2007.09.22

桑名から庄野・・・(旧東海道)

今日の歩行距離(32Km:万歩計を忘れ推計値)
今週も3連休なため、旧東海道歩きに出かけることにし、新横浜6:13分の新幹線「のぞみ」で名古屋に向い、その後、関西本線で桑名に向かって8時10分に桑名に到着する。
桑名には、明治に日本一の地主王となった諸戸清六氏が自宅、庭園を市に寄贈した「六華苑」があり、以前同じ職場に諸戸で[清]の字まで受け継いだ知人がいたので、訪れることにした。
しかし、まだ、8時30分で開園していなかったが、入り口のくぐり戸を押すと、開いたので、そっと鹿鳴館の設計者で著名な英国人ジョサイア・コンドル氏の設計による洋館を写してきた。
kuwana_001.jpgkuwana_002.jpgkuwana_003.jpg長良川の堤防に出ると、長良川河口堰が銀色の輝きを見せ、空も快晴で、今日も暑くなることが予感される。
堤防を南に進むと、「七里の渡し跡」に行き着く。宮の「七里の渡し跡」よりずいぶんと小さいが、かつては伊勢参りの旅人も到着して、大いに賑わったのであろう。
ちなみに、ここの鳥居は伊勢神宮の一の鳥居である。

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少し進むと、「諏訪神社」の青銅の鳥居がある。当初鳥居は木造であったが、大風で倒壊し、寛文七年(1667)、松平定重によって再建された。桑名は江戸時代から鋳物業が盛んで、この鳥居も町内の鋳物師の辻内善右衛門に命じて建立された。慶長金で250両掛かったと言う。高さ6.9m、柱の回り57.5cm、街道脇にあって街道随一の青銅の鳥居として旅ゆく人々にその威容を誇っていた。
その後も再三災難に会い、伊勢湾台風でも船が衝突し倒壊した。その疵は今も残っている。その度に辻内家で何時も修復しているとのこと。
また、「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」と脇本陣の石碑に刻まれていたという。
鳥居の左側には、「志類べ以志」と刻まれた石標が立っていて、右側にに「たづぬるかた」、左側には「おしゆるかた」と刻まれている。
「しるべいし」は「迷い児石」とも呼ばれ、迷子や行方不明の人を捜すための掲示板の代わりをした石標である。「たづぬるかた」面に尋ね人の特徴を書いた紙を貼りだし、心当たりのある人が「おしゆるかた」面へ、その旨を記した紙を貼るようにしたとのこと。
道路の右手の三之丸堀沿いには、東海道53次を模した小公園があり、写真は日本橋を模したものである。
突き当たって左折すると、「桑名市博物館」があり、見学したかったが、まだ開園していなかった。
大きい通りを渡り一つ先の通りを南に向かって進むと、寺町という通りがあり、その名の通り分譲宅地をお寺さんの団体が買い占めたかと思いたくなるほど寺が並んでいる。主な寺を次に示すが、左から右に、上から下に向かって、
「教宗寺」、「光徳寺」、「十念寺」、「壽量寺」、「天武天皇社」(これは寺ではなく神社)、「善西寺」である。
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ようやく、寺町を抜けて「員弁川(いなべがわ)」に架かる「町谷橋」を渡る。その後進んで、近鉄名古屋線を「伊勢朝日駅」のそばでよぎり、東芝の三重工場前を通り過ぎたところに「浄泉坊」と言う名のお寺があった。
立派な門構えと思ったら、徳川家に縁のある桑名藩の奥方の菩提寺であったという。山門や瓦に三つ葉葵の紋が入っており、参勤交代で表を通る大名もこの門前で駕籠から降りて一礼をしたといわれている。
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その後、特に特徴の無い街道を進み、朝明川を渡って、山峡鉄道とJR関西本線の交差点を通過し、再び近鉄名古屋線のガードを潜ると、「富田の一里塚跡」があった。石碑のみが、ぽつんと建っていた。
その後も、取り立てて特徴の無い町並みを進むが、近鉄「阿倉川駅」の近くで国道に合流する手前で、とても立派な常夜灯があり、今も電球が付けられ機能しているようであった。
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四日市の市街への入り口の海蔵橋を渡る手前に、三ツ谷の一里塚跡の立派な石碑がった。そして、海蔵橋を渡る。
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空腹を感じるようになり、道端の食堂に入り天婦羅蕎麦定食を頼むが、今日ははずれであった。天婦羅も蕎麦もいまいち。 相当に空腹でも、美味しいと感じなかった。まぁー、こう言うときもあるだろう。
そして、いよいよ、三滝橋を渡る。広重の描く三滝橋は、板を並べただけの粗末な橋だが、今は広重もびっくりの綺麗で立派な橋だ。
kuwana_021.jpgkuwana_022.jpgkuwana_023.jpg四日市と言えば、「諏訪神社」が一番大きな神社。大きい神社ではあったが、あまりしっくりしない気がした。これほど大きな神社でもお参りに訪れるひとは多くないのであろうか。
そして、その神社脇から続く旧東海道がアーケードになっているのには驚いた。

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kuwana_026.jpg鹿北橋を渡ると、いいよ日永の追分が近づく。橋を渡ると、天照大御神を祀る「大宮神明社」がある。天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもあるとか。
kuwana_027.jpgそして、いよいよ日永の追分が見えてきた。この追分では今でも神水と言われる水が豊富に湧き出しており、近所の方がポリタンクを持って汲みに来ている。水質検査でも飲料水として全く問題ないとのこと。実は、この少し前で飲み水が無くなり、スポーツ飲料でも140円ぐらいなのに、単なる水で150円とは、ぼり過ぎだと思いながらも、買ったところであった。こういうことなら買うのではなかったと思った。水を汲みに来たおじさんが、とにかく飲んでみろと言うので、飲んでみると軟らかい感じの良い水であった。
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内部橋を渡って「采女(うぬめ)」という地名に入って行く。「采女」とは元来、豪族の娘などで天皇に食事を出すなどの世話をする女性で地位は低いが、美人であることが要求されたという。三重県は美人が多かったのであろうか。地位が低いとは言っても、才識兼備で気に入られて、高い位に上る例もあったとのこと。
kuwana_030.jpgそれはさておき、「采女」では、日本武尊が、あまりの急坂で剣を杖の代わりにしたという「杖衝坂」という急坂がある。芭蕉もここを馬に乗って通りかかったとき、鞍ごと落馬して、
「歩行(かち)ならば 杖突坂を 落馬哉」の句を読み、石碑が残っている。芭蕉の句で季語の無い句として有名である。

