2007.07.07
吉田(豊橋)から藤川・・・(旧東海道)
本日の万歩計48,108(31.75Km)
今日は朝から曇り空で、少し雨がぱらつくかも知れないが、先週の快晴の暑さの中で歩くより疲労感は少ないだろうとの期待のもとに出かけることにした。
先週と同じく、三島まで鈍行で行き、三島から豊橋までは新幹線を利用したが、窓から見ると小雨が降っていた。豊橋には8時13分に着き、駅の喫茶店でモーニングセットを食べながら今日の行動を頭で反復する。
豊橋駅を8時半ころ出発して、前回離脱した松葉公園に向かうが、持っている地図は旧東海道が分かる地図で豊橋駅が地図からはみ出しているため、大体の見当で歩いたら、通りを間違えて大きくロスしてしまった。ともかく、松葉公園に到着して、道標を見ると「江戸まで73里、京まで52里」と書いてあった。ずいぶん遠くまで来て、京の方が近くなったのかと、しばし思いに耽る。
豊川に向かって歩いて行くと、豊橋の手前に湊町公園があり、築嶋弁天のお堂が池の中に作られた島にあり、その傍らに芭蕉の「寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき」の句碑が建っていた。吉田の宿に泊まったときの句とのことだが、こちらは気楽な一人歩きだ。
豊川の土手道には芭蕉門下の太田白雪の「白魚の 城下までや 波の皺」の大きな句碑が建っていた。芭蕉の句碑より立派だ。
そして、豊川の堤防では花火大会でもあるのか、見物席と思われるのを長い距離に渡って構築していた。昔、今川に架かる橋で「今橋」と呼ばれていたのを「今橋」は「忌まわしい」に通じ縁起が悪いと、池田輝政が「吉田」と改名し、明治になって再度「豊橋」に改名されたが、大河ではないが風格のある川に見える。橋が鉄の橋に変わり、堤防がコンクリートで保護工事が行われたことを除けば、江戸時代ともあまり風景は変わっていないのではなかろうか。
豊川を渡り、直ぐに左折して街道を進むと、最初に豊川稲荷の遥拝所があった。たしかにお稲荷さんと言えば、豊川稲荷だが、ここでお祈りすれば、豊川に行かなくても良いということなのだろう。
次には「聖眼寺」があり、中には松葉塚と名づけられた松尾芭蕉とその句碑が建っていた。説明板には、芭蕉が歿して50年を記念して、芭蕉の墓の墳土を譲り受けて作ったと書かれていた。碑の土台が亀なのは浦島寺と言われる神奈川の「慶運寺」と同じだ。
句碑の文字は消えていて、読めないが「ごを焚いて 手拭あぶる 寒さ哉」と彫られていたとのことである。「ご」とは三河地方の方言で松葉を集めて燃料にしたものとのことだが、凍りついた手拭をあぶることで、手をあぶるより、より一層、寒さを強調したのだという。
まったく、目立たない「下地の一里塚跡」は、あまりにも素っ気無い碑である。街路樹の植え込み場所のわずかに土が露出している場所を利用して建てられていたが、気が付かず通り過ぎ、戻って探して見つけた。74番目の一里塚で「江戸日本橋より七四里」と書かれていた。
写真のような蔵付きの立派な塀を廻らした家もあり、連子格子の家も残っているのだが・・・
やがて、「鹿菅(しかすが)橋」を渡るが、ここは清少納言が「枕草子」で第十七段に「渡(わたり)は、しかすがの渡、‥‥‥」とその先頭に挙げている場所で、歌枕にも多く用いられている有名な場所であったという。古い時代には「志香須賀」の字も当てられたようだが、豊川放水路が出来て水の流れが変わり、かつては舟で渡っていたのが、いまは短い橋が架かるのみとなった。そのような有名な場所であったことを知る人もこの辺りにはいないのだろうか、橋の名前もほとんど消えて読めなくなっていた。
この辺りは、弥生時代の遺跡が多く分布するらしく、鹿菅橋から川の堤防に沿って150mほどの所に、「瓜郷遺跡」があるので東海道とは関係ないが、見学した。写真は復元された弥生時代の「竪穴住居」であるが、稲作が始まったころのものと解説されていた。
