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2010.07.05

本宮から二本松

koriyama_44.jpg山際の道を離れて、田園の中の道を進むと、本宮市の表示板が立っていた。長い郡山市の終わりである。
そして、直ぐに五百川を渡る。五百川の名前の由来には、萩姫の伝説がある。南北朝時代から室町時代初期の頃、公家の娘が不治の病にかかり、夢枕に立った不動明王から、都から東北方面に行き、500本目の川岸に霊泉があるというお告げを受けた。これに従ってたどり着いた萩姫は、2年ほど滞在して湯治して全快し都へ戻ったと伝えられる。
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五百川を渡ると、右側は本宮南工業団地で、工場群が延々と続く。日差しが強く汗で上半身はビッショリである。1Kmほど進むと、左の田圃の中にこんもりとした木立が見え、草道が伸びている。辿ると、富士愛岩神社があった。愛宕神社とばかり思い込んでいたが、愛宕ではなく愛岩である。どういう謂れなのであろうか。
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街道に戻ると、すぐに「新昌寺」がある。山門前の板碑は、新昌寺石造り供養塔で、本宮市指定文化財である。説明板によると、上面の種子キリーク(阿弥陀如来)と、正安4年(1302)の紀年銘及び「右志者為過去」と判読でき死者の供養のために造立されたものと思われる、と書かれていた。
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500mほど先で、短い区間だが旧街道が左の集落の中に残っていた。進むと集落の中ほどに「申供養塔A群」の立て札があり、4つの供養塔を含み石塔群が建っていた。
供養塔は、正応5年(1292)の記述があり、鎌倉時代のものであり、本宮市の指定有形文化財となっていた。供養塔以外の石塔も立派で謂れのありそうなものであった。そして、最後は草道で、民家の軒先を通るような感じになり、山田橋のところで広い道路に合流する。
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山田橋を渡ると、道は緩やかな上りとなる。川の水は、雨の増水で濁っていた。
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坂道を少し上ると、左側に「積達騒動(せきたつそうどう)鎮定之遺跡碑」が建っていた。説明板によると、江戸中期の寛延2年(1749)に二本松藩内で発生したただ一つの百姓一揆が「積達騒動」と言われている。寛延2年の収穫は平年の4割りであったが、年貢の軽減はわずかで不作が続いていたため農民の不安感が増大しついに農民一揆が起こった。一揆は1万8千人ほどに膨れ上がったが、本宮の町役人達は八方画策し、長百姓の冬室彦兵衛らが中心となって農民の要求を藩に認めさせ流血を見ることなく解散させたとある。
阿武隈川が街道の右に迫ってきて、本宮宿の中心が近づいてくると、左側に本宮観音堂がある。
かつて、奥州街道は、この観音堂の裏手側で、観音堂も後ろ(東側)を向いていたが、明治になり、境内の一部を削り、国道(現県道須賀川二本松線)が反対側に作られたので、それに伴い、こちら側に向きを変えられたとのこと。
境内には、「太郎丸観音堂供養塔」が金網に囲われていた。説明板によれば、厨子を形どるような枠をとり、半肉彫りで、中央に本尊阿弥陀仏を、右に合掌する勢至菩薩、左に蓮華を持った観音菩薩を踏割(ふみわり)蓮華の上に立たせている「浮彫阿弥陀三尊来迎塔婆」である。 鎌倉時代中期以降のもので、本宮市有形文化財に指定されていると書かれている。
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さらに、郷土につくした人として、小沼貞長公霊碑が建っていた。説明板によれば、貞長は田村郡船引城主であったが、田村氏が没落したのち浪人となり、慶長5年(1600)57歳の年に本宮に移り住み、  若松城主上杉景勝から荒地250石を与えられ、通称南町に新しい町の建設を計画した。伊達政宗が本宮通過の際、新しい町の建設の話をしたところ、政宗は賛同し、永楽銭200貫を与えたという。貞長は賛同した人々に奨励金を分け与え建設に着手し、慶長13年(1608)に新しい町を完成させたとのことであった。