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「杖衝坂」は急でも短い坂で、上りきったところに「血塚社」という小さな神社がある。ここは日本武尊が怪我をした足の血止めをした場所と言われる。その後、旧街道は国道1号線に合流し、しばらくして分岐して「石薬師」の宿に至る。
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「石薬師」はそれほど大きな宿ではない。静かな宿の通りを進んで行くと、「石薬師小学校」の校庭の隅に「佐佐木信綱」の記念碑が建っていた。佐佐木信綱と言えば、「夏は来ぬ」、
うの花のにおう垣根に、時鳥(ほととぎす) 
早もきなきて、忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

・・・・ 懐かしい。
なお、苗字は本来「佐々木」と記したが、信綱が訪中の折、中国には「々」の字が存在しないことを知ったため、それ以後は「佐佐木」と改めたとのこと。
写真の後ろの建物は、信綱が還暦の記念に「石薬師文庫」として寄贈したものである。
小学校の校庭の隅の記念碑、石薬師文庫と並んで信綱の生家および佐佐木信綱記念館があり、色々な遺稿や信綱が愛用した道具類を見ることが出来る。
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静かな通りが続くが、街の終わり近くに「石薬師宿」の呼び名の元になった、「石薬師寺」がある。庭の手入れが行き届いており、清々しい感じの良いお寺であった。
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いよいよ、「石薬師の宿」から離れるが、石薬師の一里塚跡があり、植えられた木が既に大きく育っていて、すずめの鳴き声が喧しく聞こえていた。
そして、合流した国道1号線を通って、また別れて旧街道に入ってゆくと、「庄野の宿」の案内の石碑が建っていた。
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「庄野」は本当に小さな宿で、入ってゆくとすぐに本陣跡の碑。
今日はここまでとして、鈴鹿川を渡って、予約したホテルに向かって痛い足を引きずるようにして歩いて行った。
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2007.09.16

池鯉鮒(知立)から宮・・・(旧東海道)

本日の万歩計41,630(27.43Km)
昨日は疲れて、9時頃には寝たので、5時に目覚め5時30分にホテルを出て、名古屋の金山駅に向かうと、駅に着く直前で激しく雨が降ってきて、今日の多難を予感させた。ともかくコーヒーで簡単な朝食をとり、名鉄で知立に向かうが、知立駅に着いたときは、今にも降りそうな空模様だが、ともかく雨は止んでいた。
歩き始めに雨が降っていると気勢をそがれるので、まずは良かった。
最初に出くわしたのは、知立城跡。いまは子供の遊び場の小公園になっている。そして、突き当たりに、了運寺。階上が鐘楼になった門が珍しい。
chiryu_01.jpgchiryu_02.jpgchiryu_03.jpg知立神社に立ち寄ろうとして、横道にそれて行くと、知立公園があり、明治神宮からいただいたという「花菖蒲」が一面に植えられていた。明治天皇ならびに昭憲皇太后御遺愛の名品種が60種類あるとのこと。開花期にはさどかし綺麗だろうと思われる。
chiryu_05.jpgそして、知立神社。当日の午後3時からお祭りのようで、鉢巻を締めた若衆が大勢詰め掛けていた。
多宝塔も、美しい曲線を見せ、「池鯉鮒」の語源となった太鼓橋の架かった池が見える。水が富栄養化しているためか、黄緑色に濁っていて池の鯉が可哀想だ。何とかする必要があるのではなかろうか。
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次に家康の側室の「お万の方」の生誕地といわれる「総持寺」があった。境内には「水子地蔵」があり、地蔵に水を掛けると、「水琴窟」になっていて、綺麗な音がかすかに聞こえるようになっていた。
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そして、「逢妻橋」を渡ると、しばらくして国指定史跡の「阿野一里塚」。
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阿野の一里塚を過ぎて以降は、尾張と三河の境に架けられた「境橋」以外は、さしたるイベントもなく、ひたすら「中京競馬場駅」に向かって歩き続ける。
駅に近づくと「桶狭間の古戦場」があり、小公園になっていて「今川義元の墓」もある。
今川義元の墓というと、「鳴海城」に陣取って頑張っていた今川家臣の岡部元信が信長に城を明け渡して首を返してもらい、駿河に持ち帰り、雪斎が住職であった、今川家菩提寺の臨済寺に葬ったので、こちらが本当の墓所で桶狭間は、残された首の無い胴体を葬ったのであろうと思っていた。
しかし、義元の胴体は家来が持ち帰ろうとしたが、腐敗が進み三河国宝飯郡(愛知県豊川市牛久保町)の大聖寺に胴塚として埋葬され、いまも胴塚は存在する。
また、墓所も豊明市の高徳院、東京都杉並区の観泉寺にもある。この古戦場、臨済寺と合わせると4ケ所となり訳がわからない。
chiryu_10.jpgchiryu_11.jpgchiryu_12.jpg古戦場跡の公園の隣には「高徳院」と言うお寺があり、こちらも今川義元本陣跡、古戦場跡と宣伝されていた。
このお寺は弘法大師の建立とのことだが、国道には派手な案内板、山門の派手さからあまり良い印象をもてなかったが、境内に入ってみると落ち着いた雰囲気のお寺であった。