鹿菅橋を過ぎて、豊川放水路に架かる「高橋」に向かって進み橋に近づくと、交通量は多いのに道路幅は狭く歩道も無く、道路の側端の白線すら引かれていない、とても怖い状態になる。
歩く人がいないので、放置されているのだろうが、何と言っても東海道なのである。何とかしないと、いずれ事故が起こるだろう。橋はともかく、橋に至る道路も狭いので、何とか拡張するか、せめて大型車両の通行を制限すべきではなかろうか。誇張ではなく、本当に怖かった。
やっとのことで、橋を渡り、最初の交差点脇にある小さな広場には「子だか橋」にまつわる碑が建っていて、説明板の文字は消えかかっていたが、以下のような悲し話しが書かれていた。
この先の菟足神社(うたりじんじゃ)にはおよそ一千年前、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする慣習があったと伝えられている。 ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われていると書かれているので、人身御供は本当にあったことなのだろう。秦の始皇帝が、徐福に命じて不老長寿の霊薬を求めて日本に行かせたというが、その伝説にまつわる言い伝えも「菟足神社」にあるようなので、渡来人の生贄の風習として行われたのかも知れない。怖い話しである。
先に1Kmばかり進むと、伊奈村立場茶屋の加藤家の屋敷跡に到達し、2つの句碑がある。加藤家当主で俳人であった烏巣(うそう)は芭蕉とも親交があり、芭蕉がこの地へ宿泊したときの句だという。芭蕉の句は、馳走に対する御礼の挨拶句として読んだのだろう。
かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し 芭蕉
ももの花 さかひしまらぬ かきね哉 烏巣
伊奈一里塚跡を気を付けながら進むと、太鼓を扱う珍しい店があり、その角に石碑が建っていた。江戸より75里の記述があった。太鼓店は始めてお目にかかるが、中を覗き込むと作りかけの大きな太鼓なども見ることが出来た。本当は断って中に入って見学させてもらうのが良かったのかもしれないが・・・
「村社 速須佐之男神社」と書かれた神社があり、境内には寄進された色々な種類の灯篭が建っていた。
また、砂利を敷き詰めたちょっとした広場には、冷泉為村の歌碑が作られていたが、為村はここに掲げた1首のみ、この伊那村で読んだのだと言う。
散り残る 花もあるとさくら村 青葉の木かげ 立ちぞ やすらふ 為村
東海道400年祭のとき、為村が伊那村で読んだ歌が見つかり、取って付けたように作った碑のように思える。
国府(こう)の市街の入り口あたりで、良さそうな「うなぎ屋」が見つかり、昼食にしようかと思ったが、まだ11時20分で、もう少し後でと思いスキップしたが、その後は食事をするところがなかなか見つからず、困った思いをした。街道歩きでは食べられるときに食べておけとは、本当だ。
さて、市街に入ると「薬師如来」の小さなお堂があったが、縁起には、相次いで父母をなくして悲嘆にくれていた二人の娘が、たまたま止宿された行基菩薩に頼んで薬師如来像を刻んでもらい、朝暮礼拝供養したのがはじまりで、それゆえ「二子寺」と呼ばれている、と書かれている。
行基は天智7年(668)に渡来人の子供として生まれているが、もし ここに書かれている縁起が本当なら、始まりは奈良時代にまで遡ることになる。
そして、少し先には「御油の一里塚跡」の石碑があった。
その後、食事を摂るところには遭遇せず、向こうに大きな目立つ灯篭が見えてきた。
秋葉山への道標だが、ここは「姫街道」への分岐点にもなっている。「姫街道」はここから、見附宿に通じていて、浜名湖の渡しを避けて旅をすることが出来、女性がこの道を選ぶことが多く、「姫街道」と呼ばれた由である。
