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2012.04.17

金ケ崎から花巻

本日の万歩計45,800(29.8Km)

水沢のホテルで一泊し、電車で金ケ崎まで引き返してきた。ちょうど8時である。
ホテルで朝食をするとどうしても遅くなり、この時間になってしまう。
さて、金ヶ崎駅舎は、昨日のブログにも書いたように地元商工会も同居しているので、PRのためのハリボテの布袋様のような像が置いてあった。
少し寂れた駅前通りを進み、県道で左折すると、すぐに正面に千田正記念館の案内板が見えてきて、街道は左に別れて行く。
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少し進むと、特に信号がある訳でもないのに、道路に長く車が停車しているのが目についた。
何と、保育園に子供を送ってきたお母さん達の車の列である。子供を預けて、それぞれの職場に向かうようだ。なるほどと思わされる光景であった。
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車の通りも少ない道を進んで行くと、宿内川に架かる宿内川橋が見えてきた。
宿内川は、駒ケ岳山系を水源として千貫石溜池に注ぎ、田畑を潤し北上川に合流している川である。千貫石溜池は天和2年(1682)仙台藩主・伊達綱村の命により、胆沢郡相去村六原の灌漑用水源として着工された。普請奉行は水沢領主・伊達宗景が務めた。初めの三年間は毎年大破したので「おいし」という若い女性を銭千貫で買い、牛とともに人柱にしたと言う悲しい伝説が残る。この池の名前の由来は「千貫で買ったおいし」から命名されていると伝わっている。
なお、北上川との合流地点には、金ヶ崎城があったとのこと。
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丸子館跡入り口の表示杭と案内板が立っていた。ここは室町時代の文安年中(1444?1448)に江刺七郎清義が丸子館主になり三ヶ尻(みかじり)と名乗った。その後、豊臣秀吉の奥州平定によって三ヶ尻氏はこの地を追われることとなった。三ヶ尻氏がこの地を治めたのは約150年間で江戸時代には伊達領になったとのことである。
その先の左側に、千田正記念館が見えてきた。まだ、朝が早く閉まっていたが、金ケ崎町出身で参議院議員3期、岩手県知事を4期務めた「千田正」の功績を後世に伝えるため整備さたものである。昭和5年建築の千田家主屋と昭和2年築の板倉、正光館と呼ばれる旧岩手県知事公舎の応接室からなり、少年時代から知事の時代に至る資料が展示されているとのこと。
千田記念館の案内標識には、アテルイの里の語句も記されている。アテルイは、平安時代初期の蝦夷(えみし)の大将で、延暦8年(789)に日高見国胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて降伏し、田村麻呂の助命提言にもかかわらず京にて処刑された。
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進むと、道路の分岐があり右か左か一瞬迷ったが、よく見ると奥州街道の表記と矢印のある杭が立てられており、左側であるのが分かり有りがたかった。
しかし、右は歴史のある三ヶ尻小学校に通じており、それを見逃すことになってしまった。明治6年滴水小学校として民家を借用し創立し、児童数22名であったとのこと。
その先には、下渋川橋がある。下を流れる渋川の下流方向の写真を載せたが、この川も下流で北上川に合流する。
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渋川を後にして、進むと「瘤木丁(こぶきちょう)」という、珍しい地名の町に入る。右側には、大きな案内地図が掲げられており、そのすぐ横には赤い鳥居の神社が祀られていた。
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瘤木丁を進んでゆくと、途中で舗装が切れ三菱製紙の社有地となって行き止まりになる。写真のゴミの収集の保管ボックスのあるところで左折して六原駅の脇を通り、国道4号線に出て迂回する必要がある。
実は、この左折ポイントも少し先の右側に奥州街道と書かれて前方法を指し示す表示杭があり、進めるものと思ってしまう。通れるか否かにかかわらず、奥州街道の方向のみを示しているのだろうが、極めて不親切と言わざるを得ない。迂回路の方向を示す小さな注書きでも欲しいものである。
ともかく、花沢踏切という簡易な踏切が六原駅の脇にあるので、渡って六原駅に向かう。
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昭和12年2月、東北本線の信号所を廃止して開駅した六原駅であるが、無人駅かと思っていたが、駅員さんが1人勤務されていた。朝の通勤時間が過ぎると、電車の本数が極端に減るので、駅構内には誰もおらず、のんびりとしたものである。
タクシーも駐車していたが、商売になるのであろうか。
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国道4号線に出て北に向かうと、左側に立派な赤い鳥居がある。二ツ森稲荷神社の鳥居で社殿は4.7Kmも先にあるとのこと。延宝2年(1674)伊達候が勧請した神社である。明治維新の皇道復興のおりに布告あり、続いて明治4年(1871)胆沢県神社の格定めに当り村社に列した。
鳥居を過ぎて北上金ケ崎ICの信号で右折し、東北本線の踏切に向かう。この辺りは、平地でもところどころ、杉林が残っている。
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先に、右に進む小道があり、進むと「正作踏切」があり、線路を渡ることができた。信号機も付いていない踏切である。渡ると未舗装の小道で、進んで北上浄水場から続く街道に復帰する。振り返ると浄水場の威容が見えるが、三菱製紙と協調して街道歩きに便宜を図って欲しいものである。
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しばらくは顕著な歴史遺構もなく進むが、やがて東北新幹線の高架線路が見えてきた。ガードを潜る手前の左には、相去白山神社がある。
