2008.07.13
大湫から御嵩・・・(中山道)
本日の万歩計31,055(20.8Km)
今日のルートでは、途中で食事をとるところが無い。昨日夜にコンビニで「おにぎり」、「菓子パン」などを買い込み、今朝はホテルで朝食を済ませ、恵那発7:30の電車で釜戸に向い、釜戸からタクシーで昨日にタクシーに乗った地点までやってきた。
昨日は気が付かなかったが、タクシーに乗ったところで左に折れ、僅か20mほどのところに、コミュニケーションセンターと称する観光案内所があった。今は、8:00でまだ開いていないが、後で調べたら歩行の案内図などもいただけるそうで残念なことであった。
もう、大湫の本陣は残っておらず空き地になっているが、そこに和宮さまが江戸に下られたときに宿泊されたのを記念して、モニュメントを最近作ったようである。
そして、脇本陣も中の家屋は、小さいものとなってしまったが、入り口の門が往時の面影を残していた。
その後も、街道らしい家屋が続く。山中と思えないほど優美である。
そして、大湫の神明神社である。平凡な小さな神社と思っていたが、境内にある杉の巨木には驚いた。樹齢1200年という。それにしても、圧倒される存在感だ。
大湫宿は本陣1、脇本陣1、旅籠30軒で宿泊のための建物は美濃16宿の中では多い方であったが、宿の長さは500mほどで、すぐに高札場となって宿も終わりになる。
高札場を過ぎて500mほど進むと、左の写真の母衣岩(ほろいわ)と、右側の烏帽子岩と呼ばれる、巨大な2つの岩がある。高さはともに、6mで幅は母衣岩が18m、烏帽子岩が9mである。
また、500mほど進むと左の方に突如として山中には在りえない、立派で大きく近代的なビルが見えてくる。大湫病院である。車社会になって、成り立つ立地条件なのであろう。そして、右手に「琵琶峠」への入り口がある。
「琵琶峠」の石畳の石は大きく歩き易い。現存する街道の石畳では落合宿の十曲峠、旧東海道の箱根よりも長く日本一の長さとのこと。旧中山道が廃止されてから使用されずにそのままの状態で放置されていた為、枯葉や土で埋まっていたのをそっくり発掘することが出来、損傷も少なかったとか。約500mほどで峠に達する。顔の周りにまとわりつく虫が」うるさい。
琵琶峠頂上は、狭い領域で馬頭観音と和宮様の歌碑が建っていた。歌碑には、「住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび」とある。残されている和宮様の歌はどれも江戸に下るのが嫌でしょうがないと言っているものばかりに思える。都を1度も出たたことの無い16歳の姫にとっては不安であったのは分かるが。
峠の頂上から下ってゆくと「八瀬沢一里塚」がある。道の両方に見事に残っている。
石畳の道は舗装道路にぶつかり、その後は草の道となり、軟らかく歩くに気持ちのよい道であった。結局、「琵琶峠」を越える道は、上り口から1Kmほどで終わり、舗装道路に出てしまう。
700mほど進むと、国際犬訓練所の立派な建物がある。訓練施設も入場料を取って見学させている。また、500mほどで天神辻という場所になり、天神辻の地蔵尊がある。
1kmほどで、弁天池があり真ん中に小さな島があって、そこに弁才天が祀られていた。この辺りは、全般的に湿地帯のようである。
尾根を通る舗装道路が続き、アップダウンも少なく木陰の道で歩き易く、車の通りもほとんどない。自転車で颯爽と走って行く人を見かけた。そして、ようやく細久手宿に到着。
細久手宿は恵那から御嵩までの13里で、唯一宿泊可能な旅館がある。尾張藩が常宿としていた「大黒屋」がいまも営業しているので、ある程度は賑やかな宿ではと思っていたのだが、大湫より小さな宿であった。自動販売機はあったので飲み水を補給して、進んで行った。
進んで行くと、「旧中山道くじ場跡」と書かれた碑があり、駕籠かきたちが大湫宿や御嵩宿への荷の順番を決めてたむろしていた場所だという。
その後、平岩辻という太い道路が交差した集落で、また飲料水を補給して歩き始め、少し進んで舗装道路から土の道路に入って行く。秋葉坂を上り始めると、直ぐに平岩の秋葉坂三尊がある。この石窟の上には秋葉様が祀られているので秋葉坂と呼ぶとのこと。これ以降も石で囲われた地蔵などを見かけるが、3尊も揃っているのはここだけである。
樹林帯の中の道を1Kmほど進むと「鴨之巣一里塚」があり、さらに林の中の道が続く。道路の状態は、通る人も少ないような感じで、所によっては雨の流れで荒れていて歩き難い。
