2008.09.13

御嵩から鵜沼

本日の万歩計47,050(31.5Km)
夏の暑さを避けていて、7月13日から2ケ月ぶりの中山道である。
台風が石垣島あたりに停滞しているが遠くて問題なく、天候も曇りで暑さが緩和されて良いのではと思い3連休でもあり、でかけることにした。新横浜7:11発の「のぞみ99号」で名古屋に向い、名鉄に乗り換え「御嵩」には9:10に着いた。
休日の朝で、人通りの少ない町を歩いて進む。
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枡形で右折して直ぐに国道に出て進むと「鬼首塚」があった。説明板によれば、西美濃不破の生まれの男が岩窟にすみ悪行を重ねていたので、この地の地頭に頼み退治してもらった。その首を京に運ぶ途中、この地で首が重くなり、縄が切れて首が転がり落ちたが、その首も重くて動かせなくなったのでこの地に首を埋め首塚とした、とある。
首塚を過ぎて何度か国道から逸れるが、2度目の場所には「比衣の一里塚跡」があった。
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3度目に国道に戻り、少し進むと伏見の本陣跡に伏見公民館が出来ており、本陣跡の大きな石碑が建っていた。宿場の通りが国道になっているのが難だが、僅かに街道らしい雰囲気も残っている。
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早く国道歩きから逃れたいと思いながら歩き続け、ようやく太田の「今渡の渡し」に達した。ここでは「太田橋」を渡ることになるが、事前に調べた情報では太田橋は歩道がないばかりか、側端のラインすらない橋で車の通りも多く、渡るのが怖い橋とのことであった。しかし、立派な歩行と自転車用の橋が増設されていた。橋の袂には渡しのモニュメントも作られていた。
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橋の直前に「ホワイト・リリィ」と言うキャバレーのような名前の喫茶店があり、その横を通って10mほど行くと「弘法堂」があり、この辺りが昔の渡し場があったところとのこと。また、「錦紅水」という可児(かに)の名水が湧き出していた。飲んでみたが、ことさら美味い水とも思えなかったが、昔は旅人が渡しの舟を待つ間に喉を潤したのだろうか。
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木曽川の方を見ると雄大な流れが目に入る。飛騨川が合流して水量も多い。水面はかなり下だ。
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立派な歩行者専用の橋を渡り、木曽川の堤防を歩く。写真の左はこちら側の渡し場のあった辺りであるが、カヤックらしい練習風景も見える。かなり長い間堤防を歩いて行くことになるが、途中には「岡本一平終焉の地の石碑」があった。岡本一平より、妻の岡本かの子の方が有名で、岡本太郎の父であるが、ここで亡くなったとは知らなかった。
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堤防の道から「太田宿」に入ってきた。街道らしい街並みである。枡形のところに祐泉寺があり、芭蕉、北原白秋、坪内逍遥の歌碑が建っている。
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祐和寺の隣に無人の休憩所の「小松屋」がある。2ケ月ぶりの歩行で、足が痛く少し休憩を取った。古い商家を休憩所にしたものであるらしい。槍ヶ岳開山で有名な「播隆上人」、「小説神髄」をあらわした「坪内逍遥」の展示があった。坪内逍遥の父は尾張藩士で太田代官所の手代を勤めていた関係で逍遥は太田で生まれ子供時代を過ごしたとのこと。

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次に、脇本陣の林家の豪壮な建屋があった。国指定重要文化財で中山道でも有数の歴史遺構とのこと。建てられたのは明和6年(1769)とのこと。一部は公開していて当時の座敷の様子などを見ることができる。
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本陣跡があったが、ここは門だけが残っていた。なかなか立派な格式のある門である。そして太田宿の終わりの枡形で再び木曽川に接するようになり、「虚空蔵堂」がある。ここは坪内逍遥の生誕の家にも近く、ここで良く遊んだらしい。また、この辺りは「承久の乱(後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍の戦い)」の戦場の北端であったという。
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ここから、再び木曽川の堤防道を歩く。川の中には落ち鮎釣りであろうか、釣り人が見える。真っ直ぐな道の突き当りには城山があり頂上は猿啄城(さるばみじょう)址で展望台が見える。織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始し、丹羽長秀の先鋒である川尻鎮吉が猿啄城を攻略し、落城。川尻鎮吉が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称したという。しかし、10年ほどで川尻鎮吉が岩村城に移り、廃城となた由。
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左手に流れる木曽川は岩の間を流れる急流となっていて、日本ラインの名称で川下りで有名である。川原も気持ちの良い草原で親子連れが木陰で楽しんでいるのが見える。
そして、城山の麓を左に回りこむように進むと、「岩屋観音」への上り道がある。昔は木曽川が山の急な崖に接していて、少し高いところを通るようになっていて露出した大きな岩肌を掘り込んで「観音堂」を建てたようである。この観音堂から見る木曽川は流れも特に急で勇壮である。
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岩屋観音を過ぎて、進んで行くと「うとう峠」を越えることになる。うとう峠のうとうは「疎う」という言葉に名の由来あると言われていて、旅人には嫌われていた峠越えらしい。「うとう峠」は右手の方の「鵜沼の森公園」となっているところを通るのだが、入り口が分かり難い。国道の左手に廃業してしまった「カフェテラスゆらぎ」の建屋が残っており、その駐車場の入り口(ロープが貼られて立ち入り禁止の様相)を入って直ぐの隅に国道とJR線を潜り抜ける通路に下りる急な階段がある。和田峠でビーナスラインを潜ったと同じような、水路の片側に通路のあるものであったが、今年の続いた雨のためか、通路も濡れていて水蘚できわめて滑り易い状態であった。「鵜沼の森」の道は、さすがに樹林のなかで涼しく快適であった。
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しかし、歩いて行くと写真のような「まむしに注意」の立て札があった。メインの歩道から右に分岐するところにあった立て札で、進行方向は大丈夫だろうが、それにしても「まむしに注意」の立て札は初めてであった。
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やがて、「中山道いこいの広場」の看板のある開けた場所に出て、ここからは石畳となっている。
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この後も上りは少し続くが、直ぐに下りとなり急に開けて「うとう峠の一里塚跡」があり、うとう峠越えは終わりとなった。さらに下ってゆくと「合戸池(かっこいけ)」と呼ばれる池があり鵜沼の方に下りて行く。
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下ってゆくと「うとう峠の地蔵堂」があり、ここで右にほぼ直角に曲がって中山道は続いて行く。鵜沼宿は明治24年の濃尾地震でほとんど壊滅的な被害を受けて、ほとんど古い建物は残っていないが、「絹屋」の屋号の旅籠が復元されていた。
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脇本陣の坂井家跡には芭蕉の更級紀行の旅立ちの記念碑が建っていた。芭蕉は坂井家を3度も訪れており、そのときに詠んだ俳句の句碑も建っていた。
 汲溜の 水泡立つや 蝉の声
 ふぐ汁も 喰えば喰わせよ 菊の酒
 送られつ 送りつ果ては 木曽の穐

