2011.10.12
平泉から前沢宿
平泉駅前広場から北に向かう旧街道を進むと、100mほどで東北本線の踏切を渡り、さらに100mほど進むと、伽羅御所(きゃらごしょ)跡の標柱が立っていた。伽羅御所は、藤原氏3代秀衡に至って隆盛を極め、秀衡は鎮守府将軍および陸奥守に任じられ柳之御所が藤原氏の政庁として機能するようになったため、新たに柳之御所の南側堀を隔て西南隣接地に居館として伽羅の御所を設けたものである。秀衡の居館に加えて4代泰衡ならびに子息たちの屋敷も周囲に並んでいた。
旧街道の雰囲気の中を進むと、直ぐに「柳の御所跡入口」の標柱があるので右折する。
進むと、広大な「柳の御所跡」である。奥州藤原氏の政庁「平泉館(ひらいずみのたち)」跡であり、広さは東京ドームの約2.5個分にあたる11.2万平方メートルの広さがある。現在は、約半分が柳之御所史跡公園として整備され、池、堀、道路などが復元されている。今後は建物も復元整備される予定である。
「柳の御所」の東側には北上川(古名は日高見川)が流れ、その向こうには束稲山(たばしねやま)があり、”大”の字が薄く見える。今年も、8月16日には、被災地で倒壊した家屋の木材などを使用して「大文字送り火」が行われた。
柳の御所から、北西方向に細い道を高舘(たかだち)跡に向かう。右側に木の階段が見えてきて上って行く。
木の階段を上ると、高館義経堂(たかだちぎけいどう)の入り口があり、入場料を払って石の階段を上って行く。上って左に曲がれば義経堂だが、先に右方向にある芭蕉句碑を見ることにした。
三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて金鶏山のみ形を残す。先ず高館に上れば北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて大河に落ち入る。泰衡等が旧跡は衣ヶ関を隔てて南部口を差し固め夷を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり巧名一時の叢となる。「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」と笠うち敷きて時の移るまで涙を落とし侍りぬ。
夏草や 兵共が 夢の跡
この場所から、北上川が良く眺望出来る。その向こうには、桜の名所として知られた束稲山(たばしねやま)が望まれる。吾妻鏡によると、安倍頼時が桜一万本を植えたと記されている。
西行も69歳での勧進の旅で奥州をを訪れ、次の歌を残している。
「ききもせず 束稲山の桜花 よしののほかに かかるべしとは」
高館義経堂の方に向かうと、頼三樹三郎の詩碑が建っている。頼三樹三郎は頼三陽の三男で詩文に優れ、弘化3年(1846)、ここを訪れ「平泉落日」の感傷を詠んだものである。藤原と鎌倉、義経と頼朝の悲しい関係等を折り込み、歴史の浮き沈みの儚さと、自然の美しさを詩にしている。なお、三樹三郎は母が存命している間は自重していたが、やがて母も没すると、家族を放り捨てて勤王運動にのめり込み、のちの安政の大獄(1858年)で捉えられ、江戸小塚原刑場で斬首されている。
義経堂への最後の階段の脇に「資料館」があり、入ると正面に木製のコミカルとも思える仁王像が立っていた。また、藤原氏系図、源氏系図や藤原三代の時代の詳細年表などが展示されていた。
階段を上ると、義経堂が建っていた。天和3年(1683)、仙台藩主第4代伊達綱村が義経を偲んで建てたもので、中には義経の木像が祀られている。また、義経堂右奥には、昭和61年、義経公主従最期の地であるこの高館に、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶八百年の御遠忌を期して、供養のために宝篋印搭(ほうきょいんとう)が建てられた。
文治5年(1189)閏4月30日、鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。 また、弁慶が矢を射られて死んでも寺を守った、と言う伝説もある。
高館から下ってゆくと、東北本線の線路が見えてきて、踏切を渡る手前に、卯の花清水がある。新しく造られた碑文には、以下が刻まれていた。
「文治5年(1189)、高舘落城のとき、主君義経とその妻子の悲しい最後を見届け、死力を尽くして奮闘し、敵将共燃え盛る火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣、兼房、年66歳。
