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2012.05.07

花巻から日詰・・・(旧奥州街道)

花巻から日詰(紫波中央駅まで)の歩行ルート

4月になっても、天候不順の日が多く、5月の連休は避けたいと思っているうちに日が経ち、今日の歩行となった。なんと、今回は、万歩計まで忘れてしまった。
北上駅で新幹線から東北本線に乗り換え、花巻駅から歩き始めたのは、9時半近くであった。
花巻駅の駅前広場には、風車のように風で回るモニュメントがたくさん立てられていた。
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駅前広場から右に坂道を下って行くと、坂本町の交差点で、その左に瑞興寺がある。
応永4年(1397)、この地を支配していた稗貫氏の開基と伝えられ、かつて、鳥ケ谷崎城(後の花巻城)の地に建っていたが、天正19年(1591)にこの地方が南部信直の所領となり、家臣の北秀愛(きたひでちか)が鳥谷ヶ崎城を「花巻城」と改め整備したとき、現在地に移設されたものである。
坂本町の交差点から北に向かうと、この辺りが町の中心地で、江戸期には本陣、旅籠等がならび、盛岡藩、八戸藩、松前藩主一行が宿泊した場所である。
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花巻信金が左にある、交差点で左に折れ、直ぐに左折して大通りより一本左の道を進む。
これが街の枡形である。少し進むと、左に「花巻城下町発祥の地、四日町、一日市町」と書かれた標柱が立っていて、奥まったところに「明治天皇御聖跡碑」が立っていた。
説明板によると明治天皇は、明治9年に当地を訪れ渡辺宅に宿泊され、明治14年にも再び訪れられ伊藤宅に宿泊されたとのことである。
直ぐに道は丁字路にぶつかり右折して大通りにでると、古い家屋が一軒残っていた。
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北進して、四日町三丁目の交差点で右折して、国道4号線をぶつかって左折する。直ぐに枇杷沢川(びわさわがわ)を渡る。北上川に注ぐ川であり、上流には水辺公園が整備されているとのこと。
枇杷沢川の直ぐ先には、釜石線の高架線路があり、ガードを潜って進む。
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さらに進むと、瀬川にかかる瀬川橋とその先に釜石自動車道が見えてくる。下の右の写真は、瀬川の上流方向であるが、昨日までの雨で濁っている。この川も下流で北上川に合流する。
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右の方から花巻バイパスが合流すると、右手に広大な花巻空港の始まりである。
国道4号線は空港に沿うように北上していて、1Kmほど進んだ交差点の左に「照見地蔵」が立っている。出羽三山零場、羽黒山の分霊を奉載し、交通安全加護を祈願し、かねて事故により物故されたみ霊の冥福を祈念して昭和41年(1966)に着手して3年の月日を経て建立された旨説明板に書かれていた。また、台塔には、交通事故犠牲者の過去帳も奉納されているとのこと。
右の空港側を見ると、花巻市交流会館の建物が見える。以前は旅客ターミナルビルであったのが、新ターミナルビルが平成21年(2009)に落成したのにともない交流会館として利用しているのである。社会人になってまだ数年のころ、このビルより羽田行きの飛行機を利用したのを思い出す。
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空港の管制塔のあるビルは、気象庁の花巻空港出張所も同居している。フェンスの間から、2500mの滑走路を覗いてみた。発着本数は、極めて少ない感じで眺めてる間には、発着は見られなかった。新幹線の利用と、県南地域では仙台空港の利用の方が便数も多く便利であり、厳しい運行状態となっているようだ。
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空港を右に見ながら進むが、流石に2500mもの滑走路の空港は、通り過ぎるのに骨が折れる。
左側に林テレンプという会社で、タイルのモザイクでこの地方で有名な鹿踊りを表現した壁が現れた。自動車の内外装の部品を製造している会社とのことだが、なかない良い選択である。
そして、空港も終わりに近づくと、左に「新提」という大きな溜池が見えてきた。
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溜池の直ぐ脇には、油沢川の名の小さな流れがあり、ここの「花巻空港駅口」交差点で、左折するとJR東北本線の花巻空港駅である。大正11年(1922)に二枚橋信号所ができ、昭和7年(1932)に駅に昇格して二枚橋駅となり、昭和63年(1988)に花巻空港駅に改称された駅である。
