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2011.10.12

一関から平泉・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計41,963(27.3Km)・・・一関から前沢までの歩数と距離

朝の7時の一ノ関駅である。寒い。薄い霧がかかっている。駅前交差点から大町通りに進む。ところで、地名の一関は”ノ”が入らないのに駅は一と関の間に”ノ”が入るのが不思議である。
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まだ、早い朝なので最も賑やかと言われる大町通りもひっそりしていて、当然だがお店も開いていない。古い宿場町の雰囲気を考慮した作りのお店も並んでいる。
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地主町角交差点で左折して進む。地主町の商店街である。ここも静かである。
磐井橋の手前で、左折して田村町に入って行く。直ぐに右手に世嬉の一酒造がある。
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島崎藤村も逗留した一関の豪商「熊文」の後を受け、佐藤徳蔵が大正7年「横屋酒造店」を設立したのが前身である。当時三千数百石の仕込み量を誇ったが、昭和18年の国策による企業合同により、この地方の14社の酒造会社と合併し、両磐酒造が生まれたが、昭和32年に再び分離独立し、現在に至っている。酒蔵は大正7年に造られた東北最大の蔵を中心に昭和初期にかけて多くの蔵が建てられ、中には一層目を石造りとし、アーチ状の窓やレリーフ、曲線の方立てなど洋風建築の要素を入れ込んだものもあり、バラェティーに富んでいる。一時映画館などに利用されていたが現在は資料館やレストランなどに利用され国登録有形文化財に指定されている。
世嬉の一の社名は、大正時代、戦前の宮家の一つで「髭の宮さま」として知られた閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)殿下が当所へお越しになり、その際「世の人々が喜ぶ酒を造りなさい」ということで命名されたものとのことだが、一関を逆にしたのではと思われてならない。
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一関藩の家老職を勤めた沼田家の住居である。磐井川の幾度かの氾濫にも耐え、約300年の歴史がある。一関藩は3万石となっているが、実際は2万3千石程度で財政面では常に逼迫した状態にあり、家老職を務めた住宅であっても破風付な玄関など華美な装飾がなく極めて質素な形態を取っている。藩政時代を偲ぶ貴重な遺構で一関市指定有形文化財となっている。
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街道に戻り進むと、岩井橋の手前に「明治天皇一関行在所」碑が立っており、直ぐ側に「松尾芭蕉二夜庵跡」の看板が立っていた。松尾芭蕉が元禄2年(1689)5月12日の夕刻に到着して金森邸に泊まり、翌日平泉を巡り、再び宿泊したので「二夜庵」と呼ぶようになったと言われている。
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磐井橋を渡る。上流側を見ると、遠くに一関城のあった釣山公園が見える。磐井川は県境の栗駒山北麓を源とし、この先で北上川に流入している。
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磐井橋を渡り右折して振り返ると、橋の向こうに市街が望めたが、NTT一関ビル屋上のアンテナは霧のために霞んで見えた。川の堤防の道から中央町に入って行くと、文字はほとんど消えているものの「俳聖松尾芭蕉紀行の道」碑が建っていて、元禄2年5月13日紀行と書かれていた。
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次に、「29代横綱出生地 宮城山福松」の碑が建っていた。本名を佐藤福松といい、明治28年この地で生まれ、明治43年16歳で出羽の海部屋に入門して岩手山を名乗り、後に宮城山と改めた。その後大阪相撲高田川部屋に移り、大正11年に横綱に昇進した。昭和6年に引退して年寄役芝田山として後輩の指導にあたり昭和18年49歳で他界した。墓は円満寺にある。
この後、旧街道を思わせる街並みが続く。
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進むと、五代川を渡り、宮前町に入って行く。道の左側に配志和(はいしわ)神社の鳥居が建っていた。この神社は延喜式神名帳にも記載されている所謂「式内社」である。創建は日本武尊が蝦夷征伐の際、高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)の三神を祀り戦勝祈願した事から始まり、当初は山頂に祠を建て火石輪神社と称していたが中世に入り現在地に遷座した。
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配志和神社鳥居の反対側には、金比羅大権現と彫られた古い石塔と小さな祠が建っていた。ここから宮下町から山目町に変わり、旧奥州街道82番目の宿場・山目(やまのめ)宿となる。