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津島神社と言う何か由緒のありそうな、神社があったが全面改装中で全体が覆われていた。石垣の石の並び形状が見事である。
2ケ月ぶりの歩行で、相当に足が痛い。時刻は16:30だ。ここで1日目を終えることにして、名鉄の苧ヶ瀬(おがせ)駅に向い、今日の宿を予約した名鉄各務ヶ原(かがみがはら)市役所前駅に向かう。

2008.09.14

鵜沼から加納宿

本日の万歩計33,430(22.4Km)
昨日は2ケ月ぶりの歩行で足が痛いと思っていて、ホテルに入ってソックスを脱いで見たら3個もマメが出来ていた。右が2箇所、左が1箇所である。マメ用の絆創膏で手当てをしたが、明日の歩行は無理は出来ないなぁーと思いながらベッドに入る。
早く寝たので6時に起床し、7時に朝食をとり早速出発する。足の痛みはあるが、なんとか歩ける。名鉄で「苧ヶ瀬駅(おがせえき)」に戻り7:40から歩き始める。
ただひたすら、国道を歩く、歴史的な遺構もない。殺風景な感じのJRの「各務ヶ原駅」が国道に接していた。この辺りの交通の主役は完全に自動車であることを感じさせる国道の風景である。高山本線といえども無人駅とならざるを得ないのもうなずける。
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国道歩きは騒音が大きく嫌で疲れるので、早く逃れたいと念じながらひたすらノルマをこなす感じで歩き続ける。二十軒、三柿野駅を過ぎてようやく国道から県道に入って行く。少しほっとする。六軒を過ぎて、各務原市役所前駅が近づき、立派な各務ヶ原市役所の前を通る。街の状況に比して立派過ぎる建物のようにも思える。
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市民公園で少し休憩して、那加橋を渡る。桜の季節は見事であろう。そして、なか21モールと書かれた通りに入って行く。通り過ぎて県道とも分かれ、さらに進むとようやく街道らしい家並みも見られるようになる。間の宿の「新加納」に入ってきたのである。
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新加納一里塚跡に新加納立場の看板があった。街道らしい家並みも続く。
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高田橋、手力、切通駅を過ぎると「小木曽薬局」という古風な薬屋があった。最近は個人商店がどんどん姿を消してゆくなかで残っているのは珍しい。もっとも、営業している気配はなかったのだが。
そして、細畑駅の近くを通り抜けると「細畑の一里塚」が立派に残っていた。街の中で残っているのは珍しい。
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少し進むと、伊勢街道との追分があり、「地蔵菩薩堂」がある。道標石には伊勢、名古屋ちかみち11里、西京道 加納宿18丁と書かれている。そして、由緒ありそうな立派な家が建っていた。
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暑さが増してきて、アイスコーヒーでも飲もうと喫茶店に入った。時計を見ると11:30で食事をしている人もいる。それではと、食事もしてゆくことにした。
そして、JR高山線を潜り、名鉄の踏切を渡って進むと加納宿の東番所跡に到着した。
さらに進むと「専福寺」がある。このお寺には戦国時代の文書が多く保存されていて、織田信長朱印状、豊臣秀吉朱印状、池田輝政制札状の3通が岐阜市の重要文化財に指定されていて、戦国時代の情勢を知る重要な手がかりという。
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何度も直角に曲がる街道を進んで行くと「加納城大手門跡」があり、ここでも直角に曲がって進むと、本陣跡の石碑があった。脇本陣跡の石碑もあったが、後ろの家は門構えであっても脇本陣とは関係がないのだろう。

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少しお昼を過ぎた時刻に岐阜駅まで来たが、足のマメが痛い。しかし、歩けないことは無い。何とか進むことも考えたが、せっかく岐阜に来たのだから、金華山に上り、岐阜城に行ってみたい。もう二度と来ることもないとも思い、本日の中山道歩きはここでやめることとした。
岐阜駅のコインロッカーにリュックを放り込み、バスで岐阜公園までやって来た。
美しい噴水が迎えてくれ山の上に岐阜城が小さく見える。岐阜城は斉藤道三が土岐頼芸(とさよりあき)に賭けで勝って手に入れた側室の深芳野(みよしの)の生んだ子(実は頼芸の子)の義龍の居城であったが、織田信長が落として、新たに縄張りして新城を築き岐阜城と名付けたものである。

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岐阜公園内には、板垣退助の銅像と遭難碑、織田信長の居住跡などもある。

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そして、ケーブルカーで山頂に上る。ケーブルカーを下りて、天守閣には7分ほどさらに上る必要がある。やはり展望はすばらしい。城の立地条件としても素晴らしかったであろうが、信長は商業地としても適した安土に新たに城を築くことになる。
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やはり、2ケ月のブランクは厳しかった。しかし、金華山にも登ることが出来、満足してJR東海道線で岐阜駅から名古屋駅に向い、新幹線で帰宅した。