観音堂の隣に薬師堂がある。境内には、本宮生まれの医師で、漢詩、和歌、連歌、俳句にも優れた文化人の伊東太乙(たいつ)の碑、本宮生まれの医師で、のち二本松藩の侍医となった九思堂小泉尚賢先生の碑などがある。
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郵便局のある本宮宿南町の中心部と、本宮駅付近である。
本宮の名は、久安2年(1146)町の北の菅森山に安積郡の総鎮守として安達太良神社が建てられたことに由来する。本宮宿は、安達太良川を境にして北町と南町に分かれていたが、この山の上に領主の館があったことから、戦国時代に、まず北町を中心として宿場町が形成され、江戸時代になって南町まで町が拡大した。 本宮宿は、江戸時代には、奥州街道筋では屈指の規模の遊郭があり、人形浄瑠璃で”奥州街道本宮なくば何をたよりに奥がよい”と謡われるほど有名であった。
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安達太良川に架かる本宮橋である。この橋を渡ると本宮宿の北町である。安達太良川は、この橋の直ぐの下流で阿武隈川に合流する。また、昭和61年(1986の台風で本宮町の中心部で679戸が床上、床下浸水の大洪水となり、大規模な護岸工事を行った。
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北町に入ると、蔵座敷の古い家が残されていた。少し先には安達太良神社がある。久安2年(1146)2)安達太良山と大名倉山の神々をここに遷し、安達一郡の総鎮守とした。鳥居をくぐり、木々の茂った長い階段を登ると東向きの社殿がある。
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安達太良神社を後にして進むと、百日川にぶつかり、その向こう側に「石雲寺」がある。境内の大銀杏は福島県登録の緑の文化財である。
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街道は百日川の手前なので、橋を渡って引き返し街道に復帰する。北町の終わり付近の町並みを見ながら進み、百日川に架かる「枝沢橋(えださわはし)」を渡る。川の様相も急に変わってくる。
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右手に石仏、常夜灯、髭のお題目塔がある。その先で、道は2つに別れているが、街道は真っ直ぐ進む。
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山際の道を2Kmほど進むと、ようやく二本松市の表示板があり、少し先に薬師堂への階段が見えてきた。長い階段で、疲れた身にはなかなか難儀なことと思い、上るのはスキップした。
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薬師を過ぎ、坂を下り東町に入って行く。そして、杉田橋を渡り、東北本線の踏切を渡って杉田宿の中心部に入って行く。
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1Kmほど進むと、国道4号線をくぐるが、その先で国道から分岐した県道355号線に合流して、交通量の多い道路となる。しかし、700mほどで右に別れる。新座分岐である。
しばらく進んで、上り坂になり、上り詰めると「木登り地蔵尊」が左側に建っていた。
説明板には、今から約600年前、畠山氏がこの地を治めていたころ、畠山一族には病気などの不幸が続いた。
3代目畠山国詮は、那須野ヶ原の金毛九尾の狐が、娘に化けて人々を苦しめていたのを一休和尚と会津熱塩の源翁和尚の合作による地蔵尊を祀って祈祷したところ狐を退治できた。このことを知って、その地蔵尊を竜泉寺の全忠和尚に頼んで譲りうけ、この地まで背負って来たが、少し休んで歩き出そうとしたところ、再び背負うことが出来なかった。同じ畠山領地内であり、また霧ヶ城(二本松城)の病門にあたるところから、この地に病気除けとして祀ることにした。
