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2012.05.22

盛岡から渋民・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計39,623(25.8Km)

盛岡から渋民の歩行ルート

昨日は金環日食を見て、今日から2泊して3日の歩行を計画して、「はやて13号」で盛岡に9:22分に到着した。盛岡駅を9:30分に出発して歩き始めたが、今日の開運橋の下を流れる北上川の水は、青く澄んでいた。開運橋は、明治23年の盛岡駅開業に伴い、当時の知事石井省一郎が、 私費で完成させたもので、翌年市が買収するまでは、通行1回1銭の橋銭が取られていた。 現在のアーチ型の鉄橋は昭和28年に架けられたものである。
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開運橋から南部氏の居城であった、盛岡城の跡地の盛岡城址公園に向かう。
公園下の交差点から坂道を上って行くと、本丸跡には南部家第42代当主の南部利祥(なんぶとしなが)公の騎乗銅像の台座のみが残っている。日露戦争が勃発し明治38年(1905)2月に中尉に進級し、近衛騎兵第一中隊第三小隊の小隊長を命じられ、最前線で指揮を執ったが、3月4日井口嶺の戦いで銃弾を浴び享年23で戦死した。後日、旧藩士らにより銅像が建立されたが、太平洋戦争で金属供出で撤去され台座のみ残ることとなった。
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本丸と二の丸の間には空堀があり、屋根のある御廊下橋が架かっていたが、現在では赤い橋が架けられている。二の丸に進むと、石川啄木生誕70年を記念して建立したの歌碑が立っている。歌碑の文字は金田一京助博士の書とのこと。
少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出し、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城(こずかたじょう)二の丸がこの地だったのである。
不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心  (一握の砂)
なお、不来方(こずかた)は盛岡市を指す呼び名で、 南部氏による開府当時、居城名自体も「不来方城」であり、この時、都市名として「盛岡」という地名は存在しなかった。
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二の丸から三の丸へは、緩やかな下りで、三ノ丸から淡路丸・御台所屋敷に抜ける門跡の脇には、天然の巨石が地表に露出していて、それを避けるかのように石垣が組まれている。
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三の丸からまた、緩やかな坂を下って、右に進むと盛岡藩の初代信直の他、藩祖光行、二代利直、十一代利敬の4人の藩主が祀られている桜神社がある。
本殿背後には大きな奇岩が鎮座し、案内板によると「盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ2丈ばかり突出した大石が出てきて、この場所が城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後広く信仰され、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されている」とある。
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桜神社を最後に、盛岡城址公園を後にして進むと、元南部藩の家老であった北家の屋敷跡に盛岡地方裁判所があり、その前庭には盛岡のお国自慢の石割桜がある。約370年前落雷によって石が割れ、その割れ目に桜の種が落ち込んで生育したといい、また、一説には石のひびに桜の種が落ちこんで生育につれ石を割ったという。石は花崗岩で周囲が21m、桜はシロヒガン桜(エドヒガン)で樹齢370~380年と推定される。現在幹の周囲は4.6m、樹高10.8mである。
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次に、五百羅漢で有名な報恩寺に向かった。この寺は、貞治元年(1362)南部守行の開基、通山長徹の開山により、応永元年(1394)に南部守行によって陸奥国三戸郡に創建されたと伝えられる。慶長6年(1601)南部家27代南部利直の時、盛岡に移るに当たりこの寺も現在地に移された。荘厳な山門を持つ曹洞宗の寺院である。
morioka_13.jpg広大な座禅堂には五百羅漢(ごひゃくらかん)があり、報恩寺代17世和尚が、 大願主として造立、4年後に完成したことが分かっている。木彫りで499体が現存し、昭和41年(1966)に盛岡市指定文化財となった。石造りで屋外の五百羅漢は、いくつか見た経験があるが、屋内で木造は初めてであった。
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報恩寺から、岩手県の名前の由来となったと言われる「鬼の手形石」を見るため、三石神社に向かった。名刹のお寺が多い中で閑散とした印象の神社である。
伝説によると、昔この地方に住む羅刹(らせつ)という鬼が、住民を悩まし、旅人を脅していたので、人々が三ツ石神社お祈りをしたところ、鬼は捕らえられ境内にある大きな石に縛り付けられた。鬼は「もう二度と悪さはしないし、二度とこの里にやってこない」と誓ったので、約束の印として、三ツ石に手形を押させて逃がしてやった。この岩に手形を押したことから県名の岩手の名が生まれ、この地方を「不来方(こずかた)」と呼ばれるようになったとのこと。