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桶狭間を過ぎて、しばらくして国道を過ぎり、有松に入って行く。鳴海の宿の手前1里の有松村は尾張藩の保護を受けた有松絞りで栄えたところで、立派な構えの家が多く、町並みの保存地区でもある。
この、絞りは現在にも続いていて、今も絞りで作った衣料品を扱う店があり、問屋も存在する。また、軒先に「ありまつ」の暖簾を掛けることを統一して行っているようだ。
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有松を過ぎて進んで行き、扇川に架かる中島橋を渡って鳴海の宿に入る。
まず最初に、みごとな建築の瑞泉寺。そして、芭蕉供養等のある誓願寺。
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瑞泉寺の前を通って少し坂道を上った右側に鳴海城跡がある。今は、鳴海城の守り神であった天神社となっている。ここにも芭蕉の「京までは まだ中空や 雪の雲」の句碑があった。
chiryu_23.jpgchiryu_24.jpgchiryu_25.jpgその後、しばらく特徴の無い町並みを進み、「本笠寺」が近づいたとき「笠寺一里塚」に出会った。
とても立派な一里塚であった。中心に植えられた榎の木はうろが出来、元気がなくなっていたのを地元で200万円掛けて、穴をふさぐ施術を行い、蘇ったのだという。確かに樹勢も強く、一杯に葉を茂らせている。
しばらく進むと、まず正面に多宝塔が見えてきたが、玉照姫で有名な笠寺観音である。当日はお祭りで境内には屋台も出て賑わっていた。
寺の由来を簡単に紹介すると、笠寺観音はもと小松寺といい、天平五年(733)浜に流れ着いた霊木に僧禅光が十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。その後荒廃し、観音像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が自らの笠をかぶせた。このとき、通りかかった藤原兼平が雨に濡れて立っている美しい娘を見て、訳を聞きその優しさに心を打たれて都に連れ帰り妻とする。この後、彼女は玉照姫と呼ばれるようになる。
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笠寺観音には、本堂以外に美しい多宝塔、藤原兼平、玉照姫夫婦のお堂などなど沢山のお堂があり、宮元武蔵の碑まである。
それにしても、関白藤原基経の息子の兼平が、名も無い娘であった玉照姫の付属品扱いなのが面白い。
chiryu_29.jpgchiryu_28.jpgchiryu_30.jpgさすがに、お腹が空いてきた。今日の食事は¥980-の蕎麦、天婦羅定食だ。やはり、この値段でこのボリュームはお値打ちだ。味もなかなか美味しかった。
chiryu_31.jpg いよいよ名古屋市街に入ってきた。伝馬町のアーチ状の飾りにも旧東海道の文字が入っていて、ここが、かつての東海道のメインストリートであることを主張している。それにしても車の走る大通りと較べて、なんと静かなことか。雨が激しく降ってきたが、10分ほどで止んだ。
そして、終に「七里の渡し跡」に到着した。常夜灯と時の鐘の鐘楼が建っている。時間は午後3時近くだった。
東屋のような休憩所も建っていて、街道歩きの人達が5人ほどが、たどり着いた感想などを述べながら歓談していた。残念ながら「七里の渡し跡」がある「堀川」は、汚染が酷く少し匂う。
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日本橋を出発して、やっとここまで来た。京がぐっと近づいた感じがした。
しかし、先にも述べたが2ケ月半のブランクと2日連続の歩行は厳しいものがあった。お昼には着けると思っていたが、だいぶ遅れた。もう、駅の階段の上り下りも辛い状態であった。 なんとか地下鉄で名古屋駅に辿り着き、新幹線の新横浜停車の「のぞみ」16:04発で帰宅の途についた。

2007.09.15

藤川から池鯉鮒(知立)・・・(旧東海道)

本日の万歩計40,437(26.68Km)
前回の7月7日から約2ケ月半ほど経っての再開である。
今までは全て日帰りの歩行であったが、距離が遠くなったこと、3連休でもあることから途中1泊して宮の渡しまで行き、一気に愛知県を済ませてしまうことを計画した。
最も早く前回に終えた藤川の駅に到着する方法として、朝一番の電車で三島まで行き、三島から新幹線で豊橋、名鉄に乗り換えて藤川に9時ころに着いた。
豊橋からの名鉄が不便で時間が掛かる。快速特急、特急、快速急行などと、あまりにも種類の多い電車を走らせながら、各駅停車の普通の本数の少ないこと。
fujikawa_01.jpgともかく、無人の藤川駅に着き、地元の中学生5、6名と電車を降りて、前回離脱した十王堂の横で大きな芭蕉の句碑に遭遇した。
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」と読むのだそうだが、寛政五年(1793)に西三河の俳人が再建したものとのこと。 たしかに、藤川は紫麦で有名だったようで、今も見ることが出来るそうだが、見落としてしまった。
fujikawa_02.jpgしばらく、行くと「吉良」への分岐(追分)に達する。左が「吉良」への道である。
「吉良」と言えば、忠臣蔵の吉良上野介の領地であったところであるが、職場で吉良出身者がいて、聞いたところ、吉良では吉良上野介は良いお殿様で、忠臣蔵の映画は地元では上映禁止だと言っていた。
fujikawa_03.jpg吉良への追分を過ぎると、しばらくして藤川の松並木がある。岡崎市指定文化財とのことだが、なかなか良い感じの松並木だ。 そして、その後もこま切れではあるが、点々と松並木に遭遇する。
fujikawa_04.jpg多少の松並木を残しながらも、とりたてて特徴の無い「美合」の町を過ぎ、「岡崎源氏蛍発生地」と言われる「乙川」に達する。発生地の碑があるとのことであったが、見つからなかった。
また、「乙川」は普段は川に設けられた木の板で渡れるようだが、雨が続いて増水していて、写真のようにとても渡れる状態でなく、国道に掛かる大平橋を渡ることとなった。
fujikawa_05.jpg「乙川」を過ぎると、もう「岡崎」が近づく。 少し先には、「大岡越前守陣屋跡」があった。
大岡裁きで有名だが、ここ三河に1万石の領地をもらい大名となったが、江戸住まいで、この地に来ることはなかったとのこと。 門と塀は立派に復元されていたが、中は空き地であった。
直ぐに「大平の一里塚」があり、道路の反対側には立派な「常夜灯」が建っていた。こちらは昭和3年の道路工事で壊され、そのあとに「常夜灯」を設置したとのこと。
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やがて、岡崎の27曲がりの入り口に達した。
冠木門と立派な石の案内板がある。 とても複雑に折れ曲がっている。これから地図と首っ引きでたどって行くことになる。
この27曲がりは、豊臣秀吉の家臣の田中吉政が、入城して間もなく工事にとりかかったが、その理由は「家康の攻めに備えて」だったという。秀吉によって江戸という関東の田舎に追いやられてしまった家康の後釜に座ったので、家康にとっては恨みつらみもあり、田中吉政にしてみれば単身敵地に乗り込んだようなもので、いつ家康が攻めて来るかと気が気ではなかったのだろう。
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27曲がりは、地元の努力もあって複雑なようでも、石碑が建っているところも多く、それほど悩むこともなく辿って行ける。途中で目だったものは、大正6年建造の「岡崎信用金庫資料館」。龍田総門跡などである。
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27曲がりを辿って、やっと通り抜けたらお腹が空いて食事にした。これで、¥750-。安いわりにはボリュームたっぷりで満足である。 そして食事の注文が出てくる間に地図を眺めていて気が付いたのだが、27曲がりは「岡崎城」に近づけず、見ることもさせないで、通過させることを意図していることである。もう、岡崎城を見るために戻る気にもなれないが ・・・。
ともかく、食事を終えて、進むと「八丁味噌」の工場群があり、そのなかでも「カクキュー」は売店とともに工場見学をさせてくれる。売店は少し覗いたが、見学は1時間毎のようでスキップした。
fujikawa_12.jpgfujikawa_13.jpgfujikawa_14.jpg「八丁味噌」の工場群を過ぎると、「矢作橋(やはぎがわ)」を渡ることになるが、工事中で橋手前の横断歩道も渡れなかった。また、写真で分かる通り架け替えの新しい橋桁が出来つつあり、コミカルな「蜂須賀小六」と「秀吉」の「出合之像」も移設されていて見られない。
矢作橋を過ぎて、5?600m進むと、乙川に身を投げた浄瑠璃姫(矢作の長者の娘)が眠る誓願寺があった。
浄瑠璃姫は、奥州に下る義経と結ばれるが、その後、義経から音沙汰が無いのを悲しみ身投げしたという。この物語が、独特の節回しの人形劇となり、この形の人形劇が浄瑠璃と呼ばれるようになったとのこと。
そして道路沿いの十王堂の内部は、十王の像より、背後の壁画の極彩色が素晴らしい。
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うっかり通り過ぎてから、引き返し(100mほど)「永安寺の雲竜の松」を見に訪れた。
この松は「県指定天然記念物」とのことなので、「永安寺」も立派なお寺と思っていたのだが、本堂も鐘楼もほとんど崩れかけていて、放置されたお寺の感じであった。もう再興する意志もないのであろうか。
やはり、一月半のブランクは大きく、足が言うことを聞かない感じで、「来迎寺公園」の芝生に寝そべってしばらく休み、また気を取り直して歩き始めると、「来迎寺一里塚」があった。あとから、修復した一里塚であろうが、綺麗な一里塚だ。
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ようやく、知立の松並木に達した。知立の並木の特徴は、松並木の外側にも通路があることで、これは馬を繋ぐためであったとか。また、双体のかわいい道祖神があった。
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松並木の途中には、馬市の碑があり、裏に歌が刻まれていた。また、万葉の句碑もあった。
馬市句碑:
    かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく
       蝶つばめ 馬市たてし あととめて
   (麦人)
万葉の歌碑:
    引馬野に にほふはりはら いりみだれ 
              衣にほはせ たびのしるしに

