2007.06.23
見附(磐田)から新居・・・(旧東海道)
本日の万歩計49,558(32.7Km)
今日は、2、3日前までは梅雨で雨になるとの天気予報で、諦めていたが、昨日の予報では曇りとなっていたので、歩くことにした。途中で雨がぱらつくこともあったが、傘をさすほどではなく快適に歩くことが出来た。先週は快晴で暑さのためか、途中でリタイアとなったが、曇りは本当に歩き易い。
磐田に着いたのは、8時45分ぐらいで、駅にある喫茶店でホットコーヒーを飲み出発した。最初に、先週も撮影した駅前の大楠を撮ったが、枝ぶりも、葉も茂っていて、本当に樹勢が良い。旧東海道は、典型的な住宅街を通る様相で続いている。
ほどなく、中泉公民館の前に夢舞台道標が建っていて、旧東海道に間違いないことを実感する。
そして、立派な秋葉常夜灯に遭遇する。この常夜灯と同じタイプの秋葉常夜灯を舞坂の宿の終わりまでの間に頻々と見ることになる。おそらく、大火に襲われ、火伏せの神で有名だった秋葉神社を祀る意味合いがあったのだろう。また、この辺りに宮之一色の一里塚があるはずで、注意していたのだが、見つからなかった。後で調べると階段で上る小さな山が作られていて、その上とのことだったが、石碑があるものと思い込んで歩いていたので見逃したようだ。
宮之一色には、高砂香料(たかさごこうりょう)という文字通り香料を作っている大きな会社があり、北に1Kmほど進むと、「行興寺」という藤の花で有名なお寺があるそうで、そのための「藤と香りの道」という散策道もあるのか、その道標が建っていた。
もう、藤の季節は終わっているし、旧東海道から外れるので「行興寺」見学はスキップして進んでいると、後ろから同じように旧東海道を歩いている人が迫ってきた。なんだか、後ろをつけられているようで嫌なので、道端の何でもない風景を撮影して時間稼ぎをして先に行って貰うこととした。
歩いて行くと、若宮八幡宮があり、ここには石垣で囲んだ丸い台地のようなものがある。石碑には西之島学校跡と書かれていた。調べると、明治5年の学制発布に伴い、翌六年にこの地に西之島学校が設立されたが、その後、西之島学校は森下村に校舎を新設し移され、井通小学校、豊田南小学校と改称されて受け継がれているという。この八幡宮には学校跡のみでのみでなく、相撲の土俵も併設されていた。
若宮八幡宮から500mほど進むと、「長森立場」の夢舞台道標があり、「長森立場」の表示の横に「長森かうやく」の字があった。横には説明板が建っていたので、詳細は説明板の写真をクリックして直接お読みいただきたい。
やっと、天竜川の堤防が見えるところに達した。天竜橋跡の碑があり、説明板よれば、明治9年に全長646間(1,163m)、幅2間(3.6m)の木橋が完成したが、昭和8年に現在の鉄橋が出来、廃止されたとある。
そして、いよいよ天竜川を渡る。以前は、天竜川に掛かっていた2つの橋には、いずれも歩道は無く、歩いて渡るのは注意を要すると言われていた。橋の手前でバスに乗り、向こう側でバスを降りるようにすると書かれてい案内書もあったそうだ。今は新しい橋が完成(2007年2月)し、広い歩道を独り占め状態であったが、天竜川も向こう岸は遠かった。
天竜川を渡り、川に沿って下る方向に少し進むと、「六所神社」があり、その傍に明治天皇の立ち寄られた記念碑が建っていた。また、舟橋跡と木橋跡の標識が建っていが、文字が消えかかっている。せめて石碑に出来ないのだろうか。
天竜川から1Kmほど進むと、金原明善の生家とその向かい側に記念館が建っていた。何をした人か知らなかったのだが、記念館を見学して、大地主の家に生まれ、明治の初めに私財を投じて天竜川の治水に力を注いだ。また、小学校にも自家を寄贈した、この地域の名士であったのが分かった。