2008.09.27

加納から垂井

本日の万歩計52,029(34.9Km)
今年の初秋は雨が多いが、この週末は晴れ時々曇りの予想で中山道の旅に出かけることにした。8:12分に岐阜駅に着き駅前の通りを進んで中山道を歩き始めた。休日の朝で岐阜駅前の通りも閑散としている。
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中山道に復帰して進む。この辺りは秋葉神社が多いようであるが、それ以外には歴史的な匂いは希薄となっている。戦争で街が焼けたこととも関係しているのだろう。
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加納宿の西の見附を過ぎると、中山道はJR東海道線のガードを潜って長良川の南側で「鏡島(かがしま)」という地域に入って行く。鏡島の弘法さんと呼ばれる「乙津寺(おっしんじ)」がある。弘法大師が梅の木で作った錫丈を上下逆であったが地面に突き立てたところ、枝が生じ葉が茂ったという、「弘法大師杖の梅」がある。また、「千手観音立像」、「毘沙門立像」、「韋駄天立像」は国指定重要文化財である由。
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乙津寺の裏側には「長良川」が流れていて堤防への階段には「小紅の渡し」の文字が見える。なんとここでは「舟による渡し」があるのだ。旧街道を歩いていて始めての経験である。県道の一部岐阜県道173号文殊茶屋新田線になっていて、岐阜市が岐阜県に代わり運営している。県道であるから当然無料だ。

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「長良川」の堤防に上がると、遠く金華山と山頂の岐阜城が見える。
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長良川の堤防から見た「河渡宿(ごうどじゅく)」である。昔の面影と思われるものは見ることが出来なかった。しばらく行くと天王川にかかる「慶応橋」を渡る。川は水量が豊かで水は澄んでいる。
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その後も歴史を感じさせるものが無い街を進み、糸貫川に架かる「糸貫橋」を渡る。
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さらに進んで「五六橋」を渡ると、美江寺宿である。「五六橋」の名は江戸を1番と数えたときに美江寺は56番目であることによる。
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道路脇に旧中山道の標識が建っていて、曼珠沙華(彼岸花)の花が一面に咲いていた。朱色の花は毒々しく、朝鮮か中国からの帰化植物である。また、球根にはアルカロイドが含まれ毒性がある。
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樽見線の踏み切りを渡り「美江寺宿」の中心部に入って行く。樽見線は旧国鉄時代には国鉄樽見線であったのが、第三セクターの路線となったとのことで、大垣-樽見間を運行している。そして、重厚な構えの今も現役の酒屋の「布屋」があった。
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「美江寺宿」の名前の由来の「美江寺」は元正天皇が養老3年(719)創建した十一面観音を本尊とした寺院で大いに栄えたが、太田道三が稲葉山城(岐阜城)に移設し、地名のみが残ったのだという。なお、このあたりは海から50Kmなのに海抜10mで、とても平坦である。人口582人の小さな宿場で直ぐに終わってしまう。
「美江寺」は無くなったが、旧中山道が左に直角に曲がるところに「美江神社」があり(左の写真)、奥には元の「美江寺」にあった観音堂のみ再建されている。
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また、曲がり角には本陣跡の石碑が建っていた。本陣の家屋は無くなっていたが、直ぐの場所に庄屋の「和田家」の立派な建物は残っていた。
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400mほど進むと今度は右に直角に曲がる。直ぐに「千手観音堂」がある。そして、犀川を渡る。やはり水量が多く、水が綺麗だ。なお、この辺りは「富有柿」の原産地でこれが全国に広まったという。犀川沿いにも多くの柿畑が見られる。
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「美江寺宿」を過ぎると、田園風景が広がり広々とした感じになる。そして「巣南中」の校門前の道路を跨いだところに、中学校校舎で断ち切った中山道に対する申し訳か、中山道のモニュメントの公園があった。また、中山道の道標が2つ並んで、かつての中山道の道幅を表わしていた。
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やがて、「揖斐川」に架かる「鷺田橋」が見えてくる。橋を渡るために相当に離れた信号まで歩いて道路を横切る必要があった。流石に堂々とした一級河川である。
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「鷺田橋」を渡ると、立派な鐘楼のある「良縁寺」があった。そして、左折して進むと「呂久の渡し跡」に和宮記念公園とも言われる「小簾紅園(おずこうえん)」がある。和宮さまが、「呂久の渡し(呂久は現在の揖斐川)」を舟で渡るとき、舟の舷側に馬渕孫右衛門の庭の紅葉の一枝を立ててあり、これを眺めて「おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」と歌を詠まれた。そして、昭和の始めに当地の人々の和宮様を記念したものを作りたいという強い希望でこの公園が作られたという。手入れが行き届き、紅葉の木を多く配した公園であった。
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少し進んで、平野井川に架かる「柳瀬橋」を渡ると大垣市に入る。川の堤防下の道を進んで行くと、「右すのまた宿道 左木曽路」の道標が立っていた。堤防に茂る丈の高い草に半分埋もれて文字が見えにくい。もっとも、この道標を頼りに歩く人も居ないであろうが。
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近鉄養老線の踏切を渡る。直ぐ近くに「東赤坂駅」が見える。さらに、1Kmほど進むと「杭瀬川(くいせがわ)」がある。「くぜがわ」とも呼ばれる。672年に天智天皇の太子大友皇子(おおとものみこ)と皇弟大海人皇子(おおあまのみこ)が争った壬申の乱(じんしんのらん)で、大海人皇子軍が黒地川の戦で疲れきった身を、この川で清めつかれを癒した。すなわち苦癒(くいや)せ川と、そして杭瀬川と転化したという。「苦医瀬(くいせ)川」が転じたという説もある。
また、関が原の闘いの節に、家康の率いる大軍に浮き足立つ西軍の士気回復のため石田光成が自分の禄高の半分を与えて召抱えた島左近が戦を仕掛けて大勝したところでもある。東軍中村隊の武将野一色頼母(のいっしきたのも)が戦死したのもこの闘いである。
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赤坂宿の中心部に向かって進んで行くと、良く目立つ「火の見櫓」が見えてくる。今では本来の役目より赤坂宿のシンボルとなっているのだろう。
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そして、赤坂港跡である。今は川筋が変わってしまい、単なるモニュメントになってしまっているが、かつては「揖斐川」がここを流れていて、明治になっても近くの金生山(きんしょうざん)で採れる石灰の積み出しで出入りする船は500隻にも上ったとのこと。少し先には本陣跡がある。和宮様も宿泊した本陣であったとのこと。
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赤坂宿の中心が近づくと、古い街並みが残っている。本当に街道らしい家並みで街道歩きの気分が高揚してくる。
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脇本陣跡の隣に「宿場の駅 五七処」がある(左の写真)。赤坂宿が江戸日本橋から57番目にあることから五七処の名を付けた。特産品を販売する傍ら赤坂の情報提供を行っている。赤坂宿西外れには兜塚がある。関ヶ原合戦の前日、島左近の仕組んだ杭瀬川の戦いで東軍中村隊の武将野一色頼母(のいっしきたのも)が討死し、その死体と鎧兜を埋めたと伝わっている。
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兜塚を過ぎ、彼岸花に彩られた、西濃鉄道昼飯線の廃線跡を越えると赤坂宿は終わりである。線路向こうには石灰の採掘で山肌を露わにした金生山が覗いている。また、昼飯(ひるい)の前方後円墳がある。
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昼飯(ひるい)の地名であるが、昔仏像を善光寺に運ぶおり、ここで昼飯をとったことによるとのこと。その後「ひるめし」では上品さに欠けるとして、「ひるいい」と呼ばれるようになり、最後は「ひるい」と呼ばれるようになったとのこと。その後JR東海道線のガード下を潜って進むと、青墓と呼ばれる地域に入ってくる。やがて照手姫水汲井戸の道標があり、中山道から外れて左の道路に入って訪れた。伝説では、武蔵・相模の郡代の娘だった照手姫は、愛する小栗判官を殺されたうえに青墓の長者へ売られてしまう不運な女性。遊女として働くことを拒んだため、一度に百頭の馬に餌をやれとか、籠で水を汲んで来い等と無理な仕事を言いつけられこき使われたという。その照手姫が籠で水を汲んだと伝わるのがこの井戸である。
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青墓を過ぎると次の地名は青野で、美濃国分寺があったところである。国分寺跡は、広々とした公園となっている。そして、青野の一里塚跡。一里塚は壊され、常夜燈が建っていた。
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そして、「喜久一九稲荷神社」を過ぎると、相川に架かる「相川橋」を渡る。
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大きな観光案内版があり、この案内を良く見て垂井駅に向かった。新しく綺麗な駅であった。JR東海道線で大垣に戻り宿泊した。
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2008.09.28