白山の神は、延暦21年(802)鎮守府胆沢城が築かれてからの平安前期頃に創祀されたと伝えられている。徳川時代に至り、仙台伊達と盛岡南部の藩境が定まり、宝永8年(1711)伊達藩命により神社として創建された。以来300年、奥州街道伊達藩境の町相去の氏神様として崇敬されてきた。創祀以来、相去を見下ろす高前壇の地に鎮座していたが、東北本線開通の明治23年、現在地に遷座したとのことである。
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相去(あいさり)は伊達藩の一番北の町で、南部藩と接していたところである。進むと、左側に相去御番所跡の説明板が立っていた。明暦2年(1656)伊達藩主二代忠宗公の時、北境の備えとして番所を設置、街道を挟んで両側に軽臣(足軽)102名を置いたとのこと。番所には、通行人を取り調べた建物と番所役人の控えの建物が配置されていて、番所トップの武頭は100日交代で仙台よりの出張だったとのことである。
番所跡より300mほど進むと、南部領と伊達領の領境塚がある。この塚は資料に基づき後日復元したものだが、同じ徳川幕府に従属する藩であっても、隣どうしで厳しく対していたことが窺われる。
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少し先には、鬼柳関所跡がある。鬼柳御番所とも言われ、江戸方面の関門として藩内に幾つかある関所の中で、最も重きをなしたという。通行人を取り締まる本来の関所の機能に加えて。鬼柳には藩主・公儀用の宿泊・休憩施設である御仮屋と、馬を継ぐ伝馬所などの小規模ながら宿駅の機能も備えていた。
そして、その先で東北新幹線と東北本線のガードをくぐる。手前が新幹線でその向こうに少し低く東北本線が見える。
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鉄道のガードをくぐって進むと、500mほどで道は右にカーブして和賀川に架かる9年橋を渡る。和賀川は、長さ75.3キロで北上川支流では最長である。雨のためか少し濁っていたが、普段より水量は豊富なようである。なお、9年橋の名は、後9年の役に由来するものと思っていたが、明治9年の明治天皇巡幸に合わせて架橋されたことによるとのこと。
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九年橋を渡ると北上市市街に入って行く。北上市は、昭和29年に黒沢尻町、飯豊村、二子村、更木村、鬼柳村、相去村、福岡村が合併してできた市である。中心部は、旧奥州街道の間宿の黒沢尻であった。本町通りには、Warner Mycalの映画館も入っているさくら野百貨店もあり、ななか栄えている街並みである。反面、歴史的な遺構は残っておらず、脇本陣も表示杭として場所が示されているのみである。
そして、右側には諏訪町アーケード。諏訪神社の門前町として発展してきた商店街である。
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さくら野百貨店を過ぎて、次の信号のある交差点にも脇本陣の標識杭が立っていたが、ここを過ぎると、市街地も終わりその先に北上線の踏切が見えてくる。
北上線は、岩手県北上市にある北上駅と秋田県横手市にある横手駅を結ぶ、JR東日本の鉄道路線である。単線で電化はされておらず、全列車普通列車で気動車によるワンマン運転を行っている。
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踏切を渡ると、黒沢川があり本宮橋を渡る。街道は徐々に東北本線に近づき、常磐台の跨線橋が見えてくる。跨線橋に上るスロープの下には、山神と大書された新しい石碑が立っていた。
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跨線橋を渡り、直ぐに左折して2Kmほど進むと、二子一里塚がある。道の両側にほぼ原型をとどめて残っていて珍しい。この付近は明治12年に国道が切り替わり裏街道になったために幸か不幸か塚が残っているのだという。
二子一里塚の右側の塚の背後には、塚腰稲荷神社がある。神楽伝承百周年記念碑が立っていた。
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雨が降ってきた。強い雨ではなく小降りだが、傘をさしての歩行は嫌だし、困ったと思いながら一時村崎野駅に避難する。ここから、もう帰ろうかとも思ったが、まだ午後の1時半である。
幸い20分ほど経ったらやんだので、出発した。
街道に復帰して進むと。八重樫長兵衛氏之像と書かれた胸像が立っていた。大正2年飯豊町の旧家で生まれた郷土の先覚者で、北上市長も務め正七位勲五等双旭日掌を受賞した人である。
その横には、天照御祖神社、通称は伊勢神社の階段が続いている。江戸時代に南部藩士奥寺八左エ門定恒が伊勢神宮より勧請した神社で330年の歴史をもつ。
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昭和36年に設立した財団法人北上市開発公社の主要事業として造成整備した総面積127haの北上工業団地を通過していると、産業基盤、生活基盤の整備を進め目的達成して公社を閉めるのを期に記念碑を立てた旨の記述があった。工業団地を過ぎ、降雨の跡が残る道を進んで行く。
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飯豊川に架かる成立橋が見えてきた。そして、橋を渡って緩い坂道を上ると、成田一里塚がある。ここも、道の両方にほぼ原型をとどめて残っている。日本橋から129里(506.6Km)で盛岡まで10里(39.3Km)である。原型のまま残っているのは、こことひとつ手前の二子一里塚だけとのこと。
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成田一里塚を過ぎると、左側に多くの石仏、石塔が集められた場所があった。この先で花巻市に入って行く。花巻市に入って2Kmほど進むと、右側に薬師神社がある。江戸期には薬師堂で開基は江戸初期とのこと。
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薬師神社と道路を挟んだ反対側の左には、円通寺がある。
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円通寺を後にして進むと、花巻東バイパスに突き当たり行き止まりとなる。しかし、直ぐ左の僅かの高さの土手を上れば、バイパスを渡る交差点に出られる。
