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2010.07.04

笹川宿から郡山

地下道を抜けると、旧道で笹川宿である。左にある須賀川第二中学が、上人坦の地名の由来となった、上人檀(しょうにんだん)廃寺跡(国史蹟)とのこと。静かな通りが続いて歩行にはありがたい。少し先には、左側に「寶来寺」があり、参道脇には多くの石仏や、二十三夜塔が集められていた。
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「寶来寺」の山門前の階段が古びているのも歴史を感じさせる。街道の寶来寺と反対側には、立派な蔵が建っており、歴史の街に相応しく思えてくる。
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そろそろ、お昼の食事時だが、食堂などありそうに無い。やむなく400mほど進んでコンビニで折り詰めの「助六寿司」を買ってきて、茶屋池公園で食べることとなった。
食べ終わって、進むと右側に多量の石碑、石塔が集められていた。
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そして、その直ぐ横には「一里塚跡」の石碑と説明板が立っていた。江戸から60番目の一里塚で、盛り土は失われてしまっている。この辺りから、白石坂と呼ばれる上り坂になり坂の途中の左側には「スルハチ池」と「ニゴリ池」がある。 写真は「ニゴリ池」で小学生が釣りをしていた。今日は、午前で学校が終わったのか?
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左側が工業団地の道を2Kmほど進む。日差しをさえぎるものは無く、暑さが身に沁みる。
ようやく旧街道が左に分かれ、その分岐点に「筑後塚供養塔群」がある。説明板によれば、筑後塚と呼ばれる所以は、「須賀川城が二階堂氏の家臣の守谷筑後守の内通により伊達政宗に攻め落とされた戦いの後、政宗は主君を裏切った筑後守を許せず、この地で成敗したといわれることに因る」とのこと。政宗の厚遇を得ようとして主君を裏切りその報いを受けたのであろうが、非情な時代であったものである。なお、以前はこの塚は少し手前の柏城小学校前にあったが、学校建築と道路改修のためここに移されたとのこと。
また、屋根囲いの中の板碑は、鎌倉時代に官道であった東山道の路傍に建てられたもので「双式阿弥陀三尊来迎浮彫供養塔」である。
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進むと、左側には石塔があり、旧街道の雰囲気がある。そして、滑川に向って道は下って行く。
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滑川橋を渡る。先日の雨の影響で水量は多い。直ぐ右側には東北本線の鉄橋が見える。
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東北本線に沿って700mほど進むと、清陵情報高校の敷地に接して雷神社がある。京の賀茂氏の一族が奥州に来て、祖神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を祀たのであろうか。
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また、雷神社の隣には大きな石碑2基と揚水に使った電動機が並べられていた。
石碑には「滑川地区揚水灌漑記念碑」とあり、滑川地区の用水は嘉永3年(1851)に改修されたが、電気揚水機を設置して、米の安定収穫と増産を図った記念とのこと。
そして、少し先で東北本線の踏み切りを渡る。


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1Km程先で、水郡線の踏切を渡る。渡ると直ぐに、郡山市に入る。
水郡線は、茨城県水戸市の水戸駅から福島県郡山市の安積永盛駅までと、茨城県那珂市の上菅谷駅で分岐して茨城県常陸太田市の常陸太田駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)であるが、まだ乗ったことはない。
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500mほど進むと、東北新幹線のガードをくぐり、その先の荒川を蛍橋で渡ると、笹川宿である。左の細い道を入って行くと「熊野神社」がある。勧請応永27年3月足利満貞(または満直)治世の折り、紀州熊野大権現より御分霊したものである。篠川城の守護神として鎮座すると伝えられる。
