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2012.05.08

日詰から盛岡・・・(旧奥州街道)

日詰から盛岡の歩行ルート

天気予報によれば、今日は午後から俄か雨になるとのこと。
午前中に可能な限り距離を稼ぎたいと思うが、ホテルの朝食は6:45からで、思うに任せない。
ともかく、ホテルの窓から盛岡の駅前付近を撮影してみた。流石に大きな街である。
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朝食を済ませ、盛岡駅に向かい7:31の日詰行きの電車に乗り紫波中央駅を降りると7:55であった。駅で降りる乗客は、ほとんどが通学の高校生である。
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昨日、駅に向かったのと逆にたどり、紫波中央駅入り口の交差点で左折すると、勝源寺がある。 勝源寺は慶長16年(1611)に開基した曹洞宗の寺院で、山門(楼門)は一間一戸の楼門で屋根が入母屋瓦葺きとなっている。本堂裏にあるカシワは「逆さカシワ」と呼ばれ、高さ20mだが直立しておらず、地面際で4本に枝分かれして地面を這うようにして生えている。推定年齢300年、枝張東西21.8m、南北27.7m、根元周囲5m、樹高12.2mで国指定天然記念物である。
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カシワは、概ね直立する木であるが、ここのような樹形は極めて珍しい。
先に進むと、城山公園の標識がある。城山公園は、町のほぼ中心にある小高い丘で、中世期には斯波氏の居城高水寺城が築かれたところである。
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国道から城山公園に向かう交差点で、左前方の民家の庭先に「二日町一里塚」の標柱が立っていた。江戸から135番目の一里塚である。
また、城山方向に向かって左側に大元帥陛下御幸新道と書かれた石碑が立っていた。昭和3年陸軍特別大演習の時に整備された道とのことである。
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300mほど進み、城山公園と反対方向に左折して進む。桜の花が終わり、リンゴの花が咲き始めている。しばらくは、のどかな道が続く。二日町の集落である。道路右側に旧家の風格の家が建っていた。この付近には、日詰長岡通代官所役屋(御仮屋)」があり、本陣としても利用されたという。
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進むと、右側に高水寺がある。平安時代の神護景雲2年(768)に称徳天皇によって創建された寺で、もとは一山40余坊が栄えていたといわれるが、戦火などによって衰え、後に頼朝軍が陣ヶ岡(現蜂神社付近)に布陣した時は16坊のみであったという。昭和35年(1960)に岩手県指定有形文化財に指定された「木造十一面観音立像」が保存されている。藤原末期の作と推定されるとのこと。階段を上ると、白壁の観音堂が建っていて、その奥の建物には高水寺の扁額が架かっているが、斯波氏が滅びて後、高水寺は他の5つの寺院とともに盛岡に移されたので、実際は片山寺の資材を使って作った観音堂とのことである。
siwa_13.jpgsiwa_14.jpgsiwa_15.jpg高水寺の隣には、走湯神社がある。高水寺の鎮守として、源頼朝によって文治5年(1189)に走湯権現を勧請した。走湯権現の御神体は熱海温泉の湧口の走湯(はしりゆ)で、ここの走湯神社は、もとは走湯山高水寺とか大槻観音ともよんで、神仏習合の神社であったが、慶応4年5月16日大政官達により神号、神体から仏教色を一掃することになり、走湯権現と称していたのを走湯神社と改称し、御祭神を天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に差し替えたとのこと。
走湯神社を出て進むと、木宮神社(きのみやじんじゃ)がある。桓武天皇の延暦年間(782-806)に坂上田村麻呂、蝦夷征伐東奥開拓のため下向され、山地に志和城を築き、城内の鎮守として伊豆国田方郡熱海鎮座の来官神社を御分霊勧請したと伝えられる。境内の欅の巨木は、紫波町指定天然記念物である。
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街道は丁字路に突き当たり、左折して国道4号線の方向に進む。国道にぶつかる100m手前で、右折して斜めに国道に向かい、古館駅入り口の交差点の手前で、再度国道から離れて右前方の静かな向畑の集落に進んで行く。