垂井から醒ヶ井

本日の万歩計39,140(26.2Km)
泊まったホテルは大垣駅に隣接したアパホテルで、大垣発6:00の電車で垂井駅に着き、中山道に復帰して歩き始めた。朝が早く人通りにもほとんど無い。コーヒーを一杯飲みたいが、もちろん開いているコーヒーショップなど見当たらない。進んで行くと枡形と思われる道路のカーブがあり、続いて十字路の左に大きな鳥居が建っていた。鳥居には「正一位中山金山彦大神」と書かれていた。南宮大社の鳥居であるが、かつては美濃国の一宮であったとのこと。
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鳥居を潜って100mほど進むと、垂井の地名の由来となった「垂井の泉」がある。昔から歌に詠まれて有名であったようで、現在でも歌が多数掲示されており、短冊も用意されていて誰でも投稿できるようになっていた。芭蕉の「葱白く 洗ひあげたる 寒さかな」の句も飾られていた。後の寺院は玉泉禅寺である。
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歩いて行くと、築200年の旅籠「長浜屋」が、今は休憩所になっていた。そして奥の細道の芭蕉が一冬過した本龍寺がある。鐘楼はじめ建物の屋根のカーブが優美である。
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そして、西の見附で垂井宿は終わる。隣接して「八尺地蔵尊」がある。
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続いて「松島稲荷」があり、少し進んで東海道本線の踏切を渡る。
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江戸末期に常盤御前の墓所に建てられた「秋風庵」を明治になって移設して旅人の休憩所とした「日守の茶所」がある。隣には「垂井の一里塚」がある。中山道で志村の一里塚と合わせて2つだけの国指定史跡となっている一里塚である。
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「これより中山道 関が原町」と書かれた道標があった。静かな街道が延々と続く。
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ようやく、関が原の闘いのときに家康の下知で「山内一豊」が後詰の陣を張った場所に達した。ここは松並木が綺麗に残っている。そして、「六部地蔵」である。説明板には「六部とは六十六部の略で厨子を背負って全国の社寺を巡礼して修行する人を指す。「宝暦十一年頃」(1761年)この地で一人の巡礼者が亡くなられたので里人が祠を建てお祀りされたといわれております」とある。
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左手の小高い所に、家康が最初に陣を置いた「桃配山」が見えてきた。壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)に献上された桃を皇子がうまいと喜び、兵士全員に桃を1個づつ配りたいと言い出した。近隣の村々の桃を全て買い上げ配ったところ、兵の士気もあがりその後連戦連勝したと言われているところである。
家康もこの故事を知って最初の陣地にしたのであろうか。そして、ここから関が原の平野が始まるのである。
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関が原宿は国道が通ったからか、街道筋には歴史的な家並みはほとんど無くなっている。バイパスが出来、車の数が減ったのが、せめてもの救いである。脇本陣であった家が、門のみ その面影をのこして建っていた。
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街道から右折して東海道線を跨いで関が原の古戦場を訪ねることにした。ここは、慶長5年9月15日に家康4男 松平忠吉、井伊直政が陣を構え、午前8時、軍監本田忠勝の合図で開戦のため前進を開始したところである。
下の写真は、戦いの後で討ち取った敵の首実検をし、埋めた首塚である。ここは東の首塚で別に西の首塚もある。JRの関ヶ原駅の直ぐ側である。
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北に向かって数100m進むと「桃配山」に陣を設けた家康が、戦況が見えにくいこと、戦況が好転しないことに業を煮やして、前進して最後に陣を置いた場所がある(左の写真)。右の写真は戦いの後で、東軍諸将を集めて、西軍の首実検を行った場所。
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直ぐ横には、歴史民族資料館がある。9時からの開館であり、時刻は8:45であったが、入れてくれた。関が原の合戦での両軍武将の陣の配置、鎧、刀、槍などをはじめ種々な武具が展示されていた。さらに1Kmほど進むと、最終決戦地がある。石田光成の陣の笹尾山からも至近距離である。
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石田光成の陣を張った「笹尾山」である。家康の最終陣より1.5Kmである。低い山であり、階段状の道を通って山頂に登ることが出来る。
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「笹尾山」に登ると、関が原全体が良く眺められる。ここから東軍の陣立てを見ながら兵を進退させたのか。史跡の石碑もあり、大きな案内板も設けられていた。島左近と蒲生氏郷が先鋒であった。
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戦場をざっと見学したので、街道に戻り進むと、しばらくして「西の首塚」があった。霊を慰めるためのお堂が二つ建っている。
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「西の首塚」を過ぎて進むと、中山道は国道21号線と分かれて左に入って行く。少し進むと「不破の関の碑」がある。また、「不破関資料館」がある。「不破の関」は壬申の乱(じんしんのらん:672年)後に、畿内と東国の接点のこの地に築かれたもので、都で天王の崩御などの大きな事件があると、地方に影響が伝播しないよう通行を停止した。また、単なる関所の役目に留まらず、兵も常駐して軍事、警察機構としての役目も持っていた。
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「不破の関」からは急な下り坂で、下りたところに「藤古川」が流れている。壬申の乱(天武元年、672年)の戦場となったところで吉野軍(大海人皇子、後の天武天皇)、と近江軍(大友皇子)が陣を敷いたところである。なお、藤古川は、「関の藤川」とも呼ばれ、歌枕にもなっていた。
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「藤古川」を渡り、坂道を上って行くと、「大谷吉隆」の墓がある。大谷吉継もしくは大谷刑部の方が有名であるが関が原の戦いに際し、吉隆と改名した。吉隆が自害するとき介錯したのが湯浅五助で、その後藤堂仁右衛門に遭遇し首の隠し場所を内密にしてくれるように頼んで討たれ、仁右衛門は家康に聞かれても場所を明かさなかった。そして、後に藤堂家で「大谷吉隆」の墓を建てたのである。
少し進むと、壬申の乱の時水を求めて大海人皇子軍の兵士が矢尻で掘ったという「矢尻の池」があった。立派な柵に囲われていたが、少し地面が窪んでいただけだった。しかし、いままで残っていたとは・・。そして、すぐに国道21号線を横断して300mほど進むと、「黒血川」というすごい名前の川がある。小さな流れだが想像の通り、壬申の乱の激戦地で川が血で黒く染まってこの名が付いた。
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進んで行くと、3つのお堂が並んで建っていた。柿の実が色づき始めているのを見ながら歩いて行き、新幹線のガードをくぐると直ぐに「常盤御前」の墓がある。小さな墓石が幾つか建っている。我が子の義経が鞍馬山を抜け出し東国へ脱出したと聞きここまで追ってきたが、この地で土豪に襲われ非業の最期を遂げたという。それを哀れんで地元の人が塚を築いて葬ったという。藤原院呈子(ふじわらていし)が近衛天皇に嫁ぐおり、供をさせる女房たちを厳選して当時都の中でも評判の美女を1000人選び、それを100人・10人と絞っていった最後の1人、言わば選りすぐりの美人の常磐がここに眠っているのである。
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道はJR東海道線に沿って進むようになり、今須峠に差し掛かる。さほど急な上りも無く静かな道である。下に東海道線のトンネルの入り口が見える。かなり古いトンネルの様相である。
