2010.07.05
本宮から二本松
山際の道を離れて、田園の中の道を進むと、本宮市の表示板が立っていた。長い郡山市の終わりである。
そして、直ぐに五百川を渡る。五百川の名前の由来には、萩姫の伝説がある。南北朝時代から室町時代初期の頃、公家の娘が不治の病にかかり、夢枕に立った不動明王から、都から東北方面に行き、500本目の川岸に霊泉があるというお告げを受けた。これに従ってたどり着いた萩姫は、2年ほど滞在して湯治して全快し都へ戻ったと伝えられる。
五百川を渡ると、右側は本宮南工業団地で、工場群が延々と続く。日差しが強く汗で上半身はビッショリである。1Kmほど進むと、左の田圃の中にこんもりとした木立が見え、草道が伸びている。辿ると、富士愛岩神社があった。愛宕神社とばかり思い込んでいたが、愛宕ではなく愛岩である。どういう謂れなのであろうか。
街道に戻ると、すぐに「新昌寺」がある。山門前の板碑は、新昌寺石造り供養塔で、本宮市指定文化財である。説明板によると、上面の種子キリーク(阿弥陀如来)と、正安4年(1302)の紀年銘及び「右志者為過去」と判読でき死者の供養のために造立されたものと思われる、と書かれていた。
500mほど先で、短い区間だが旧街道が左の集落の中に残っていた。進むと集落の中ほどに「申供養塔A群」の立て札があり、4つの供養塔を含み石塔群が建っていた。
供養塔は、正応5年(1292)の記述があり、鎌倉時代のものであり、本宮市の指定有形文化財となっていた。供養塔以外の石塔も立派で謂れのありそうなものであった。そして、最後は草道で、民家の軒先を通るような感じになり、山田橋のところで広い道路に合流する。
山田橋を渡ると、道は緩やかな上りとなる。川の水は、雨の増水で濁っていた。
坂道を少し上ると、左側に「積達騒動(せきたつそうどう)鎮定之遺跡碑」が建っていた。説明板によると、江戸中期の寛延2年(1749)に二本松藩内で発生したただ一つの百姓一揆が「積達騒動」と言われている。寛延2年の収穫は平年の4割りであったが、年貢の軽減はわずかで不作が続いていたため農民の不安感が増大しついに農民一揆が起こった。一揆は1万8千人ほどに膨れ上がったが、本宮の町役人達は八方画策し、長百姓の冬室彦兵衛らが中心となって農民の要求を藩に認めさせ流血を見ることなく解散させたとある。
阿武隈川が街道の右に迫ってきて、本宮宿の中心が近づいてくると、左側に本宮観音堂がある。
かつて、奥州街道は、この観音堂の裏手側で、観音堂も後ろ(東側)を向いていたが、明治になり、境内の一部を削り、国道(現県道須賀川二本松線)が反対側に作られたので、それに伴い、こちら側に向きを変えられたとのこと。
境内には、「太郎丸観音堂供養塔」が金網に囲われていた。説明板によれば、厨子を形どるような枠をとり、半肉彫りで、中央に本尊阿弥陀仏を、右に合掌する勢至菩薩、左に蓮華を持った観音菩薩を踏割(ふみわり)蓮華の上に立たせている「浮彫阿弥陀三尊来迎塔婆」である。 鎌倉時代中期以降のもので、本宮市有形文化財に指定されていると書かれている。
さらに、郷土につくした人として、小沼貞長公霊碑が建っていた。説明板によれば、貞長は田村郡船引城主であったが、田村氏が没落したのち浪人となり、慶長5年(1600)57歳の年に本宮に移り住み、 若松城主上杉景勝から荒地250石を与えられ、通称南町に新しい町の建設を計画した。伊達政宗が本宮通過の際、新しい町の建設の話をしたところ、政宗は賛同し、永楽銭200貫を与えたという。貞長は賛同した人々に奨励金を分け与え建設に着手し、慶長13年(1608)に新しい町を完成させたとのことであった。
観音堂の隣に薬師堂がある。境内には、本宮生まれの医師で、漢詩、和歌、連歌、俳句にも優れた文化人の伊東太乙(たいつ)の碑、本宮生まれの医師で、のち二本松藩の侍医となった九思堂小泉尚賢先生の碑などがある。
郵便局のある本宮宿南町の中心部と、本宮駅付近である。
本宮の名は、久安2年(1146)町の北の菅森山に安積郡の総鎮守として安達太良神社が建てられたことに由来する。本宮宿は、安達太良川を境にして北町と南町に分かれていたが、この山の上に領主の館があったことから、戦国時代に、まず北町を中心として宿場町が形成され、江戸時代になって南町まで町が拡大した。 本宮宿は、江戸時代には、奥州街道筋では屈指の規模の遊郭があり、人形浄瑠璃で”奥州街道本宮なくば何をたよりに奥がよい”と謡われるほど有名であった。
