2007.05.26

蒲原から江尻(2)

興津川に出ると「川越遺跡」があり、東海道線の線路を潜って「浦安橋」を渡る。「浦安橋」は欄干の形や傷み具合などから判断すると相当に古い橋のようだ。それにしても橋の傍らには太いパイプが走っているが、送水菅だろうか。
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yui_042.jpg国道を歩いて行くと、宗像神社の道標がある。宗像神社は奥津島比売命(おきつしまのひめのみこと)などの女神が祀られていて、興津の名前もここから来たと言われている。大変古い神で格式は高いが、江戸時代に女神であることから、弁財天信仰との混乱が生じ、神社の森をなまめかしい「女体の森」と呼ぶようになったという。近くの茶屋に美人が居たのも、なんらか期待感を抱かせるのを助長したようである。
やがて、右手に「清見寺」の山門が、ポツリと建っているのが見えてくる。階段を登り、JR東海道線を跨いでいる歩道橋を渡る。すなわち寺域がJR東海道線で分断されているのだ。
「清見寺」の創建は天武天皇とのことで、大層古いが、幾多の戦乱を潜り抜け現在に続いており、徳川家康も今川家への人質の子供時代には良く訪れたと伝えられていて、家康が接木した梅の大木(臥龍梅)もある。
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島崎藤村の「桜の実の熟する時」という小説の最後に出てくるという、五百羅漢の石像もある。この中から、自分の知っている人に似た顔を必ず見付けられると言うが、本当に500個の顔で日本人の全てを表せるかは疑問である。
また、「高山樗牛清見寺鐘声文碑」もあるが、石碑の刻印が浅くほとんど消えていて読めなかった。傍に立て札が立っていたので、文はそちらで読む。(碑をクリックしてください)
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山下清が清見寺を訪れたとき、なかなかに興味深い一文を残している。以下に引用する。
『清見寺スケッチの思い出』より
「清見寺という名だな このお寺は
古っぽしいけど上等に見えるな
お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかな
お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな
お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな
お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか
自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」

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清見寺から少し進むと、道路の左手に西園寺公望公の別荘の「坐漁荘」があった。
本物の建物は愛知県の明治村に移設され、興津では跡地は清見潟公園とされて、全く面影もなかったということだが、2004年4月に忠実に復元したものとのこと。無料で公開されていたので、見学させてもらったが、流石に洗練された美を感じさせる建物であった。
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「坐漁荘」を過ぎた後は、国道を淡々と進むのみで、全くうんだりだ。やっと国道から別れられてほっとしたが、相変わらず。楽しいとは言い難い道行だったが、JR清水駅を過ぎて右折すると急に綺麗な通りになった。後で調べると銀座通りと言う通りであった。暫くして、左折して「稚児橋」を渡った。
江尻を流れる巴川に橋が架けられたのは慶長12年(1607)だが、伝説では橋完成の渡り止めに地元の老夫婦を選んでいたが、橋を渡ろうとすると突然 童子が現れ橋を渡った。実はこの童子は河童であったとされ、橋の欄干の飾りとして、4つの河童の像が設けられているのである。
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ひたすら歩いて行くと、「身延山」へ道路が分岐しているところに達し、道標が建っている。
また、そこには元禄8年創業という「追分羊羹」の店があった。お土産に買うと、冷たいお茶とお絞りに羊羹一切れを小さなお盆に載せだしてくれた。お茶は冷たく、羊羹ともよくマッチしておいしかった。暫く休息を取らせてもらって、お礼を言って店を出た。
yui_051.jpgyui_052.jpgyui_053.jpg「追分羊羹」の店から、少し進んだところに、都田吉兵衛の供養等があった。都田吉兵衛は都鳥(みやこどり)という通称で呼ばれていたが、酒好きの「森の石松」が次郎長から酒を止められていたのを、言葉巧みに酒を進めて100両の金を奪う。森の石松は命に関わる傷を負わされているにも拘わらず金を取り返しに行き殺されてしまう。
怒った清水の次郎長は、手下とともに都鳥を石松の仇とばかりに、討ちとった。その当時は誰も都鳥を供養しようとするものは居なかったが、しばらくして里人が憐れに思って供養等を建てたという。日本人の優しさの現われである。
yui_054.jpgまた、ひたすら歩を進めてゆくと、「上原延命子安地蔵」があった。狭い境内を滑り台などの子供の遊具が埋めており、清溢さとは縁のなくなった地蔵尊であるが、ここは徳川家康と穴山梅雪が会談を行ったところである。
yui_055.jpg草薙駅に向かって歩いて行くと、ビル建設工事現場の片隅に比較的大きな一里塚の石碑が建っていた。ビルでも建った後はどのような感じになるのであろうか。
yui_056.jpgやっと、草薙駅の近くまできたが、大きな草薙神社の大鳥居が目に付いた。草薙神社と言えば、日本武尊が賊に襲われ草に火を放たれたが、天叢雲剣(あめのむらぐものつるぎ)を抜き放ち草をなぎ倒したところ、火は賊の方に向かって、難を逃れたとされるのを思い出す。このときより天叢雲剣は草薙の剣と名前が変わったと言う。
ともかく、草薙神社は大鳥居より1.5Kmも先とのことで、今日はここまでにすることにした。
駅前で茶屋(喫茶店)を見つけ、無性にアイスコーヒーを飲みたくなって入った。何時もは健康上の理由で砂糖、ミルクを押さえているが、今日ぐらいはとシロップをいっぱいとミルクも入れて飲んだ。うまかった。