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花巻空港駅口の交差点には、県立花巻農業高等学校の大きな案内標識がある。この高校は宮沢賢治が教諭として勤務した花巻農学校の後身に当たる学校としても知られているそうである。
進むと江曽地区となり、少し先に区画整理の碑と石塔が立っていた。碑文によると、この江曽部落は、平安中期の紀元1469年の計画移民地区で紀元1912年(建長3年:1251)には、大和国高市郡より藤原源太夫弘長が、ここ江曽館に居住し開発したと伝えられている。
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真っ直ぐに進む国道4号線を歩いて行くと、右側に江曽一里塚が残っていた。おそらく左側は国道4号線の敷設とともに消え去ったのであろうが、片方だけであるが保存状態は良好である。そして、その脇には、「明治天皇江曽御小休所」の石碑が立っていた。
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次には、国道の左側に「小森林(小森)館跡」の説明板が立っていた。説明書きによれば、館跡は、中世に稗貫郡を統治した稗貫氏の家臣・小森林氏の居館跡と伝えられる。小森林氏が、いつ頃からこの館に居住したかは不明であるが、永享7年(1435)の和賀地方の兵乱の記述の古文書には、小森治部少輔の参戦の記述があり、この頃には居住していたと考えられる。
また、館跡の規模は。東西・南北ともに400mで、現在確認できる稗貫氏家臣の館跡の中では最大の面積を有していることから、小森林氏の勢力が強大なものであったことが伺われるとある。
なお、稗貫氏は時勢に疎く天正18年(1590)の小田原の役に参陣せず、所領を没収されて滅亡した。この時小森林氏も滅亡したものとみられ、翌年から稗貫地方は南部氏が統治することとなった。
小森林氏の居館跡の北の端には、逆ヒバ(さかさヒバ)がある。伝説によると、今から1200年ほど前に、弘法大師が諸国を巡業の折、この地に立ち寄り、湧き水でのどを潤そうとして休憩し、その際、地面に挿した杖が根付いたのが逆ヒバといわれ、杖はそのまま根を張って大きくなったといわれている。
この逆ヒバは、植物名をクロベやクロビ、またはネズコと呼ばれ、これは心材が黒いヒノキ科の一種としての意味からであるという。根本の直径は2mあり、幹の周囲が4.75mとのこと。
脇には、昭和59年に再建された新しい観世音の石仏が立っていた。元々は小森林の館の守りとしての観世音が建っていたようである。なお、逆ヒバの根本付近からの湧き水は、近年の環境変化のためか、枯れつつあるようだ。
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逆ヒバを過ぎると直ぐに、滝池川があり、滝沢橋で渡る。続いて耳取橋で、流れる川の名も耳取川である。この辺りは、本当に川が多い。2本の川は、どちらも似たような川に見えるが、耳取川は一級河川である。川の名前は、阿倍軍が源氏軍に敗れ、阿倍の兵士の耳が集められたところとの説があるが、ハッキリしない。
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耳取橋を渡ると、向こうに石鳥谷バイパス南口の信号が見えてきて、ここで街道は右に国道4号線から別れて進む。
少し先に「八幡小学校」が見えてくる。明治6年開校の歴史を持つ小学校である。
学校の少し先で街道に面して、八幡村役場農協事務所跡の新しい碑が立っている。「光陰は百代の過客なり」との題名で重圧に耐えた藩政時代の八幡村から現在までの歴史が刻まれている。
明治22年(1889)に近隣の村が合併して八幡村となり、昭和30年(1955)には1町3村が合併して石鳥谷町となる。さらに、平成18年(2006)に花巻市、石鳥谷町、大迫町、東和町が合併し新花巻市となることが刻まれている。
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進んで「葛丸川」を渡る。奥羽山脈を源とする川で、上流では、バードウォッチングや森林浴、渓流釣りにハイキング、そして紅葉狩りなど、自然に親しむのに絶好なところで、宮沢賢治の童話『楢の木大学士の野宿』などの舞台となったところである。また、上流の 冬には「たろし滝」といわれる氷柱がみられ、毎年2月11日には、氷柱の太さを測り、その年の米の作柄を占う伝統行事「たろし滝測定会」が行われる。 氷柱の高さは13メートルあり、太さは、記録として残っているものでは、大豊作となった昭和53年の8メートルが最大とのこと。なお、この地方では「つらら」のことを「たろし」ということから、「たろし滝」の名が付いたという。
