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2007.05.12

箱根から沼津(1)

本日の万歩計31,984(21.1Km)

5月の連休の後半は田舎での高校同窓会参加のため、旧東海道を歩く旅はお休みで、2週間ぶりの歩行となった。
前回は箱根の関所を越えたところで打ち切ったので、まず、その場所にバスで行き、歩き始めた。最初は箱根駅伝の広場である。 素晴らしいブロンズ像が建っていて、嬉しいことに今日は快晴で富士山も顔を覗かせている。
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mishima_002.jpg歩いてゆくと、ほどなく駒形神社方面と書かれた分岐点に達し、大通りから別れ湖面方面に進む。 直ぐに駒形神社を左に見て、旧東海道の入り口に達するが、右に曲がると芦ノ湖の遊歩道である。ちょっと迷うところであるが、道標が出ているし、旧東海道に入ると直ぐに石仏群がある。
旧東海道に入ると直ぐに石畳の道となるが、最初は道の左側に水路を兼ねて作ったのか、歩き易い部分があった。
しかし、これは数10mでなくなり、本来の石畳道となる。そして、200mほど進むと国道の下を潜り抜けるポイントに達した。
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さらに進んでゆくと、石畳の石も苔が生しており、歩き難いが良い感じである。数百mほどで箱根峠近くの国道に飛び出すが、箱根新道との合流点でもあるので道路が複雑に入り組んでいる。間違えないように注意し、また横断歩道もないので道路の横断にも注意を要する。そして、箱根峠に向かうべく、ゴルフ場への取り付き道路の方に向かったら、突然に富士が顔を出した。 やはり嬉しい。

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mishima_007.jpg箱根峠には長距離トラックなどが休憩するための広い駐車場があり、その隅に女性の有名人が言葉を記したモニュメントがあった。以下に記すと
橋本聖子「細心大胆」、宮城まり子「私は彼らと共に泣き また笑った 彼らは、ただ私と共にあり、私はただ彼らと共にあった。」、橋田寿賀子「おしん 辛抱」、黒柳徹子「花見る人はみなきれい」、穐吉敏子「道は段々 険しく」、向井千秋「夢に向かってもう一歩」、桜井よしこ「花は色なり 人は心なり 勇気なり」
源実朝「箱根路を 我が越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に浪のよる見ゆ」
源実朝の歌は有名なので別として、他の有名女性陣のは、どうも、あまり心に響かなかった。

mishima_008.jpg休憩用駐車場では、オートバイツーリングの若い一団も休んでいた。 彼らの移動速度は歩くのとは格段の差だ。
mishima_009.jpg箱根峠から右方向のゴルフ場への道を進むと、300mほどで旧東海道への入り口に達する。
入り口には旧東海道の案内板のほか、江戸へ25里、京に100里の石碑も建っていた。 ここに行く前は旧東海道への入り口が分かり難いのではと危惧したが、杞憂であった。