元禄2年、芭蕉が、門人曽良とこの地を訪れ、「夏草」と「卯の花」の2句の残した。
白く白く卯の花が咲いている。ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここに霊水がこんこんとわき、里人、いつしか、卯の花清水と名付けて愛用してきた。
行き交う旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、渇をいやし、そこ「卯の花」の句碑の前にたたずんで、花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう」
右の写真の丸い石碑は曽良の句で「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」と刻まれている。卯の花清水の名前は、この句よりきているとのこと。
東北本線の踏切を渡って進むと、国道4号線に突き当たる。中尊寺のバス停がある。国道から左折して中尊寺入り口に進む。団体で訪れる人が多そうだ。なるべく人の流れが途絶えた瞬間を捉えて写真撮影することにした。
中尊寺の参道は、月見坂といい、江戸期に伊達藩により杉の木の植樹が行われ、今では樹齢300年を超える大木が茂っている。また、ここは北に向かう街道でもあり、中尊寺本堂を過ぎた所から衣川の方に向かう道が続いていた。
ともかく、月見坂を上って行くと最初に出会うのが、八幡堂である。八幡堂の創建は天喜5年(1057)当時鎮守府将軍であった源頼義と子の義家が俘囚の長である安倍氏を討つ(前9年の役)為、この地で戦勝祈願した事が始まりとされている。「吾妻鏡」でも中尊寺の年中行事の中で八幡神社で法会が行われた事が書かれている。
急な月見坂を上ってゆくと、参道の両側に黒い門柱が建っており、この先左に弁慶堂がある。弁慶堂は入母屋の金属板葺きの屋根でかなり細かい彫刻が施されている。案内板によると「この堂は文政9年(1826)の再建。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した。傍らに義経公と弁慶の木像を安置。弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿であり、更に宝物として国宝の磬及び安宅の関勧進帳、義経主従が背負った笈がある」とのこと。
次は、地蔵堂である。堂内に安置されているのは、もちろん地蔵菩薩である。
続いて、薬師堂がある。案内板によると「藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。その旧跡は他の場所であったが、明暦3年(1657)に現在地に建立された。堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されている。
参道は平坦な道になり、舗装され整備の行き届いたものとなる。そこで、現れたお堂は「観音堂」である。観音は一般的には観音さまと呼ばれ、日本で一番信仰を集めていて衆生の苦しみや救いの声を聞きつけて馳せ参じてくださる仏様で 性別は女性でも男性でもないとされ、必要に応じて刹那刹那にあらゆる姿に変化される「かたよりのない存在」といわれている。
漸く、中尊寺山門の前に来た。この山門は、一関藩主「伊達兵部宗勝」の居城であった一関城から万治2年(1659)に移築された。通常の寺院の門の造りとは異なり、前面のひさしが深く、脇門のある薬医門であることからも、その出自を窺い知る事が出来る。
山門を潜ると、中尊寺本堂である。明治42年(1909)の再建で、ご本尊は阿弥陀如来で両脇には、天台宗総本山比叡山延暦寺から分けられた「不滅の法燈」がある。最澄が灯して以来消えたことのないと伝わる法燈であり今も護られている。
中尊寺本堂を出て金堂の方に向かうと、不動堂がある。ご本尊の不動明王は、右手に宝剣を持ち、どんな邪悪をも断ち切る。しかし、左手の羂索(けんさく)は救いを求める人を搦めてすくい上げてくださる、そういう姿を示している。この世に生きる私たちの過ちを直し、苦悩を取り除いてくれるご尊体である。