2007.06.02

江尻から藤枝(1)

本日の万歩計54,434(35.92Km)
前回引き上げた草薙駅に7時30分に着き、駅前のベンチでベルトに吊るした飲み水容れの位置を直し、府中(静岡)に向かって歩き始めた。
府中の宿が近づくまでは、遺構もほとんどない道が続くが、JR東海道線で旧東海道は分断されていて、JR東海道線を3回も渡ることになる。しかも、いずれも地下通路での通行となるが、1回目の静鉄 県総合運動場駅の近くは、入り口がひっそりと目立たない感じでうっかりすると通り過ぎてしまう。
mariko_001.jpg実は1回目のJR線渡りで10分ほどロスをしたが、何とか長沼の交差点に達し、旧道を辿って行き、長沼の一里塚を探すことになる。見つかり難いことで評判のようなので慎重に道の左右を見ながら進んで行くと、道の右側に「久應寺」という綺麗なお寺があり、そこから10mほど進んだ道の左側の民家の軒下に石碑が建っていた。なるほど、これは見落としてしまいそうだ。
伝馬町に達して、徳川家康の祖母である源応尼の墓がある華陽院(けよういん)に行こうとした。地図を見ながら探すが案内表示など一切無く、直ぐ近くでも分からなかったが、ようやく目立たない門柱を見つけた。
「源応尼」の墓以外にも家康の五女の「市姫」の墓などもあり、また、家康手植えのみかん、松、柿の木と表示している木もあった。しかし、それらの木はいずれも300年も経ったものとはどうしても見えず、精々が数年程度と思えるのであった。
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いよいよ繁華街に入ってきた。江川町の交差点の手前には、西郷隆盛と山岡鉄平の会談のレリーフがあった。
江川町交差点を地下通路で渡り、御幸通りを南下して直ぐに呉服町通りに曲がると、流石にハイセンスなお店が並ぶ。そして、七間町通りに達して左折するが、ここに「札の辻址」の石碑がある。
七間通りは、道の幅を七間としたことから名づけられたのだが、現在ではともかく、江戸時代では七間幅の道路は、本当に大通りだったことだろう。
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七間通りを南下し、映画館が密集している場所のミラの座が左手に見えるところで右折し、2つ目の通りを左折して南下を続ける。この通りは、もう繁華街の華やかさは無い。やがて、川越町の交番に達するので、その背後にある三角形の緑地を訪れる。ここで最初に見つかったのは「安部川架橋の碑」である。この碑は明治7年に宮崎総五郎が私財を投じて安部川に架橋した顛末を後世に伝えるため明治40年に建てられたとあった。
次に、江戸市中で自害した「由比正雪」の墓石があった。由比の比が、ここでは井になっていた。
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いよいよ、安倍川を渡るが、その前に昔も今も「石部屋(せきべや)」の「安倍川餅」を食べなければならない。
メニュー書きは江戸時代から変わらず、掛け軸のような感じだが、「安倍川餅」と「からみ餅」の2つしかなく、その江戸時代のメニュー書きの値段のところに600円と書いた紙を貼り付けてあった。また、有名人の訪れた記念の短冊ようのものが、ずらりと貼られていた。
お店の奥さんが、お茶をと、しばらくして注文した「安倍川餅」を出してくれた。どうと言うことの無い、小豆あんをまぶしたのと、きな粉をまぶしたのと2種類の小ぶりのお餅であった。家康が感激するほどのものであったのだろうか。それはともかく、丸子の宿で昼食をとるまでの間食として適当なものであった。
おやじさんは硬派で怖い感じと伝えられていたが、仕事が一段落したのか、歩くのに使っている案内地図を見せてと話しかけてきて、なかなか気さくな一面を見せていた。
mariko_008a.jpgmariko_008.jpgmariko_009.jpgそして、安倍川橋を渡った。歩道のある橋で歩き易かった。川では、数人の釣り人が釣りを楽しんでいたが、まだ鮎の解禁には早いので、何が釣れるのか気になった。
安倍川を渡ったところは、鎌倉時代は手越宿と呼ばれたところである。謡曲「千手」で有名な少将井神社があるので、探して訪れた。
小さな神社で、お社(やしろ)はどうと言うことも無いが、左の方に謡曲「千手」の主人公の白拍子「千手の前」の石像が建っていた。謡曲史跡保存会の案内板の内容は少し長いが、以下に引用して書いておく。
源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉で憂愁の日々を過ごす副大将平重衝を慰めるようにと、源頼朝は白拍子千手の前を遣わしました。
 和歌・琴・書に秀でた千手の前の優に優しい世話に、重衝も心を通わせ、互いに想い合う仲になりました。
 先に、東大寺を焼いた重衝を、奈良の荘は思い仏罰だとして引渡しを強要し、再び京都へ護送する途次に殺してしまったのです。嘆き悲しんだ千手の前は、尼となって重衝の菩提を弔いつつ生涯を閉じました。
 少将井神社は、手越長者の館跡と推定され、重衝と千手の前との哀切の情愛を主題とする謡曲「千手」の生誕の地と伝えられています。