この追分(分岐点)には、「ベルツ花夫人」が晩年過ごした建物跡の立て札が建っていた。
明治政府の招聘で明治9年に日本に到着したベルツ博士は、日本の近代医学の構築に多大な貢献をし、また、当時「あかぎれ」に苦しむ日本女性のために、植物油から作ったグリセリンと日本酒を用いて「ベルツ水」を作った。荒井花子は明治21年にベルツ博士と結婚し、一男一女を設け、明治38年夫とドイツに渡るが、夫の死後帰国して、祖父が旅籠を営んでいた御油で晩年を過ごしたという。今では、多くの日本女性が、国際社会で活躍しているが、彼女はその先駆けとなった人物であろう。
御油橋を渡って進んで行くと、浄瑠璃姫が持っていた念持仏があるという「東林寺」があったが、空腹と疲労も蓄積してきているのでスキップし、国の天然記念物に指定されている御油の松並木に向かう。
松並木の入り口には、説明板や碑が建っていた。もう東海道の松並木が残っているところはほとんど無いので、本当に貴重だ。
それにしても、細い道路にもかかわらず車の通りが激しい。歩くのも注意しないと危険である。車が見えない瞬間を捉えて写真を撮るのも大変である。狙ってもシャッターを押す瞬間には視界に入っていることが多い。
是非とも、車の通行の制限を考えて貰いたいものである。高速道路並みの国道1号線が平行して走っているが、豊橋から感じていたことであるが、車の通りが多すぎるように感じる。これも自動車大国の愛知県なればこそだろうか。
松並木を抜けると、赤坂の見附跡の掲示板が建っていた。静岡県から愛知県に入って旧東海道の扱いが、淡白で○×跡の表示板も素っ気無いものが多かったが、ここ赤坂の表示はそれなりに配慮されたデザインになっているように感じた。
そして、やっと食事の出来る店にめぐり合った。時計を見ると12時半を回っていた。古い民家を改修して、地元の婦人部の方が運営している店のようで、地元の婦人客も多く、賑やかであった。また、食事以外にも手作りのジャムなども販売していた。
そして、写真の食事でなんと700円なのである。食後に頼んだコーヒーがお菓子付だったが300円は、食べ物と較べると高い感じになってしまった。
赤坂宿は、旧東海道に少し気合が入っていると感じていたが、なんと本陣跡に門まで復元していた。全く残っていない本陣を門だけとは言え復元するのは珍しい。直ぐ後に出てくるが、「よらまいかん」の名前の無料休憩所まで建てている。
名鉄の「名電赤坂駅」の近くには、最近まで営業していたという旅籠の「大橋屋」がある。
土間からの上がりかぶちにお賽銭箱のような心付けを入れる箱があり、適当にお金を入れて見学させていただく。奥のほうはまだ、住居として使われているようで、入り口に近いほうの2階に上ると当時の宿泊の部屋を見ることが出来る。
ここで、宮から歩いてきたという40代半ばぐらいのご夫婦に出合い、少し言葉を交わしたが、私とは逆に江戸に向かって歩いているという。一人旅をしていると、自分の写真は撮り難いので、写真を撮ってあげましょうとの言葉に甘えて、撮っていただいた。
少し行くと、休憩所「よらまいかん」があった。無人だが綺麗な休憩所であり、色々な写真などが展示されていた。中では小学生の女の子2人が、ゲーム機に興じていたが、親にうるさく言われることもなく、絶好の場所なのだろう。
赤坂宿の最後は杉森八幡宮で、その境内には2本の楠の木の根株が一体化してしまったような大木があり、夫婦楠と呼ばれているそうだ。確かに立派な大木である。
この杉森八幡宮には、境内に回り舞台がある。説明板には、
当舞台は、心棒の先を支点として盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台である。奈落はなく、舞台上で回した。 赤坂宿では、江戸時代には人間浄瑠璃、明治以降は歌舞伎が演じられていた。