それから十有余年過ぎてのこと、地蔵尊は小男ほどもあるにもかかわらず、木造りのためか、時折木の根の穴に首を突っ込むので、竜泉寺3代淳学和尚が別々に石の地蔵尊を造り木の股に納めたところ、悪病の流行や天災の時には赤頭巾を飛ばしたり、和尚に夢知らせを三晩と続けた。
その時は、村人を集め祈祷し災厄から救うことが出来た、と書かれていた。
なんだか、よく分からない話しである。
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眼鏡橋で羽石川を渡る。直ぐ右には東北本線が通っていて、先には二本松インターと国道4号線を結ぶ高架橋が見える。高架橋をくぐる直前には、二勇士の碑の道標がある。
戊辰戦争で、三春藩の降伏により側面を突かれることになった二本松藩では、やむなく少年隊に出撃を命じた。二本松少年隊は、十二歳から十七歳までの少年から成る一隊である。このときの戦闘で薩摩軍に切り込んだ二人の二本松藩兵の青山助之丞(21歳)と山岡栄治(26歳)を称える石碑が建てられているのである。
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坂道が下りに差し掛かったところに、馬頭観世音の石碑があり、その先で道は大きく左に曲がりると、若宮の交差点が見えてくる。交差点を過ぎ、街中を流れる六角川に架かる四ツ谷橋を渡り、次の若宮一丁目の交差点で右折する。
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若宮一丁目の交差点を右に曲がると、かつての宿場であるが、戊辰戦争で二本松宿は一夜にして焼け落ちたので、今の町並みはそれ以降に建てられたものである。
真っ直ぐ進んで突き当たりは枡形で、その角には明治7年創業の檜物屋(ひものや)酒造店がある。銘柄の「千功成」は、秀吉の千成瓢箪に因んで「千成」と名付けたのが始まりで、後に千の功績をという意味から「千功成」に改められたという。


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枡形を過ぎると、二本松神社がある。二本松神社は寛永20年(1643)二本松藩成立に伴い藩主として入部した丹羽光重公の敬神愛民の精神から丹羽家の守護神である八幡宮を左に、領民の守護神を右に二つの神様を祀る御両社として現在の場所に遷宮された。
350年の伝統を誇る二本松のちょうちん祭が有名で、秋田の竿灯、愛知の一色提灯まつりと、共に日本三大提灯まつりと言われている。
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疲れた体に鞭打ち、高い階段の二本松神社に参拝して、今日はここまでと二本松駅に向かった。駅に着くと、午後3時40分で、次の上り電車は午後4時21分であった。
ようやく、電車が来て、郡山に向かい新幹線のやまびこに乗り換え帰宅した。
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郡山から高倉

本日の万歩計45,431(29.5Km)・・・二本松まで

昨夜は、ホテルのテレビでサッカーのワールドカップのダイジェスト版を見て、早くに寝てしまったので、今朝は早い時刻に眼が覚めてしまった。
朝食の時刻には、かなりの間があるので、昨日、訪れ損ねた如寶寺に行ってみた。
真言宗豊山派の寺院で、郡山の有力者、虎丸長者が都に上り、平城天皇より馬頭観音像を賜って帰郷、大同2年(807)に観音堂を建立して笹久根上人を招いて開眼供養を行ったのが始まりと伝えられる。下の写真の左側は、観音堂と本堂で、右側は書院である。
境内には数多くの古碑があり、鎌倉時代の刻銘のある石造笠塔婆、板石塔婆は、国指定重要文化財である。
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ホテルに戻り、朝食を済ませての再出発は7時25分であった。商業地区なので当然かも知れないが、早朝で大町通りもひっそりとしている。大町交差点を過ぎて進むと、左側に「阿邪詞根(あさかね)神社」がある。由緒によると、平安時代・康平年間(1058?1065)、伊勢国阿邪詞より勧請して、はじめは道祖神社として猿田彦命を祀る。その後、寛治3年(1086)、源義家の副将軍として、前九年・後三年の役に出征した平忠通の霊を合祀し、御霊宮と改称された。さらに、明治2年(1869)には、忠通神社に改称され、明治22年(1889)3月に阿邪詞根神社に改称して現在に到るとある。