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沢渡(さわたり)で国道から別れ、旧道を進んで行くと、「一里塚跡の碑」があり、また「丸子宿本陣跡の碑」も見つかった。
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面白いことに、この辺りでは厚い板に「家の屋号」を書いたものが、掲げられている。どの家にもユニークな屋号が掲げられていて興味深い。
また、由比で紹介した「お七里役所跡の碑」も建てられていたが、3人連れの若いグループが説明書きを読み、「へ?、紀州から・・・」と驚いた声を上げていた。
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丸子の名物、丁子屋(ちょうじや)に到着しました。この丁子屋ほど、安藤広重の「丸子の宿」の画とよくマッチしているのではと思う。もちろん。江戸時代の建物ではないが、どこかで茅葺の家を見つけて移設したようだが、本当に素晴らしい家をよく見つけたものだ。写真に写っている若い女性の服装が江戸風ならもっと良かったのだが。
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建物の右よりのところには、芭蕉の有名な句の「梅若菜、丸子の宿の、とろろ汁」があり、また、「十返舎一九」の丸子の宿での一節が記されていたが、読めない。と思ったら、石碑の左下隅に小さく、現在風の字で書かれていた。下記に記す。
けんくハ(けんか)する夫婦ハ口をとがらせて、鳶(とんび)とろろに、すべりこそすれ
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ここに来たら、とろろ汁と決めていて、途中に感じの良さそうな海鮮料理店もあったが、一目散に丁子屋に行き、メニューの中で一番安い「丸子」を頼んだ。お櫃に入った麦飯にお吸い物と漬物が付き、あとは小型のすり鉢に自然薯(じねんじょ)のとろろ汁が出てくるだけである。これで、1,380円は少し高い気もする。
食べ方は、お茶碗に麦飯を盛り付け、とろろをぶっかけて食べるのだが、意外と美味しい。何か、だし汁が混ぜてあるのだろうが、喉越しが良い。お櫃を空にして満腹になったが、周りで食べている人達も満足そうだ。
冬に来ると、囲炉裏に火が入り一層、おもむきが出るのだろう。
mariko_020.jpgmariko_021.jpgmariko_022.jpg食べ終わって、支払いを済ませ亭内を見学させてもらったら、「一返舎一九」の実物大の像があった。
それ以外にも、徳川家康が使ったお椀など一式や、江戸時代の煙管(きせる)など色々と展示されていた。
さて、丁子屋を後にして「宇津の谷峠」に向かうが、これは新しいエントリーで・・・

江尻から藤枝(2)