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20分ほどで峠は越えられ、国道21号線を渡ると「今須の一里塚」がある。近年になって修復したものであろうか、美しすぎる。
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今須の街に入ってゆくと、問屋場跡の山崎家が残っている。美濃国十六宿にあった問屋場で当時の姿をそのまま留めているのはここだけだそうだが、立派な家屋である。少し行くと、板塀に説明板付きの常夜燈が建っている。説明板によれば、京都の問屋河内屋が大名の荷物を運ぶ途中で紛失し、金比羅様に願をかけてお祈りした。幸い荷物が出てきたので、感謝してここに常夜灯を寄進したのだという。
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南北朝のころ「二条良基」という公家が「不破の関」が荒れ果て、破れた板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、牛車に乗ってここまで来たが、「不破の関」の屋根が直されたと聞き、引き返した。それで、ここを「車返しの坂」という。「不破の関」の修理は、地元の人達が都から貴人がくるので、荒れ果てているのはまずいから修理したのだという。それにしても、何とも酔狂な御仁がいたものであると思うし、当時の貴族と一般大衆の差異の大きさに驚く。
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「車返しの坂」を過ぎて、国道21号線と東海道線の踏み切りを渡り、左の方に進むと芭蕉の歌碑があり「正月や 美濃と近江や 閏月」とある。これは芭蕉が熱田からの帰りにここで詠んだ句であるが「のざらし紀行」の碑に加えて「奥の細道」と書かれた碑もある。
直ぐに、美濃の国と近江の国の境界線がある。現在は岐阜県と滋賀県の境界であるが、小さな溝を挟んでいるだけである。この辺りは寝物語の里と呼ばれるが、艶めいた話しではなく、昔はこの溝を挟んで両国の番所や旅籠があり、壁越しに「寝ながら他国の人と話し合えた」ので寝物語の名が生まれたと言われている。また、平治の乱(1159)後、源義朝を追って来た常盤御前が「夜ふけに隣の宿の話声から家来の江田行義と気付き奇遇を喜んだ」所とも「源義経を追ってきた静御前が江田源蔵と巡り会った」所とも伝えられている。
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さらに進むと、道路の右側に楓の木が植えられた「楓並木の道」になっていた。松並木や杉並木はよくあるが、楓並木は珍しい。しかも、楓の木は相当に太く年輪を得たものであった。これだけまとめて太い楓の木を見たのは初めてだ。並木は4?500mほど続き、終わったところに大きく新しい中山道の道標が設置されていた。
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また、JR東海道線と交差して柏原の宿に入って行く。本陣跡は、単なる石碑のみであった。
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宿場町にはよくあることだが、この柏原でも家の前に江戸時代の屋号を表示している。際立って目を引くものが無い宿だが、趣のある古い建物は多く残っている。
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「柏原宿」の終わりに「柏原の一里塚」がある。ここの一里塚も近年に復元したものであるようだ。その後、少し進むと「北畠具行卿」の墓所への案内看板が立っていた。
北畠具行は後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府を倒そうとした正中の変(1324)の中心人物だが、事前に露見して幕府に捕まり、この場所で処刑された。計画に加わっていた日野俊基らは赦免されるが、北畠具行卿が処刑されたのは、最も中心をなしていたとされたからであろう。しかし、日野俊基も2回目に計画したときも露見して鎌倉で処刑され、鎌倉の源氏山に墓所がある。東海道の菊川の宿も参照されたい。明治天皇もこの近くを通りかかったとき、側近のものを墓参に使わしたという。見学しようとしたが草ぼうぼうの道になっており、スキップすることとした。
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直ぐに、旧道への分岐点があり、新しい石の道標が立っていたので、旧道を歩くこととした。
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樹林の中の道を抜けると、新しく大きな石の道標が建っていた。そして、「梓川」沿いの道となって進んで行く。
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名神高速と国道21号線が平行して走っているが、静かなたたずまいの集落を進んで行くと、途中には松並木もある。
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静かな集落も終わりが近づくと、特殊なホテルが何軒か現れて国道を横断して進むことになる。国道を横断して進むと、「中山道」と書かれた大きな石の看板があり、ここから国道を離れて「醒井宿」に入って行く。最初に「八幡神社」があった。
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直ぐに「醒井宿」の枡形があり、古い宿場町の面影を残す街並みが始まる。
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醒井宿の第一湧水点である「居醒(いさめ)の清水」がある。古事記にも記述されている名水である。日本武尊の銅像も建っている。説明板があるので、読んで見ると、「景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。尊は剣を抜いて大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。」とある。
鈴鹿山脈の北端の霊仙山の地下水流で、今でも枯れることなく湧き出している。
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「居醒の清水」を水源として、街を貫いて綺麗な小川が流れており、水中には梅花藻(ばいかも)が茂っている。20℃以下の清流に住む絶滅危惧種の「ハリヨ」も生息している。少し先には問屋場が完全な形で残っていて、今は醒井宿資料館となっている。
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流れに気をとられがちだが、街並みも趣きがあり、素晴らしい。それにしても綺麗な水の流れる街は癒される気がする。
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二つ目の湧水、「十王水」である。平安時代に浄蔵が開いた泉で浄蔵水と呼ばれていたが、近くに十王堂が有ったので十王水と呼ばれるようになったという。
そして、醒井大橋という小さな石の橋があり、ここで「醒ヶ井駅」の方に進む道と、中山道を進む道に分かれる。
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西行水を見るため、中山道を進む。100mほどで西行水があり、綺麗な広場になっていたが、我が物顔に2台の車が留められているのは腹が立つ。ともかく、三つ目の湧水で、説明板には「西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産した。その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聞いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り
 水上は 清き流れの醒井に
   浮世の垢をすすぎてやみん
と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になった。西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたという。今もこの辺の小字名を児醒井という。
」とある。今日はここまでとして「醒ヶ井駅」に向い、電車で米原駅に着いて新幹線で帰宅の途についた。
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2008.10.18