現在の舞台は、赤坂の芝居愛好者が中心となって、近隣の同好者に建設を呼びかけ、明治五年七月に舞台開きをしたと伝えられている。 平成十二年に改修復元した、とある。
音羽町の市街を抜けて、長沢という地名の町にすすむ。この辺りは立場(たてば)だが、素っ気無い「長沢の一里塚跡」の杭が建っていた。
時々は、美しい連子格子の家もあり、秋葉灯篭もたびたび見られたが、神社名の碑が建っているのに神社がどこか分からないところも多かった。恐らく、国道、名鉄の線路を越えた向こうの山際にあるのだろうが、国道、近鉄、東名高速の建設が重なり、消滅した神社もあるのかも知れない。
長沢を町を過ぎると、旧東海道は国道1号線に吸収されてしまい、国道の歩道を歩くことになる。全く面白くなく、旧東海道を歩くというノルマとして歩くのみである。
2Km弱歩くと、間の宿である本宿(もとじゅく)の入り口の碑と、冠木門(かぶきもん)を建てた宿への導入路に到達する。
本宿に入ってゆくと直ぐに、松平家の菩提寺で家康とも関係の深い「法蔵寺」がある。
松平家がまだ、三河の小さな田舎大名であったころの菩提寺で、さほど大きなお寺ではないが、狭い山門前には、3台もの観光バスが駐車していた。三河地方の名所廻りのコースに入っているのだろう。
常夜灯を左右に配し、階段を上った上には独特な山門が建っている。階段の下の左脇には、家康も手習いのすずり水を汲んだという「賀勝水」という泉があったが、水面は汚れていた。常に汲み出せば綺麗になるのではと思われる。
また。「法蔵寺」には、近藤勇の首塚もある。同志230 人を救うべく単身板橋に出頭して逮捕され 4月25日板橋で斬首され、4 月27日までさらしものにされた後, 京都まで運ばれ,京の三条河原でも3日間 再びさらしものにされる。ところが、誰か首を盗み出した者がおり、この「法蔵寺」に運んで埋葬したのだという。近年出てきた石碑の基盤の記述から本物の近藤勇の供養碑と分かり、あらためて胸像を造り供養したという。
しかし、近藤勇の首塚は京にもあり、どちらが本物か不明だという。江戸時代以前ならいざ知らず、幕末の出来事でもうはっきりしなくなっているのである。
また、門前には家康手植えの御草紙掛松がある。家康が幼少のころ、この寺で学び手習いの草紙を掛けた松だという。しかし、枯れてしまって今の松は4代目とのこと。
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本宿には、「法蔵寺」以外は見るべきものも無く、通り抜けるとまた国道に出て歩くようになるが、直ぐに国道から外れ名鉄と国道に挟まれた特徴の乏しい道を歩く。1Kmほどでまた、国道に合流するが、その合流点の舞木町西の交差点から田んぼの中に大きな秋葉灯篭が見えた。いままで見た中では一番大きいのに引かれて、国道を離れて行くと、右手の小山に赤い鳥居が見える。山中八幡宮の大きな石碑も見え、大きな秋葉灯篭は八幡宮への誘導目印であるのが分かる。
ここは、三河で一揆が起こったときに家康が逃げ込んだ洞窟があるところで、洞窟から鳩が飛び出し、追っ手は人のいるところに鳩はいないだろうと立ち去り、命拾いをしたところとのこと。
本殿は、山の上に階段が続いていて疲れた身には辛かったが、上ってみた。本殿の横には竹の植込みがあり、命拾いした家康が、持っていた矢を地面に挿したら、芽が出てきて竹が生え「御開運竹」と呼ぶようになったと書かれていた。まだまだ、奥の院に道が続いていて、この奥に家康の隠れた洞窟跡でもあるのかも知れないが、体力的に行く気にはなれなかった。
国道に戻り、1Kmほど行くと、藤川宿に到達した。従是西藤川宿(これより西、藤川宿)と書かれた傍示杭が復元されていて、木戸らしい石垣も作られていた。東棒鼻跡である。