丁子屋(ちょうじや)を出て、丸子川を渡ると、直ぐに「高札場」が復元されていた。古い掲示内容と新しく書き直したのを合わせて掲示しているので、賑やかだ。
その後は、民家もまばらな街道を歩いて行くことになるが、こう言う場所にもラブホテルが数軒建っていたのは興ざめだ。やがて国道1号に合流し、その後も部分的に分離したり合流したりを繰り返しながら進んで行く。
やがて、「道の駅」に到達するが、そこからは、国道1号線の上りと下りの2つのトンネルの入り口が見える。
国道は元々は昭和34年に作られたトンネル1本であったが、増大する交通量に対応するため、平成10年にもう一本のトンネルが作られ、下り線専用とし、以前の昭和トンネルは上り専用とした。
mariko_023.jpgmariko_024.jpgmariko_025.jpg 平成と昭和のトンネルの直前で国道から右に逸れる道路があるので、これを進み大きく左にカーブする道なりに進んで行くと、県道と旧東海道が分かれる地点に達する。
ここには、「ようこそ、宇津ノ谷へ」で始まる大きな案内板が建っており、綺麗に整備された旧東海道へ誘ってくれる。
落ち着いた集落の道を上って行くと、秀吉からもらった「羽織」を保存している「御羽織屋」がある。
上がりこんで秀吉の羽織を見せていただいた。相当に歳を取られたおばあさんが、顛末を話してくれる。
既に知っていた話であったのだが、秀吉公から馬の草鞋を所望されて、当家の主人は草鞋を3脚分差し出した。なぜ3脚分かと聞かれて、後はお帰りに差し上げますと申し上げた。帰りを約束するのは勝利を前提にしている。また「あの山は?」と聞かれて「勝ち山」、「あの木は?」と聞かれて「勝栗」と、縁起の良い答えを連発して、秀吉公はいたくお喜びになり、北条との戦に勝利した帰りにもお立ち寄りになり、礼にと着用の陣羽織を拝領した。と言うものであった。
羽織は、ここを通る大名達も着てみたがり、ボロボロになってしまっていたが、博物館に出展したときに修復してくれたのだという。
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集落の道は、最後には階段になっている。ここを上りきると、旧東海道と宇津ノ谷トンネル(明治のトンネル)への分かれ道(丁字路)に行き着く。
ここで、旧東海道を進む前に「明治のトンネル」に寄って見ることにした。
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明治のトンネルは、明治9年に作られたが、その後ガス灯の失火で崩落し、明治34年に再度整備されたものだとのこと。トンネルは内部にはガス灯を擬したライトが点いていて、明るい感じであったが、足を踏み入れるとライトとライトの中間付近では足元も良く見えないほどで、少々緊張する。
mariko_029.jpgmariko_030.jpgmariko_031.jpg明治のトンネルを往復(250m程度の長さ)して、元の分岐点に戻り旧東海道の方に進む。上り口は分岐点から直ぐのところだが、表示矢印の案内板が古く、あまり目立つものでなく見逃しそうになる。
しばらく上って行くと、通り過ぎた集落が下に見え、先ほど立ち寄った明治のトンネルの入り口付近のあずま屋も眺望できる。

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宇津ノ谷峠の山道は、確かに寂しい道で、河竹黙阿弥の傑作と言われる「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」の舞台となっただけのことはある。しかし、歩き易い道で、進んで行くと音信不通で7,8年ほどにもなり、友人が作ったという、「雁山の墓石」があったり、地蔵堂の跡などがあった。この地蔵堂は、まさに歌舞伎の文弥殺しの舞台となったところと言う。
mariko_034.jpgmariko_035.jpgmariko_036.jpgほどなく、さほど長くは無い峠の登りが過ぎ、下り坂となった。下り坂はかなり急だが、距離は短い。直ぐに国道との合流点に出られた。途中では、明治のトンネルを通って来たと思われる人と出会ったが、旧東海道の山道では誰にも会うことはなかった。
国道に掛かった歩道橋を渡ると、過去から現在に舞い戻った気分になるが、これから岡部の町まで、かなり長い国道沿いの道を歩くことになった。やっと、岡部の町に入り、元旅籠でほとんど昔のままの形で残っている「柏屋」が「歴史資料館」となっているのに遭遇した。上がりこんで色々と見せてもらえるようだが、今日は藤枝駅まで行きたいと思っており、時間的に余裕がないので外から眺めるだけで先を急いだ。
mariko_037.jpgmariko_038.jpgmariko_039.jpg県道から離れたり合流したりを繰り返しながら旧東海道は続くが、途中で「小野小町の姿見の橋」があった。説明板には「小野小町」が晩年に東に下る際、この橋の上で夕日に映える西山の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには旅に疲れた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだという、と書かれていた。それにしても、小さな流れだ。流れの幅は50Cmぐらいか。
徐々に足も疲れてきて、少し休みたいと思っていたら、バス通りで休憩場所が見つかった。ここは「五智如来像」と言うのを祀った場所であり、休憩所も併設されていた。
「五智如来像」の言われは、説明板の画像をクリックしてもらいたが、ここで少し休息を取った。
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岡部町も旧東海道の維持には力を注いでいると見え、松並木で欠けている場所では新たに松を植樹し、大きな岡部宿の石碑を建てていた。特に常夜灯はあちこちで見られたが、なかなか立派なものを建てている。
これ以降は藤枝の宿に入って行くことになる。
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藤枝の宿に入ったが、だいぶ、時間が気になりはじめ、どんどん歩いて行くと、「岩村藩領傍示杭」があり、さらに進むと「田中領の傍示杭」も見つかった。
mariko_044.jpgmariko_045.jpgmariko_046.jpg複雑な6叉路の「仮宿の交差点」で、歩行者に冷たい歩道橋を渡り、どんどん進んで葉梨川沿いの道を進む。八幡橋を渡ると、ほどなく須賀神社に達し、大きな楠がある。楠は大きく育ち易いのか、大きな木を見ることが多いが、ここの楠の巨大さは特別で、大きなうろには入れないように蓋を施していた。
藤枝では「だるま」がお土産に良いと聞いたような気がしていたが、達磨屋さんが見つかった。
最後に、平成になって掛けられた美しい「勝草橋」を渡ると、今日最後の「志太の一里塚跡」の石碑を見ることになった。江戸から数えて50番目の一里塚だと記されている。
ようやく、藤枝駅も近づいてきた。もう一息と「青木の交差点」を目指し、その後、藤枝駅に向かった。
さすがに、今日は少し実力オーバ気味で駅前のコーヒーショップで休息し切符売り場に行くこととした。
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2007.06.10