長い樹林野中の道を過ぎ、藤あげ坂を下ると周りが開けてくる。酒造業を営んでいた豪商 山内嘉助屋敷跡があり、小さな集落が見えてくる。間の宿津橋である。
津橋を過ぎると、ここにも石で囲われた地蔵がある。さらに進むと一軒家があり、最近では珍しく鶏が放し飼いされている。こういう鶏の肉は焼き鳥にすると締まっていて美味いのだろうなどと考えながら進む。
急な上りの「諸の木坂」が始まり、登りつめたところが「物見峠」で「馬の水のみ場」があり、御殿場があった。御殿場は和宮様降嫁のときに休憩のための仮御殿を建てたところで、天気がよければ御岳山、恵那山が見えるとのことであったが、曇が多く無理であった。
峠を過ぎて直ぐに「ラ・プロバンス」という洒落た喫茶店がある。手作りケーキが特に美味しいらしい。建屋の前には「ラベンダー」が咲いている。コーヒーでも飲んで休んで行こうと、入り口に来て驚いた。4?5人の人が順番待ちをしているのである。もちろん「諸の木坂」を上ってきた人達ではない。峠の向こう側からは車で来れるのである。若いカップルのお定まりのコースになっているようであった。
物見峠を過ぎた下り坂は「謡坂(うとうさか)」である。説明板によれば、『この辺りの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らわしたことから、「うたうさか」と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだともいわれています。』とある。確かに京から江戸に向かう方向では急な上りで大変だ。しかし、苦しい上り坂で歌がでるものだろうか。毒吐くぐらいが関の山と思うのだが。ともかく、峠から400mほど進むと「唄清水」がある。旧謡坂村を知行地としていた尾張藩千村氏の千村平右衛門源征重(五歩)がこの清水を「馬子唄の 響きに波たつ 清水かな」と詠んだことにちなみ、唄清水と呼ばれるようになったとのこと。
坂を下って舗装道路に出たところには「一呑の清水」がある。この水は和宮様が大層気に入られた水で、上洛の際に多治見の永保寺での点茶のために、わざわざ取り寄せさせたという。また、岐阜の名水50選にもなっている。しかし、生水では飲めないとは残念である。
再び、舗装道路から左に逸れて、進むと十本木立場で「謡坂十本木一里塚」がある。そして、謡坂の石畳が始まった。
石畳の途中にも右手方向に石で囲われた「馬頭観音」があり、眺めながら石畳を下って行く。
舗装道路に出て、しばらく行くと「耳神社」がある。耳の病にご利益のある神社で、錐を1本借りて耳にあて、治ったらその人の年齢の数だけの錐を奉納するのだという。簾のように奉納した錐が飾られている。耳神社を過ぎて2車線の道を左に離れると西洞(さいと)集落である。土砂の崩れ止めを施した道が面白い。
木陰の気持ちの良い道を歩いて行くと、突然の急坂があった。「牛の鼻欠け坂」である。本当の名を「西洞坂」と言い、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な上り坂であるとして「牛の鼻欠け坂」と呼ばれた。
そして、この坂が横川から続いてきた山の中の坂道の最後である。なんだか寂しい気もする。
早速、舗装道路に出てやがて国道21号線に出る。国道脇に半分放置されたような物置小屋があり、その裏に「和泉式部の廟所」がある。東山道を旅していて、御嵩辺りで病に侵され鬼岩温泉で湯治したが、寛仁3年(1019)この地で没したという。
碑には「ひとりさへ 渡ればしずむうきはしに あとなる人は しばしとどまれ」と刻まれている。和歌の才に恵まれ恋多き女性の伝承は全国に残っているそうである。
国道を歩いて、どこから旧道に入ってゆくのかと気にしていたら、「右御嶽宿 左細久手」と刻まれた古いタイプの道標があった。進んでいって右折すると、街道の宿を感じさせる家並みが始まった。
豪商であった商家竹屋の建物があり、見学できるようになっていたが、スキップした。そして、やっと向こうに名鉄の「御嵩駅」が見えてきた。
駅前まで進むと「みたけ館」という綺麗な建物があり、1階は図書館で2階では、宿に関する展示がなされていた。とても暑い日でもあり、中には座り心地の良い椅子もあったので、しばらく休憩させてもらった。その後「御嵩駅」で14:30分の電車に乗り途中「可児(かに)駅」で名古屋行きに乗り換えた。名古屋から新幹線で新横浜に向かった。
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