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5月の連休前までは、寒い日もあったが、既に田植えの準備の季節に差し掛かっており、所々で農業機械による代かき作業も見受けられた。
葛丸川より、1.5Kmほど進むと、道路の右側に「名木・杉生桜」がある。地上5mほどの高さで切られた太い杉の幹に寄生した山桜の木である。切られた杉は、奥州街道の路線変更が行われた明暦4年(1658)当時のものと推定され、昭和58年(1983)、安全対策上の理由で現在の高さで切断された。桜は毎年開花し、杉生桜の名を今にどめている。
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平成の合併で、花巻市となり石鳥谷町(いしどりやちょう)は廃止されたが、石鳥谷地区に入ると、凝った街路灯が目に付く。名産品などをデザインした絵を配したものの中で、南部杜氏(なんぶとうじ)の絵柄が一際目に付く。この石鳥谷の杜氏(酒造りの技術者の長)は、日本酒を造る代表的な杜氏集団の一つで、杜氏の流派として捉えたときには南部流(なんぶりゅう)と称される。杜氏組合としては、全国最大の規模を誇る社団法人南部杜氏協会を持つとのこと。この地方に酒造所が多いのもうなずける。
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街の中心付近には、好地一里塚(こうちいちりづか)の表示説明板が立っていた。実際の塚は壊され、跡形も残っていない。江戸から133番目の一里塚であった。
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一里塚の次の信号は、東北本線石鳥谷駅への入り口である。先に進むと、薬師堂川があり、下流は大きな水門を配して、北上川に合流している。
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北上川の堤防に出て眺めると、流石に北上川は大河である。一人の老人が水門付近で釣り糸を垂れていたが、川の濁りが強くて釣れそうにないと言っていた。
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街道に戻ると、左側に酒造「菊の司」がある。創業元和年間(1615?1623)、伊勢松阪から陸中郡山に移った初代が御宿を開業したのが始まりで、造り酒屋として220年もの伝統を築き上げてきた。現在は「菊の司蔵」と石鳥谷の「七福神蔵」の二つの蔵で醸造を行っているとのこと。
少し先に、「まちの駅いしどりや・酒蔵交流館」というのがあった。古い酒蔵を利用した施設のようで、各種イベントや集会などの会場として無料開放している他、内部には市民手作り小物の展示販売や、本が読めるリサイクルブックコーナーがあり、採れた野菜も販売している。立ち寄ってお茶をご馳走になり、休憩させてもらった。
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進むと、左に木の茂みが見えてきた。菊池数馬の墓である。説明板によると、数馬は、幼名を五郎と言い藤原道隆の後裔で延久2年(1070)に藤原則隆が肥後国(現在の熊本県)菊池郡に下向し、以降地名にちなんで菊池氏を称していた。北条氏が小田原城に入って後は、この北条氏に仕えていたが、小田原城の落城によって父正宗は殉じ、数馬は豊臣秀吉の助命により奥州に落ちのび石島谷に住むようになった。
五郎数馬は、石鳥谷を愛し新田の開拓や道路・橋の新設、改良などに力を尽くし、また犬淵村との境界争いにしばしば活躍し、境の平安を守ったといわれている。万治2年(1659)9月27日に75歳で亡くなるが、危篤の際に村内の若者たちを集め、自分が境の鬼となって好地村を守るので境に埋めてほしい」と遺言した。 遺言にもとづいて長坂の長根に葬り、それからはこの地を「数馬長根」といい、石鳥谷開発の恩人として崇敬されているとのこと。
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数馬の墓の直ぐ先には、境塚があった旨の説明板がある。石鳥谷町と紫波町(江戸時代は好地村と犬淵村)の境界で、また稗貫郡と紫波郡の郡界でもあった。境界に沿って、北上川から東北本線の間に9基の塚が築かれていて、周囲が10?13m、高さが0.5?1mとのこと。
この先で街道は、国道4号線に吸収されるが、この辺りは、時々形の良い松の木が名残の松として残っているところである。
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進んで滝名川を渡る。橋は道路舗装の補修中であり、川面の写真(下流方面)を撮るのが精一杯であった。滝名川上流には、農業の灌漑用水としてのダムがある。天保年間から大正時代に至るまで、水争いの絶えない地域に、この解決のために昭和27年(1952)に設けられたダムである。