バイパスを渡って進むと、南城小学校があり、上館の歴史の説明板が立っていた。前9年の役(1051-1062)で源頼義が陣所を置いたところと伝えられ、その後諸氏が館を作って住んだとのこと。
小学校の校庭には、奥州街道名残の松があり、寛文5年(1665)、南部藩士奥寺定恒が花巻から伊達藩と境界である鬼柳まで植えた松の一部との説明が、当時の街道図と合わせて書かれていた。
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進んで行くと、右側に花南地区コミニティ消防センターと書かれた、瀟洒な建物が立っていた。又、その先の信号には、宮沢賢治記念館への案内板が立てられていた。
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右折すると、茅葺きの同心家屋が見えてくる。同心の始まりは天正19年(1591)に起こった「九戸政実の乱」により豊臣方に従軍した浅野長政の家臣の一部が花巻に留まり、そのまま南部氏の家臣である北氏の配下に組み入れられた事による。当初は花巻城の二の丸にある馬場口御門付近に住んでいたが、延宝8年(1680)に同心組30組が現在の桜町に移り住んだという。
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今川家と平野家の住居である。
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同心家屋から北に向かう小道は、化粧タイルを配した散歩道のような様相で、進むと国道4号線を渡って元の街道に復帰する。そして、直ぐに豊沢川を豊澤橋で渡る。ここからいよいよ花巻市街である。
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豊沢川を渡って直ぐの交差点には、豊沢町一里塚表示板が立っていた。日本橋より130里の一里塚で、城下町花巻の表玄関に威容を誇っていた。別名錦塚ともいうと書かれていた。
街道は次の信号で左折する。突き当たると、松庵寺で、外観は石造り、屋根にはインド、ネパール等の寺院にあるパゴダ(仏塔)が立ち、堂内はタイル張りの床に椅子が並ぶ異風な寺である。
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この寺は昔、真言宗の学寮だったが念仏行脚の僧が足を留め、念仏の教えを広めた。後の永禄5年(1560)広隆寺5世良縁上人を開山に念仏庵となった。また慶長5年(1600)花巻城夜討ちの難のおり、当時住職の存泰和尚が止宿中の津軽浪人3名と共に城を守った功によって、城代北松斎公から寺名に「松」の一字をもらい、「松庵寺」と呼ぶことになったという。江戸期にはたび重なる飢饉、疫病に苦しむ庶民たちに奉行所の蔵を開放させ、施粥釜(せがゆがま)を施し、このお助け粥により多くの民の命を救うことができたという。また、高村光太郎が宮沢賢治を慕って花巻に疎開していた時、妻智恵子や父母の法要を行い、その菩提を弔った歌詞も残っている。
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松庵寺を出て北に向かうと、この辺りが宮沢賢治生誕の地だとのことであるが、今は面影もない。そして、花巻市役所で右折する。
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市役所の角には、大手門跡の碑と花巻城の時鐘がある。正保3年(1646)、南部氏28代目の城主重直が、盛岡城の時太鼓を鐘に改めるために時鐘として作ったが、小さいので花巻城に移したものである。明治維新までは、二の丸(現花巻小学校敷地内)にあったが、ここに移され、午後6時に打鐘して時を報せている。
なお、この時鐘は、当時の冶工鈴木忠兵衛、忠左衛門によって造られたもので、市の指定文化財に指定されている。
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大手門跡を過ぎ、進んで行くと、右側に四百年以上の歴史を持つ花巻祭りの山車の車庫が見えてきた。山車は高さ13mもあるので、車庫もビルの3階建てより高いほどである。
さらに、200mほど進むと、左に円城寺門がある。この門は、慶長19年(1614)に盛岡藩主南部利直の命により花巻城主南部政直が「花巻城」の築城整備を行った際に、飛勢城跡から花巻城三之丸搦手「円城寺坂」の上に移築したもので、「円城寺門」の呼び名は、これに因んでいる。現在の門は戦中戦後の混乱で荒廃していたのを昭和36年(1961)修復したもので、花巻城で唯一残る建造物として重要な文化財となっている。
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円城寺門を観て、引き返し途中で花巻小学校の方に進む。街道は花巻小学校の校舎とグラウンドの間を通っており、小学校の校庭らしい銅像も建っている。また、校舎の2階の壁には宮沢賢治のシルエットが描かれていたが、通りかかった小学低学年の女の子2人に、あの絵は誰と聞いたら、口を揃えて宮沢賢治との答えが返って来た。やはり郷土の誇りの人物なのである。
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小学校の北の端に接しているのは、花巻城址である。花巻城の地に最初に城柵を築いたのは、阿部頼時で、戦国時代は稗貫氏の本城となり、秀吉の奥州仕置の後は、稗貫氏は領地を没収され浅野長政の家臣浅野重吉が代官として入城した。江戸期には、南部氏家臣の北氏が入場したが、北松斎は慶長18年(1613年)に死去し、その後は、南部利直が次男政直に2万石を与え花巻城主とした。政直急死の後は城代を置いて明治維新を迎えるまで続いた。
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今日の歩行はここまでにして、花巻駅に向かう。駅前には「やすらぎの像」と書かれた銅像が立っていた。駅のホームには、鹿おどりの衣装が飾られていた。
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久々の街道歩きで足が悲鳴をあげていた。体も疲労困憊で、北上駅まで東北本線で戻り、新幹線に乗ってからは、東京駅に着くまでほとんど眠っていた。足の回復にも2?3日掛かりそうである。