旧東海道に踏み入ると直ぐに休憩のための綺麗な「あずまや」がある。静岡県は旧東海道の宿の数も一番多く、大変に力を入れているそうだ。そして、横に入ったところに、井上靖の「北斗欄干」と書かれた碑がある。碑全体が指の形をしており、北極星を指し示している形だという。
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最初の下り坂は「甲石(かぶといし)坂」という。道の両側から「篠竹(しのだけ)」が垂れ下がってきて、トンネルのようで良い感じ。石畳も竹の枯葉が積り、かなり覆われている。
「兜石跡の碑」が見つかった。 以前はここにあったそうだが、国道の拡張工事で邪魔になると移動させたという。しかし、国道を走る車の音も聞こえないほど離れているのに、何故邪魔だったのだろう?
mishima_012.jpgmishima_013.jpgmishima_014.jpg500m程度であろうか、旧東海道は国道と交差する。旧東海道は国道を横切ったところから続いているが、今は通れないので右方向に国道に沿って進むと、ほどなくまた、旧街道の入り口がある。この入り口には写真ような特色のある道標が建っている。静岡県ではこの統一されたスタイルの道標を市街地域にまで建てている。
なかなか感じが良く旧街道を紹介するのに適した重みもあるように思う。一番上には東海道で、どの位置にあるかを示す里程表示があり、その下に、富士山を示すのかデザインされた”M”の字様のものが書かれている。さらにその下に、「夢舞台東海道」と書かれているが、読みは「夢ステージ東海道」というのだそうだ。
直ぐに「兜石」に対面する。先ほどの「甲坂」から移したものらしい。兜の形をした石なので「兜石」と呼んだのであろうが、秀吉が小田原攻めのときに、兜をこの石にのせたからとの説もある。しかし、それはないだろう。関白となっていた、秀吉はもう兜などかぶらないと思うのだ。
このあたりは、勾配が緩やかで石畳でない道も多いが、石畳に比べて歩き易いし、直接地面なら歩いたときの衝撃も小さいので、とても楽だ。
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石原坂と言われる坂道を下ってゆくと「念仏石」と呼ばれる大きな石がある。さらに、大枯木坂というところを下って行くと、突然民家の庭先に飛び出す。
写真中央のやや右よりに見えるのが辿ってきた旧東海道であるが、右の方ではおじさんが木の刈り込みを行っている。旧東海道に接して家を作ったので、時々旅人が庭先を横切ってゆくはやむを得ないのだろう。
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民家の庭先を過ぎると、一度国道に出て直ぐに「小枯木坂」という坂道に入る。横断歩道がないので、国道を渡るタイミングを見計らっていた若い女性が会釈を返してくれた。
まだまだ、石畳の道は続くが、道幅は広くなっている。 乗用車は無理だが小型トラックなら無理をすれば登って来れるようで、軽トラックを1台見かけた。 また、落ち葉が沢山積もっているところもあり、歩き易いが滑り易い道でもあった。下手をすれば尻餅をつきそうだ。
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「小枯木坂」の終わりで国道と合流する直前に「雲助徳利の墓」がある。杯と徳利が浮き彫りになったユニークなものだ。 最近では楽器をデザインした墓石などもあるが、デザイン墓石のはしりだろうか。
謂れと詳しい解説の掲示板が建っていたので、詳細はそちらをクリックしてお読みください。
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しばらく国道を歩くことになる。直ぐに右手に樹齢500年の赤樫で有名な「駒形諏訪神社」があり、やがて右手に「宋閑寺」が見えてくる。このお寺では山中城での戦いで戦死した、北条軍、豊臣軍の両武将が静かに眠っている。
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次に「山中城址」を見学する。 この城は石垣を使わず土地に起伏をつけて作られたユニークなお城である。整備されて、とても美しいが山城であり城域も大きいため、とても全部を見る余裕はなく、ほどほどで退散した。
秀吉の小田原攻めに対する防御のために作られた城であるが、4000の守りに対し3万5000を擁する大軍の前に半日で陥落したとのこと。
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国道と旧街道が一緒になったり、離れたりを繰り返すが、旧街道に入って「芝切地蔵」を右手に見て、再び国道を歩いた後、「山中新田」の石畳を歩いてゆくと、突然に富士山が感動的な姿で見られるようになる。国道を過ぎるポイントには「霧しぐれ、富士を見ぬ日ぞ、面白き」と書かれた芭蕉の大きな句碑がある。芭蕉がここを訪れたときは、霧で一面 真っ白で全く富士を見ることが出来なかったのだ。さぞや、悔しかったことだろう。
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芭蕉の句碑を見て国道を渡り、旧東海道を歩き、旧街道が再び国道と接する場所に来た。「笹原新田」と言う場所だ。
そして、国道と離れる場所に達して驚いた。こんなところにラブホテルだ。ホテルの屋上の看板は、壊れているが入り口の感じからすると営業しているようだ。 直ぐ右側には旧東海道の石畳が続いているのにである。これも、過去と現在の交差点だろうか。
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次に国道をよぎると、道路は舗装されているが、勾配がとても急なところにきた。「こわめし坂」という。
背中に背負ったもち米が汗で、おこわが出来るくらいだというところから付いた名で、箱根西坂で一番の難所だったという。舗装されていても、とて急で足の指先が痛く感じるくらいで、石畳の江戸時代ではもっと大変だったと想像するに難くない。掲示板も建っていたので合わせてご覧いただきたい。
mishima_031.jpgmishima_032.jpgmishima_033.jpg「こわめし坂」を過ぎて、「三ツ谷新田」という地域に入り、県道だろうか、バスも1時間に1本ぐらい走っている道を進む。しばらくして、明治天皇も休憩を取られた「松雲寺」が右手に現れる。参勤交代の大名もこの寺で休憩をとることが多かったという。
この辺でハッキリと足の疲労を感じるようになってきた。また、旧街道に入って「臼転坂」を下って行く。旧街道は当然 石畳の道だ。
その後も延々と県道を歩くのが続き、「塚原新田」で塚原バイパスに合流する。 完全に町に下りてきた感じだ。しかし、これから続く「初音ケ原」と呼ばれる場所の「塚原バイパス」の歩道は松並木となっていて、歩道は石畳なのである。石畳とは言っても石をコンクリートで固めているが、やはり歩き難い。旧東海道の石畳に近い形を取るなら意味があると思うのだが、コンクリートで完全に固めても歩き難い石畳を配することの意義はあるのであろうか。また、歩道の途中には一里塚も復元されていた。
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mishima_036.jpg長い石畳の道をくたびれた足で歩き、ようやく「塚原バイパス」と別れ、旧街道に戻って「愛宕坂」を下る。
坂を下りきるとJR東海道本線の踏切を渡り、「愛宕橋」を渡って市街に進む。まだ、富士は大きく存在感を見せ付けている。
今回の箱根西坂の旅で東坂と根本的に違ったのは、山中の石畳道では誰にも遭遇しなかったことである。車の走る道路以外では、ほんとうに人の気配がないのである。道標が完備されているので山中にても不安を感じることはなかったが、東坂とは対照的であった。
三島市内から沼津は次のエントリーで・・・

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