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境内の中央には、神木が貫禄を見せ、左の方には福島県重要文化財に指定されている石造法華曼荼羅供養塔と、郡山市指定文化財の石造浮彫阿弥陀三尊塔婆がある。
説明板によると、源頼義・義家が奥州平定後の治暦3年(1067)に敵、味方の戦死者を弔うために建てたといわれており、高さ2.43m、厚さ30Cmで、塔の表面は風化が進んでいるが、仏の姿を表す梵字を配した曼荼羅が刻み込まれているとのこと。
柵の内側左下には、高さ91Cmの石造浮彫の阿弥陀三尊塔婆がある。鎌倉時代末期に作られたものと推定されている。
この辺りは、まだまだ街道らしい趣のある家屋も残っている。そして少し先で、逢瀬川を安積橋で渡る。逢瀬川は、古来歌枕で有名で多くの歌が詠まれたところであったが、高度経済成長期の住宅街の急激な広がりに下水道の整備が進まず、さらに不法投棄などの増加により日本でも屈指の水質汚濁の激しい河川となってしまった。しかし、最近では環境意識も高まり、豊かな自然を取り戻しつつあるとのこと。
浅香山 さも浅からぬ 敵とみて 逢瀬に勇む 駒の足並み   源 頼義(1051年)
ほどなくも 流れぞとまる 逢瀬川 変わる心や 井堰なるらん  新続古今和歌集(1439年)
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磐越西線のガードが見えてきた。郡山と会津若松経由新潟県の新津駅を結ぶ線である。
ガードをくぐって進むと、佐藤酒造店がある。前身である藤屋本店は宝永7(1710)年に創業で、上質の井戸があり、佐藤酒造店でも近年まで井戸水を酒造りに用いていた。蔵の裏手にある日吉神社には当時からの井戸も残っているという。さらに、蔵の敷地に美しい藤が咲いていたことから、通りかかった二本松藩主丹羽公が「藤乃井」の銘を授けたと伝えられている。
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300mほど進むと左側に「日吉神社」がある。16基の石造塔婆が県指定重要文化財となっている。
また、境内には、仙台仏と呼ばれる伊東肥前守碑があり、郡山市指定史跡である。
天正16年(1588)、伊達政宗はここに本陣を築き佐竹、蘆名、二階堂、結城、相馬、田村など当時の奥羽南部のほとんどの連合軍と戦った。伊達政宗の生涯で最大の戦いの郡山合戦である。このとき、政宗の危機を救って死んだのが伊藤肥前で、仙台藩4代藩主の伊達綱村が碑を建立した。その後、参勤交代の仙台藩主は、この碑を参拝するのが慣例だったという。
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その少し先には、山門を始め本堂も新しい「阿弥陀寺」がある。享保2年(1717)江戸神田の鋳工師藤原長政の作の銅鐘は郡山の指定重要有形文化財である。いわき市勿来(なこそ)の松山寺の鐘楼にあったが、1886年久保田に留まり1888年阿弥陀寺の銅鐘となったとのこと。
さらに進むと、左側に行健小学校があり、見事なレリーフを見せていた。この小学校は、明治6年に久保田小学校として阿弥陀寺を校舎に代用して創立され、その後現在の校名に改称された。
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街道左に「豊景神社(とよかげじんじゃ)」がある。天喜4年(1056年)、源頼義・義家父子の創建と伝えられ、後の天養元年(1144)に鎌倉権五郎景政公を合祀し、現在に至る。
この神社に伝わる太々神楽は、福島県の重要無形民俗文化財に指定され、格調の高い神楽と高評されている。
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「豊景神社」から100mほどで、「本栖寺(ほんせいじ)」がある。由緒によれば、元弘元年(1332)田村莊司田村輝定(輝顕)公が臨済宗の高僧大光禅師復庵宗己大和尚を迎え八丁目恵日台に恵實山福聚寺を開山創建。その後永正元年(1504)田村義顕公に至り、三春大志多山に舞鶴城を築城し移住するに当り福聚寺もともに移ることとなり、本来の福聚寺跡に建つ寺として其のまま恵實山として寺号を本栖寺として残された。