2012.04.16

前沢から金ケ崎

本日の万歩計39,437(25.6Km)

昨年の10月12日以来の久しぶりの街道歩きである。今年に入っても寒い日が続き、ようやく暖かくなってきてのスタートである。
一ノ関で新幹線から東北本線に乗り換え、前沢駅には9:15着であった。これが我が家からの最も早い到着である。在来線は、通学の高校生であふれていた。

さて、駅を出発して駅前道路を進み街道に出て右折すると、岩手県指定文化財の太田家住宅が建っていた。「太田家住宅」は、明治43年、県内有数の資産家であった太田幸五郎によって、凶作などで疲弊した地元の救済事業(お助け普請)として建築された屋敷である。屋敷には1600坪の敷地に、主屋と炊き場、前座敷、土蔵、門、塀、庭園が配されており、明治期富裕層の屋敷構成をよく残している。このうち主屋と庭園、土蔵などが時代性を反映した建物と屋敷構成であるとして平成9年に岩手県の有形文化財に指定された。
なお、太田家では初代から4代目までの当主は、幸蔵を名乗り、5代目から幸五郎と続くことから、地元では「太幸邸(だいこうてい)」とも呼ばれているとのこと。

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大田家住宅から進むと、左側に霊桃寺がある。承和5年(838)慈覚大師一刀三礼の十一面観音像を本尊として「北長谷漆寺(天台宗)」がこの寺の始まりで、その後文永6年(1269)北鎌倉の建長寺の第四世佛源大休正念禅師を勧請開山として迎え「宝林山興化寺」として復興された。さらに、天正年間(1573-91)に前沢領主大内定綱の菩提所として、「興化山宝林寺」に改められた。寛文6年(1661)に松島瑞巌寺の桂室和尚が入寺、その2年後に前沢領主飯坂内匠頭宗章が16歳の若さで亡くなり、宗彰公の法名「霊桃院殿心巌恵空大禅定門」から霊桃寺と改名され今日に至っている。また、墓所には、高野長英の母美也(みや)の墓がある旨が記されていた。