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福岡市街で、だいぶ時間を費やした。11時になり、ようやく街道に復帰して進む。しかし、旧街道は、賑やかで華やかな通りとは趣を異にし、多少寂れた印象を受ける。400mほど進むと、左側に四ツ谷地蔵がある。「田中の地蔵さん」の名で親しまれている四ツ家の地蔵尊は,5代藩主南部行信の母堂の遺骸を荼毘(だび)に付した火屋(ほや)の跡に建てられたもので,以前は東禅寺門前の田圃の中にあったことに由来する。現在地に遷座されたのは,大正元年(1912)である。
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四ツ谷地蔵を過ぎると、直ぐに「山田線」の踏切を渡る。山田線は盛岡から宮古駅を経由し釜石駅までを結ぶ東JR東日本の鉄道路線である。
NHK前で盛岡バイパスを地下通路で渡り、市道上田深沢線を進むと緑が丘地区で、ショッピングセンターの「アネックスカワトク」の前に上田一里塚がある。進行方向に向かって左側のみだが、立派に保存されている。また、ところどころに街道の名残の形の良い松の木も残っていた。
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左手方向に「岩手山」が見えるようになってきた。東黒石野地区に入って進み、左側のフェンスの切れ目から入って、松園観音の方に向かう。
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急な上り坂の途中に、墓地を併設した松園観音と呼ばれているお堂がある。
壱万人で観音様を刻みましょうと書かれた、ポスター様の紙が貼られており、お堂の側壁にまで仏像が並んでいた。
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松園観音前の坂を上り詰めて、下りに差し掛かると「県立博物館」があり、その駐車場に「明治天皇駐蹕碑」が建っていた。博物館へのアプローチ階段も綺麗で入って行きたい気分にさせられるが、時間に余裕がなく先に進む。
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県立博物館を過ぎて、進むと「小野松一里塚」がある。塚樹は失われているが、道の両側に塚が残っている。
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一里塚を過ぎると直ぐに、四十四田ダムに架かる橋があるが、手前で右の細い道路方に進む。
小野松観世音の小さなお堂があり、道は右にカーブして進んで行く。少し先に「おの松かんのん清水」と石碑が立つ水場があり、冷たい水が湧き出していた。かつては、旅人の喉を潤したことであろう。
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このあたりから、四十四田ダムの湖面が望まれるようになり、岩手山も姿を見せ続ける歩行が続くことになる。
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進んで観音橋を渡り、県道16号線にぶつかり、左折して延々と続く16号線を進んで行くと赤く塗られた「岩姫橋」がある。この橋は渡らず、手前で右折して県道16号線と別れ進む。1Kmほど進むと「岩洞第二発電所」がある。
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発電所を過ぎると、ダムの貯水量が多いと湖面に飲み込まれてしまう笹平一里塚がある。今年は雨が多く、貯水量が多く一里塚には近づけないと思っていたが、貯水量にかかわらず道路工事のため、工事中は立ち寄れないとの記述がなされた紙が標柱に貼られていた。
この辺りから、北上川から離れて行くが、門前寺地区に入ると、田植えのために水を張られた田圃が続き、「岩手山」が何にも遮られず見えるようになった。
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門前寺地区を過ぎると次は渋民地区である。渋民バイパスをくぐって進むと、渋民一里塚跡がある。庭の土を盛り上げて、多少なりとも雰囲気を出す工夫が見られた。
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国道4号線に合流すると、直ぐに「愛宕清水」があり、今も冷たい水が湧き出していた。
その先には、愛宕神社の鳥居が建っていた。
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愛宕清水から500mほど進むと、啄木記念館がある。東京からは555Kmである。
石川啄木の人となり、文学についての顕彰と資料収集、保存、情報提供を目的に昭和45年(1970)に開館をし、その後、石川啄木生誕100年を機に新記念館建設運動が高まり、玉山村民、全国の啄木愛好者、岩手県、玉山村の協力により、昭和61年(1986)5月に現在の新館がオープンしたとのこと。入場料を払って入ると、啄木の人形が迎えてくれる。中には、啄木の生い立ち記や彼の歌が所狭しと展示されていた。
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記念館の横の庭には、啄木が代用教員として渋民小学校で教鞭をとっていたのを題材とした銅像のほか、当時の小学校の建物、啄木が間借りしていた農家などが移設されていた。
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啄木記念館を後にして進むと、道路の右側に大きな商業施設のイオン・スーパーセンターがあった。さらに、進むとコーヒーショップのよく目立つ看板が見えてきた。
今日の歩行はここまでである。この左に今日の宿舎の「竹乃家」がある。
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