なお、田村輝定はこの陸奥の地に土着した征夷大将軍坂上田村麿の子孫である。
それにしても、建屋、石仏像等の全てが真新しく、光り輝いている。この財力はどこから来るのであろうか。
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福原宿の終わりで、内環状線の道路標識のある信号を渡り、左の道路に入って行くと宝沢(ほうざわ)沼がある。寛永4年(1627)加藤嘉明が会津領主となるや工事に着工し、延人員4,628人を使役して寛永7年に完成した。古い潅漑用水池である。
沼を一周する1.5Kmは「一周ふれあい小路コース」として100m毎に距離表示杭を立てるなど整備されており、多くの人のウォーキングコースとして利用されている。また、沼の北東の隅には、鳥居と小さな祠の水神社がある。江戸期の創建とのこと。
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水神社の前を右に折れると、馬頭観世音の石塔が4体も建っていた。そして、宝沢沼の増水時の水を阿武隈川に流す照内川を左に見ての桜並木で、街道に復帰する。
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照内川に架かる高江橋を渡ると上り坂でとなり、姿の良い松が見えてくる。街道の松並木の名残である。坂を下ると、牛ケ池の碑があり、記述によれば、文化年間(1804?1818)の始め、名主の滝田佐野右門が牛ケ池開拓を志し、二本松藩主より許可を得て私財を投じて開拓したことを後世に伝えようとするものであった。
さて、肝心の牛ケ池だが、一面に葦が茂って、水面は全く見えなかった。しかし、牛ガエル(食用ガエル)の野太い声が、僅かにここが池であることを語っていた。
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牛ケ池から100mほどで、街道は左に別れ、自動車の通行が減って有り難い。断片的に松並木が残っていて、馬頭観世音等の石碑が見られる。
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1Kmほど進むと、道は右にカーブしながら上って行き、藤田川と東北本線を跨ぐ。自動車は、ぐるりと一巡して下の道路に下りるが、歩道は線路を跨いだところで、下りる階段がある。
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階段を下りると「日和田宿」である。300mほど進むと、左に八幡神社がある。「日和田宿」の総鎮守である。
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三春駒で有名な三春藩への追分を過ぎ、日和田駅入口を過ぎると、左側に「蛇骨地蔵堂」がある。参道には多くの石仏、石塔が延々と並んでいる。蛇骨地蔵堂は、養老7年(713)に開山され、現在の建物は享保3年(1718)の再建とのこと。当初は東勝寺の所管であったが、幕末に東勝寺が廃寺となり西方寺に移された。禅宗様式を基調として、柱や架構も雄大で、使用部材も良く、郡山市随一の仏堂建築で、市の重要文化財に指定されている。
しかし、蛇骨地蔵堂とは特異な名前の地蔵堂であり、その由来を調べると、下記のような物語が存在した。
昔、この地は、安積左衛門忠繁という領主が治めていた。忠繁には、あやめ姫という美しい娘がおり、彼女に心を寄せる若者が多く、あるときこのあやめ姫に恋した家臣の安積玄蕃が、結婚の申込みをしたが断られ、これを恨んだ玄蕃は、母親と父の忠繁を殺してしまった。
 あやめ姫は大変嘆き悲しみ、館の近くの安積沼に身を投げてしまったが、悲しみと恨みの心は、その姿を大蛇に変え、荒神となって天変地異を起こすようになった。不作が続く里人は、毎年村の娘を一人づつ人身御供に捧げることにして、あらぶる霊をなぐさめようとした。
 それから30年余りが過ぎたある日の事、33人目の人身御供に選ばれた娘の父親はあきらめきれず、娘の命を助けて欲しいと長谷の観音に参拝し、そこで佐世姫という両親ともに死別した娘に出会った。佐世姫はこの話を聞くと、自分が身代わりになるという。大蛇の棲む沼の傍で佐世姫がお経を読み始めると、水面がにわかに波立ち、中から大蛇が現れた。