醒ヶ井から愛知川

推定歩行距離28Km
9月28日に歩いてから、ようやく歩きに来ることができた。今回は途中で万歩計の電池がなくり、残念ながら歩数はカウントできず、歩行距離もおよその推定となってしまった。
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ともかく、醒ヶ井駅には8時25分に着いた。これが一番早く着く電車である。前回、見逃した了徳寺に寄ろうと前回は通らなかった駅からの道を進んで行く。まだ、この時間だと観光客も歩いおらず、ひっそりした街並みである。
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国登録文化財の旧醒ヶ井郵便局局舎があり、いまは資料館となっているが早朝で、まだ開いていなかった。目的の了徳寺には国の天然記念物の「御葉附銀杏」があり、葉面上に銀杏を実らせるとのこと。沢山の銀杏が落ちており、上を見上げると沢山の実が生っていたが、葉に付着するものは見られなかった。ガッカリ。
本来の中山道に戻り、500mほど進むと国道21号線に合流する。ここに、「一類狐魂等衆の碑」というのがあり、説明板を読むと何とも奇怪な物語が書かれていた。
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『江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、一人の旅の老人が、「母親の乳がのみたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と、自分の乳房をふくませてやりました。老人は、二口三口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「有り難うこざいました、本当の母親に会えたような気がします。懐に七〇両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終わると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生をとげました。この母親は、お金は頂くことは出来ないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、「一類狐魂等衆」の碑を建て、供養したと伝えられています。』
また、500mほどで国道から右に分かれて旧道に入って行く。ここは樋口立場で、先ほど過ぎた醒ヶ井を思わせるような水路が流れている。空き家の民家を改造して「いっぷく場」と「憩」の字の看板を掲げた、茶屋道館と名付けた旅人の休憩所があった。まだ、開いていなかった。同類の歩行者が説明板を読んでいた。
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国道を横切ると「息郷」の集落で、「敬永寺」の前を通って中山道は進む。それにしても、お寺の山門前にはよく車が駐車している。
進んで北陸自動車道を潜ると、「久禮の一里塚跡」である。一里塚そのものは無くなっているが、石碑を建てたちょっとした広場となっている。江戸から117里目である。
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一里塚跡を過ぎると、楓の木の並木道を歩く。紅葉の季節は綺麗だろうが、緑の楓も涼しげで好きな風情である。やがて「番場宿」の入り口に到着する。手作りの看板が建っている。宿の中も小学生が作った案内板が建っていた。「番場」と言えば長谷川伸作「瞼の母」に登場する「番場の忠太郎」を思い出すが、もちろんフィクションの演劇の人物である。
ここは右に行けば直ぐ米原に出られ、皆な勤めに出ている半農で高度成長期に家を建て替えたところが多く、ほとんど昔の遺構は残っていない。中山道では宿場を前面に出して村おこしをしているところが多いが、そんなことになるとは思いもよらなかったとは地元の言である。
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江戸方見付けには大きな石碑が建っていたが、他の宿の村おこしに刺激されて急遽整備したように思える。ここが本当の宿の入り口であった。
そして、近江が近づき弁柄(ベンガラ)が塗られた家が目に付くようになってきた。立派な家屋の北村家の前には「明治天皇番場小休所」の碑が立っていた。
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左に折れ曲がって200mほど進み名神高速を潜ると聖徳太子が建立して「法隆寺」と呼ばれていたのを鎌倉時代に一向上人が土地の豪族土肥元頼の帰依を受けて再興し時宗一向派の本山とし、その後幾多の変遷を経て現在では浄土宗となっている「蓮華寺」がある。
山門は修復中で撮影できず残念だったが、ここには元弘3年(1333年)、六波羅探題北条仲時が足利尊氏に攻められ、鎌倉へ逃げようとしたが、佐々木道誉らに行く手を阻まれ、この寺で部下ともども432名が自刃したところである。寺には巻物形式の432名の過去帳が残っており、写しを見せていただいた。432名の墓は本堂の右手の樹林を登って行ったところにあり、延々と続く墓石に圧倒される。なお、門前の小さな溝は「血の川」という。街道に戻り進むと高速道路に沿って進むようになり、ついには高速道路がトンネルとなっている上を通って進む。高速道路から離れる地点を過ぎると「摺針峠(すりはりとうげ)・彦根」の石の道標があり、いよいよ峠道となる。
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「摺針峠」は峠とは言っても短い登りで頂上にたどり着く。左に「神明社」の急な階段がある。階段を上った所には昔は「望湖堂」という茶屋があり、琵琶湖が見え繁栄したという。今も再建された建物の前には明治天皇が休憩を取られた石碑がある。そして、待望の「琵琶湖」が望見できた。視界をさえぎる白い塔が邪魔ではあるが。