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階段を登って行くと、俳句の小道の石碑が立っていて、優秀作品の数々が歌碑として立っていた。上り詰めて本堂を眺めると、前沢領主の菩提寺に相応しいものであった。また、境内からは、前沢の街並みが眺望できた。

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霊桃寺の隣は、熊堅神社である。長い参道を進むと本殿がある。熊堅神社は熊野神社の異称なのか、調べたが分からなかった。

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街道に戻ると、直ぐに岩手銘醸の看板を掲げた、醸造会社がある。会社案内によれば、昭和30年、大正初期から続いた蔵元2社が合併し、胆沢郡前沢町に岩手銘醸株式会社が誕生。以来、岩手誉を代表酒に、大桜・陸奥の友のほか数々の銘酒を育てるとともに、近隣市町村の米を使用して、江刺の古歌葉・藤原の郷、胆沢町の胆沢舞、金ヶ崎町の宗任・白絲御膳など各地の地酒作りにも協力していると記されていた。
ちょうど、会社の朝の始まり時刻と見えて、商品を車に積んで出荷する風景を見せていた。
徐々に家並みも閑散としてきて、このあたりが前沢宿の出口付近であろうか、枡形の名残かと思える道路のカーブも見える。

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やがて、一級河川で下流で北上川に合流する「岩堰川」にかかる「岩堰橋」を渡る。

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1Kmほど進むと、明後沢川の名の小さな川を渡るが、この上流には竪穴住居跡の遺蹟があり、縄文土器等も多数発掘されたとのことである。

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さらに、1Kmあまり進むと折井の分岐点で、街道は国道4号線から左に別れてしばらくは静かな歩行となる。車の騒音からも逃れられ静かな街並みを歩くのは気持ちが良い。奥州街道の間の宿であった折居の集落である。

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進むと、入り口に鉄道の踏切の信号機を配した場所があり、一瞬こんな所に廃線でも残っていたかと思ったが、タミヤの鉄道模型屋さんであった。
そして、静かな通りは終わり、また4号線に合流すると、少し先に真城寺があった。

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真成寺の由緒は定かで無いかが、胆沢三十三観音霊場、第二十三番札所となっている。
金色の観音像が国道に面して立てられていた。

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満蒙開拓青少年義勇軍における自らの体験を綴った「土と戦ふ」という当時のベスセラーの著者で江刺郡福岡村口内出身の菅野正男を顕彰せんと、市内真城雷神の今野養市さんが昭和49年(1974)4月、独力にて建立した哈川神社(はせんじんじゃ)が左側にあった。
しかし、先日の強風のためか杉の大木が倒れかかり、鳥居も潜って進めない状態になっていた。満蒙開拓時代の記憶を薄れさせないためにに大きな存在であり、修復を願いたいものである。

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その先には、昭和稲荷神社があった。昭和稲荷神社と刻された石碑と、形の良い狛犬ならぬ狐の像が立っていた。
その少し先には、水沢市制50周年記念として、真城村役場跡の石碑が立っていた。
明治22年(1889)4月1日 – 町村制が施行され、中野村、秋成村の一部、常盤村の一部が合併し、胆沢郡真城村が成立した。その後、昭和29年(1954)4月1日 – 水沢町、姉体村、真城村、佐倉河村、黒石村、羽田村が合併し、水沢市となるが、それまでは、ここに村役場を置いていた。

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この辺りは、赤い鳥居の目立つ地域であるが、次に現れたのは、立木八幡神社である。
先に進むと、街道は左に国道4号線から別れる。すぐに真城の一里塚の案内板があるはずだが、見逃した。

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水沢市街が近付いてきて、左側に大林寺墓地の表示があったので坂道を上ると「斉藤實(さいとうまこと)」の大きな墓があり、墓標が立っていた。斉藤實は、水沢藩士斎藤耕平の子で、明治17年(1884)アメリカに留学、米公使館付武官を兼ねる。 1888に帰国し海軍参謀本部に出
仕、ついで多くの役職を歴任した。 1898年に海軍次官に就任、軍務局長・艦政本部長・教育本部長を兼任して軍政畑を歩き、西園寺内閣で海相となった。 以来5代の内閣に留任して在任9年におよんだ。大正元年(1912)大将に昇進、1919年の三・一独立運動勃発直後の朝鮮に総督として赴任、「武断政治」からいわゆる「文化政治」への転換をはかり、治安体制の整備拡充に務めた。 昭和2年(1927)ジュネーブ軍縮会議全権委員、枢密顧問官を勤めた。1929?31再び朝鮮総督に着任し、1931(5・15事件)の後を継ぎ内閣を組織。1935内大臣。2.26事件で暗殺された人物である。位階は従一位。勲位は大勲位。爵位は子爵であった。