この辺りの地名は昔は、「引馬野」と呼ばれたという。
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今日は、鳴海あたりまでと考えていたが、とにかく疲れる、ファイトが出ない、ペースが上がらない。知立で切り上げることにして、知立駅に向い、名鉄で今日の宿泊地の名古屋に向かった。

2007.07.07

吉田(豊橋)から藤川・・・(旧東海道)

本日の万歩計48,108(31.75Km)
今日は朝から曇り空で、少し雨がぱらつくかも知れないが、先週の快晴の暑さの中で歩くより疲労感は少ないだろうとの期待のもとに出かけることにした。
先週と同じく、三島まで鈍行で行き、三島から豊橋までは新幹線を利用したが、窓から見ると小雨が降っていた。豊橋には8時13分に着き、駅の喫茶店でモーニングセットを食べながら今日の行動を頭で反復する。
yoshida_001.jpg豊橋駅を8時半ころ出発して、前回離脱した松葉公園に向かうが、持っている地図は旧東海道が分かる地図で豊橋駅が地図からはみ出しているため、大体の見当で歩いたら、通りを間違えて大きくロスしてしまった。ともかく、松葉公園に到着して、道標を見ると「江戸まで73里、京まで52里」と書いてあった。ずいぶん遠くまで来て、京の方が近くなったのかと、しばし思いに耽る。
豊川に向かって歩いて行くと、豊橋の手前に湊町公園があり、築嶋弁天のお堂が池の中に作られた島にあり、その傍らに芭蕉の「寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき」の句碑が建っていた。吉田の宿に泊まったときの句とのことだが、こちらは気楽な一人歩きだ。
yoshida_002.jpgyoshida_003.jpgyoshida_005.jpg豊川の土手道には芭蕉門下の太田白雪の「白魚の 城下までや 波の皺」の大きな句碑が建っていた。芭蕉の句碑より立派だ。
そして、豊川の堤防では花火大会でもあるのか、見物席と思われるのを長い距離に渡って構築していた。昔、今川に架かる橋で「今橋」と呼ばれていたのを「今橋」は「忌まわしい」に通じ縁起が悪いと、池田輝政が「吉田」と改名し、明治になって再度「豊橋」に改名されたが、大河ではないが風格のある川に見える。橋が鉄の橋に変わり、堤防がコンクリートで保護工事が行われたことを除けば、江戸時代ともあまり風景は変わっていないのではなかろうか。
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豊川を渡り、直ぐに左折して街道を進むと、最初に豊川稲荷の遥拝所があった。たしかにお稲荷さんと言えば、豊川稲荷だが、ここでお祈りすれば、豊川に行かなくても良いということなのだろう。
次には「聖眼寺」があり、中には松葉塚と名づけられた松尾芭蕉とその句碑が建っていた。説明板には、芭蕉が歿して50年を記念して、芭蕉の墓の墳土を譲り受けて作ったと書かれていた。碑の土台が亀なのは浦島寺と言われる神奈川の「慶運寺」と同じだ。
句碑の文字は消えていて、読めないが「ごを焚いて 手拭あぶる 寒さ哉」と彫られていたとのことである。「ご」とは三河地方の方言で松葉を集めて燃料にしたものとのことだが、凍りついた手拭をあぶることで、手をあぶるより、より一層、寒さを強調したのだという。
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まったく、目立たない「下地の一里塚跡」は、あまりにも素っ気無い碑である。街路樹の植え込み場所のわずかに土が露出している場所を利用して建てられていたが、気が付かず通り過ぎ、戻って探して見つけた。74番目の一里塚で「江戸日本橋より七四里」と書かれていた。
写真のような蔵付きの立派な塀を廻らした家もあり、連子格子の家も残っているのだが・・・
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yoshida_012.jpgやがて、「鹿菅(しかすが)橋」を渡るが、ここは清少納言が「枕草子」で第十七段に「渡(わたり)は、しかすがの渡、‥‥‥」とその先頭に挙げている場所で、歌枕にも多く用いられている有名な場所であったという。古い時代には「志香須賀」の字も当てられたようだが、豊川放水路が出来て水の流れが変わり、かつては舟で渡っていたのが、いまは短い橋が架かるのみとなった。そのような有名な場所であったことを知る人もこの辺りにはいないのだろうか、橋の名前もほとんど消えて読めなくなっていた。
yoshida_013.jpgこの辺りは、弥生時代の遺跡が多く分布するらしく、鹿菅橋から川の堤防に沿って150mほどの所に、「瓜郷遺跡」があるので東海道とは関係ないが、見学した。写真は復元された弥生時代の「竪穴住居」であるが、稲作が始まったころのものと解説されていた。
鹿菅橋を過ぎて、豊川放水路に架かる「高橋」に向かって進み橋に近づくと、交通量は多いのに道路幅は狭く歩道も無く、道路の側端の白線すら引かれていない、とても怖い状態になる。
歩く人がいないので、放置されているのだろうが、何と言っても東海道なのである。何とかしないと、いずれ事故が起こるだろう。橋はともかく、橋に至る道路も狭いので、何とか拡張するか、せめて大型車両の通行を制限すべきではなかろうか。誇張ではなく、本当に怖かった。
やっとのことで、橋を渡り、最初の交差点脇にある小さな広場には「子だか橋」にまつわる碑が建っていて、説明板の文字は消えかかっていたが、以下のような悲し話しが書かれていた。
この先の菟足神社(うたりじんじゃ)にはおよそ一千年前、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする慣習があったと伝えられている。 ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われていると書かれているので、人身御供は本当にあったことなのだろう。秦の始皇帝が、徐福に命じて不老長寿の霊薬を求めて日本に行かせたというが、その伝説にまつわる言い伝えも「菟足神社」にあるようなので、渡来人の生贄の風習として行われたのかも知れない。怖い話しである。
yoshida_014.jpgyoshida_015.jpgyoshida_016.jpg先に1Kmばかり進むと、伊奈村立場茶屋の加藤家の屋敷跡に到達し、2つの句碑がある。加藤家当主で俳人であった烏巣(うそう)は芭蕉とも親交があり、芭蕉がこの地へ宿泊したときの句だという。芭蕉の句は、馳走に対する御礼の挨拶句として読んだのだろう。
かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し  芭蕉
ももの花 さかひしまらぬ かきね哉  烏巣
