物指定の「多羅葉(たらよう)」の木がある。モチノキ、イヌツゲと同じくチノキ科に属していて、葉の裏に棒で字を書くと字が黒く浮き出るので、「葉書」の語源となったとのこと。健康茶として用いられる他、火にも強く防火壁として神社や家の周りにも植えられたという。
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車の通行の多い真っ直ぐな道を2Kmほど進むと、国道4号線に沿った旧道に「須賀川の一里塚」が残されていた。道の両側に綺麗な形を保っており、国の指定史跡となっている。日本橋から59番目の一里塚で、「江戸から須賀川六十里」といわれていたそうだ。
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一里塚を過ぎて、118号線に突き当たるが道路の中央分離帯で向こうに渡れず、左の国道4号線の交差点で渡り、右折して東北本線のガードを潜り、直ぐに左折して並木町に入って行く。1Kmほど進み、大町に入ると交差点の手前左に「勝誓寺(しょうせいじ)」がある。延文5年(1360)、長沼城主・新国上総守による建立である。
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勝誓寺の直ぐ先の交差点を渡ると、左側に「大町よってけ広場」と書かれた休憩ゾーンのような広場があり、奥のほうには東京オリンピックで銅メダルに輝きながらも、練習優先で婚約にまで干渉され、オーバーワークから腰椎のカリエスを抱えて失意の自殺を遂げた「円谷幸吉」の写真と足型、略歴が記されたのが飾られていた。「円谷幸吉」が須賀川市大町生まれであるのを始めて知った。
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進んで行くと、小さな十字路の片隅に「軒の栗庭園」と書かれた小広場があり、等窮(とうきゅう)坐像と芭蕉、曾良の立像が建っていた。元禄2年(1689)6月9日に芭蕉と曾良が等窮宅を訪れ滞在するがその時、「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」と詠んだ句にちなんで、軒の栗庭園と名付けられたのであろう。
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左折して進み、細いがカラータイルを貼った道に入ってNTTの敷地の裏側に行くと「軒の栗 可伸庵跡」がある。
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芭蕉は元禄2年陰暦4月22日に須賀川を訪れ相楽等窮宅に滞在し、俳人の可伸の庵を訪ね、傍らに大きな栗の木があるのを見て「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」の句を詠んだ。その句碑も配置されていた。
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さらに、須賀川市役所に進むと片隅に「芭蕉記念館」があり、芭蕉の句に因んだ掛け軸、扇子や芭蕉の遺品の旅の道具類が展示されていた。小さな記念館であるが、近傍の年配者の団体客で賑わっていた。街道に戻る途中にも、古い雰囲気の家が残されていた。
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須賀川の街を貫く道路は、道の両側に鉢植えの花が配置され、かわいい銅像も何種類も飾られ美しい。訪問する方も歓迎されている気分になる。
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本町の交差点を過ぎて進むと、左側に「あきない広場」というイベント等、市民相互の交流並びに産業の振興を図るためのスペースがあった。見ると、テーブルと椅子を並べ軽い食べ物を用意するなど何かの催しの準備中のようであった。
「あきない広場」を通り抜けて、裏通りに出ると「二階堂神社」があり、「須賀川城址」の石碑が建っていた。 今から420年前の天正17年(1589)6月、伊達政宗は、会津黒川城(若松城)城主芦名氏を滅ぼし、次に須賀川城も狙っていた。まさに戦国時代で、同年10月26日、伊達政宗は大軍を率いて須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側に本陣を構え、釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られた。ところが、前々から政宗に内通していた二階堂家重臣の守谷筑後守が、城本丸の風上にあった二階堂家の菩提寺・長禄寺に火を放ち、火はたちまち四方に飛び火し、町中が火の海と化し、須賀川城は火炎に包まれ、文治5年(1189)から400年の長きにわたり、南奥羽の雄として権勢を誇った二階堂家の須賀川城も遂に落城したのである。
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「あきない広場」まで戻り、今度は街道から右の小道に入って行き、「十念寺」に行く。浄土宗名越派の本山である下野大沢(現在の栃木県芳賀郡益子町)円通寺の末寺として、文禄元年(1592)、良岌善龍上人により開創された。もともと庶民信仰の報恩念仏道場として開初されたささやかな寺であったが、次第に興隆に向って寺運の展開を見るに至り、元禄2年(1689)には、芭蕉が「奥の細道」の旅で須賀川に滞在した際に当山に参拝し、その足跡を後世に残している。後の安政2年(1855)須賀川の女流俳人市原多代女(いちはらたよめ)により、「風流の はじめや奥の 田植え唄」の句碑が建てられた。