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漸く、水沢市街の入口に到着して、近くの食堂で昼食を摂り、水沢公園に向かう。途中には古くから利用された水路が、整備された流れを見せていた。
公園への階段を上って、西の方に進むと、後藤新平のボーイスカウト姿の銅像が立っていた。後藤新平はボーイスカウトの初代総長だったのである。銅像は明治44年(1911)に建立されたが、太平洋戦争で応召し、その後昭和46年(1971)東北3県のライオンズクラブの年次大会で記念事業として再建が決まったとのことである。

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公園の北西の角には、陸中一宮の駒形神社がある。式内社で、旧社格は国幣小社で奥宮が胆沢郡金ケ崎町の駒ヶ岳山頂にある。祭神は「駒形大神」であるが、この神については、宇賀御魂大神・天照大神・天忍穂耳尊・毛野氏の祖神など多数の説があり、はっきりしない。現在は、天照大御神、天之常立尊、国之狭槌尊、吾勝尊、置瀬尊、彦火火出見尊の六柱の総称としている。駒形大神は馬と蚕の守護神とされ、馬頭観音あるいは大日如来と習合し、東日本各地に勧請されて「おこま様」と呼ばれている。馬の守護神とされたのは、古代、この一帯が軍馬の産地であったためと考えられる。
水沢公園を後にして、横町の交差点に差し掛かると、火消しのまといのような飾りがあり、心字の街と横町組長印の由来の説明板が立っていた。
水沢は、旧奥州街道の宿駅の一つとして形成され、江戸時代から宿場・街道交通関係や魚網生産等の産業で発展してきた。
町の中心である水沢城と六町(川口町、立町、柳町、大町、横町、袋町)は、防衛上の理由と繁栄の願いから「心」の字形を象って整備されたといわれている。この近世水沢の歴史は、度々起きた大火との戦いの歴史でもあったが、留守宗景の時代、江戸の大火を契機に、水沢でも火消しの原形となる組織が生まれた。その後、村景の時代、江戸の町火消組織に習い、六町に火消組が編成されたという。

その後始まった火防祭(ひぶせまつり)でも、先頭に並ぶ町印は、城主が火消組の印として六町にそれぞれ与えたといわれる。「仁心火防定鎮(じんしんかぼうじょうちん)」の6文字の一字、すなわち仁(川口町)、心(立町)、火(柳町)、防(大町)、定(横町)、鎮(袋町)が割り当てられた。ここは横町なので定である。

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横町の交差点から進んで最初の信号を左折して、日高神社の参道に向かう。600mあまりの長い参道である。最初の丁字路で右折すると、高野長英が9歳から江戸に出る17歳まで過ごした、母美也(みや)の実家がある。高野長英は、文化元年(1808)5月、水沢領主留守氏家臣の後藤惣助の3男として吉小路で生まれたが、9歳で父が没したため大畑小路の母美也の実家高野家の養子となり養父玄斎から蘭学を、祖父玄端から漢学を学んで育ったところである。
家は明治9年(1876)に一部改築されたが、開花の8畳、6畳は町営の居室としてよく保存されており、国の史跡に指定された。

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高野長英の育った家の左隣には、留守家の大番士を勤めた家臣の高橋家の家が保存されている。非公開であるが、屋敷内は江戸時代の建物配置をとどめ、明治7年(1874)から8年にかけて建てた母屋は唐破風の玄関と木彫りや障壁画で建物を飾り、当時としては珍しい窓ガラスやレンガも使った和洋折衷の建物でガス燈がひかれているとのこと。
ここからは、日高神社まで整備された美しい石畳の参道が一直線に通っている。

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日高神社の長い参道には、幾つかの武家屋敷が保存されており、趣きのある佇まいを見せる参道となっている。

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日高神社の創建は弘仁元年(810)嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされる。前九年合戦では源頼義が戦勝祈願し、源義家が安倍貞任を討った太刀を洗ったという「太刀洗川の碑」がある。また、境内には義家が酒宴で刺した箸が根付たとされる姥杉が奥州市指定天然記念物 となっている。その後も藤原氏、伊達氏などの支配者に崇敬され、特に初代伊達藩主政宗も参拝したという記録が残っている。水沢領主となった留守氏も代々の崇敬社としたとのこと。日高神社の本殿は寛永9年(1632)に建立された三間社流造の建物で国重要文化財に指定されている。神社の名称には諸説あり、前九年合戦の折、頼義が祈祷した所、雨が急に止み日が差し込んだ時に敵の将であった安倍貞任を討ったという謂れや、この場所は元々日高見国と呼ばれていた事などがある。