進むと、旧家らしい古い家屋も見られ、問屋場の表示杭も立っていた。
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進むと、右側に中央公民館があり、その前に照井堰改修の先覚者、柏原清左衛門末裔屋敷跡」と書かれた標柱が立っていた。「照井堰用水」は、藤原秀衡公の家臣であった照井太郎高春が、この地に用水路を完成させ下流の水田を美田としたので、その姓を取って「照井堰用水」と名付けられた。毛越寺浄土庭園にも「遣水(やりみず)」として疎水されている。
その後も幾多の先人が私財を投じて、堰の改修に取り組んだが、柏原清左衛門もその一人であった。
少し先の左手に、「胡風荘 経世の政治家棚瀬軍之佐(さくらいぐんのすけ)先生邸宅」と書かれた石碑が建っていた。
棚瀬軍之佐は原敬全盛時代にもその配下・政友会に入党せず立憲改進党、憲政会、民生党と政敵を貫き通した政治家で明治40年から昭和2年まで当地から衆議院議員に立候補、6回の当選を得ている。また、大正14年、加藤高明内閣で高橋是清商工大臣の下で政務次官を務めた人物である。以前は立派な立派な門構えを見せていたが、最近取り払われたようである。
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300mほど進むと、左側に龍澤寺(りゅうたくじ)がある。龍澤寺は文治2年(1186)藤原秀衡公の3男泉三郎忠衡が建立し、天台宗のお寺であったが、その後幾多の変遷を経て、寛永元年(1624)、水沢市黒石の正法寺17世格翁良逸大和尚を住職に招き中興開山として、曹洞宗里中山龍澤寺とした。
また、境内には、豪商で鉱山師の阿部随波の墓がある。
阿部随波は鉱山王と呼ばれ鹿角の白根・尾去沢鉱山を長年にわたって経営した。一関の中里出身で安倍一族の末裔とも伝わるが、藩主伊達綱村に1000両を献じて士分となり、やがて江戸の大火では石巻より材木を運んで巨萬の富を得、宝永7年(1710)には伊達吉村に1万5000両を献じている。さらに重貞の二代目重頼と共に親子で伊達藩に65万両を寄進している。
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山門の両脇には、奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)が鎮座している。奪衣婆は、三途の川で死者の衣を剥ぐ役目があり、その衣を懸衣翁に渡し、懸衣翁が側の衣領樹の枝にかけると、その枝のしなり具合で死者の罪状がわかることになっているという。何とも、恐ろしげで、初めて見る像である。
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龍澤寺本堂である。
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街道右側に、JR東北本線の山ノ目駅がある。昭和3年に開業した無人駅である。
ほとんど人影のない駅前通りである。朝夕の通勤、通学時間帯のみ賑わう駅であろうか。
山ノ目駅入り口から300mほど進むと、左側に「少名彦神社(すくなひこじんじゃ)」がある。
祭神は少名彦命(すくなひこのみこと)である。
参道を進むと、右手に拝殿がある。天明年間(1781?89年)の創立と伝わる。鳥居脇の石の社標と本殿の社額は「少彦」の表記になっている。
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進んで新町に入ると、左手に八雲神社と刻まれた石柱が建っている。史跡標柱には「五穀豊穣平安の八雲神社」と記されていた。祭神は牛頭天王・スサノオノミコトで、社名は日本神話においてスサノオが詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に因むものである。総本社は京都の八坂神社である。 その先で、いよいよ平泉町となる。
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川屋敷分岐である。旧街道は県道から右に別れて進む。静かな佐野地区の街道歩きである。車の騒音がなくなると本当に有難い。
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1Kmほどで、国道4号線と交差して、祇園地区に入って行く。祇園地区を400mほど進むと「八坂神社」がある。長治元年(1104)の創建で、吾妻鏡によれば、当時、平泉の五方鎮守の神として、中央に惣社を、東に日吉白山、南に祇園社、王子諸社、西に北野天神金峯山、北に今熊野稲荷などの社をまつったと記されおり、この神社は記事中の祇園社にあたっている。
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現在の社殿は寛文6年(1666)の造営と伝えられる。江戸時代までを祇園宮と称し、明治8年(1885)の改革に伴い八坂神社と改称し村社となる。大正11年(1922)10月、内務省告示第27号により史跡指定を受け、更に昭和27年(1952)11月、特別史跡となり今日に至る。また、境内には、雷神社の社殿の他、八幡宮、金華山の大きな石塔も鎮座していた。