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十念寺の隣には、金徳寺(こんとくじ)がある。一遍上人の起こした時宗(じしゅう)のお寺で、本山は神奈川県藤沢市の遊行寺である。二階堂家城主、三千代姫の供養寺でもあり、二代目尾上松縁の墓 がある。 境内には一遍上人の銅像も見える。金徳寺を過ぎると、急な坂で須賀川に向って下って行く。
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坂道を下ると須賀川に架かる橋があるが、その手前でユーターンして「治部稲荷」を訪れる。小さな稲荷だが、前に横たわる治部稲荷坂の名前の由来となった神社である。二階堂氏の一族の治部大輔を祀った神社とのこと。
いよいよ須賀川を見晴橋で渡る。かわの両堤は整備され、桜が植えられている。桜の季節は見事であろうが、葉っぱの緑も清々しい。
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橋を渡ると、小高い山全体が公園となっていて、市民の憩いの場として整備されている。愛宕山と隣の五老山を結ぶ陸橋も自然に溶け込んで美しい。
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駐車場から続く急な階段を上ると「不動堂」があり、傍らには石仏も林立していた。さらに上って、反対方向に下りて行くと、赤い太鼓橋があり、「あやめ」を植えて八橋のように板橋が架けられ、桂由美さんデザインの鐘が吊り下げられていた。「恋人の聖地」と大書された表示板があり、二人で鐘を鳴らすのだという。
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翠ケ丘公園から街道に戻る途中に、市原多代女(いちはら・たよめ)の記念広場が造られていた。市原多代女は江戸後期の俳人で須賀川の富商市原寿綱の娘で17歳で分家を継ぎ、31歳のとき,婿に迎えた夫と死別する。家政と子供の教育の心労をいやすために俳諧を学び、48歳のとき江戸へ出て多くの俳友と交わり,『菅笠日記』を著す。
宮先町の交差点脇には、懐かしい手押し井戸ポンプがあり、押せばちゃんと水が出た。まだ現役である。
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須賀川の総鎮守である神炊館神社(おたきやじんじゃ)に向う。途中の参道には、古い造りの家がある。神炊館神社は全国でも唯一の社名で、御祭神である建美依米命(たけみよりめのみこと)が新米を炊いて神に感謝したと言う事蹟による。江戸時代になると朝廷より「諏訪大明神」として「正一位」の位を授かり、更に広く人々の崇敬を集め、「お諏訪さま」の名のもと、多くの参詣を受ける神社となる。俳聖、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中にを参拝したのもこの頃で、「諏訪大明神」が神号として用いられていたが、明治11年になり、現在の社名である「神炊館神社」に復称し、今に至る。参道の燈籠が壮観である。
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参道には、真新しい石碑が建っていた。俳聖、松尾芭蕉が元禄時代の旧暦4月28日参拝したのを記念して、平成18年12月に建立したものである。
神炊館神社に対して道路を挟み北側に位置する普應寺(ふおうじ)を訪れた。北朝観應元年(1350)中国宋朝禅・幻住派の巨匠古先印元禅師を招いて白河城主結城親朝が父宗廣、祖父祐廣、一族の菩提を弔うため市内稲村に開創した。
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街道に復帰して400mほど進むと旧街道は右に別れ、急坂を下って行く。岩瀬の渡し坂である。坂道の途中には説明板が立っていて「江戸時代、須賀川宿の北の黒門をくぐると、道は急な下り坂になり官道・東山道の岩瀬の渡しの船着場(岩瀬川・現釈迦堂川)があった」と書かれていた。
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坂を下った民家の前には、歌碑が建っていた。「岩瀬の渡し 水越へて みつまき山に 雲ぞかかれる」(詠み人知らず、万葉集)の歌とのこと。 なお、みつまき山は岩瀬の森のことだそうだ。釈迦堂川の堤防に上ると、「中宿橋」が見える。堤防を歩いて、この橋を渡って進む。
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中宿橋と橋から見た川面である。数日前からの雨で水量は増えているようだ。
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橋を渡って右折すると、直ぐに鎌足神社の急な階段が見えてくる。藤原鎌足の子孫の波多野筑後守が建久元年(1190)に鎌足の霊を奉斎したという。疲れた足を励ましながらようやく境内に達する。藤原鎌足を祀った神社で、ここは古くからの歌枕の「岩瀬の森」として有名で、紀貫之も「陸奥や岩瀬森の茂る日に一声くらき初時鳥(ほととぎす)」と詠んでいる。紀貫之は陸奥を訪れた記録は無く、都から岩瀬の森を想像して詠んだのであろう。
なお、芭蕉の時代には岩瀬の森も往時の面影はなく、歌枕ではなくなっていたようで、芭蕉が訪れた記録も残されていない。
笠原工業の工場で旧街道は消滅しているため、工場の塀沿いに進むと、上人坦地下歩道の入口が見えてくる。自転車は降りて通るように注意書きがあるが、高校生が乗ったまま地下道のスロープを駆け上がってきた。
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