境内には、3つの石碑があり、その内の一つには「足尾山」と彫られている。「足尾山」は茨城県石岡市と同桜川市の境に位置する標高627.5mの山であるが、醍醐天皇がこの山の神社に祈願し足の病が治ったことから、「足の神」として信仰されるようになった。
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笹川宿は、室町時代、足利氏の東北支配の拠点となった笹川御所のあった所で、今も立派な赤瓦のある家が「笹川宿本陣跡」で「明治天皇御小休所跡碑」が建っている。そして、左に細い道路を入ると「東館稲荷神社」があり、ここが「笹川御所跡」とのこと。直ぐ裏を「阿武隈川」が流れ、東北新幹線が川を跨いでいる。
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2Kmほど阿武隈川沿いの道を進み、かつて音無川と呼ばれていた笹原川を、「耳語(ささやき)橋」で渡ると、日出山(ひでのやま)宿である。
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笹原川を渡った右側に「ささやき公園」と名付けられた小公園があり、「耳語橋」にまつわる大きな石碑が建てられていた。
石碑裏面には、「天平4年(732)、奈良より葛城王が按察使(あぜち)として陸奥の国に下向の際、片平郷の国司、祇承が3年の年貢を怠っていたので、王の怒りに触れた。その時、見目麗しい春姫が「安積山影さえ見ゆる・・・」と詠み、歓待に務めたので、王の怒りが解けた。
王が都に還る時、この地まで見送りにきた春姫と、橋の上で別れを惜しみ、何やらささやいたが、里人には何も聞こえず、川の流れも一瞬止まったといわれ、後世、この川を「音無川」、橋を「耳後橋」と称するようになった。 なお、永承6年(1051)、源頼義、義家は東征の折この橋は朽ちていて渡れなかったので「あづま路の、、、」と詠まれたと今に伝う]と書かれていた。
一方、表側には春姫の歌「安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思わなくに
源頼義の歌、
あづま路や ささやきの橋 中たへて 文だに今は かよはざりけり
みちのくの 音無川に わたさばや ささやきの橋 しのびしのびに
が彫られていた。
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日出山宿を進むと、「おくのほそ道」の真新しい石碑があった。東山道や、奥州街道として訴求するより芭蕉の「奥の細道」を名乗る方が商品価値が高いとの判断に寄るのであろう。傍には古い「十九夜塔」があった。
次に、日出山二渡神社である。境内には、日出山公民館が建てられている。いわゆる村社であろう。
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左に日出山公園があり、その角に大きな石碑が建てられていた。日出山土地区画整理事業竣工記念碑で、郡山市街地の南西部に位置するこの地域の生活環境の向上と健全な市街地の発展をはかるため道路、公園等の一体的整備を行うべく、昭和45年6月25日に組合の認可を受け、その後12年を費やして工事が完成したと書かれていた。
200mほど進むと、「水無月橋」と名付けられた新しい橋を渡る。そして、橋には、6月(水無月)の万葉歌として、
をみなえし 咲く沢に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも」 中臣女郎
と彫られていた。しかし、この橋が作られたのは近年で、万葉集とは特に関係はないようである。
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橋を渡って進むと「小原田(こはらだ)宿」である。旧奥州街道40番目の宿場で入口付近に小原寺(しょうげんじ)がある。
この辺りは、宿の中心で枡形の痕跡も残っており、門構えの立派な家も残っている。ふと門の中を望見すると、茅葺の家も残していた。
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長い参道の「香具山神社」がある。由緒は定かでないが、境内の手入れが行き届いており、タイプの異なる大きな常夜燈が2つある。地元で大事にされているものと思われる。
少し先には、枡形と思われる道路のカーブがハッキリと残っている。ここが小原田宿の出口である。
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街道左に浄土真宗本願寺派の円寿寺がある。豊臣秀吉の奥州仕置で領地を追われた長沼城主が開山したという。近くの七ッ池遺跡出土の唐二彩水瓶や金銅製頭椎の大刀を所蔵していて、国の重要文化財である。いよいよ、郡山宿が近づいてきた。