安達太良川に架かる本宮橋である。この橋を渡ると本宮宿の北町である。安達太良川は、この橋の直ぐの下流で阿武隈川に合流する。また、昭和61年(1986の台風で本宮町の中心部で679戸が床上、床下浸水の大洪水となり、大規模な護岸工事を行った。
北町に入ると、蔵座敷の古い家が残されていた。少し先には安達太良神社がある。久安2年(1146)2)安達太良山と大名倉山の神々をここに遷し、安達一郡の総鎮守とした。鳥居をくぐり、木々の茂った長い階段を登ると東向きの社殿がある。
安達太良神社を後にして進むと、百日川にぶつかり、その向こう側に「石雲寺」がある。境内の大銀杏は福島県登録の緑の文化財である。
街道は百日川の手前なので、橋を渡って引き返し街道に復帰する。北町の終わり付近の町並みを見ながら進み、百日川に架かる「枝沢橋(えださわはし)」を渡る。川の様相も急に変わってくる。
右手に石仏、常夜灯、髭のお題目塔がある。その先で、道は2つに別れているが、街道は真っ直ぐ進む。
山際の道を2Kmほど進むと、ようやく二本松市の表示板があり、少し先に薬師堂への階段が見えてきた。長い階段で、疲れた身にはなかなか難儀なことと思い、上るのはスキップした。
薬師を過ぎ、坂を下り東町に入って行く。そして、杉田橋を渡り、東北本線の踏切を渡って杉田宿の中心部に入って行く。
1Kmほど進むと、国道4号線をくぐるが、その先で国道から分岐した県道355号線に合流して、交通量の多い道路となる。しかし、700mほどで右に別れる。新座分岐である。
しばらく進んで、上り坂になり、上り詰めると「木登り地蔵尊」が左側に建っていた。
説明板には、今から約600年前、畠山氏がこの地を治めていたころ、畠山一族には病気などの不幸が続いた。
3代目畠山国詮は、那須野ヶ原の金毛九尾の狐が、娘に化けて人々を苦しめていたのを一休和尚と会津熱塩の源翁和尚の合作による地蔵尊を祀って祈祷したところ狐を退治できた。このことを知って、その地蔵尊を竜泉寺の全忠和尚に頼んで譲りうけ、この地まで背負って来たが、少し休んで歩き出そうとしたところ、再び背負うことが出来なかった。同じ畠山領地内であり、また霧ヶ城(二本松城)の病門にあたるところから、この地に病気除けとして祀ることにした。
それから十有余年過ぎてのこと、地蔵尊は小男ほどもあるにもかかわらず、木造りのためか、時折木の根の穴に首を突っ込むので、竜泉寺3代淳学和尚が別々に石の地蔵尊を造り木の股に納めたところ、悪病の流行や天災の時には赤頭巾を飛ばしたり、和尚に夢知らせを三晩と続けた。
その時は、村人を集め祈祷し災厄から救うことが出来た、と書かれていた。
なんだか、よく分からない話しである。
眼鏡橋で羽石川を渡る。直ぐ右には東北本線が通っていて、先には二本松インターと国道4号線を結ぶ高架橋が見える。高架橋をくぐる直前には、二勇士の碑の道標がある。
戊辰戦争で、三春藩の降伏により側面を突かれることになった二本松藩では、やむなく少年隊に出撃を命じた。二本松少年隊は、十二歳から十七歳までの少年から成る一隊である。このときの戦闘で薩摩軍に切り込んだ二人の二本松藩兵の青山助之丞(21歳)と山岡栄治(26歳)を称える石碑が建てられているのである。
坂道が下りに差し掛かったところに、馬頭観世音の石碑があり、その先で道は大きく左に曲がりると、若宮の交差点が見えてくる。交差点を過ぎ、街中を流れる六角川に架かる四ツ谷橋を渡り、次の若宮一丁目の交差点で右折する。
若宮一丁目の交差点を右に曲がると、かつての宿場であるが、戊辰戦争で二本松宿は一夜にして焼け落ちたので、今の町並みはそれ以降に建てられたものである。
真っ直ぐ進んで突き当たりは枡形で、その角には明治7年創業の檜物屋(ひものや)酒造店がある。銘柄の「千功成」は、秀吉の千成瓢箪に因んで「千成」と名付けたのが始まりで、後に千の功績をという意味から「千功成」に改められたという。
枡形を過ぎると、二本松神社がある。二本松神社は寛永20年(1643)二本松藩成立に伴い藩主として入部した丹羽光重公の敬神愛民の精神から丹羽家の守護神である八幡宮を左に、領民の守護神を右に二つの神様を祀る御両社として現在の場所に遷宮された。
350年の伝統を誇る二本松のちょうちん祭が有名で、秋田の竿灯、愛知の一色提灯まつりと、共に日本三大提灯まつりと言われている。
疲れた体に鞭打ち、高い階段の二本松神社に参拝して、今日はここまでと二本松駅に向かった。駅に着くと、午後3時40分で、次の上り電車は午後4時21分であった。
ようやく、電車が来て、郡山に向かい新幹線のやまびこに乗り換え帰宅した。