藤枝から掛川(1)

本日の万歩計54,417(35.91Km)
今日のコースは藤枝から掛川であるが、天気予想では午前は雨で午後から曇りとなっていた。
行くか中止すべきか、前の夜から迷っていたが、午前の雨も小降りで何とかお昼まで過ごせば、午後からは大丈夫だろうと考え、朝自宅から出るときに雨は降っていないのを励みに出かけることにした。
電車に乗っても、雨は降っておらず、しめしめと思っていたら、由比を過ぎた頃から本格的な雨降り状態で、藤枝についても変わらなかった。
どうしようと、作戦を立てる積りで駅の喫茶店に入り、コーヒーを飲んでいたら、小降りになり、これなら何とか歩けそうで、傘をさしても何とか島田までは行ってみようと考えた。
店を出ると、傘無しでも歩ける程度で、喜び勇んで歩き出したが、旧東海道が県道と合流する地点にある「六地蔵」に到達したときには、少し雨も激しくなり、手洗い場のわずかの屋根の下でリュックから傘を取り出した。
この「六地蔵」は相当古いようで、新しく6つの地蔵を彫った石の後ろに古い、半分崩れた石も見える。
さらに進んで行くと、中世の東海道との分岐点の石碑に達する。昔は江戸時代の東海道の付近は湿地帯で、開拓が進んで、初めて道を作ることができたとのこと。
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shimada_003.jpg 先週も気になっていたのだが、藤枝界隈では生卵の自動販売機が目に付く。あまり、他では見かけないように思うのだが。そして、旧東海道を歩いていることを実感することが出来る、松並木が綺麗だ。
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雨は幸いにも止んでしまった。そして、栃山橋東の信号機の手前に「昭和天皇御巡察之処」という石碑があった。明治天皇の碑は、ずいぶんと見たが、昭和天皇碑は始めてである。「昭和二十一年六月十八日」とあったから、戦後の巡幸のときであろう。
市街地に入ってきて、ほどなく「島田宿の一里塚跡」に達する。そして、5丁目の本陣跡である。この辺りは本陣、脇本陣が集中していたようで、その跡地がちょっとした憩いの場として整備されている。
shimada_006.jpgshimada_007.jpgshimada_008.jpg島田信用金庫本店前には芭蕉の句碑が建っている。なかなか読むのは難しいが、小さく詠み易い字で書いてある。読みは以下の通りである。
するがの国に入て はせを
「するがぢや はなたち花も ちゃのにほひ」

なるほど、芭蕉は「はせを」と記したのだ。
島田駅に向かう道路との交差点を渡ると、大井川神社がある。この神社は大井川を鎮め、子孫繁栄を祈願して創建された神社だが、近年では「帯祭り」で有名である。帯祭りは他町村から嫁いできた花嫁をつれて、太井神社に参拝した後、宿内の人に披露した、しきたりが変化して、帯だけを神社に飾って披露したのが始まりという。
近年では帯を飾るのも、ままならぬようになってきているので、祭りの形態もまた変化するのかも知れない。
shimada_009.jpgshimada_010.jpgshimada_011.jpgそれにしても、大井川神社は境内の緑がとても美しい。それと、石の秋葉灯篭は良く見かけるが、木造の「秋葉灯篭」は珍しいし、とても優美だ。
やっと、国指定の「島田宿大井川川越遺跡町並」に到着。ここから数100メータの間は、川越人足の宿や立合宿、川会所、札場などの建物がそのまま整備され残されていて、まるで江戸時代に紛れ混んだような気分になる。
しかし、ところどころに一般の民家も混じっているのが、なんだか不思議な感じだ。
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shimada_014.jpgshimada_015.jpgshimada_016.jpg川会所で内部も見学できるところがあり、記録を取る役人の様子や各種蓮台、などを見ることができた。
川を渡る最も安い方法は、肩車で渡してもらう方法で、平蓮台、半高欄蓮台、大高欄蓮台と料金がかさむ。
特に、大名が籠のまま乗る大高欄蓮台は、人足も大勢必要で大変な金額になったとのこと。

