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2012.04.16

前沢から金ケ崎・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計39,437(25.6Km)

前沢から金ヶ崎歩行ルート

昨年の10月12日以来の久しぶりの街道歩きである。今年に入っても寒い日が続き、ようやく暖かくなってきてのスタートである。
一ノ関で新幹線から東北本線に乗り換え、前沢駅には9:15着であった。これが我が家からの最も早い到着である。在来線は、通学の高校生であふれていた。

さて、駅を出発して駅前道路を進み街道に出て右折すると、岩手県指定文化財の太田家住宅が建っていた。「太田家住宅」は、明治43年、県内有数の資産家であった太田幸五郎によって、凶作などで疲弊した地元の救済事業(お助け普請)として建築された屋敷である。屋敷には1600坪の敷地に、主屋と炊き場、前座敷、土蔵、門、塀、庭園が配されており、明治期富裕層の屋敷構成をよく残している。このうち主屋と庭園、土蔵などが時代性を反映した建物と屋敷構成であるとして平成9年に岩手県の有形文化財に指定された。
なお、太田家では初代から4代目までの当主は、幸蔵を名乗り、5代目から幸五郎と続くことから、地元では「太幸邸(だいこうてい)」とも呼ばれているとのこと。

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大田家住宅から進むと、左側に霊桃寺がある。承和5年(838)慈覚大師一刀三礼の十一面観音像を本尊として「北長谷漆寺(天台宗)」がこの寺の始まりで、その後文永6年(1269)北鎌倉の建長寺の第四世佛源大休正念禅師を勧請開山として迎え「宝林山興化寺」として復興された。さらに、天正年間(1573-91)に前沢領主大内定綱の菩提所として、「興化山宝林寺」に改められた。寛文6年(1661)に松島瑞巌寺の桂室和尚が入寺、その2年後に前沢領主飯坂内匠頭宗章が16歳の若さで亡くなり、宗彰公の法名「霊桃院殿心巌恵空大禅定門」から霊桃寺と改名され今日に至っている。また、墓所には、高野長英の母美也(みや)の墓がある旨が記されていた。

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階段を登って行くと、俳句の小道の石碑が立っていて、優秀作品の数々が歌碑として立っていた。上り詰めて本堂を眺めると、前沢領主の菩提寺に相応しいものであった。また、境内からは、前沢の街並みが眺望できた。

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霊桃寺の隣は、熊堅神社である。長い参道を進むと本殿がある。熊堅神社は熊野神社の異称なのか、調べたが分からなかった。

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街道に戻ると、直ぐに岩手銘醸の看板を掲げた、醸造会社がある。会社案内によれば、昭和30年、大正初期から続いた蔵元2社が合併し、胆沢郡前沢町に岩手銘醸株式会社が誕生。以来、岩手誉を代表酒に、大桜・陸奥の友のほか数々の銘酒を育てるとともに、近隣市町村の米を使用して、江刺の古歌葉・藤原の郷、胆沢町の胆沢舞、金ヶ崎町の宗任・白絲御膳など各地の地酒作りにも協力していると記されていた。
ちょうど、会社の朝の始まり時刻と見えて、商品を車に積んで出荷する風景を見せていた。
徐々に家並みも閑散としてきて、このあたりが前沢宿の出口付近であろうか、枡形の名残かと思える道路のカーブも見える。

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やがて、一級河川で下流で北上川に合流する「岩堰川」にかかる「岩堰橋」を渡る。

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1Kmほど進むと、明後沢川の名の小さな川を渡るが、この上流には竪穴住居跡の遺蹟があり、縄文土器等も多数発掘されたとのことである。

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さらに、1Kmあまり進むと折井の分岐点で、街道は国道4号線から左に別れてしばらくは静かな歩行となる。車の騒音からも逃れられ静かな街並みを歩くのは気持ちが良い。奥州街道の間の宿であった折居の集落である。

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進むと、入り口に鉄道の踏切の信号機を配した場所があり、一瞬こんな所に廃線でも残っていたかと思ったが、タミヤの鉄道模型屋さんであった。
そして、静かな通りは終わり、また4号線に合流すると、少し先に真城寺があった。