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日高神社の境内を後にすると、留守宗利の銅像が立っていた。留守宗利は、伊達政宗の祖父の伊達晴宗の3男に生まれ、晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族・留守氏を継ぐことになった留守政景の長男である。15歳で元服し父の移封に従い一ノ関に移ったが、18歳で父の政景が59歳で没し、その後金ケ崎城に移されたが、元和元年(1615)に願い出て許され、水沢城に移り、留守氏は幕末まで水沢城主として続くこととなった。宗利は水沢初代城主として、街区地割り、武士の住む四町八小路など水沢の街の建築、産業の育成などに力を注ぎ、多くの礎を築いたが49歳、道半ばで没した。嫡男宗直13歳のときであった。
日高神社を後にして、今度は新小路を通って引き返したが、途中で左に入ったところには、高野長英生誕の地の記念碑も立っていた。

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新小路にも幾つかの武家屋敷が残っていた。やがて大きな商業施設のメイプルが見えてくる。
元はジャスコ水沢支店であったが、撤退して地元資本に移ったようである。

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メイプルのある交差点で左折し、街道に復帰する。街中に「ひぶせまつり」のポスターが貼られている。進んで大町に入ると、やはり大町のシンボルの飾りが立てられていた。

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進んで乙女川を渡り、少し上流方向に向かうと、対岸に先人館がある。乙女川先人館では、山崎為徳、箕作省吾、吉川鉄之助の三先人についての資料等を展示している。
山崎為徳は、斉藤實、後藤新平と並び、郷土の3秀才と謳われ、学んだ同志社英学校でも開校以来の俊才と言われた。明治12年(1879)、郷里水沢の青年たちの招聘をうけ、夏季休暇中に帰郷、プロテスタントの教えを説いた。そのことが後に水沢にキリスト教を根付かせる要因ともなった。明治13年(1880)主著『天地大原因論』を発表。そのほか同志社英学校の校務や講演会など精力的に活躍するが、肺結核にかかり、明治14年(1881)京都市の新島邸宅内で24歳で死去した。

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乙女川の先の柳町の交差点を左折すると、ここから代官所跡までを立町で、かつては水沢宿の本陣、脇本陣が置かれ、土蔵を持つ豪商の店も立ち並んでいたが、鉄道の発達などにより商業の中心が大町や横町に移ったと言われている。途中に珍しく「太鼓屋」の看板があったが、二本松で見た太鼓店以来であった。しかし、覗きこんだ限りでは、閑散としてあまり繁盛しているようには見えなかった。

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突き当たって、立町の交差点には、代官所跡の石碑が立っていた。現在も立派な門構えの住居となっている。そして少し先には、もう馴染みとなった川口町の街のシンボル飾りが立っていた。

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街の火防飾りの隣には、大日堂がある。創建は不明だが、宝永5年(1776)の風土記「塩釜村御用書出」に、羽黒派九ヶ院の名前があり、その一つである喜楽院の修験道場が川口町にあったことが記載されている。
明治初年の廃仏毀釈で、修験道場は姿を消したが、現在は大日如来が本尊として祀られている。
少し先の境田堰に架かる不断橋の欄干に鉄道馬車(トテ馬車)のレリーフと説明がある。大正2年、水沢駅前からこの不断橋を通り岩谷堂船場まで約8キロメートルの間の運行を開始した。
ここは、水沢城下の北の出入口で、警備のために御不断組の家屋が配置され、「不断丁」(現不断町)と呼ばれていた。不断橋の名もこの不断丁に由来する。

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水沢市街を抜けて、進むと東北本線のと跨線橋がある。渡って左に下って行くと、赤い前掛けの地蔵さんが安座していた。
進んで中ノ町交差点を過ぎ、東水沢バイパスをくぐると、茂井羅堰中堰の細い流れがある。流れは細いが、用水路として重要な存在で歴史は古く、文書に見えるところでは、元亀年間(1570-72)に北郷茂井羅という女性が用水を開削したという言い伝えがある。しかし、土地に残された事物は、その遥か以前から水田が拓かれていたことを物語っている。
もう一つの重要な用水は寿安堰で、こちらは時期と工事を行った人がハッキリしている。江戸の初期、元和4年(1618)に伊達政宗の家臣、後藤寿安が着工し、一時の中断の後、地元古城村の千田左馬と前沢村の遠藤大学がこれを引き継いで寛永8年(1631)に完成した。

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堰の直ぐ先には、薬師堂温泉入り口の看板が見える。水沢区で始めて湧出した天然温泉で、日帰りの入浴、宴会場としての利用も多そうである。
道路の右側に高橋甚三郎先生碑と書かれた大きな石碑が立っていた。高橋甚三郎は、信長に攻められた朝倉義景が平泉寺に味方を頼むが断られ、また朝倉景鏡のは裏切りにあい六坊賢松寺で自刃したとき、鳥井与七郎とともに介錯し、その後、二人とも追腹を切ったことが信長公記第6巻に書かれている人物である。何故ここに石碑が有るのか不明である。追腹を切ってなくなったのは福井県で、地理的にも遠く離れている。もともとこの地方の出身であったのであろうか。