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川会所の庭には「馬方は しらじ時雨の 大井川」の芭蕉の句碑がある。
また、道路を隔てた広場には、「朝顔の松公園」がある。「生写朝顔話」という浄瑠璃で有名になった物語で、主命を帯びて急ぐ阿曽次郎を追いかける安芸の国娘、深雪。大井川の川止めで半狂乱になり激流に飛び込もうとしたところを、宿屋の主人戎屋徳右衛門に助けられ、旅の果てで盲目となっていた目が見えるようになり、初めて見えた立派な松。
その後、この松は枯れてしまい、現在は2代目である。
巖谷小波の句碑には 「爪音は 松に聞けとや 春の風」とある。
shimada_021.jpgshimada_022.jpgshimada_023.jpg島田市博物館も訪れたが、女性の髪形の「しまだ」の展示や、大井川の川越にまつわる展示が多く、興味深かった。
なお、写真には写っていないが、古い立派な民家を修復した「島田博物館分館」も見学したが、こちらでは「海野光弘」の花の旅と称した展示を行っていて、日本の原風景のような心温まる版画を多く見ることができ、建屋自体も優れた古き日本家屋で見ごたえがあった。
大井川橋の島田側口の傍には「永仲景述」と書かれた大きな碑があったが、どういう意味だろう。
さて、いよいよ大井川を渡ることになったが、歩いても歩いてもなかなか向こう岸が近づいて来ず、やはり大きい川であることを実感した。
金谷以降は新しいエントリーで・・・・・
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藤枝から掛川(2)