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真成寺の由緒は定かで無いかが、胆沢三十三観音霊場、第二十三番札所となっている。
金色の観音像が国道に面して立てられていた。

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満蒙開拓青少年義勇軍における自らの体験を綴った「土と戦ふ」という当時のベスセラーの著者で江刺郡福岡村口内出身の菅野正男を顕彰せんと、市内真城雷神の今野養市さんが昭和49年(1974)4月、独力にて建立した哈川神社(はせんじんじゃ)が左側にあった。
しかし、先日の強風のためか杉の大木が倒れかかり、鳥居も潜って進めない状態になっていた。満蒙開拓時代の記憶を薄れさせないためにに大きな存在であり、修復を願いたいものである。

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その先には、昭和稲荷神社があった。昭和稲荷神社と刻された石碑と、形の良い狛犬ならぬ狐の像が立っていた。
その少し先には、水沢市制50周年記念として、真城村役場跡の石碑が立っていた。
明治22年(1889)4月1日 – 町村制が施行され、中野村、秋成村の一部、常盤村の一部が合併し、胆沢郡真城村が成立した。その後、昭和29年(1954)4月1日 – 水沢町、姉体村、真城村、佐倉河村、黒石村、羽田村が合併し、水沢市となるが、それまでは、ここに村役場を置いていた。

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この辺りは、赤い鳥居の目立つ地域であるが、次に現れたのは、立木八幡神社である。
先に進むと、街道は左に国道4号線から別れる。すぐに真城の一里塚の案内板があるはずだが、見逃した。

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水沢市街が近付いてきて、左側に大林寺墓地の表示があったので坂道を上ると「斉藤實(さいとうまこと)」の大きな墓があり、墓標が立っていた。斉藤實は、水沢藩士斎藤耕平の子で、明治17年(1884)アメリカに留学、米公使館付武官を兼ねる。 1888に帰国し海軍参謀本部に出
仕、ついで多くの役職を歴任した。 1898年に海軍次官に就任、軍務局長・艦政本部長・教育本部長を兼任して軍政畑を歩き、西園寺内閣で海相となった。 以来5代の内閣に留任して在任9年におよんだ。大正元年(1912)大将に昇進、1919年の三・一独立運動勃発直後の朝鮮に総督として赴任、「武断政治」からいわゆる「文化政治」への転換をはかり、治安体制の整備拡充に務めた。 昭和2年(1927)ジュネーブ軍縮会議全権委員、枢密顧問官を勤めた。1929?31再び朝鮮総督に着任し、1931(5・15事件)の後を継ぎ内閣を組織。1935内大臣。2.26事件で暗殺された人物である。位階は従一位。勲位は大勲位。爵位は子爵であった。

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漸く、水沢市街の入口に到着して、近くの食堂で昼食を摂り、水沢公園に向かう。途中には古くから利用された水路が、整備された流れを見せていた。
公園への階段を上って、西の方に進むと、後藤新平のボーイスカウト姿の銅像が立っていた。後藤新平はボーイスカウトの初代総長だったのである。銅像は明治44年(1911)に建立されたが、太平洋戦争で応召し、その後昭和46年(1971)東北3県のライオンズクラブの年次大会で記念事業として再建が決まったとのことである。

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公園の北西の角には、陸中一宮の駒形神社がある。式内社で、旧社格は国幣小社で奥宮が胆沢郡金ケ崎町の駒ヶ岳山頂にある。祭神は「駒形大神」であるが、この神については、宇賀御魂大神・天照大神・天忍穂耳尊・毛野氏の祖神など多数の説があり、はっきりしない。現在は、天照大御神、天之常立尊、国之狭槌尊、吾勝尊、置瀬尊、彦火火出見尊の六柱の総称としている。駒形大神は馬と蚕の守護神とされ、馬頭観音あるいは大日如来と習合し、東日本各地に勧請されて「おこま様」と呼ばれている。馬の守護神とされたのは、古代、この一帯が軍馬の産地であったためと考えられる。
水沢公園を後にして、横町の交差点に差し掛かると、火消しのまといのような飾りがあり、心字の街と横町組長印の由来の説明板が立っていた。
水沢は、旧奥州街道の宿駅の一つとして形成され、江戸時代から宿場・街道交通関係や魚網生産等の産業で発展してきた。
町の中心である水沢城と六町(川口町、立町、柳町、大町、横町、袋町)は、防衛上の理由と繁栄の願いから「心」の字形を象って整備されたといわれている。この近世水沢の歴史は、度々起きた大火との戦いの歴史でもあったが、留守宗景の時代、江戸の大火を契機に、水沢でも火消しの原形となる組織が生まれた。その後、村景の時代、江戸の町火消組織に習い、六町に火消組が編成されたという。