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東北本線の踏み切りを渡ると、郡山宿で市街地域に入って行く。通りは現在では大町通りと呼ばれている。
「うすいデパート」のある十字路で左折して、国道4号線に出て「善導寺」を訪れる。浄土宗名越派の本山、下野大沢(現在の栃木県芳賀郡益子町)円通寺第十五世良信の弟子良吸(良岌)が天正7年(1579)に創建した寺である。寺は、何度か焼失して、現在の本堂は大正2年(1913)に再建されたものである。
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「善導寺」の次には「安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)」を訪れた。成務天皇5年(135)、比止禰命(ひとねのみこと)が初代安積国造に任ぜられて安積国を建国し、神社を創建して和久産巣日神(わくむすひのみこと)と天湯津彦命禰命(あめのゆつひこのみこと)を祀ったのが起源とされる。 比止禰命の死後には神霊が合祀され、坂上田村麻呂の東征の際には八幡大神が同時に祀られ、八幡宮とも呼ばれる。 東北遠征時の源頼義・義家が戦勝祈願を行なったという記録も残る。極めて古い歴史を持つ神社である。境内には、由緒のある種々な建造物が存在するが、白王稲荷神社にある、明和7年(1770)高遠の商家が奉納した透かし灯籠は、高遠の石工が造った精巧な彫刻のある灯籠であり、見事である。
kagamiishi_86.jpgまだまだ、日は高いが今日の暑さで疲労も蓄積し、足も痛みを感じ出しているので、街道歩きは切り上げることにして郡山駅の方に進んだ。駅前の店でアイスコーヒーを飲んでゆっくりと休憩し、今晩の宿泊のホテルに向った。

鏡石(笠石宿)から須賀川

本日の万歩計43,675(28.4Km)・・・郡山まで

梅雨に入り、街道歩きに出かけられない日が続いている。九州では大雨で被害も出ているが、福島県の天気予報を見ると7月4,5日は曇りなので、暑さも晴れの日に比べればかえって良いのではと、出かけることにした。歩き始める場所がだいぶ遠くなってきたので、奥州街道では初めて一泊しての二日の旅となった。
kagamiishi_01.jpg東京駅6時12分発の「つばさ101(MAXやまびこ101と連結列車)」に乗り、郡山駅に着き在来線で戻り、ちょうど8時に鏡石に到着した。
前回、乗車した「鏡石駅」であるが、改めて眺めると、商工会の事務所のスペースが大きく、駅は付属物のような形態である。切符の販売も商工会への簡易委託で改札口も無く、JRの駅の分類上でも無人駅となっている。
駅前通を進み、街道に復帰して北東方向に真っ直ぐに延びている道を進むと、鏡沼地域に「西光寺」がある。真言宗智山派のお寺で、案内板には永禄年間(1558 – 1570)須賀川城主の二階堂の属臣「鏡沼藤内」の菩提のために建立と書かれている。参道には多くの石仏があり、境内には鏡石町の天然記念物指定の「多羅葉(たらよう)」の木がある。モチノキ、イヌツゲと同じくチノキ科に属していて、葉の裏に棒で字を書くと字が黒く浮き出るので、「葉書」の語源となったとのこと。健康茶として用いられる他、火にも強く防火壁として神社や家の周りにも植えられたという。
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車の通行の多い真っ直ぐな道を2Kmほど進むと、国道4号線に沿った旧道に「須賀川の一里塚」が残されていた。道の両側に綺麗な形を保っており、国の指定史跡となっている。日本橋から59番目の一里塚で、「江戸から須賀川六十里」といわれていたそうだ。
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一里塚を過ぎて、118号線に突き当たるが道路の中央分離帯で向こうに渡れず、左の国道4号線の交差点で渡り、右折して東北本線のガードを潜り、直ぐに左折して並木町に入って行く。1Kmほど進み、大町に入ると交差点の手前左に「勝誓寺(しょうせいじ)」がある。延文5年(1360)、長沼城主・新国上総守による建立である。
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勝誓寺の直ぐ先の交差点を渡ると、左側に「大町よってけ広場」と書かれた休憩ゾーンのような広場があり、奥のほうには東京オリンピックで銅メダルに輝きながらも、練習優先で婚約にまで干渉され、オーバーワークから腰椎のカリエスを抱えて失意の自殺を遂げた「円谷幸吉」の写真と足型、略歴が記されたのが飾られていた。「円谷幸吉」が須賀川市大町生まれであるのを始めて知った。