平安を願って、ダム本体には上端から順に「平安・山王海・1952」の文字が植樹により描かれている。
滝名川橋を渡ると、少し先に、国道の左に馬頭観音が立っていた。
更に先には、民家の庭先に揚水紀年碑が立っていた。「昭和元年創建、甘木?耕地組合」と刻まれていた。昭和元年には、まだダムはなかったことでもあり、何の記念かは不明である。
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進むと、小さな流れの山吹川を渡る。橋の名前も山吹橋である。赤沢地区を支配していた藤原清衡の孫の樋爪俊衡(ひつめとしひら)が、頼朝の侵略に遭って樋爪舘を焼き払った時に、五郎沼の西を流れる川に砂金を投げ捨てたため、山吹(やまぶき)色に輝き、その後、山吹川という名で呼ばれるようになったと言われている。
山吹川に接するように五郎沼がある。藤原清衡の4男の藤原清綱の長男の俊衡の代に至り志和郡を治めることになり、姓を樋爪氏に変えたと言われているが、俊衡は、暴れ川だった滝名川の氾濫を防ぐと共に、灌漑の役割も担って五郎沼を造営した。俊衡の弟・五郎季衡(すえひら)がよく泳いだことが名前の由来と言われている。
現在は、当時より面積は小さくなったが、桜の名所として、また藤原泰衡の首塚から発見された蓮の種から発芽させた蓮が沼の隣に植えられていることで有名である。
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五郎沼の北東角から100m程度手前の桜の大木の脇に大きな石柱が立っている。地上に出ている部分だけでも2?以上の巨石だが、大部分が土中に埋まっているという。
五郎沼は造営直後は、何度か決壊することがあり、水神の怒りを鎮めるために人柱を立てることになり、付近に住む農家の娘が選ばれ、土手に生き埋めにされたという。娘が埋められた土手の上には巨大な石が供養碑として立てられたという。これにより大雨で堤防が決壊することはなくなったが、不思議なことが起こり始めた。夜に石の近くを通ると、しくしくという悲しげな娘の泣き声が聞こえ、いつしか夜泣き石と呼ばれるようになった。娘の遺体はその後、大荘厳寺に移されて手厚く葬られたという。巨石には何の刻印もないが、風化で消えたのか、最初からないのかは不明である。よくある人柱にまつわる言い伝えである。
流石に、普通に咲く桜は葉桜となっていたが、遅咲きの八重桜は、まだ美しさを保っていた。
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五郎沼を過ぎると、左側に旧家と思える広大な屋敷の家屋が見えてきた。そして、その先には東北新幹線のガードがある。
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ガードをくぐると、直ぐに「日詰駅入口」の交差点があり、その先の左側に大日堂がある。由緒は定かでないが、樋爪氏が山王権現薬師如来を館内に勧請し、四方に五智如来を鎮座したとの言い伝えがあり、その如来のひとつではないかと推察されている。境内には、多くの石塔、石仏が立っていた。
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大日堂の先で、街道は国道から右に別れて進む。車の騒音が軽減されてやれやれである。
1kmほど進むと、右側に志賀理和気神社(しかりわけじんじゃ)の赤い鳥居がある。この神社は、日本最北にある延喜式内社の南部一ノ宮であり、通称、赤石神社、赤石さんと呼ばれる神社である。
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鳥居を潜ると、参道の左に「南面の桜」がある。元弘2年(1332)、後醍醐天皇の命により陸奥に下った尊良親王(たかよししんのう)に同行した藤原頼之という公家が河東の領主川村少将の娘・桃香は、相思相愛となり、ここに桜を植えて、爛漫の春を夢見ていた。
しかし、命により、頼之は都へ上ることになり、二人は再会を固く誓って別れた。
やがて、植えた桜は見事に咲いたが、不思議にも、すべて花は南を向いて開いていた。桃香のやるせない心が、桜に宿ったものであろうか、と記されていた。
そして、桃香の歌が一首、
南面(みなおも)の桜の花は咲きにけり 都の麻呂(ひと)にかくとつげばや (桃香)
歌を受け取り、桃香のひたむきな思いに心を打たれた頼之は、ほどなく桃香を都に呼び寄せたという。
ともかく、この神社は延暦21年(802)に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷の首長アテルイを滅ぼし、翌年、盛岡市太田に志波城を造営した後の延暦23年に、民衆を統制するための官社として定められた神社である。延長5年(927)に作られた全国の官社とされていた神社の一覧「延喜式神名帳」に「陸奥国斯波郡一座・小・志賀理和気神社」とあることからも、平安時代にすでに存在していたことが記録として残されている。神社名の「しかりわけ」は北海道の石狩川と同じくアイヌ語の「シカリ」と同じ語源からで、川がうねっている様子を表現する言葉で、すぐ近くを流れる北上川の大きなうねりを表現したアイヌ語由来するとのことである。
