2008.09.13
御嵩から鵜沼・・・(中山道)
本日の万歩計47,050(31.5Km)
夏の暑さを避けていて、7月13日から2ケ月ぶりの中山道である。
台風が石垣島あたりに停滞しているが遠くて問題なく、天候も曇りで暑さが緩和されて良いのではと思い3連休でもあり、でかけることにした。新横浜7:11発の「のぞみ99号」で名古屋に向い、名鉄に乗り換え「御嵩」には9:10に着いた。
休日の朝で、人通りの少ない町を歩いて進む。
枡形で右折して直ぐに国道に出て進むと「鬼首塚」があった。説明板によれば、西美濃不破の生まれの男が岩窟にすみ悪行を重ねていたので、この地の地頭に頼み退治してもらった。その首を京に運ぶ途中、この地で首が重くなり、縄が切れて首が転がり落ちたが、その首も重くて動かせなくなったのでこの地に首を埋め首塚とした、とある。
首塚を過ぎて何度か国道から逸れるが、2度目の場所には「比衣の一里塚跡」があった。
3度目に国道に戻り、少し進むと伏見の本陣跡に伏見公民館が出来ており、本陣跡の大きな石碑が建っていた。宿場の通りが国道になっているのが難だが、僅かに街道らしい雰囲気も残っている。
早く国道歩きから逃れたいと思いながら歩き続け、ようやく太田の「今渡の渡し」に達した。ここでは「太田橋」を渡ることになるが、事前に調べた情報では太田橋は歩道がないばかりか、側端のラインすらない橋で車の通りも多く、渡るのが怖い橋とのことであった。しかし、立派な歩行と自転車用の橋が増設されていた。橋の袂には渡しのモニュメントも作られていた。
橋の直前に「ホワイト・リリィ」と言うキャバレーのような名前の喫茶店があり、その横を通って10mほど行くと「弘法堂」があり、この辺りが昔の渡し場があったところとのこと。また、「錦紅水」という可児(かに)の名水が湧き出していた。飲んでみたが、ことさら美味い水とも思えなかったが、昔は旅人が渡しの舟を待つ間に喉を潤したのだろうか。
木曽川の方を見ると雄大な流れが目に入る。飛騨川が合流して水量も多い。水面はかなり下だ。
立派な歩行者専用の橋を渡り、木曽川の堤防を歩く。写真の左はこちら側の渡し場のあった辺りであるが、カヤックらしい練習風景も見える。かなり長い間堤防を歩いて行くことになるが、途中には「岡本一平終焉の地の石碑」があった。岡本一平より、妻の岡本かの子の方が有名で、岡本太郎の父であるが、ここで亡くなったとは知らなかった。
堤防の道から「太田宿」に入ってきた。街道らしい街並みである。枡形のところに祐泉寺があり、芭蕉、北原白秋、坪内逍遥の歌碑が建っている。
祐和寺の隣に無人の休憩所の「小松屋」がある。2ケ月ぶりの歩行で、足が痛く少し休憩を取った。古い商家を休憩所にしたものであるらしい。槍ヶ岳開山で有名な「播隆上人」、「小説神髄」をあらわした「坪内逍遥」の展示があった。坪内逍遥の父は尾張藩士で太田代官所の手代を勤めていた関係で逍遥は太田で生まれ子供時代を過ごしたとのこと。
次に、脇本陣の林家の豪壮な建屋があった。国指定重要文化財で中山道でも有数の歴史遺構とのこと。建てられたのは明和6年(1769)とのこと。一部は公開していて当時の座敷の様子などを見ることができる。
本陣跡があったが、ここは門だけが残っていた。なかなか立派な格式のある門である。そして太田宿の終わりの枡形で再び木曽川に接するようになり、「虚空蔵堂」がある。ここは坪内逍遥の生誕の家にも近く、ここで良く遊んだらしい。また、この辺りは「承久の乱(後鳥羽上皇率いる朝廷軍と鎌倉幕府軍の戦い)」の戦場の北端であったという。
ここから、再び木曽川の堤防道を歩く。川の中には落ち鮎釣りであろうか、釣り人が見える。真っ直ぐな道の突き当りには城山があり頂上は猿啄城(さるばみじょう)址で展望台が見える。織田信長が丹羽長秀を総大将として東美濃攻略を開始し、丹羽長秀の先鋒である川尻鎮吉が猿啄城を攻略し、落城。川尻鎮吉が猿啄城城主となり、城名を「勝山城」と改称したという。しかし、10年ほどで川尻鎮吉が岩村城に移り、廃城となた由。
左手に流れる木曽川は岩の間を流れる急流となっていて、日本ラインの名称で川下りで有名である。川原も気持ちの良い草原で親子連れが木陰で楽しんでいるのが見える。
そして、城山の麓を左に回りこむように進むと、「岩屋観音」への上り道がある。昔は木曽川が山の急な崖に接していて、少し高いところを通るようになっていて露出した大きな岩肌を掘り込んで「観音堂」を建てたようである。この観音堂から見る木曽川は流れも特に急で勇壮である。
岩屋観音を過ぎて、進んで行くと「うとう峠」を越えることになる。うとう峠のうとうは「疎う」という言葉に名の由来あると言われていて、旅人には嫌われていた峠越えらしい。「うとう峠」は右手の方の「鵜沼の森公園」となっているところを通るのだが、入り口が分かり難い。国道の左手に廃業してしまった「カフェテラスゆらぎ」の建屋が残っており、その駐車場の入り口(ロープが貼られて立ち入り禁止の様相)を入って直ぐの隅に国道とJR線を潜り抜ける通路に下りる急な階段がある。和田峠でビーナスラインを潜ったと同じような、水路の片側に通路のあるものであったが、今年の続いた雨のためか、通路も濡れていて水蘚できわめて滑り易い状態であった。「鵜沼の森」の道は、さすがに樹林のなかで涼しく快適であった。
しかし、歩いて行くと写真のような「まむしに注意」の立て札があった。メインの歩道から右に分岐するところにあった立て札で、進行方向は大丈夫だろうが、それにしても「まむしに注意」の立て札は初めてであった。
やがて、「中山道いこいの広場」の看板のある開けた場所に出て、ここからは石畳となっている。
この後も上りは少し続くが、直ぐに下りとなり急に開けて「うとう峠の一里塚跡」があり、うとう峠越えは終わりとなった。さらに下ってゆくと「合戸池(かっこいけ)」と呼ばれる池があり鵜沼の方に下りて行く。
下ってゆくと「うとう峠の地蔵堂」があり、ここで右にほぼ直角に曲がって中山道は続いて行く。鵜沼宿は明治24年の濃尾地震でほとんど壊滅的な被害を受けて、ほとんど古い建物は残っていないが、「絹屋」の屋号の旅籠が復元されていた。
脇本陣の坂井家跡には芭蕉の更級紀行の旅立ちの記念碑が建っていた。芭蕉は坂井家を3度も訪れており、そのときに詠んだ俳句の句碑も建っていた。
汲溜の 水泡立つや 蝉の声
ふぐ汁も 喰えば喰わせよ 菊の酒
送られつ 送りつ果ては 木曽の穐
津島神社と言う何か由緒のありそうな、神社があったが全面改装中で全体が覆われていた。石垣の石の並び形状が見事である。
2ケ月ぶりの歩行で、相当に足が痛い。時刻は16:30だ。ここで1日目を終えることにして、名鉄の苧ヶ瀬(おがせ)駅に向い、今日の宿を予約した名鉄各務ヶ原(かがみがはら)市役所前駅に向かう。