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進んで行くと、小さな十字路の片隅に「軒の栗庭園」と書かれた小広場があり、等窮(とうきゅう)坐像と芭蕉、曾良の立像が建っていた。元禄2年(1689)6月9日に芭蕉と曾良が等窮宅を訪れ滞在するがその時、「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」と詠んだ句にちなんで、軒の栗庭園と名付けられたのであろう。
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左折して進み、細いがカラータイルを貼った道に入ってNTTの敷地の裏側に行くと「軒の栗 可伸庵跡」がある。
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芭蕉は元禄2年陰暦4月22日に須賀川を訪れ相楽等窮宅に滞在し、俳人の可伸の庵を訪ね、傍らに大きな栗の木があるのを見て「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」の句を詠んだ。その句碑も配置されていた。
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さらに、須賀川市役所に進むと片隅に「芭蕉記念館」があり、芭蕉の句に因んだ掛け軸、扇子や芭蕉の遺品の旅の道具類が展示されていた。小さな記念館であるが、近傍の年配者の団体客で賑わっていた。街道に戻る途中にも、古い雰囲気の家が残されていた。
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須賀川の街を貫く道路は、道の両側に鉢植えの花が配置され、かわいい銅像も何種類も飾られ美しい。訪問する方も歓迎されている気分になる。
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本町の交差点を過ぎて進むと、左側に「あきない広場」というイベント等、市民相互の交流並びに産業の振興を図るためのスペースがあった。見ると、テーブルと椅子を並べ軽い食べ物を用意するなど何かの催しの準備中のようであった。
「あきない広場」を通り抜けて、裏通りに出ると「二階堂神社」があり、「須賀川城址」の石碑が建っていた。 今から420年前の天正17年(1589)6月、伊達政宗は、会津黒川城(若松城)城主芦名氏を滅ぼし、次に須賀川城も狙っていた。まさに戦国時代で、同年10月26日、伊達政宗は大軍を率いて須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側に本陣を構え、釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られた。ところが、前々から政宗に内通していた二階堂家重臣の守谷筑後守が、城本丸の風上にあった二階堂家の菩提寺・長禄寺に火を放ち、火はたちまち四方に飛び火し、町中が火の海と化し、須賀川城は火炎に包まれ、文治5年(1189)から400年の長きにわたり、南奥羽の雄として権勢を誇った二階堂家の須賀川城も遂に落城したのである。
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「あきない広場」まで戻り、今度は街道から右の小道に入って行き、「十念寺」に行く。浄土宗名越派の本山である下野大沢(現在の栃木県芳賀郡益子町)円通寺の末寺として、文禄元年(1592)、良岌善龍上人により開創された。もともと庶民信仰の報恩念仏道場として開初されたささやかな寺であったが、次第に興隆に向って寺運の展開を見るに至り、元禄2年(1689)には、芭蕉が「奥の細道」の旅で須賀川に滞在した際に当山に参拝し、その足跡を後世に残している。後の安政2年(1855)須賀川の女流俳人市原多代女(いちはらたよめ)により、「風流の はじめや奥の 田植え唄」の句碑が建てられた。
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十念寺の隣には、金徳寺(こんとくじ)がある。一遍上人の起こした時宗(じしゅう)のお寺で、本山は神奈川県藤沢市の遊行寺である。二階堂家城主、三千代姫の供養寺でもあり、二代目尾上松縁の墓 がある。 境内には一遍上人の銅像も見える。金徳寺を過ぎると、急な坂で須賀川に向って下って行く。
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坂道を下ると須賀川に架かる橋があるが、その手前でユーターンして「治部稲荷」を訪れる。小さな稲荷だが、前に横たわる治部稲荷坂の名前の由来となった神社である。二階堂氏の一族の治部大輔を祀った神社とのこと。
いよいよ須賀川を見晴橋で渡る。かわの両堤は整備され、桜が植えられている。桜の季節は見事であろうが、葉っぱの緑も清々しい。