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進むと、蟠龍寺がある。承和元年(834)にもと高水寺第五代の伝法子法宥阿闍梨が祝融山(後改めて和融山と称す)をこの地に創立したが、文治年間(1185?90)に兵火で荒廃した。 1654年に紫波町栃内伝達和尚が北上川で流され、とどが淵の渦に巻き込まれたが、老人に助けられた。このとき、小さな社の中に老人に似た木像があり額には「土倉稲荷明神」とあったので、和尚は蟠龍寺を建立し、祀ったという。 なお、蟠龍はとぐろを巻いた龍を意味する。
先に進むと、「月の輪」の看板を掲げた、横澤酒造店がある。酒造業を創業したのは1886年で、新酒鑑評会で金賞の栄誉に輝く「大吟醸月の輪」を始めとして種々の日本酒を製造販売している。
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酒造・月の輪を過ぎて、五内川橋を渡り国道4号線に合流する。その先で、岩崎川に架かる三枚橋で紫波町は終わり、これより先は紫波郡矢巾町となる。
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真っ直ぐに北上する国道4号線の歩行が相当な区間続くが、西の方に見える山並みが盛岡に近づきつつあることを示している。
国道の右側には、徳田農協発祥の地の新しい石碑も立っていた。大正11年6月21日に谷村千代太氏が有志とともに徳田村産業組合を創設したことが、最初の始まりとのことである。
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次には「間野々(あいのの)一里塚」跡の標柱と看板か立っていた。江戸から136番目の一里塚である。1Kmほど先の信号機のある交差点の右方に徳田神社があり、境内には水準点もあったが、神社の来歴は不明である。
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1Kmほど進むと「徳丹城跡」の石碑がある。律令時代の政庁跡である。
征夷大将軍坂上田村麻呂は、延暦21年(802)に北上川中流域に、胆沢城(奥州市水沢)を築き、翌年その北方に志波城(盛岡)が築いたが、水害を理由に弘仁2年(811)、後任の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の建議により南方に移転した城柵である。
造営されたものの9世紀中頃には放棄されており、その後城柵は造営されていないことから律令体制最後の城柵と言われている。
外郭はおよそ、355m四方で、そのなかの政庁は77m四方の板塀で囲まれていた。胆沢城に比べれば規模は小さいが、それでも広大な敷地と言える。
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徳丹城の広大な敷地の北の部分に徳田小学校があり、徳丹城は国指定史跡であることから2020年までに小学校を移転する計画である。
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進むと、矢幅駅入り口の交差点に差し掛かった。通り過ぎて進むと、高田藤澤鎮守の稲荷神社が左に現れた。由来記によると、康平5年(1062)前九年の役の頃、征夷大将軍源頼義が、蝦夷征伐の戦場跡であったこの地・狄森(えぞもり)に鎮守のために熊野社を勧請した。 
元亀3年(1572)の頃、高田氏が屋敷内に棲む白狐を信仰していたが、しばらくして狐は北上川に近い石突に引っ越した。狐は五穀豊穣の種物の神である稲荷神の召使であるので、周辺の人々により稲荷社として祀られ崇拝されるようになったが、水害を避けるべく宝永4年(1707)に石突より当地へ遷宮したとのこと。
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境内には、大きな石塔が幾つか立てられていた。
そして、その先で見前川(みるまえがわ)を渡る。橋の名前も見前橋である。
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両側にお店も立ち並び賑やかな国道を3kmほどひたすら歩き、盛岡市三本柳から津志田に入ると、左側に大黒神社(右側)と八坂神社(左側)がある。由緒によると大国神社は文化7年(1810)盛岡藩主南部利敬公が津志田の総鎮守として創建したもので、御祭神は大穴牟遅之命(おおなむちのみこと)で、八坂社は素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祀る、とある。当時は遊郭の傍で賑わいを見せていたが、今は住宅地の一角に静かな佇まいを見せる神社に変貌している。