yoshida_017.jpg伊奈一里塚跡を気を付けながら進むと、太鼓を扱う珍しい店があり、その角に石碑が建っていた。江戸より75里の記述があった。太鼓店は始めてお目にかかるが、中を覗き込むと作りかけの大きな太鼓なども見ることが出来た。本当は断って中に入って見学させてもらうのが良かったのかもしれないが・・・
「村社 速須佐之男神社」と書かれた神社があり、境内には寄進された色々な種類の灯篭が建っていた。
また、砂利を敷き詰めたちょっとした広場には、冷泉為村の歌碑が作られていたが、為村はここに掲げた1首のみ、この伊那村で読んだのだと言う。
散り残る 花もあるとさくら村 青葉の木かげ 立ちぞ やすらふ  為村
東海道400年祭のとき、為村が伊那村で読んだ歌が見つかり、取って付けたように作った碑のように思える。
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国府(こう)の市街の入り口あたりで、良さそうな「うなぎ屋」が見つかり、昼食にしようかと思ったが、まだ11時20分で、もう少し後でと思いスキップしたが、その後は食事をするところがなかなか見つからず、困った思いをした。街道歩きでは食べられるときに食べておけとは、本当だ。
さて、市街に入ると「薬師如来」の小さなお堂があったが、縁起には、相次いで父母をなくして悲嘆にくれていた二人の娘が、たまたま止宿された行基菩薩に頼んで薬師如来像を刻んでもらい、朝暮礼拝供養したのがはじまりで、それゆえ「二子寺」と呼ばれている、と書かれている。
行基は天智7年(668)に渡来人の子供として生まれているが、もし ここに書かれている縁起が本当なら、始まりは奈良時代にまで遡ることになる。
そして、少し先には「御油の一里塚跡」の石碑があった。
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その後、食事を摂るところには遭遇せず、向こうに大きな目立つ灯篭が見えてきた。
秋葉山への道標だが、ここは「姫街道」への分岐点にもなっている。「姫街道」はここから、見附宿に通じていて、浜名湖の渡しを避けて旅をすることが出来、女性がこの道を選ぶことが多く、「姫街道」と呼ばれた由である。
yoshida_023.jpgyoshida_024.jpgyoshida_026.jpgこの追分(分岐点)には、「ベルツ花夫人」が晩年過ごした建物跡の立て札が建っていた。
明治政府の招聘で明治9年に日本に到着したベルツ博士は、日本の近代医学の構築に多大な貢献をし、また、当時「あかぎれ」に苦しむ日本女性のために、植物油から作ったグリセリンと日本酒を用いて「ベルツ水」を作った。荒井花子は明治21年にベルツ博士と結婚し、一男一女を設け、明治38年夫とドイツに渡るが、夫の死後帰国して、祖父が旅籠を営んでいた御油で晩年を過ごしたという。今では、多くの日本女性が、国際社会で活躍しているが、彼女はその先駆けとなった人物であろう。
yoshida_025.jpg御油橋を渡って進んで行くと、浄瑠璃姫が持っていた念持仏があるという「東林寺」があったが、空腹と疲労も蓄積してきているのでスキップし、国の天然記念物に指定されている御油の松並木に向かう。
松並木の入り口には、説明板や碑が建っていた。もう東海道の松並木が残っているところはほとんど無いので、本当に貴重だ。
それにしても、細い道路にもかかわらず車の通りが激しい。歩くのも注意しないと危険である。車が見えない瞬間を捉えて写真を撮るのも大変である。狙ってもシャッターを押す瞬間には視界に入っていることが多い。
是非とも、車の通行の制限を考えて貰いたいものである。高速道路並みの国道1号線が平行して走っているが、豊橋から感じていたことであるが、車の通りが多すぎるように感じる。これも自動車大国の愛知県なればこそだろうか。
yoshida_027.jpgyoshida_028.jpgyoshida_029.jpg松並木を抜けると、赤坂の見附跡の掲示板が建っていた。静岡県から愛知県に入って旧東海道の扱いが、淡白で○×跡の表示板も素っ気無いものが多かったが、ここ赤坂の表示はそれなりに配慮されたデザインになっているように感じた。
そして、やっと食事の出来る店にめぐり合った。時計を見ると12時半を回っていた。古い民家を改修して、地元の婦人部の方が運営している店のようで、地元の婦人客も多く、賑やかであった。また、食事以外にも手作りのジャムなども販売していた。
そして、写真の食事でなんと700円なのである。食後に頼んだコーヒーがお菓子付だったが300円は、食べ物と較べると高い感じになってしまった。
yoshida_030.jpgyoshida_031.jpgyoshida_032.jpg赤坂宿は、旧東海道に少し気合が入っていると感じていたが、なんと本陣跡に門まで復元していた。全く残っていない本陣を門だけとは言え復元するのは珍しい。直ぐ後に出てくるが、「よらまいかん」の名前の無料休憩所まで建てている。
名鉄の「名電赤坂駅」の近くには、最近まで営業していたという旅籠の「大橋屋」がある。
土間からの上がりかぶちにお賽銭箱のような心付けを入れる箱があり、適当にお金を入れて見学させていただく。奥のほうはまだ、住居として使われているようで、入り口に近いほうの2階に上ると当時の宿泊の部屋を見ることが出来る。
ここで、宮から歩いてきたという40代半ばぐらいのご夫婦に出合い、少し言葉を交わしたが、私とは逆に江戸に向かって歩いているという。一人旅をしていると、自分の写真は撮り難いので、写真を撮ってあげましょうとの言葉に甘えて、撮っていただいた。
少し行くと、休憩所「よらまいかん」があった。無人だが綺麗な休憩所であり、色々な写真などが展示されていた。中では小学生の女の子2人が、ゲーム機に興じていたが、親にうるさく言われることもなく、絶好の場所なのだろう。
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赤坂宿の最後は杉森八幡宮で、その境内には2本の楠の木の根株が一体化してしまったような大木があり、夫婦楠と呼ばれているそうだ。確かに立派な大木である。
yoshida_035.jpgyoshida_036.jpgyoshida_037.jpgこの杉森八幡宮には、境内に回り舞台がある。説明板には、
当舞台は、心棒の先を支点として盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台である。奈落はなく、舞台上で回した。 赤坂宿では、江戸時代には人間浄瑠璃、明治以降は歌舞伎が演じられていた。
現在の舞台は、赤坂の芝居愛好者が中心となって、近隣の同好者に建設を呼びかけ、明治五年七月に舞台開きをしたと伝えられている。 平成十二年に改修復元した
、とある。
音羽町の市街を抜けて、長沢という地名の町にすすむ。この辺りは立場(たてば)だが、素っ気無い「長沢の一里塚跡」の杭が建っていた。
時々は、美しい連子格子の家もあり、秋葉灯篭もたびたび見られたが、神社名の碑が建っているのに神社がどこか分からないところも多かった。恐らく、国道、名鉄の線路を越えた向こうの山際にあるのだろうが、国道、近鉄、東名高速の建設が重なり、消滅した神社もあるのかも知れない。