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八坂神社から1Kmほど進んで太田川を渡ると、平泉の市街が近づいてくる。国道4号線で東京から448Kmの地点である。
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毛越寺入り口交差店で左折して進む。歩道、家並みも含めて美しい通りである。流石に世界遺産の街である。
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300mほど進むと、観自在王院跡がある。国の特別史跡に指定されいて、案内板によると「観自在王院は、「吾妻鏡」に奥州藤原氏二代基衡の妻(阿部宗任の娘)が建立した寺院と記されている。西隣に毛越寺庭園、舞鶴が池の北方には金鶏山、南隣には高屋と推定される倉町遺跡がある。舞鶴が池は修復整備され、大阿弥陀堂・小阿弥陀堂・鐘楼・普賢堂跡の礎石が往時の伽藍を今に伝えている。発掘調査で西辺土塁・西門・南門が発見され、伽藍は東西120m・南北240mの土塁で囲まれていたと推定される。また、観自在王院西辺南北土塁と毛越寺東辺南北土塁の間は全面玉敷きで、牛車を止めた車宿跡も見つかっている。昭和48年から53年度にかけて史跡の修復整備が行われ、現在の姿が再現された。日本庭園史上でも価値が高く「旧観自在王院庭園」として名勝に指定された。」とある。
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観自在王院跡を過ぎて進むと、毛越寺の入口になる。ここで入場料を払い境内に入って行く。
毛越寺(もうつうじ)は、近年になって復興された岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺院。開山は慈覚大師円仁。現在の本尊は薬師如来、脇侍は日光菩薩・月光菩薩である。嘉祥3年(850)、中尊寺と同年に円仁が創建。その後、大火で焼失して荒廃したが、奥州藤原氏第2代藤原基衡夫妻、および、子の第3代藤原秀衡が壮大な伽藍を建立した。中世の歴史書『吾妻鏡』によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。
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正面に本堂がある。内部に入って内部拝観と阿弥陀如来にお参りすることもできる。
本堂の右に進むと、大泉が池がある。島・洲浜・築山・遣水(やりみず)などがあり、平安時代の典型的な浄土式庭園遺構となっている。
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大泉が池を時計回りに進む。杉並木の道を歩いて行くと築山と名付けられ、水辺にせまる岩山の姿を造り出した情景が見えてくる。「枯山水の様」の実例といわれているとのこと。
その先には、毛越寺を開かれた慈覚大師円仁(794-864)をお祀りする開山堂がある。在唐9年間の紀行「入唐求法巡礼行記」はマルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西域記」とともに、三大旅行記として高く評価されているとのこと。
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歩いて行くと、既に姿を消してしまったお堂などが、標柱として表されている。
まず、嘉祥寺跡があり、次に講堂跡、金堂円隆寺跡、鐘楼跡と続き、現存するものとして常行堂があった。本尊は宝冠阿弥陀如来で奥伝に秘仏の摩多羅神をまつる。毎年正月20日に国指定の重要無形民族文化財の「延年の舞」が奉納される。現在の常行堂は享保17年(1732)に再建されたものとのこと。
鑓水(やりみず)は、池に水を取り入れる水路であるが、平安期の「作庭記」の様式を余すところ無く伝えており、浄土庭園に風雅な趣を添えている。鑓水の遺構は、奈良の宮跡庭園を除いて例がなく、平安期の遺構としては唯一のものとのこと。
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鐘楼堂である。昭和50年(1975)に人間国宝に指定されている香取正彦によって再建され、天台座主山田恵諦大僧正の銘が刻まれている。姿形は平等院の物に似ているという。
そして、あまりにも有名な大泉が池の出島石組と池中立石である。池の東南に出島が作られ、その先端の飛島には約2.5mの景石が立てられ、荒磯の風情を表現したものである。
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池の向こう側の山の稜線も、美しい曲線を描いている。
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境内には、萩の木が沢山植えられているが、萩の花が最も美しい時期は既に過ぎ去っているが、多少の余韻は残している。
毛越寺の見学を終え、平泉駅に着きここで食事と休憩を取って、午後の旅を進めることとする。観光バスによる団体客が多く、電車の乗降は比較的少ないようだ。
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Posted at 11:23 | Category: 中山道 | 2 Comments