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大黒神社を過ぎて1Kmほど進むと、川久保の分岐点でようやく長い国道歩きから離れられる。
分岐点に明治天皇小次遺跡があるとのことであったが、見当たらなかった。
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分岐点から進むと、右に日蓮正宗の感恩寺がある。この寺は、嘉永5年(1852)10月12日に下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)、の遺児英穏院日淳贈上人が願主となり、相馬大作事件で処刑された父の菩提を弔うために建立した寺で、南部藩より建立を特別に許可されたものである。
相馬大作事件とは、盛岡藩士・下斗米秀之進を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた弘前藩主・津軽寧親(つがるやすちか)を襲った暗殺未遂事件で、後に幕府の役人に捕らえられ小塚原で獄門の刑となった事件である。相馬大作は、捕縛を逃れて江戸市中に潜むために名乗った名前である。
そして、道路を隔てた反対側には、小鷹刑場跡がある。江戸時代の300年にわたり、南部藩が小鷹の御仕置場と称して罪人を処刑した場所である。
天保7年(1837)、法華寺観明院日誠上人が、刑場で断罪に処せられた亡霊の供養鎮魂のため、藩庁に願い出て私財を投じて建立したお題目の供養塔が立っている。
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仙北町駅が近づいてくると、歩道も綺麗に整備されていて、盛岡が近づいたことを感じさせる。
そして、仙北町駅入口の交差点を通過する。この仙北町の駅名は、南部藩主第27代の南部利直公(1576?1632)が出羽仙北郡(現秋田県仙北郡)からの移住者を居住させたのが始まりである。城下町の中心部から川を挟んで独立している仙北町は、奥州街道や山形街道の出入り口の要所として、また北上川の舟運(しゅううん)による物資の交流の中心として活況を呈していたと言われている。
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仙北町駅口の信号を過ぎると、右側に長松寺がある。創建は不明で当初浄土宗で長昌寺と称していた。本尊は阿弥陀如来の立木像で慈覚大師の作と伝えられ、今も現有している。寛永年間(1624?1644)に宗旨を曹洞宗に改め長松寺と改称されたようである。
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長松寺の墓地の脇を通り北上川の河岸に進むと、高屋稲荷神社がある。宝永5年(1708)、南部家第32代南部利幹公の時代に仙北町、川原町を結ぶ新山舟橋、旧明治橋に通じる沿道に五穀豊穣、城下の往来者等の旅路、舟路の安全の神として伏見稲荷より勧請したといわれている。江戸時代は、北上川舟運の水主の信仰が厚く手洗い石等が奉納された。
神社としては小さいが、横にそびえる保存樹の「ケヤキ」が見事である。
そして、北上川の川岸に出て左に進み、明治橋を渡る。雨で増水して少し濁った水が、とうとうと流れている。江戸期なら川止めであろうか。
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明治橋を渡って、直ぐに右折して、川に並行した道を進むと、明治橋の記念碑が立っていた。明治6年造とも刻まれている。
また、ここは、盛岡市指定史跡の舟橋跡でもある。案内板によると「藩政時代、ここは盛岡城下の入口に位置し、北上川舟運の起点であって、人が集まり物資の流通も多く、奥州道中筋の要所であった。北上川は、この盛岡で雫石川、中津川、簗川と合流し、大河の様相を呈し、架橋が難しく当初は舟渡しであったが、延宝8年(1680)頃にこの場所に舟橋が架設された。舟橋は両岸に巨大な親柱と中島の大黒柱を立て、20艘ほどの小舟を鉄鎖で係留し、その上に長さ2間半から3間(約5?6m)ほどの敷板を並べて人馬が往来できるようにしたもので、増水時には敷板を撤収し、舟を両岸に引き揚げて、「川止め」とした。舟橋は大河に架橋できない当時の知恵であり、明治7年(1874)に木橋の明治橋が出来るまで存続したと記されている。