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長沢を町を過ぎると、旧東海道は国道1号線に吸収されてしまい、国道の歩道を歩くことになる。全く面白くなく、旧東海道を歩くというノルマとして歩くのみである。
2Km弱歩くと、間の宿である本宿(もとじゅく)の入り口の碑と、冠木門(かぶきもん)を建てた宿への導入路に到達する。
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本宿に入ってゆくと直ぐに、松平家の菩提寺で家康とも関係の深い「法蔵寺」がある。
松平家がまだ、三河の小さな田舎大名であったころの菩提寺で、さほど大きなお寺ではないが、狭い山門前には、3台もの観光バスが駐車していた。三河地方の名所廻りのコースに入っているのだろう。
常夜灯を左右に配し、階段を上った上には独特な山門が建っている。階段の下の左脇には、家康も手習いのすずり水を汲んだという「賀勝水」という泉があったが、水面は汚れていた。常に汲み出せば綺麗になるのではと思われる。
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また。「法蔵寺」には、近藤勇の首塚もある。同志230 人を救うべく単身板橋に出頭して逮捕され 4月25日板橋で斬首され、4 月27日までさらしものにされた後, 京都まで運ばれ,京の三条河原でも3日間 再びさらしものにされる。ところが、誰か首を盗み出した者がおり、この「法蔵寺」に運んで埋葬したのだという。近年出てきた石碑の基盤の記述から本物の近藤勇の供養碑と分かり、あらためて胸像を造り供養したという。
しかし、近藤勇の首塚は京にもあり、どちらが本物か不明だという。江戸時代以前ならいざ知らず、幕末の出来事でもうはっきりしなくなっているのである。
また、門前には家康手植えの御草紙掛松がある。家康が幼少のころ、この寺で学び手習いの草紙を掛けた松だという。しかし、枯れてしまって今の松は4代目とのこと。
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本宿には、「法蔵寺」以外は見るべきものも無く、通り抜けるとまた国道に出て歩くようになるが、直ぐに国道から外れ名鉄と国道に挟まれた特徴の乏しい道を歩く。1Kmほどでまた、国道に合流するが、その合流点の舞木町西の交差点から田んぼの中に大きな秋葉灯篭が見えた。いままで見た中では一番大きいのに引かれて、国道を離れて行くと、右手の小山に赤い鳥居が見える。山中八幡宮の大きな石碑も見え、大きな秋葉灯篭は八幡宮への誘導目印であるのが分かる。
ここは、三河で一揆が起こったときに家康が逃げ込んだ洞窟があるところで、洞窟から鳩が飛び出し、追っ手は人のいるところに鳩はいないだろうと立ち去り、命拾いをしたところとのこと。
本殿は、山の上に階段が続いていて疲れた身には辛かったが、上ってみた。本殿の横には竹の植込みがあり、命拾いした家康が、持っていた矢を地面に挿したら、芽が出てきて竹が生え「御開運竹」と呼ぶようになったと書かれていた。まだまだ、奥の院に道が続いていて、この奥に家康の隠れた洞窟跡でもあるのかも知れないが、体力的に行く気にはなれなかった。
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国道に戻り、1Kmほど行くと、藤川宿に到達した。従是西藤川宿(これより西、藤川宿)と書かれた傍示杭が復元されていて、木戸らしい石垣も作られていた。東棒鼻跡である。
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藤川の市街を歩いて行くと、お城の櫓のような建物の「人形処」と書かれた立派なお店があった。近づくと「製造卸粟生人形」と書かれていたので、人形を作っているお店だと分かった。「粟生」には「あおう」と仮名が振ってあった。雛人形などの高級な人形を作っているのだろう。藤川宿は小さく、途中本陣跡などもあったが、寄ろうと思っていた藤川資料館は閉まっていて、すぐに藤川小学校の前にある西棒鼻跡に到達した。ここには、安藤広重の師匠の歌川豊広の歌碑があり、
藤川のしゅくのほうばなみわたせば 杉のしるしとうでたこのあし
藤川宿の棒鼻をみわたすと杉の木で造った表示杭が立っており、付近の店には西浦吉良等から持ってきた“うでたこ”を売っており、たこのあしがぶらさがっている、と説明板に書かれていた。
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時間は4時半で、ここで打ち切りにするか、もう少し進むかベンチに座り考えたが、雨も少しぱらついて来て、次の岡崎の宿は遠いし、途中も名鉄の駅に出るのに都合の良い場所は無いので、ここで引き上げることにした。
最後に、道路の向かい側にある「十王堂」を見ることにし、格子戸を通して内部を撮影した。
藤川宿まちづくり研究会の案内板によると、
十王堂  「十王堂」は十人の王を祀る堂で、その「十王」とは、冥土で亡者の罪を裁く10人の判官をいう。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王の総称であると、あるので、下の段の左側のひときわ厳しいのがおそらく閻魔大王であろうと知れる。
yoshida_052.jpgyoshida_053.jpgyoshida_051a.jpg藤川駅で生まれて初めて名鉄に乗り豊橋に戻るのだが、自動販売機で切符を買って下りのホームに入ったら、上りのホームに行く手段が無いのである。無人駅でどうしようと思い、改札口を通ろうとしていた地元の女性に聞いたら、無人駅だし一旦(強引に)駅を出て、向こうに回ればと言うのである。向こうのホームに行くには駅を出て、駅の入り口から数十メータのところにある踏切を渡り、向こう側にある駅舎に入って、また改札口を強引に通る必要があるのだ。なんとか、上りホームに行き着いたが、時刻表を見ると、電車は1時間に2本しかない。そんな馬鹿な、歩いているときに、名鉄の電車がしょっちゅう走るのを見たのにと思った。そして分かったのは、電車は頻々と通るが、各駅停車は1時間に2本だということである。数分単位で通過する電車を見ながら20分ほど我慢強くベンチに座ることを余儀なくされた。やれやれ・・・
三河に対する印象は、まだ途中であり早いかもしれないが、御油、赤坂、藤川と明治に国鉄を通すことを拒否し、発展することから取り残され、後で名鉄が通ることになったが、元の繁栄を到底取り返せなかった街が並んでいる感じであった。もっとも、昔は山間の静かなたたずまいの街道筋の町並みであり、鉄道を拒否した気持ちは分からなくもない。
そして、狭い隘路に名鉄、国道、東名高速とひしめき合い、旧東海道の細い道路すら車が頻繁に通るのを許容せざるを得なくなっているように思えるのである。