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志賀理和気神社を後にして進むと、右側に広大な紫波運動公園が見えてくる。
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そして、信号機のある交差点を過ぎると、左側に立派な建物がある。明治大正期の実業家12代平井六右衛門が建てた、店舗併用屋敷である。
平井家の初代は伊勢松坂の出で、代々六右衛門を襲名し、清酒,醤油の醸造業を営み、また大地主でもあった。12代六右衛門は明治26年(1893)に家督相続し、以後、岩手、盛岡、花巻の各銀行や南部鉄道、岩手軽便鉄道、盛岡電気など、岩手県内の有力企業の役員を兼任し、県内有数の実業家として活動した人物である。原敬とも親交があり大正4年(1915)に衆議院議員(政友会)に当選、8年には貴族院議員に選任されるが在任中に死去した。この屋敷に続く賑やかな街が日詰商店街の中心である。
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商店街を進むと、道の左に銭形平次の手形のモニュメントがあった。よく見ると銭形平次役をこなした北大路欣也の手形であった。この地出身の野村胡堂にちなんだモニュメントである。
なお、野村胡堂は、1882年に岩手県紫波郡彦部村(現在の紫波町)に農家の次男として生まれ、小学校時代に熱心に呼んだ「水滸伝」の登場人物の一人で投石を得意とした没羽箭張清(ぼつうせんちょうせい)は、後に銭形平次の投げ銭を考案するときのヒントになったという。第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学するが、学資が続かず退学し、1931年から 文藝春秋の依頼で銭形平次を主人公にした「金色の処女」を発表し、以降第二次大戦を挟んで1957年までの26年間、長編・短編あわせて383編を書いた。1963年4月14日 肺炎のため享年80歳で死去するが、死の直前、私財のソニー株約1億円を基金に財団法人野村学芸財団を設立。同財団は、経済面で学業継続が困難な学生等への奨学金の交付を目的のひとつとしており、これは学資の問題で学業を断念した胡堂の経験が背景になっている。
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街道左に、ふれあい公園の名の小公園があり、明治天皇聖跡碑が立っていた。
そして、その先の十字路で左折して紫波中央駅入り口の交差点を通り過ぎ、紫波中央駅に向かう。元々今日は日詰駅で切り上げる予定であったが、途中で紫波中央駅から電車に乗ることを強く勧められ急遽予定を変更したものである。
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駅までは、700mほどもあろうか、疲れた足にはこたえる距離である。しかも、紫波中央駅は東側には、入り口がなく東北本線のガードを潜って、大きく回って行く必要があった。
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紫波中央駅は、平成10年にできた新しい駅で、無人駅にもかかわらず、有人駅を上回る内容を誇っている。そもそも、首都圏でもないのに新しい駅ができるというのはかなり異例で、しかも中央駅のネーミングも都市圏でこそ見られるものと思われる。
調べると、ここは、、町役場からも近く、本来駅があってもおかしくない場所であるにもかかわらず日詰と古舘という2つの駅間に挟まれて100年に渡る新駅の請願も取り上げられることはなかったという。そして、終に地域住民がお金を出し合って、新駅設置費用約2億円を集め、この住民の動きに合わせて、駅の待合施設という名目で、町も建物を建設。しかも町産材をふんだんに使ってできたのが今の駅舎となっているとのこと。これで、紫波中央駅からの乗車を強く勧められた意義が分かった感じがした。
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紫波中央駅で切符を買ってホームにでると待つ間もなく電車が入ってきて、盛岡駅に到着した。
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駅前には、啄木の歌碑があり、今夜の宿泊のホテルルートインも見える。
後は、夕食を済ませ風呂に入って寝るだけである。


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