藤川の市街を歩いて行くと、お城の櫓のような建物の「人形処」と書かれた立派なお店があった。近づくと「製造卸粟生人形」と書かれていたので、人形を作っているお店だと分かった。「粟生」には「あおう」と仮名が振ってあった。雛人形などの高級な人形を作っているのだろう。藤川宿は小さく、途中本陣跡などもあったが、寄ろうと思っていた藤川資料館は閉まっていて、すぐに藤川小学校の前にある西棒鼻跡に到達した。ここには、安藤広重の師匠の歌川豊広の歌碑があり、
藤川のしゅくのほうばなみわたせば 杉のしるしとうでたこのあし
藤川宿の棒鼻をみわたすと杉の木で造った表示杭が立っており、付近の店には西浦吉良等から持ってきた“うでたこ”を売っており、たこのあしがぶらさがっている、と説明板に書かれていた。
時間は4時半で、ここで打ち切りにするか、もう少し進むかベンチに座り考えたが、雨も少しぱらついて来て、次の岡崎の宿は遠いし、途中も名鉄の駅に出るのに都合の良い場所は無いので、ここで引き上げることにした。
最後に、道路の向かい側にある「十王堂」を見ることにし、格子戸を通して内部を撮影した。
藤川宿まちづくり研究会の案内板によると、
十王堂 「十王堂」は十人の王を祀る堂で、その「十王」とは、冥土で亡者の罪を裁く10人の判官をいう。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王の総称であると、あるので、下の段の左側のひときわ厳しいのがおそらく閻魔大王であろうと知れる。
藤川駅で生まれて初めて名鉄に乗り豊橋に戻るのだが、自動販売機で切符を買って下りのホームに入ったら、上りのホームに行く手段が無いのである。無人駅でどうしようと思い、改札口を通ろうとしていた地元の女性に聞いたら、無人駅だし一旦(強引に)駅を出て、向こうに回ればと言うのである。向こうのホームに行くには駅を出て、駅の入り口から数十メータのところにある踏切を渡り、向こう側にある駅舎に入って、また改札口を強引に通る必要があるのだ。なんとか、上りホームに行き着いたが、時刻表を見ると、電車は1時間に2本しかない。そんな馬鹿な、歩いているときに、名鉄の電車がしょっちゅう走るのを見たのにと思った。そして分かったのは、電車は頻々と通るが、各駅停車は1時間に2本だということである。数分単位で通過する電車を見ながら20分ほど我慢強くベンチに座ることを余儀なくされた。やれやれ・・・
三河に対する印象は、まだ途中であり早いかもしれないが、御油、赤坂、藤川と明治に国鉄を通すことを拒否し、発展することから取り残され、後で名鉄が通ることになったが、元の繁栄を到底取り返せなかった街が並んでいる感じであった。もっとも、昔は山間の静かなたたずまいの街道筋の町並みであり、鉄道を拒否した気持ちは分からなくもない。
そして、狭い隘路に名鉄、国道、東名高速とひしめき合い、旧東海道の細い道路すら車が頻繁に通るのを許容せざるを得なくなっているように思えるのである。
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随分遠くまで行かれたものですね!この6月から娘一家が転勤で岡崎に行きました。この辺りはとても身近に感じられる土地です。雨が多い季節になりましたが、雨ニモマケズ 頑張ってください。
Posted at 2007.07.10 8:52 PM by chim
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chimさん
そうですか、馴染みのある場所なのですね。私は、なにしろ名鉄に乗るのも初めてです。
岡崎は、藤川から6?7Kmですので、1.5時間程度で行き着くと思います。その後は桶狭間なども通るので興味は尽きない感じです。
それにしても、遠くなりスタート地点に行くまでに時間が掛かるので、次回は1泊して一気に宮に抜けようと思っています。
Posted at 2007.07.12 9:25 PM by Naka