2007.06.30

新居から吉田(豊橋)・・・(旧東海道)

本日の万歩計47,141(31.1Km)
arai_001.jpg旧東海道歩きも浜松を越え、出発地まで時間が掛かるようになってきた。
色々と調べて、三島まで在来線で行き、そこから新幹線で浜松、また乗り換えて「新居町」が一番早く着けることが分かり、その方法を取った。
新居町には、8時15分ころに着いたが、新居の関所が開くのは9時なのだ。関所を通過しなくても旅は続けられるが、やはり見学したいので、コーヒーでも飲んで時間を潰そうと思ったが、コーヒーを飲めるようなところは無く、結局、うろうろしながら時間の経過を待つことになった。8時30分に、財布の中身が乏しいのでATMで金をおろそうとして、遠州信金に行ったが、私の使っている銀行はダメだった。
ともかく、関所の方に歩いて行くと「浜名橋」があり、今では水路に掛かった橋になっているが、この橋の左の方には舟溜りがあった。
arai_002.jpg新居の関所は大地震で大破して安政2年(1854)に建て替えられ比較的新しかった故か、残っていたのを修復整備したもの。箱根の関所などとは違い、唯一、本物の関所の建物が見られるので、大変貴重である。
江戸時代には、浜名湖を舟で渡ると、船着場の上陸地点が関所で、そのまま取調べが行われた。
その船着場の様子が分かるように、堀のようなものが作られていた。