その後始まった火防祭(ひぶせまつり)でも、先頭に並ぶ町印は、城主が火消組の印として六町にそれぞれ与えたといわれる。「仁心火防定鎮(じんしんかぼうじょうちん)」の6文字の一字、すなわち仁(川口町)、心(立町)、火(柳町)、防(大町)、定(横町)、鎮(袋町)が割り当てられた。ここは横町なので定である。

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横町の交差点から進んで最初の信号を左折して、日高神社の参道に向かう。600mあまりの長い参道である。最初の丁字路で右折すると、高野長英が9歳から江戸に出る17歳まで過ごした、母美也(みや)の実家がある。高野長英は、文化元年(1808)5月、水沢領主留守氏家臣の後藤惣助の3男として吉小路で生まれたが、9歳で父が没したため大畑小路の母美也の実家高野家の養子となり養父玄斎から蘭学を、祖父玄端から漢学を学んで育ったところである。
家は明治9年(1876)に一部改築されたが、開花の8畳、6畳は町営の居室としてよく保存されており、国の史跡に指定された。

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高野長英の育った家の左隣には、留守家の大番士を勤めた家臣の高橋家の家が保存されている。非公開であるが、屋敷内は江戸時代の建物配置をとどめ、明治7年(1874)から8年にかけて建てた母屋は唐破風の玄関と木彫りや障壁画で建物を飾り、当時としては珍しい窓ガラスやレンガも使った和洋折衷の建物でガス燈がひかれているとのこと。
ここからは、日高神社まで整備された美しい石畳の参道が一直線に通っている。

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日高神社の長い参道には、幾つかの武家屋敷が保存されており、趣きのある佇まいを見せる参道となっている。

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日高神社の創建は弘仁元年(810)嵯峨天皇の勅命によりこの地に勧請した事が始まりとされる。前九年合戦では源頼義が戦勝祈願し、源義家が安倍貞任を討った太刀を洗ったという「太刀洗川の碑」がある。また、境内には義家が酒宴で刺した箸が根付たとされる姥杉が奥州市指定天然記念物 となっている。その後も藤原氏、伊達氏などの支配者に崇敬され、特に初代伊達藩主政宗も参拝したという記録が残っている。水沢領主となった留守氏も代々の崇敬社としたとのこと。日高神社の本殿は寛永9年(1632)に建立された三間社流造の建物で国重要文化財に指定されている。神社の名称には諸説あり、前九年合戦の折、頼義が祈祷した所、雨が急に止み日が差し込んだ時に敵の将であった安倍貞任を討ったという謂れや、この場所は元々日高見国と呼ばれていた事などがある。

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日高神社の境内を後にすると、留守宗利の銅像が立っていた。留守宗利は、伊達政宗の祖父の伊達晴宗の3男に生まれ、晴宗の政略によって留守顕宗の養子となり、奥州の名族・留守氏を継ぐことになった留守政景の長男である。15歳で元服し父の移封に従い一ノ関に移ったが、18歳で父の政景が59歳で没し、その後金ケ崎城に移されたが、元和元年(1615)に願い出て許され、水沢城に移り、留守氏は幕末まで水沢城主として続くこととなった。宗利は水沢初代城主として、街区地割り、武士の住む四町八小路など水沢の街の建築、産業の育成などに力を注ぎ、多くの礎を築いたが49歳、道半ばで没した。嫡男宗直13歳のときであった。
日高神社を後にして、今度は新小路を通って引き返したが、途中で左に入ったところには、高野長英生誕の地の記念碑も立っていた。

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新小路にも幾つかの武家屋敷が残っていた。やがて大きな商業施設のメイプルが見えてくる。
元はジャスコ水沢支店であったが、撤退して地元資本に移ったようである。