さらに進んで、浜松バイパスを潜ると松並木が残っていて、ほっとしたが、写真のように倒れた松の木に支えをほどこし、安全のために金網を設けて大事にしているところがあった。粗末に切り取られる松がある反面、大事にされているところもあるものだ。
その後、単調な道を歩む。浜松のシンボルのアクトタワーは遠くから見えるのだが、なかなか近づかない。
だいぶ市街地が近づいてきて、この辺に馬込の一里塚跡があるはずだと、注意しながら進んで行くのだが、地図で見て通り過ぎたと思っても見つからない。あまり一里塚跡にこだわる積りもないのだが、なんとなく癪に障って、少し戻って探したら、歩道の植え込みに木の標識の杭が建っていた。しかも、消火器の傍であり、これでは見つけるのが大変な訳だ。
浜松に入って、浜松は旧東海道に対する扱いが冷淡ではと思っていたのだが、天竜川の橋跡の碑も貧弱であったし、この後に見つけた地蔵堂跡の標識も木の杭で、しかも肉眼では何とか読めるが、写真には写らないほどに消えていた。浜松は旧東海道でも最も大きな宿であったはずだが、戦争で完全に破壊され、歴史的な遺構が残っていないからと言う人もいたが、それだけではなく、市の姿勢の問題のような気がする。
やっと、アクトタワーも近くに見える、市街の中央付近に達した。ちょうど、お昼の時間で先ほどから、食事をしたい気も高まって来ている。浜松と言えば「うなぎ」と私の旧東海道歩きを知っている人は言うので、あらかじめ良さそうなお店をネットで調べておいたので迷わず「曳馬野(ひくまの」に直行した。小さなお店であった。もちろん美味しかった。
待望の浜松のうなぎの昼食に満足し、神明町の交差点を左折し南下すると、直ぐに「佐藤本陣跡」の表示板があった。道路右側にも「高札場」や「杉浦本陣跡」、「川口本陣跡」があるようだが、左側の歩道を歩いていて見られなかった。
右の歩道に移って、暫く行くと、「浜納豆」の看板の古いお店があった。「浜納豆」は食べたことはないが、普通に売っている納豆とも甘納豆とも違い、塩辛くて味噌に近い味で、戦国武将の携帯食として好まれたという。
道路をどんどん南下してJRの東海道線と新幹線のガード下を潜り、道路が右にカーブするところに、「馬頭観音」、「高札場跡」、「二つ御堂」と3つの表示杭が建っていてた。どうも、だいたいこの辺にあったものと言うので集めたのだろうが、杭の表示も貧弱だ。それより、お堂が大事で、道の反対側にも同じお堂が建っていて、「二つ御堂」と呼ばれるそうだが、片側は撮影を忘れてしまった。
この二つのお堂は、20歳の藤原秀衡が学ぶために京都にいたとき、藤原秀衡の愛妾が秀衡を訪ねてこの地まで来たとき、誤報で秀衛が死んだと聞かされ、弔うためにここにお堂を建てたという。その後、気落ちしたためか病に罹り死んでしまったが、そこに秀衛が故郷に帰るべく馬で通りかかり、ここで愛妾が死んだのを知り、同じお堂を建てたのだという。情報網の発達していなかった時代には、こういうこともあったのだろう。20歳の秀衛も故郷に帰ればあの子に会えると胸を高ぶらせて帰省の途についたに違いない。なんとも、可哀想なことである。
また単調な道が続く。たまには、写真のような格子戸の古い家があり、旧東海道の雰囲気もあるのだが、狭い道路の住宅街となっているのに、車の通りも多い。車の見えない写真は、かなりタイミングを狙ってやっと撮ったものだ。
浜松の宿から舞坂の宿は、思った以上に遠く感じた。やっと、舞坂駅の近くの春日神社に着き、少し休もうとしたが、境内にあるベンチはどれも鳥の糞で汚れていて、座る気がせず少し先の喫茶店に入った。
アイスコーヒーを頼んだら若い女将が出してくれ、浜名湖まであと2Kmぐらいですかと尋ねたら、そうですと答え、私の持っている地図を、ちょっとと声を掛けながら覗き込み、私が歩くルートを緑のサインペンで塗ってあるのを見て、このコースで良いです。この道は本当に歩くのに良い道ですと教えてくれた。