また、明治橋記念碑から道路を跨いだ反対側には、盛岡市指定文化建造物の御蔵がある。特徴としては,屋根構造にみられ、野地板を二重構造にして、中間に空気層を設け断熱の工夫をしており、米蔵としての目的に適したものとなっている。また,床組構造も床を高くして防湿のための換気のしやすさを考慮したものである。
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明治橋北の信号まで引き返し、今度は大慈寺町の方に進む。直ぐ右に円光寺があったので、山門を潜った。寛文年間(1661?72)に創建された浄土宗の寺院で盛岡三十三観音霊場第十一番となっている。本堂は盛岡市の保存建造物に指定され、案内板によると「本堂は、元禄年間(1688?1703)に再建されたといわれている。本堂正面の夫婦カツラは推定樹齢300年で雌木(本堂右)は目通り幹囲5.9m、樹高約22m、雄木(本堂左)は目通り幹囲5.4m、樹高約20mで盛岡市指定天然記念物に指定されている。
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本堂に向かって左の墓地には、盛岡市出身の内閣総理大臣「米内光政」の墓碑がある。
円光寺を後にして進み、丁字路で右折すると、鉈屋町(なたやちょう)で江戸時代の町並みを彷彿とさせる趣きのある古風な家屋が立ち並んでいる。保存に気を配っていることであろう。
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200mほど進むと、右側に大慈清水と書かれた水場がある。 環境省選定「平成の名水百選」にも選ばれた水である。天保4年に記された「盛岡砂子」に記述があることから、これらの井戸は、江戸時代から地域の人々の生活を支えていたとされる。明治8年に組織された用水組合は現在も活動をつづけており、伝統的なルールが守られているとのこと。少しいただいて飲んだら美味しかったので、ペットボトルを満たさせてもらった。
かつて名水とされた水も、今では「生では飲まないように」となっているところが多い中で、貴重な存在である。
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大慈清水からさらに進むと、消防第二分団の櫓が見えてくる。ここでは櫓も町の雰囲気を壊さないように気を配ったものとなっている。その第二分団の建家の手前にあるのが、岩手川の社名で酒造を行なっていた「浜藤の酒蔵」と呼ばれる建物であったが、2006年2月27日、岩手川(浜藤)は、自己破産申告をし134年の歴史を閉じることとなってしまった。
消防第二分団の建物の前で左折して進むと、酒造の「あさ開(あさびらき)」があり、酒造のみならずレストランも営業していた。安定経営のためには、多少の多角化も必要なのであろう。
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「あさ開」の前には、永泉寺がある。天正3年(1575)に開基した曹洞宗の寺院で、盛岡三十三観音巡りの第7番札所でもある。日本最初の溶鉱炉を造った大島高任、政治家田子一民などの墓がある。
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永泉寺を後にして、「らかん児童公園」に進む。ここには、十六羅漢と五智如来の合計21体の石仏が鎮座している。江戸時代、盛岡藩の四大飢饉といわれる元禄・宝暦・天明・天保の大凶作によって、領内には多くの餓死者がでたが、祗陀寺14世天然和尚は、その悲惨な餓死者を供養するために、十六羅漢と五智如来の合計21体の石仏建立を発願し、領内から浄財の喜捨を募って、天保8年(1837)工事に着手した。そして、起工から13年目の嘉永2年(1849)に発願した天然和尚の孫弟子にあたる長松寺13世泰恩和尚のときに、ようやく竣工にこぎつけた。しかし,宗龍寺は明治維新後に廃寺となり、明治17年(1884)の大火で寺院も焼失して、現在は21体の石仏群を残す市の公園となっているのである。
siwa_63.jpgsiwa_64.jpgsiwa_65.jpg「らかん児童公園」から永泉寺まで引き返し、次は大慈寺に向かう。大慈寺の創建は寛文13年(1673)で、明治17年(1884)の火災により伽藍の大部分が焼失したが、盛岡市出身の原敬の菩提寺という事もあり山門など堂宇が再建された。山門(楼門)は明治38年(1905)に建てられた竜宮門と呼ばれる形式の楼門で、下層が土壁で端部を曲線で仕上げ、中国など大陸でよく見られる形式である。大慈寺山門は盛岡市の保存建造物に指定され、境内を含む周囲一帯は環境保護地区となっていて寺町の雰囲気を今に伝えている。また、大正10年に東京駅で暗殺された原敬はここに埋葬され、妻の浅とともに眠っている。