 佐世姫はかまわず静かに経を読み続けると、初めは荒ぶっていた大蛇はやがて静まり、あやめ姫が現れた。あやめ姫は、「あなたの気高い心とお経のおかげで、やっと迷いからさめて往生できました」と、天女となり天界へ舞い上がっていった。
 あとには、大蛇の骨が残され、佐世姫はその蛇骨で地蔵尊を彫り、あやめ姫の冥福を祈ったと云う。この佐世姫と、人身御供になった32人の娘達を祀ったという三十三観音が、地蔵堂の後ろに並んでいる。

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また、境内には、西方寺の笠松と呼ばれる見事な松がある。樹齢250年と推定され樹高4m、枝張りが東西南北とも11mもあり、とても立派な体裁を保っている。管理も行き届いて、郡山市の天然記念物に指定されている松は、この1本だけとのこと。
さらに、参道にはイチイの木がある。福島県指定の天然記念物である。
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日和田宿の終わりは西方寺で、永世年間(1504?1521)の開基と伝えられる。当初は現在地より約1km西方にあったようだが、享保年間(1716?1736)に現在地に移ったとの事。ここの木造大日如来坐像は、福島県指定の重要文化財となっている。


koriyama_35.jpg西方寺を過ぎて、600mほど進むと万葉の時代から歌枕として有名な「安積山(あさかやま)」があり、現在では「安積公園」として整備されている。万葉集には「安積山 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を吾思はなくに」の歌が由縁書きを添えて巻十六に記されている。また、古今和歌集には「みちのくの あさかのぬまの 花かつみ かつみみる人に 恋ひやわたらん」があり、多くの歌が詠まれるようになった。ところで、この歌の「花かつみ」であるが、あやめ、花菖蒲等、諸説ありハッキリしないが、明治9年6月17日、明治天皇の巡幸のさい、ヒメシャガを花かつみとして天覧に供し、以後、「ヒメシャガ」が「花かつみ」とされ、昭和49年、郡山市の花に制定された。
芭蕉も旧暦元禄2年(1689)年5月1日に曽良と訪れ、万葉集に名高い「花かつみ」を尋ね歩いている。奥の細道にも、「等窮が宅を出て五里斗、檜皮(ひはだ=日和田)の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども更知人なし。・・・」と記している。
芭蕉の訪問を記念して、芭蕉の小道が作られ、その奥にある山の井の清水に続いていた。
また、入口の門が造られ、歌まくらの地に相応しく、ここで詠んだ歌の佳作が展示されていた。
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少し進むと、右側に横森新田の姉ヶ茶屋跡がある。明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)御遺跡の碑が建っているだけだが、景色の良い所であり、参勤交代の行列が必ず休憩所とした所である。
その後、磐越道をくぐって山際の道を2Kmほど進むことになる。歩道も無いので、道がカーブしているところは、突然に車が現れるので気が抜けない。
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ようやく、民家が立ち並び始め、右手に濁り池が現れ、さらに700m程進むと、右手に竜宮門を構えた「山清寺」がある。ここは、中世以来、畠山氏が居城した高倉城の入り口である。天正13年(1585)に行われた伊達政宗の二本松攻撃には、佐竹、葦名、相馬、二階堂、岩城、白河結城、石川が連合して戦ったが、高倉城主の高倉近江は政宗側に寝返り、その後この山城は政宗の郡山合戦の前線基地となったようである。
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1Kmほど先で、道は左に曲がる。その角に村社・鹿島神社がある。長い石段を上ると、夫婦杉があり、迫力のある狛犬が睨みを効かせていた。
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