参道の右側には、峯薬師堂がある。案内板によると、もと経塚山(金色堂の南方)の下にあったが、天正年間(1573?1591)に荒廃、のち元禄2年(1689)現在の地に再建された。御本尊は丈六(約2.7m)の薬師如来の座像でカツラ材の寄木造り、金色に漆を塗り金箔をおいたもので、藤原末期の作で重要文化財である。ひらがなの「め」と書かれた絵馬が沢山懸けられていて、特に目の疾患にご利益があるようである。
次は、大日堂である。文字通りご本尊は大日如来である。
そして、進むと阿弥陀堂がある。ご本尊は阿弥陀仏であるが、阿弥陀如来とも呼ばれる。人々が死後行 くという西方極楽浄土の教主で、極楽往生を 願って南無阿弥陀仏と唱えれば必ず極楽へ行けると説いた、浄土宗、浄土真宗の本尊として祀られている。
いよいよ金色堂を見る。金色堂そのものは撮影はできないので、覆堂を撮影することになる。
金色堂は国宝に指定されていて、天治元年(1124)の建造である。奥州藤原文化の数少ない建物の遺構の一つである。初代藤原清衡により建立され、当時の技術の粋を集められている。一辺が3間(5.46m)の宝形造り、木瓦葺の小堂で、柱、壁、床、天井、扉など総漆塗りの上に布を張りさらにその上に金箔を張っている。屋根を支える4本の柱には一本当り4体の仏が3段、合計12体、金色堂全体では48体が漆の蒔絵として描かれている。須弥壇内部には中央に初代清衡公、左に二代基衡公、右に三代秀衡公の御遺体(四代の泰衡公の首級も共に)が安置されている。内陣内部には中央に御本尊である阿弥陀如来を安置し、観音菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩、持国天、増長天などの仏像が並び当時の文化の高さを感じさせる。
金色堂の見学を終え、外に出ると芭蕉の句碑が建っていた。
「五月雨の 降残してや 光堂」
次は経蔵である。間口3間、屋根は宝形、金属板葺き建物である。当時の文化を伝える数少ない建物の一つで、彩色などは剥げ落ち、平屋建てにするなどの改修がされている。現在の建物は平安時代の古材を使って鎌倉時代に造られたものとされ、案内板によると「創建時の経蔵は、「供養願文」には「2階瓦葺」とある。建武4年(1337)の火災で上層部を焼失したと伝えられてきたが、古材をもって再建されたものである。国重要文化財に指定されている。
進むと、旅姿の松尾芭蕉の銅像が建っていた。そして、古い金色堂の覆堂である。旧覆堂は、現在の覆堂になるまで金色堂を覆い、雨風から金色堂を守っていた建築物である。現在の覆堂が建設された為、ここに移築された。室町時代中頃建設され、約500年間金色堂を守っていたそうである。松尾芭蕉がこの地を訪れた際には、この旧覆堂の中にある金色堂を見たはずである。
旧覆堂の次は、大長寿院である。この寺は、歴史ある中尊寺の中でも、最初院と呼ばれる多宝塔の次に古いもので、初代清衡公が嘉承3年(1107)に建立したとされる。この本堂の奥には、あの頼朝を驚かせたという阿弥陀堂(二階大堂と称される)という高さ15m(5丈)にも及ぶ巨大な伽藍が天に向かってそびえていた。当時、そこには何と9m(3丈)もあるという巨大な阿弥陀仏が安置され、周囲には、4.8m(1.6丈6尺)の脇侍が九体控えるという壮大なものだった。余りの荘厳ぶりと巨大さに、奥州に侵攻した頼朝は、腰を抜かさんばかりに、驚いたという。もちろん今は焼失して存在しない。
大長寿院から、白山神社に向かう。案内板によると「仁明天皇の御代嘉祥3年(850)中尊寺の開祖である慈覚大師が加賀の白山をこの地に勧請し自らは十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号された。配佛としては、橋爪五郎秀衡の持佛で運慶作の正観音と源義経の持佛で毘沙門天が配案されていたが、嘉永2年正月8日(1849)の火災で焼失した。現在ある能舞台は嘉永6年(1853)伊達藩主伊達慶邦から再建奉納されたものである。明治9年秋には、明治天皇が御東巡の折りに当社に御臨幸あらせられ、古式及び能舞を天覧あらせられました。」とある。
芭蕉句碑の他にも、下記の句を刻んだ句碑が建っていた。
「眼にうれし こころに寒し 光堂」福地直哉
「なな重八重の 霞をもれて 光堂」伊藤雅休
金色堂の向かい側に池があり、中央に小島があって、茅葺の寄棟造りの弁財天を祀っている。案内板によると「当堂は宝永2年伊達家寄進の堂宇にて弁財天十五童子像を安置す。弁財天はインドの薩羅我底河より生じたる神にて水に縁深く池、河の辺に祀られる。」とある。
色づき始めた紅葉に囲まれ、池の水にも映え美しい。