長い、大井川に掛かる橋を渡りきり、金谷の町に入ってきた。
金谷の旧東海道を歩いて行くと、古い秋葉灯篭などが見られ、大井川鉄道の線路を横切り、徐々に緩やかな坂道をJR金谷駅に向かって上って行く。
途中で蕎麦屋があったので、昼食を摂り、再び歩き始めようとすると、先ほどまでの小雨の空が、嘘のように晴れていた。
もう数10mで金谷駅という所に、夢舞台道標が建っており、ここが金谷の一里塚跡で江戸から53番目となる。
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一里塚跡の所で、JRの線路のガードを潜ると直ぐに「長光寺」があり、芭蕉の「道のべの 槿(むくげ)は 馬に喰われけり」の句碑があった。
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道は直ぐに左に折れ、かなりの勾配の坂道を登ってゆく。道端の民家の石垣は丸い石で積み上げてある。
1?200mほどであろうか、県道に飛び出し、どちらに進めばよいのかと思ったが、直ぐ左に「旧東海道石畳入口」と「石畳茶屋」の大きな看板が目に付いた。
進むと、直ぐに、石畳の道が始まった。箱根の石畳と違い、丸い感じの石が多く、先ほど見た民家の石垣の石と同様である。たぶん、この石垣や石畳の石は、大井川の河原で集めたものと思われる。
ほんの、数10m程度で「石畳茶屋」があり、お茶、コーヒーなどの飲み物以外にも蕎麦、うどんなどが食べられる。この茶屋は、荒れていた石畳を地元の人達が復元したときに、作られたと思われるが、つい先ほど食事をしたばかりであり、スキップして進むこととした。
shimada_030.jpgshimada_031.jpgshimada_032.jpg平成の道普請と称し、復元された石畳の道は430mとのことだが、江戸の石畳との違いは側溝を設けたことだという。なお、この坂は金谷坂と言うそうだ。
復元前は、コンクリートが流されたり、石が流出してしまった場所などがあったそうだが、全て剥がして、新たに石を敷き詰めたとのこと。石畳は綺麗に復元されたが、江戸時代の石を剥がしたので、歴史的、学術的な価値は損なわれてしまった。
shimada_033.jpg430mの石畳を歩き、車の通れる地方道に出て、引き続き歩いて行くと、「諏訪原城跡」がある。
天正元年(1573)に武田勝頼の臣下馬場美濃守氏勝を築城奉行として作らせた山城だという。
典型的な武田の築城様式の城とのことだが、箱根で三島に下るときに見た「山中城跡」に似て、空堀で石垣を使わない山城の作りである。全体像を把握するには山の中を歩き回る必要があるようで、全部を見るのは無理と考え、一部の堀の跡のみカメラに収め、次に進むことにした。
shimada_034.jpg諏訪原城跡を過ぎると、直ぐに間の宿の「菊川」への急な石畳の下り坂が続くが、この坂は「菊川坂」という。
この辺りから、遠くの山肌にお茶の木を使って「茶」の字を描いているのが見えるので、カメラをズームにして撮影した。
shimada_035.jpg菊川坂の下りは、一部、道の半分が舗装道路となっているところがあったが、やはり生活道路として利用するには、石畳だけでは厳しいからだろうか。
「菊川坂」も地元の人達の努力で復元したものだが、金谷坂の反省に立ち、江戸時代の石畳が残っているところは、そのまま残し、石などが流出したところのみ、新たに石を敷いたのだという。
石畳復元に参加した方々の名前を刻んだ大きな金属の表示板があり、また感謝の言葉も江戸時代の文体を模したものとなっていた。なかなか、ユーモアのセンスにあふれている。
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ほどなく、菊川の宿が見えてきた。山間の落ち着きを見せる宿である。
暫く歩いて、本陣跡に達すると、承久3年(1221)後鳥羽上皇の変に味方して捕らえられた、中納言宗行が、鎌倉へ送られる途中の菊川の宿で、柱に死期を覚って書いた漢詩の碑と同じく死期を覚った日野俊基の歌碑があった。
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中納言宗行は、
「昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊河 宿西岸而失命」
意味は、「昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ぶ、今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う」
その約100年後、日野俊基は正中の変の翌年、幕府転覆首謀者として密告され嘉暦元年(1326)捕えられ鎌倉に送られるが、ちょうど中納言宗行が詩を書いた菊川にやってきて歌を詠んだ。
「いにしえも かかるためしを菊川の 同じ流れに身をやしづめん」
そしてその予感通り、日野俊基もまた、まもなく命を絶たれるが、日野俊基が京を出たのは7月11日であり、中納言宗行が菊川で詩を書いたのは7月10日であった。なんと、両者が死を予感した時期は、約100年を経ているが、季節では、わずか1日しか違わないのである。
shimada_040.jpg菊川の本陣跡から直ぐのところに、写真のように「矢し根鍛治」と書かれた、大きな絵が家のシャッターに描かれた家がある。ここは、矢尻作りで有名であった、才兵衛の住んでいた家の跡で、江戸時代にはその子孫の矢の根鍛冶清次郎は、参勤交代で街道を通る大名にお目見えを許されていたとのこと。江戸時代も時代が進んで泰平の世の中となり、矢尻の需要もなくなって、清次郎は菊川を離れたという。しかし、矢尻作りの秘伝はいまでも菊川の旧家に大事に保存されいるとのこと。
shimada_041.jpg菊川の里は小さくて直ぐに通り抜けられる。いよいよ「小夜の中山」への登り道になるが、とても急な坂道で息が切れた。上りきったところで、休息を取らないと次に進めない。、写真に撮ったが写真では急坂の感じが示せない。
急な登りが一段落すると、そこは一面の茶畑で、周りの山々も茶畑であった。
そして、歌碑街道と言われる「小夜の中山」の第1番目の歌碑、
(1) 雲かかるさやの中山越えぬとは都に告げよ有明の月 (阿佛尼)
がある。この歌は「十六夜日記」にでてくる歌で、聞いたことはある。
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shimada_044.jpgやっと、名刹の九延寺に到着した。九延寺は昨年のNHKの大河ドラマの「功名が辻」にも登場したが、山内一豊が茶室を作って関が原に向かう徳川家康をもてなしたところである。
また、この寺には夜泣き石と呼ばれる丸い石があるが、案内板にそのいわれが書かれていた。(クリック)