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メイプルのある交差点で左折し、街道に復帰する。街中に「ひぶせまつり」のポスターが貼られている。進んで大町に入ると、やはり大町のシンボルの飾りが立てられていた。

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進んで乙女川を渡り、少し上流方向に向かうと、対岸に先人館がある。乙女川先人館では、山崎為徳、箕作省吾、吉川鉄之助の三先人についての資料等を展示している。
山崎為徳は、斉藤實、後藤新平と並び、郷土の3秀才と謳われ、学んだ同志社英学校でも開校以来の俊才と言われた。明治12年(1879)、郷里水沢の青年たちの招聘をうけ、夏季休暇中に帰郷、プロテスタントの教えを説いた。そのことが後に水沢にキリスト教を根付かせる要因ともなった。明治13年(1880)主著『天地大原因論』を発表。そのほか同志社英学校の校務や講演会など精力的に活躍するが、肺結核にかかり、明治14年(1881)京都市の新島邸宅内で24歳で死去した。

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乙女川の先の柳町の交差点を左折すると、ここから代官所跡までを立町で、かつては水沢宿の本陣、脇本陣が置かれ、土蔵を持つ豪商の店も立ち並んでいたが、鉄道の発達などにより商業の中心が大町や横町に移ったと言われている。途中に珍しく「太鼓屋」の看板があったが、二本松で見た太鼓店以来であった。しかし、覗きこんだ限りでは、閑散としてあまり繁盛しているようには見えなかった。

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突き当たって、立町の交差点には、代官所跡の石碑が立っていた。現在も立派な門構えの住居となっている。そして少し先には、もう馴染みとなった川口町の街のシンボル飾りが立っていた。

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街の火防飾りの隣には、大日堂がある。創建は不明だが、宝永5年(1776)の風土記「塩釜村御用書出」に、羽黒派九ヶ院の名前があり、その一つである喜楽院の修験道場が川口町にあったことが記載されている。
明治初年の廃仏毀釈で、修験道場は姿を消したが、現在は大日如来が本尊として祀られている。
少し先の境田堰に架かる不断橋の欄干に鉄道馬車(トテ馬車)のレリーフと説明がある。大正2年、水沢駅前からこの不断橋を通り岩谷堂船場まで約8キロメートルの間の運行を開始した。
ここは、水沢城下の北の出入口で、警備のために御不断組の家屋が配置され、「不断丁」(現不断町)と呼ばれていた。不断橋の名もこの不断丁に由来する。

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水沢市街を抜けて、進むと東北本線のと跨線橋がある。渡って左に下って行くと、赤い前掛けの地蔵さんが安座していた。
進んで中ノ町交差点を過ぎ、東水沢バイパスをくぐると、茂井羅堰中堰の細い流れがある。流れは細いが、用水路として重要な存在で歴史は古く、文書に見えるところでは、元亀年間(1570-72)に北郷茂井羅という女性が用水を開削したという言い伝えがある。しかし、土地に残された事物は、その遥か以前から水田が拓かれていたことを物語っている。
もう一つの重要な用水は寿安堰で、こちらは時期と工事を行った人がハッキリしている。江戸の初期、元和4年(1618)に伊達政宗の家臣、後藤寿安が着工し、一時の中断の後、地元古城村の千田左馬と前沢村の遠藤大学がこれを引き継いで寛永8年(1631)に完成した。

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堰の直ぐ先には、薬師堂温泉入り口の看板が見える。水沢区で始めて湧出した天然温泉で、日帰りの入浴、宴会場としての利用も多そうである。
道路の右側に高橋甚三郎先生碑と書かれた大きな石碑が立っていた。高橋甚三郎は、信長に攻められた朝倉義景が平泉寺に味方を頼むが断られ、また朝倉景鏡のは裏切りにあい六坊賢松寺で自刃したとき、鳥井与七郎とともに介錯し、その後、二人とも追腹を切ったことが信長公記第6巻に書かれている人物である。何故ここに石碑が有るのか不明である。追腹を切ってなくなったのは福井県で、地理的にも遠く離れている。もともとこの地方の出身であったのであろうか。

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田園地帯を進む道路である。少し先の左側に、鎮守府胆沢城の看板が見えてきた。この辺りが、胆沢城の南の入口付近である。