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arai_005.jpg関所の中に入ると、当然だが、横にづらっと長い建物になっていて、この障子を開けると、番頭(ばんがしら)、給人(きゅうにん)、下改(したあらため)などの役人が並んでいる。
しかし、この体制で1日に何人の人を裁くことが出来たのだろうか。入国審査のパスポートチェックなみのスピーディーさとは行かなかっただろうと思う。せいぜい、百人程度だろうか。
怪しい女性の場合は役人の内儀もしくは母親が勤める「あらため女」が厳しくチェックしたそうで、女性にとって、屈辱的な取調べもなされたようである。
ともかく、ここの関所は建物の外側からの見学だけでなく、靴を脱いで建物に上がり、全て見られるのがよい。関所内の検分役にでもなった積りで回ることが出来る。しかも、1番乗りで誰も見学者はおらず、独占して見ることが出来た。
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arai_008.jpg関所を後にして、しばらく行くと「無人島漂流者不屈の精神を伝える」と書かれた立派な石碑が建っていた。
説明板によれば、筒山五兵衛船が、享保3年(1718)に浜名湖の今切を出航して銚子沖で嵐にあって遭難し、鳥島に漂着した。乗組員12人の内9人が死亡したが、残る3人は21年間も無人島で生き抜き、元文4年(1739)に救出された。八代将軍吉宗が江戸に招いて、話しを聞きその後、褒美を取らせて籠で故郷に送り届けた。
地元でも藩主松平伊豆守が、手厚い保護を与えて安泰に暮らしたとのこと。
直ぐ近くに、「紀伊国屋」という旅籠も整備され、公開されていた。紀伊国屋という名前で分かる通り、紀州から移り住んだ「疋田弥左衛門」が始めた旅籠であったが、紀州藩主の御用宿になっていたというから、格式の高い宿だったと思われる。
入り口を入ると福助人形が迎えてくれるのはお愛嬌だが、2階にあがると、枕なども展示されていた。
それと、「水琴窟」を始めて聞いたが、本当に良い音だ。竹筒に耳を近づけると、澄んだ音が聞こえてくる。
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旅籠の「紀伊国屋」はあったが、本陣はもうなくなっていて、「本陣跡」の石碑だけが建っていた。
本陣跡で左折して南下して行くと、「棒鼻跡」の碑があった。棒鼻とは籠のかつぎ棒の先端を言うとのことだが、「棒鼻跡」はここで行列の隊列を整えなおしたのだという。大名行列も常に綺麗に列を組んで進んでいたわけでなく、かなり乱れたりして、宿に入る前に隊列を整え直したようである。
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一度国道に出た後、直ぐに旧浜名街道を西に進むが、しばらく行くと「紅葉寺跡」という夢舞台道標が現れる。
民家の脇を入ると、石段が現れ、説明板が建っていた。説明には、紅葉山本学寺は通称「紅葉(もみじ)寺」と言う。延久元年(1190)に高野山より毘沙門天立像を勧請して建てたと言われている。室町幕府六代将軍 足利義教(よしのり)公が、永宝4年(1432)の富士遊行のとき立ち寄って紅葉を愛でたので紅葉寺と呼ぶ・・、後は文字が消えていて読めなかった。
石段をあがると、木のベンチが置かれたちょっとした広場になっていた。周りを見回すと、紅葉寺というだけあって、紅葉の木が沢山植えられているようであった。
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旧浜名街道は、西へ西へと続くが、道路の片側だけ松が植えられている。かつて、立派な松並木であったが、松くい虫で全滅して昭和62年に再植樹されたものとのこと。
そういえば、かなり立派に育っているが、舞坂の松並木のように古い松の木ではない。でも、枯れてしまった松並木は、植樹すれば、いずれ再生するので絶対やるべきだと思う。
しかし、歩道を松並木の外に作ったために、枝ぶりの茂ったところは、歩道も日陰が作られるが、そうでもないところでは、車道に日陰を作る並木になっていたのは、癪に触った。
松並木の途中には、前大納言為家と阿佛尼夫婦の大きな歌碑が建っていた。
風わたる 濱名の夕しほに さされてのぼる あまの釣舟  為家
わがためや 浪も高しの 浜ならん 袖の港の 浪はやすまで  阿佛尼
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進んで行くと、やはり古い街道であったことを思わせる、立派な連子格子(れんじこうし)の家が建っている。相当に進んだと思ったころ「火鎮(ほずめ)神社」があり、立ち寄ると2人の男性が、しめ縄を張り直していた。聞くと、今日の午後から「大払式」と「夏越祭」があるのだという。年嵩の方と、しばし話し込んだ。
arai_019.jpgarai_020.jpgarai_021.jpgやっと、「白須賀(しらすか)」への分岐点が近づき「蔵法時」に行き着く。ここで、道を間違え「蔵法寺」の横の道を上って、ほとんど上り詰めたあたりで間違えに気づき引き返した。30分程度のロスをしてしまった。「白須賀」への分岐点には立派な夢舞台道標が建っていたのだが、先走ってしまって失敗した。
「潮見坂」という急坂を上り、振り返ると海が見えた。これが「潮見坂」の名前の由来であるが、海のみでなく、富士山も見えたという。この日は晴れてはいても、とても富士の見える状態ではなかった。
急だが短い坂を上ると、「おんやど白須賀」という休憩所があった。あまりにも暑いので、避難させてもらおうと入ったのだが、冷房は利いていなくて、人は良さそうだが気の利かないおじさんが一人で、冷たいお茶を出されることも無く、早々に退散した。ズボンの中の足まで汗が流れているのを感じる。
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休憩所を出ると、直ぐに「潮見坂公園跡」の碑があった。なんとか跡公園というのは多いが、公園跡の碑は珍しい。織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、信長をもてなした所で、大正十三年四月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園がつくられ、明治天皇御聖跡の碑が建てられたが、現在は、公園敷地に中学校が建てられているとのこと。明治天皇碑のみは残っている。
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arai_026.jpg問屋場跡に「夏目甕麿(なつめみかまろ)邸址 加納諸平生誕地」の石碑があった。甕麿は本居宣長の門に名を連ねた国学者で諸平(もろひら)は甕麿の長子とのことであるが、よく知らない。
「白須賀」の何と言うこともない、町並みが続くが、「白須賀」は最初はもっと海沿いにあったのが、度重なる津波の被害にあい、坂の上に引っ越した。しかし、今度は風通しが良く、火事に見舞われ、その対策として家の境界に火災に強い「槙の木」を植えたのだという。その名残もところどころで見ることができる。
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「白須賀」の通りには、食事が出来るような店は無く、国道に出たところに、「吾妻屋」という食堂が1軒のみあるのを調べておいたし、先ほどの「おんやど白須賀」のおじさんにも確かめておいたのだが、行ってみると、今日は貸切でお休みであった。1軒しかない食堂がお休みでは困るのだが、こうなると次の宿の「二川」まで行くしかない。
「白須賀」の宿を過ぎると、県道と思える車の通りの多い道に出て、境川を越える。ここは現在でも静岡県と愛知県の県境だが、何とも小さな川である。掲示板には川の管理は愛知県の管轄と書かれていたが。
その後、「二川」までは、国道1号線を歩くしかないのだが、周りにはお店もなく、畑の中の1本道がどこまでも続く。とても暑い日で、木陰一つ無く、休息も取れず、日が照りつける道を歩いてゆくのは、相当に辛かった。国道は大型車両が引っ切りなしに通り、騒音も相当なものなのも辛い。やっと、国道から分岐して新幹線のガードを潜ると、レストランがあり、やっと食事にありつけた。2時であった。
食事を済ませて、しばらく休憩し、汗が引くのを待って出発し、今日の白眉の「二川の本陣」に着いた。
本陣で現存するのは、ここと大津の2ケ所のみだと言う。
さすが、大きな建物で部屋数も大変多い。直ぐ横の駐車場から撮影しても建物の規模の大きさが分かる。内部の豪華さも格別で当時の本陣の中がどうなっていたのかを知るには大変貴重な遺構である。
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本陣を後にして進んで行くと、格式も高かったといわれる「大岩の神明社」があった。ここもお祭りの準備か、数人の方が、何か準備中のようであった。
その後、「火打ち坂」を上り、岩屋緑地を回りこむように進んで行くと、途中に1本だけ残った立派な松の木が終に枯れて、その跡の表示のみになっていた。
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やっと豊橋市街に入ってきたが、瓦町の交差点に鶴松山壽泉禅寺というお寺があった。山門が、普通のお寺と違って珍しい。
それと、今では珍しくなった、路面電車が豊橋では走っている。
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東八町の複雑な交差点で、立派な秋葉常夜灯を見て、その後は、曲尺手(かねんて)と呼ばれる、複雑に右折、左折を繰り返す道を辿ることになった。やっと「松葉公園」までたどり着き、ここで今日は打ち切ることにした。
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今日も暑くて、結構きつい歩行であった。子供連れの母親に豊橋駅の方向を聞き、駅にたどり着き、新幹線で東戸塚に戻ったが、「ひかり」では1日掛かりで歩いた今日の行程をわずか5分ほどで通過した。

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