女将の言ったとおり、直ぐに綺麗な松並木が始まった。立派な大きな石の説明板によると、昭和13年に現在のように、歩道を松並木の外側に設ける整備を行い、700mで330本の松が残っているとのこと。それに、一定の間隔で、干支にちなんだ石の像が配置されていて、例えばうさぎなら、「卯 卯の刻 午前五時から午前七時」などと書いてある。順番に見てゆくと、なかなか楽しい。
松並木は国道1号をよぎるまで続いていたが、その交差点の三角地帯は、ちょっとした広場になっていて、「浪小僧」という面白い像が建っていた。説明には、「むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。(遠州七不思議より)とあった。
お手洗いもあり、使わせて貰ったが、全自動で綺麗なトイレであった。
どうも、浜松の宿から舞坂に入ってきて、旧東海道に対する扱いが格段に良くなったように感じた。
国道を横切ってから、車の通りもほとんどなくなり、良い感じで歩いて行くと、見附の石垣も残されていて、説明板も整備されていた。さらに進むと、一里塚跡も綺麗に整備されていて、立派な秋葉常夜灯篭も設置されていた。説明板によれば、秋葉灯篭は、文化6年(1809)に大きな火事があり、宿場の大半を焼き、人々の秋葉信仰の高まりで造られたとのこと。
さらに、脇本陣の建物も再整備して公開していた。公開は午後4時までで、着いたのは3時50分であったが、年配の女性が丁寧に案内してくれた。日坂でも旅籠屋を見学させてもらったと言ったら、即座に「川崎屋」さんでしょうと答えた。お互いに連絡があるのか、想像だが日坂の「川崎屋」を再整備するとき、参考にここに見学に来たのだろう。
今日は、どこまでと聞かれたので、弁天島あたりで終わりにしようと思っていると答えたら、それが良い、新居までは少し遠いし、関所の見学時間は午後4時までなので、次回に弁天島から歩き関所を見学して、白須賀(しらすか)に向かうのがお勧めとのこと。そして、白須賀は電車も無く、バスも無いところだから、その日は二川まで歩く必要があり、午前中に新居を出発する必要があると教えてくれた。
お殿様専用のトイレまであった。使用禁止と書かれていた。
直ぐに、浜名湖畔に着いた。ここまでやっと来たかと少々感激である。
しばらく、湖を眺めてから道を右に取り、弁天橋を渡り始めた。
遠く、左手には浜名湖の海に向かっての開口部に掛かる「浜名バイパス」のアーチ橋が見え、右手の方にはJRの弁天島駅が見えてきた。この第一の島は、大規模なホテルが多く、なかなかに壮観である。
先ほどの脇本陣のおばさんには、弁天島で終えると答えたが、今日は朝から曇り空で体力の消耗が少なく済んだのか、まだまだ余力があるので、次の島に向かって歩き始めた。歩道は花が植えられていて、橋の上とは感じられず、まるでどこかの綺麗な散歩道を歩いている感じであった。
しかし、確かに橋の上で、釣りを楽しんでいた子供に出会った。釣れた?と聞くと、一匹だけと答え、「ぼら」と思える魚を見せてくれた。それと、子供の「一匹だけ」と答えたイントネーションから、関西風の影響が感じられ、つくづく遠くまで来たものだとの思いを新たにした。
それにしても、新幹線の車両がひっきりなしに、高速で通り過ぎて行く。何度となく、それこそ数え切れないくらい新幹線の車両から、浜名湖のこの場所を見たと思うが、こちらから新幹線を見るのは始めての経験であった。
第二の弁天島も通り過ぎ、新居に向かって進み、終に新居町駅に到着した。
やっと、今日の旅を終えることにし、浜松までJRの電車で戻り、その後新幹線で横浜に戻った。