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大慈寺を後にして、盛岡城警備惣門遺蹟碑に向かう。遺蹟碑の前には、木津屋本店の古いお店の建物がある。天保5年(1834)に建てられ、旧状が良く保存されている事から盛岡市の代表的な町屋建築として岩手県指定有形文化財となっている。
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直進して丁字路で右折して、中津川に沿うようにして、北上すると、左に旧九十銀行本店本館として、明治43年(1910)12月に竣工したビルがある。我が国の近代建築史上重要な建造物で、国重要文化財に指定され、現在は「啄木・賢治青春館」として利用されている。
その先の旧盛岡銀行である岩手銀行中ノ橋支店は、 市街地の中心部に位置し中津川・中の橋と一体となって盛岡の代表的な景観を形成している。 東京駅の設計者である葛西萬司(1863?1942 盛岡市出身)が設計しており、 外観が東京駅によく似ている。明治44年に建てられたもので、日没後はライトアップされ、その美しい輪郭が浮かび上がる。 宮沢賢治もこの建物が気に入っていたようで 「岩手公園」という詩の最後に、
弧光燈にめくるめき 羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり まちはしづかにたそがるる

と記している。
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岩手銀行の斜め前には、盛岡信用金庫が建っている。昭和2年に建てられたもので、 旧盛岡銀行と同じで、 東京駅の設計者である葛西萬司(1863?1919 平泉町生まれ)が設計している。 1階から2階まで立ち上がる6本の太い円柱、花崗岩に施した石彫りのパターン、 内部のステンドグラスなどが重厚感を与え、昭和初期のモダニズムを表現している。
その先で道路は、左に曲がり緩やかにカーブして続いており、道のカーブに沿うように茣蓙九(ござ九)の商店が建っている。茣蓙九は文化13年(1816)に創業した紺屋町にある商家で、盛岡市を代表とする町屋建築である。様々な建物が増築された為、時代背景による工法や素材などバラバラだが、格子窓や隣家との境にある土壁、中津川沿いに連なる土蔵群など印象に残る風景を醸し出している。盛岡市の保存建造物に指定されている。
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カーブを過ぎて進むと、菊の司の酒造倉庫があり、その先のRCマンションの前に、一里塚を示す石碑がある。
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一里塚の石碑のRCマンションを過ぎて、丁字路の突き当たり、左折すると、お餅・赤飯の看板を掲げた丸竹がある。初代(大平竹松)が、盛岡城撤去の2年前の明治5年(1872)に城内の内丸の一角に、その(丸)と竹松の(竹)を結びつけて「丸竹」の暖簾を掲げたのが始まりとのこと。
初代は、日本古来の餅を世に広げようと、独特な「黒蜜」と「きなこ」を混ぜて、元祖「あべ川餅」を考案。また岩手山より雪を持ち帰り、かき氷として「白雪」と名づけて提供(明治9年)したとの伝承がある。そして、いよいよ「上の橋(かみのはし)」で、中津川を渡る。
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雨続きにもかかわらず、比較的きれいな水が流れていた。
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上の橋を渡って、本町通りの交差点まで進み、そこで左折する。
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本町通りの交差点から南に向かって進み、左手に盛岡城の遺構を見ながら岩手公園下で、右折して盛岡駅に向かう。
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駅への道をひたすら歩いて、開運橋に到達すると駅はもうすぐである。
ここで、天気予報に違わず雨が降りだしたが、駅の近くまで来ていたのが幸運であった。
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北上川の川面を見ながら進み、ようやく盛岡駅に到着した。14時40分であった。


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