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shimada_048.jpgしかし、ここにはもう一つの伝説が伝わっている。それは、小夜の中山の怪鳥・蛇身鳥を退治にきた藤原良政がこの地で月小夜姫と出合い、二人の間に小石姫が生まれた。成人した小石姫は中山寺の住職空叟上人(足利尊氏の伯父)の子供を宿していたため親の進める結婚を果たせず、中山千人斬の松の許で自害する。自害する前に生まれた遺児月輪童子は、中国伝来の飴の製法を受け継いだ末広荘(扇屋)の飴で育てられたという、ものである。滝沢馬琴の話しは、これを下敷きにしたのかも知れないが、九延寺というより、この地方の住民の圧力だろうが、この話しも捨てがたいと、真新しい「月小夜姫の墓」と「三位良政卿の墓」が建っていた。
shimada_047.jpgともかく、盛りだくさんな お寺で、夜泣き石以外にも家康お手植えの五葉松などもあり、芭蕉の「馬に寝て 残夢月遠し茶のけぶり」の碑もあった。
歌碑の多い小夜の中山だが、やはり最も有名なのは西行法師の命なりけり・・・の歌で、土地のコミュニティーセンターにも「命なりけり学舎」と名づけられている。西行法師の歌については、後ほど触れる。九延寺からわずかのところに、子育て飴の扇屋があり、今も営業している。少し休んで行きたかったが、若い夫婦が連れた子供が傍若無人に店先の長椅子を占領しており、少し店を覗き込んだだけで立ち去った。飴以外にも民芸品の玩具などを置いてあったが、大したものは無く、お土産するために食指を動かすようなものも見えなかった。
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扇屋の斜め前には「小夜の中山公園」があり、西行法師の「命なりけり」の歌が丸い石碑に刻まれている。
「年たけてまた越ゆべしとおもいきや命なりけり小夜の中山」
西行69歳での奥州への勧進の旅であった。当時は69歳まで生きられることの方が稀であったので、ことさらに感慨が強かったのだろう。やはり、最も勢いを感じる歌である。
「小夜の中山」は、鎌倉時代頃までは、「さやの中山」と呼ばれていたが、室町時代には、「さよの中山」とも読まれるようになり、江戸以降は「さよ」で定着したようである。
元々は、狭谷すなわち狭い谷に挟まれた真ん中にある山で「狭谷の中山」であったのが、「小夜」の字を宛てたことでロマンティックな雰囲気を醸し出す。モーツアルトにも「小夜曲」があるところからも。洋の東西を問わず小夜はロマンティックなものであったのである。
公園の中は、適度に樹木が茂り、涼やかである。いまは一面の茶畑の中の道と化した「小夜の中山」も昔は、この公園の中のような光景であったに違いない。歌も浮かぶのも道理である。
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まだまだ、茶畑が続くが、やがて「佐夜鹿の一里塚跡」に到達した。
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すぐに、
「甲斐が嶺ははや雪白し神無月しぐれてこゆるさやの中山」(蓮生法師)の石碑があった。
さらに、「鎧塚」と書かれた石碑が建っていたが、案内板には、鎧塚 建武二年(1335年) 北条時行の一族名越太郎邦時が、世に言う「中先代の乱」のおり、京へ上ろうとして、この地に於て足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったと言われる、と記されていた。
新しい石碑を建て直したものだろう。
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次は、
「東路のさやの中山なかなかになにしか人を思ひひそめけむ」 (紀友則)
「東路のさやの中山さやかにも見えぬ雲井に世をや尽くさん」 (壬生忠岑)
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やがて、妊婦の墓に行き着くが、この墓は蛇身鳥退治の三位良政卿の遺児で、結婚を苦に松の根元で自殺した小石姫の墓と言われている。
そして、芭蕉の句碑
「命なりわずかの傘の下涼み」がある。ここには以前は涼むのに都合の良い松があったが、枯れてしまい、新たに新木の松が植えられている。
それにしても、芭蕉も西行の「命なりけり・・・」を意識したのは間違いないが、情景は異なる。
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ここにも、芭蕉の「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」があった。こちらの石碑の方が正統なのだろうか。
そして、昔は道の中央にあったという「夜泣き石」を描いて日坂の宿の絵とした安藤広重の版画の大きなレリーフが大きな石に嵌め込まれていた。想像していたよりずいぶんと大きな石だ。
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いよいよ、小夜の中山も終わりに近づき、最後に沓掛の急坂を下る。やはり写真では急坂の感じが出ないが、普通車で進入は無理だろう。一人オフロードバイクで上ってきた若者に出会ったが。
小夜の中山は、上り口と下り口が厳しい急坂で、その間は緩やかな起伏となっていることが分かった。
そして、最後の坂にも歌碑があった
「甲斐が嶺をさやにも見しがけけれなく横ほり臥せるさやの中山」
 (読人不知)
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注意深く、歌碑を写した積りであったが、後ほどいただいた小夜の中山の案内パンフレットをみると、4つほど見逃してしまった。ここに、記しておく、
「旅ごろも夕霜さむきささの葉のさやの中山あらし吹くなり」 (衣笠内大臣)
「旅寝するさやの中山さよなかに鹿も鳴くなり妻や恋しき」 (橘為仲朝臣)
「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思いかな」 (西行法師)
「ふるさとに聞きしあらしの声もにず忘れぬ人をさやの中山」 (藤原家隆朝臣)
ほんとうに、沢山の歌碑がある。まるでここを通ると、誰でも歌を作るのが当然と考えられているようだ。それでは、つたないが、私も一首
「年長けて我も越ゆべく来たりなばいにしえ浮かぶ小夜の中山」
おそまつ・・・

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