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「摺針峠」の下りに差し掛かると左側に手すりが見えて樹林の中に入って行く。心細い道であるが、直ぐに舗装道路に戻り、そのまま下って行く。そして、国道にぶつかり左折すると、直ぐに旧街道への入り口があり、なかなかにユニークなモニュメントが立っていた。いよいよ「鳥居本宿」である。
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街道らしい街並みを進むと、茅葺の家が残っており、かなり古いのか屋根には苔がむしていた。
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進んで行くと、屋根の重なりが豪華な家屋が見えてきた。江戸時代から現在に到る300年以上も「赤玉神教丸」という道中薬を作り続けている有川製薬である。右側にある大きな門の前には「明治天皇鳥居本御小休所」の碑がある。本陣、脇本陣があっても、明治天皇はこの有川製薬で休憩したらしい。

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三角形様の変わった形の看板をぶら下げた家があった。「鳥居本宿」は合羽の製造販売でも江戸時代は有名で、その合羽屋の看板である。合羽は和紙を多数重ねて皺くちゃに揉み、柿渋と油を何度も塗り重ねたもので、紙であっても丈夫で雨から身を守るのに有用であった。大正期には17軒の合羽屋があったようだが、昭和17年ころ、滋賀県油紙工業組合は解散し、今はもう合羽を作られることは無くなった。
右方向に向かう道路があったので、覗いてみると近江鉄道の「鳥居本駅」の可愛い駅舎が建っていた。
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少し進むと、また合羽屋の看板が屋根の上に載っていたが「包紙紐荷造材料」と書かれていた。元は合羽屋さんだったのか、それとも鳥居本の伝統であった道中合羽の形を使ったのか・・・。
そして、何故か聖徳太子に縁があり太子堂がある「専宗寺」。
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宿の終わりが近づいたところに、「右彦根道、左中山道・いせ・京」の古い道標が現れた。中山道は彦根を避けて進むが、彦根道は別名「朝鮮人道」と呼ばれ、彦根、安土、近江八幡、野洲間を約10里で結ぶ。一般通行人は彦根を避けさせたが、大事な朝鮮使節団は通行を許容して、彦根城で供応したのであろう。鳥居本宿を過ぎると、中山道は新幹線と名神高速の間を通り、徐々に狭まってくる。新幹線の線路の向こうにある八幡神宮の入り口の常夜燈が建っており、親は野良仕事でもしているのか、女の子が一人で遊んでいた。
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いよいよ新幹線の線路が狭まったところに「小野小町塚」があった。小野小町は全国に20数箇所も、ここが生誕地と主張しているところがあり、秋田県もお米の名前に「秋田こまち」と付けている。
ここで、同じく中山道を歩いているという年配の方に会い、色々と情報交換して楽しかった。とにかく、歩くことが好きだと言っていた。
新幹線のガードを潜って進むと原の町で右側に「原八幡神社」があり、「芭蕉 昼寝塚 祇川 白髪塚」と書かれた真新しい石碑が立っている。神社の方を覗くと綺麗な紅葉が早くも見られた。
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国道と交差して進むと「五百らかん 七丁余」の石碑がある。五百羅漢のある「天寧寺」への道標で、井伊直中(なおなか)が、腰元若竹(わかたけ)の不義をとがめ罰したが、その後相手が自分の息子とわかり、自分の過失を認め、腰元と初孫の菩提を弔うために創建したとのこと。
1Kmほど進んで芹川を大堀橋で渡る。小さな流れだがこの川は琵琶湖に注いでいる。橋を渡ると小さな地蔵堂があり、傍らに30体ほどの石の地蔵が色とりどりな前掛けを着けて並んでいる。
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直ぐに「石清水八幡宮」がある。祀神は16代応神天皇とその母、神功皇后で小さな境内だが、正一位で格式は高い。神社への階段の途中に扇塚がある。井伊藩では能が盛んで江戸から招いた喜多流能の宗家9世の喜多古能(このう)が彦根を去る時に残していった愛用の能の面と扇を弟子達がここに埋め塚を建てたという
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高宮宿をひたすら進んで行くと左側に、高宮神社がある。創建は鎌倉時代末期とのこと。高宮は粗い麻布の主産地で、これを商うため当時は7つの蔵があり、集荷、出荷を年に12回以上行ったという。今でも5つの蔵が残されているとのこと。
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高宮は今でも往時の面影を残しており、多賀神社の門前町として栄え、街道に面して、宿場の中央に大きな鳥居がある。高さ11mもあり、寛永11年(1634年)に建て変えられたものである。ここから多賀神社までは約3Kmで、ここが一の鳥居となっている
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小林家の前に芭蕉の紙子塚があった。紙子とは紙で作った着物で小林家が新しい紙子を芭蕉に贈り、古い紙子を埋めて塚を作ったという。
芭蕉は「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」と詠んだ。
そして、明治天皇も立ち寄った圓照寺。明応7年(1498年)高宮氏の重臣、北川九兵衛が仏堂を建立したのが起源でなかなかに優美な姿を見せている。