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田園地帯を進む道路である。少し先の左側に、鎮守府胆沢城の看板が見えてきた。この辺りが、胆沢城の南の入口付近である。

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左への道路を少し入ったところに埋蔵文化財調査センターがあり、発掘品の展示も行なっている。少し覗いてみた気がするが、先を考えると時間がなく諦めた。
少し先の右側には「史跡胆沢城跡」の大きな石碑が立てられていた。

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発掘調査に基づく、当時の建物の配置図も設置されていた。政庁の中欧に向かう道路も作られていたが、多賀城のようには整備されておらず、広大な土地の広がりがあるのみであった。

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広い胆沢城の北の端には、鎮守府八幡宮があり、鳥居を入ると前に広がる荒野然とした様相と異なり、手入れの行き届いて静謐な雰囲気が満ちていた。
神社に至る道は、仮舗装道路のようで細い道路であることからも予想しがたいものであった。
創建は延暦20年(801)に坂上田村麻呂が桓武天皇の命により東奥鎮撫のとき、胆沢城鎮守府に九州宇佐八幡宮神霊を勧請して鎮守府八幡宮と尊号したものである。
祭神は、應神天皇(誉田別尊)、神功皇后(息長帯姫命)、大市姫命である。
しかも、保有する宝物に、嵯峨天皇宸筆の八幡宮寳印、坂上田村麻呂奉納の宝剣と鏑矢、
源義家奉納の御弓、伊達氏奉納の太刀などと知れば、崇拝熱く大事にされているのも納得できる。当然2礼2拍手1礼でお参りする。

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八幡宮を後にして、県道に戻る手前に三代清水の名の湧き水がある。坂上田村麻呂、源頼義、義家の三代の飲用により命名されたと記されていた。昭和20年ころまでは、生活用水として使用されていたとのこと。
街道を歩いていると、かつての名水とされた湧き水が、使用不可になっている例が多いが、これは人の住む空間の広がりのみならず、使わなければ水脈が衰えるからであろうか。

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県道に出ると、直ぐに胆沢川にかかる再巡橋がある。胆沢川は、江戸時代初期までは徒渡りで、以後は船橋や舟渡しであったが、明治天皇の東北巡幸に備えたて橋が架けられた。しかし、最初に架けた橋が流失し、再度巡幸される時に架け直されたため、「再巡橋」と名付けれらたとのこと。
胆沢川は、岩手県南西部、奥羽山脈の焼石岳北麓に源を発し、奥州市北東部で北上川に注ぐ。途中石淵ダムに入り、尿前川、永沢川、黒沢川を合わせる。 平成7年(1995)に建設省河川局が行った「全国一級河川の水質現況」で、 胆沢川は全国で4番目の清流河川に選ばれている。

また、胆沢川は前九年の役(1052?62年)で、安倍貞任一族が、衣川の柵を捨て胆沢川の柵を楯にして戦ったところである。少し上流の黒沢川の合流点に、安倍氏12柵の一つ、鳥海柵(とのみのさく)があり、前九年の役では安倍宗任が柵主をつとめた。

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再巡橋を渡り、1Kmほど進むと県道から左に、金ヶ崎宿の入口がある。奥州街道と書かれた案内の表示杭が立っていて分かり易い。進むとお堂が建っていて南町集会所がある。ここで右折して進むと、奥州街道三十一里半杭跡の説明板が立っている。伊達政宗が幕府から命じられた一里塚の他に、独自に仙台青葉城を起点として一里杭、半里杭を建て、仙台藩領内統治の目安としたとのこと。従って、三十一里半とは、青葉城から約126Kmの地点を示している。なお仙台藩北端の相去御番所(相去村足軽町)の三十三里半杭が最終杭である。街道はここで右折する。

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再び県道に出て進むと、左側に金ヶ崎町役場が見え、さらに進むと矢来の交差点で、左折すると300mほどで金ヶ崎駅である。平成16年に改築されたばかりの駅舎で、新しく美しい。また改築以降、同一建物内に金ケ崎商工会、岩手ふるさと農業協同組合金ケ崎支店が入居している。今日はここで切り上げ、電車で水沢に戻り一泊する計画である。

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歩けば長いが、電車では10分ほどで水沢に戻り、駅前で予約してあるホテルに向かった。
水沢の駅前通りは、やはり賑やかである。

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