中尊寺の西側にある、細い急な坂道を衣川の方に向かう。途中には、「茅葺屋根の家」と「お寺の庫裏」ではと思える家屋が建っていた。いずれも中尊寺に関連のある建物であろうか。
更に下ると、左側に中尊寺墓地がある。道は益々急になる。人影は全くない。
坂道を下りきると、そこは衣川の堤防の下で、常夜灯を両脇に備えた地蔵尊が立っていた。旧街道は、この辺りで衣川を渡っていた。目の前の堤防には、斜面を上る簡単な階段が切られていて、堤防に上り下流方向を見ると、国道4号線の衣川橋が見え、その向こうには見えるのは束稲山である。
下の写真は、衣川上流方向である。上流には阿部の一族が造った衣川柵があり、阿倍貞任が防御を固めていた。前9年の役では、阿部貞任、藤原経清の率いる兵と源頼義、義家の兵が死闘を繰り広げたところである。
一男八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、「きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、「衣のたて(館)はほころびにけり」と(下の句を)言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振り向けて、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と(上の句を)付けたりけり。その時義家、はげたる矢をさしはづして帰りにけり。さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな。・・・古今著聞集
衣川橋を渡り、1Kmほど進み国道から左に外れて、衣川区瀬原地区に入って行く。静かな街並みで国道を歩くよりは感じが良い。瀬原郵便局を過ぎると、道は上り坂となり左手には、民宿姫乃屋の看板も見える。
坂を上りきり、下って行くと東北自動車道の平泉前沢インターチェンジで、旧街道はなくなっている。このために大きく左に進んで自動車道のガードを潜る。ガードを潜って向こう側に出ると、自動車部品製造の(株)フジタの大きな工場がある。
工場の前の新しい道路を下って行き、徳沢川を渡ると100mほどで左折して進むことになる。
また、この辺りから先ほど歩いてきた上り坂の頂上付近にあった、お城のような衣川懐徳館(資料館)、国民宿舎のサンホテル衣川荘が見える。
進んで行くと、「奥州道中」の案内板が立っていたが、この辺りは工業団地として、再開発されたところと思われ、旧街道は全く残っていないし、歴史的な遺構も見られなかった。インターチェンジと合わせて旧街道がほぼ完全に破壊されたしまったようである。
そして、白鳥川を渡って、ようやく旧街道の雰囲気が感じられる街に入って行く。
左に白鳥神社の階段が見えてきた。由緒書きによると、白鳥神社は第50代桓武天皇の延暦20年(801)に坂上田村麻呂の蝦夷平定に際し日本武尊を鎮祭した神社とある。
白鳥神社を後にして細い道路を進む。広い通り出たところのバス停は「丁切」であった。
「前沢牛オガタ本店」の看板を掲げた立派な建物が建っていた。前沢牛と小形牧場牛の販売ならびにレストランである。
300mほど進むと、左に西岩寺の長い階段が見えてきた。文化2年(1805)西岩寺9世唯峯不白和尚が勧請建立した五百羅漢と十六羅漢がある。五百羅漢は、昭和24年(1949)の火災で477体を焼失し、現存するもの28体、極彩色の木製坐像である。現在は境内に設立された収蔵庫に保管されている。見上げると本堂は、3.11の大災害の被害を受けたためか、新たに建造中であった。街道に戻り進むと、五十人町の枡形がある。クランク型のまま残っている。
枡形から200mほど進むと三日町で、右側に佐藤屋旅館がある。玄関前に「明治天皇前澤行在所」碑があった。ここで宿泊したのであろうか。
佐藤屋旅館の反対側には(株)三清商店がある。最近はこのように古い佇まいの店を見ることは珍しい。進むと、2つ目の枡形がある。前沢駅への道路を右方向に作ったので、単純なクランクではなくなっている。ともかく、今日の歩行は前沢駅までと決めていたので、右折して駅に向かう。
駅への途中で、とても古い作りの薬局があった。一階のお店の内装は今風にしているようではあった。前沢駅は、駅員1人の小さな駅であったが、新幹線の特急券の買える自動販売機もあり、駅員がいる窓口では、「大人の休日倶楽部」の割引で横浜市内までの乗車券と、新幹線の座席指定特急券を買うことができた。