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犬上川を渡る無賃橋で、高宮宿は終わりである。この橋は江戸時代から通行料を取らず「無賃橋」と呼ばれて現在に到る。平素は川の水はいたって少ない。
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足利二代将軍の側室が京への帰路、ここで産気づき、男子を出産した。しかしその子は幼くして亡くなり、側室は尼となり、付け人の9名の家臣は生活の糧に竹と藤づるで葛籠を作るようになった。それでここを「葛籠」の地名で呼ぶようになったとのこと。側室の結んだ庵の近くに祀ったのが産の宮である。そして、道路を隔てて向い合わせに建つ了法寺と還相寺。写真は了法寺山門から還相寺を撮ったもの。
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葛籠町を過ぎて松並木を進むと彦根市の終わりで、入り口にあったと同じようなモニュメントがある。荷物を運ぶ人足、旅人、麻の原料を運ぶ女性の像が乗っかている。
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進んで行くと、コスモスの花が畑一面に咲いているところがあった。優しい感じのする秋の花の代表で好ましい。そして、一時旧校舎を建て替える計画に対して、町長と反対派住民が対立して、町長リコールにまで至り、テレビでも報道された「豊郷小学校」があった。設計は神戸女学院大学、関西学院大学などの設計で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズ、施工は竹中工務店が担当し、建設費用、設備費用は当時のお金で合計約60万円で、郷土出身で丸紅商店専務の古川鉄治郎氏が全額まかなったという。60万円は、当時の古川氏の財産の3分の2にあたる。昭和初期の大阪城天守閣の再建費用がが約50万円だったというから大変な金額であったのが分かる。
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豊郷小学校を過ぎると、間の宿石畑である。かつて宿の中心に一里塚があったので「一里塚の郷」と表記した石碑が立っている。八幡神社に小ぶりながら一里塚の復元を試みていた。そして、近江の商家の立派な家屋の街並みが続く。
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伊藤忠商事・丸紅の創業者である伊藤忠兵衛の功績を偲んで建てられた「くれない園」がある。伊藤忠兵衛は安政5年(1858年)17歳で高宮上布の行商から身を起こした。伊藤長兵衛は忠兵衛の兄であり、博多新川端にて「伊藤長兵衛商店」を開業している。長兵衛と忠兵衛の作った商店が合併・分割を繰り返しつつ伊藤忠商事、丸紅商事を形作っていったとのこと。
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伊藤長兵衛が豊郷病院に寄贈した屋敷跡地と伊藤忠兵衛の旧邸がある。
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「金田池」と書かれた井戸のモニュメントがある。かつて50m北で清水が湧いていて旅人の喉を潤したが、枯れてしまったためモニュメントを作り当時を偲んでいるとのこと。
下の右側の写真は「又十屋敷」で、豪商藤野喜兵が、文政(1818?1830年)の頃北海道で漁業や廻船業を営んだときの商号である。その旧宅を、明治百年記念資料館と民芸展示館として整備し公開している。見学したかったが、先を急ぐためスキップした。
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火災に遭い焼失した千樹寺を弘化3年(1846年)に再建して、遷仏供養のとき一般民衆向けの音頭が作られたのが江州音頭の始まりとのこと。江州音頭発祥地の石碑と石の説明板があった。
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石畑の最後は、宇曽川に架かる歌詰橋(うたづめはし)である。この川は昔は水量が多く、水運に大いに利用されており「運槽川」と呼ばれていたのが「宇曽川」になった。
また、天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門を討ち京都に凱旋途中、この橋を渡ろうとした。その時、目を開いた将門の首が追いかけて来たので秀郷は将門の首に対し、歌を一首所望すると歌に詰まった将門の首が橋の上に落ちたという。これで橋が「歌詰橋」と呼ばれるようになったという。
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「歌詰橋」を渡ると「愛知川宿」である。下の左の写真の分岐点で右の道に進むと、直ぐに「愛知川小学校」がある。最近見かけることが無くなった「二宮尊徳」の銅像がここでは健在であった。
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中山道 愛知川宿のアーチが見えてきて、今日はここまでと近江鉄道の愛知川駅に向かう。愛知川駅の駅舎は地域のコミュニティーハウスを兼ねているようで、内部は土産物の販売や地域の芸術家の展示会が開かれていた。30分ほど待って初めて乗る近江鉄道の電車で今日の宿を予約した彦根に向かった。
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