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橋を渡ると、小高い山全体が公園となっていて、市民の憩いの場として整備されている。愛宕山と隣の五老山を結ぶ陸橋も自然に溶け込んで美しい。
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駐車場から続く急な階段を上ると「不動堂」があり、傍らには石仏も林立していた。さらに上って、反対方向に下りて行くと、赤い太鼓橋があり、「あやめ」を植えて八橋のように板橋が架けられ、桂由美さんデザインの鐘が吊り下げられていた。「恋人の聖地」と大書された表示板があり、二人で鐘を鳴らすのだという。
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翠ケ丘公園から街道に戻る途中に、市原多代女(いちはら・たよめ)の記念広場が造られていた。市原多代女は江戸後期の俳人で須賀川の富商市原寿綱の娘で17歳で分家を継ぎ、31歳のとき,婿に迎えた夫と死別する。家政と子供の教育の心労をいやすために俳諧を学び、48歳のとき江戸へ出て多くの俳友と交わり,『菅笠日記』を著す。
宮先町の交差点脇には、懐かしい手押し井戸ポンプがあり、押せばちゃんと水が出た。まだ現役である。
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須賀川の総鎮守である神炊館神社(おたきやじんじゃ)に向う。途中の参道には、古い造りの家がある。神炊館神社は全国でも唯一の社名で、御祭神である建美依米命(たけみよりめのみこと)が新米を炊いて神に感謝したと言う事蹟による。江戸時代になると朝廷より「諏訪大明神」として「正一位」の位を授かり、更に広く人々の崇敬を集め、「お諏訪さま」の名のもと、多くの参詣を受ける神社となる。俳聖、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中にを参拝したのもこの頃で、「諏訪大明神」が神号として用いられていたが、明治11年になり、現在の社名である「神炊館神社」に復称し、今に至る。参道の燈籠が壮観である。
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参道には、真新しい石碑が建っていた。俳聖、松尾芭蕉が元禄時代の旧暦4月28日参拝したのを記念して、平成18年12月に建立したものである。
神炊館神社に対して道路を挟み北側に位置する普應寺(ふおうじ)を訪れた。北朝観應元年(1350)中国宋朝禅・幻住派の巨匠古先印元禅師を招いて白河城主結城親朝が父宗廣、祖父祐廣、一族の菩提を弔うため市内稲村に開創した。
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街道に復帰して400mほど進むと旧街道は右に別れ、急坂を下って行く。岩瀬の渡し坂である。坂道の途中には説明板が立っていて「江戸時代、須賀川宿の北の黒門をくぐると、道は急な下り坂になり官道・東山道の岩瀬の渡しの船着場(岩瀬川・現釈迦堂川)があった」と書かれていた。
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坂を下った民家の前には、歌碑が建っていた。「岩瀬の渡し 水越へて みつまき山に 雲ぞかかれる」(詠み人知らず、万葉集)の歌とのこと。 なお、みつまき山は岩瀬の森のことだそうだ。釈迦堂川の堤防に上ると、「中宿橋」が見える。堤防を歩いて、この橋を渡って進む。
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中宿橋と橋から見た川面である。数日前からの雨で水量は増えているようだ。
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橋を渡って右折すると、直ぐに鎌足神社の急な階段が見えてくる。藤原鎌足の子孫の波多野筑後守が建久元年(1190)に鎌足の霊を奉斎したという。疲れた足を励ましながらようやく境内に達する。藤原鎌足を祀った神社で、ここは古くからの歌枕の「岩瀬の森」として有名で、紀貫之も「陸奥や岩瀬森の茂る日に一声くらき初時鳥(ほととぎす)」と詠んでいる。紀貫之は陸奥を訪れた記録は無く、都から岩瀬の森を想像して詠んだのであろう。
なお、芭蕉の時代には岩瀬の森も往時の面影はなく、歌枕ではなくなっていたようで、芭蕉が訪れた記録も残されていない。
笠原工業の工場で旧街道は消滅しているため、工場の塀沿いに進むと、上人坦地下歩道の入口が見えてくる。自転車は降りて通るように注意書きがあるが、高校生が乗ったまま地下道のスロープを駆け上がってきた。
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