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左への道路を少し入ったところに埋蔵文化財調査センターがあり、発掘品の展示も行なっている。少し覗いてみた気がするが、先を考えると時間がなく諦めた。
少し先の右側には「史跡胆沢城跡」の大きな石碑が立てられていた。

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発掘調査に基づく、当時の建物の配置図も設置されていた。政庁の中欧に向かう道路も作られていたが、多賀城のようには整備されておらず、広大な土地の広がりがあるのみであった。

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広い胆沢城の北の端には、鎮守府八幡宮があり、鳥居を入ると前に広がる荒野然とした様相と異なり、手入れの行き届いて静謐な雰囲気が満ちていた。
神社に至る道は、仮舗装道路のようで細い道路であることからも予想しがたいものであった。
創建は延暦20年(801)に坂上田村麻呂が桓武天皇の命により東奥鎮撫のとき、胆沢城鎮守府に九州宇佐八幡宮神霊を勧請して鎮守府八幡宮と尊号したものである。
祭神は、應神天皇(誉田別尊)、神功皇后(息長帯姫命)、大市姫命である。
しかも、保有する宝物に、嵯峨天皇宸筆の八幡宮寳印、坂上田村麻呂奉納の宝剣と鏑矢、
源義家奉納の御弓、伊達氏奉納の太刀などと知れば、崇拝熱く大事にされているのも納得できる。当然2礼2拍手1礼でお参りする。

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八幡宮を後にして、県道に戻る手前に三代清水の名の湧き水がある。坂上田村麻呂、源頼義、義家の三代の飲用により命名されたと記されていた。昭和20年ころまでは、生活用水として使用されていたとのこと。
街道を歩いていると、かつての名水とされた湧き水が、使用不可になっている例が多いが、これは人の住む空間の広がりのみならず、使わなければ水脈が衰えるからであろうか。

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県道に出ると、直ぐに胆沢川にかかる再巡橋がある。胆沢川は、江戸時代初期までは徒渡りで、以後は船橋や舟渡しであったが、明治天皇の東北巡幸に備えたて橋が架けられた。しかし、最初に架けた橋が流失し、再度巡幸される時に架け直されたため、「再巡橋」と名付けれらたとのこと。
胆沢川は、岩手県南西部、奥羽山脈の焼石岳北麓に源を発し、奥州市北東部で北上川に注ぐ。途中石淵ダムに入り、尿前川、永沢川、黒沢川を合わせる。 平成7年(1995)に建設省河川局が行った「全国一級河川の水質現況」で、 胆沢川は全国で4番目の清流河川に選ばれている。

また、胆沢川は前九年の役(1052?62年)で、安倍貞任一族が、衣川の柵を捨て胆沢川の柵を楯にして戦ったところである。少し上流の黒沢川の合流点に、安倍氏12柵の一つ、鳥海柵(とのみのさく)があり、前九年の役では安倍宗任が柵主をつとめた。

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再巡橋を渡り、1Kmほど進むと県道から左に、金ヶ崎宿の入口がある。奥州街道と書かれた案内の表示杭が立っていて分かり易い。進むとお堂が建っていて南町集会所がある。ここで右折して進むと、奥州街道三十一里半杭跡の説明板が立っている。伊達政宗が幕府から命じられた一里塚の他に、独自に仙台青葉城を起点として一里杭、半里杭を建て、仙台藩領内統治の目安としたとのこと。従って、三十一里半とは、青葉城から約126Kmの地点を示している。なお仙台藩北端の相去御番所(相去村足軽町)の三十三里半杭が最終杭である。街道はここで右折する。

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再び県道に出て進むと、左側に金ヶ崎町役場が見え、さらに進むと矢来の交差点で、左折すると300mほどで金ヶ崎駅である。平成16年に改築されたばかりの駅舎で、新しく美しい。また改築以降、同一建物内に金ケ崎商工会、岩手ふるさと農業協同組合金ケ崎支店が入居している。今日はここで切り上げ、電車で水沢に戻り一泊する計画である。

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歩けば長いが、電車では10分ほどで水沢に戻り、駅前で予約してあるホテルに向かった。
水沢の駅前通りは、やはり賑やかである。

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