2008.11.22
笹塚から分倍河原・・・(甲州街道)
本日の歩行距離(26Km)
今日の歩行も、会社の先輩が一緒に歩きたいとのことで、2人での歩行となった。万歩計を忘れたが、先輩の万歩計で歩行距離を知ることが出来た。どうも、甲州街道は最後まで2人で歩くことになりそうな気配で、それはそれで始めての経験で面白そうだ。
さて、7:30に京王線の笹塚駅で待ち合わせ、歩き始めた。相変わらず、国道20号線に首都高速がかぶさり、楽しい歩行道路ではない。少し進むと「環状7号線」との交差点だが、環7も土曜日の早朝でも大変な交通量だ。
環7との交差点を過ぎると、左側に「玉川上水」が見える。「玉川上水」は青梅線で立川から2駅行った羽村で取水され、四谷の大木戸までの43Kmを流れ江戸の民衆に生活用水を供給していた。開渠となっているのは、今では羽村から杉並区の久我山までで、それ以降はほとんどが暗渠で流れを見ることは出来ないので、このポイントで昔の姿の「玉川上水」の姿が見られるのは貴重である。
800mほど進むと、右側に明治大学和泉校舎が見えてきくる。国道に平行して走る京王線の駅名も明大前である。街路樹と明治大学の植樹に挟まれて少しは、気も晴れる心地の道路が続くが、この辺りは幕末には幕府の「煙硝倉」があったところで、いち早く官軍に押収されたとのこと。幕府にはまともに、戦略/戦術を立てる気もなかったのであろうか。
明大を過ぎると大きな霊園が続き、その先で右側にある街道の名残の小道に入って行くと、なんと6つのお寺が次々と連なっている。最後に現れる「永昌寺」はもともとは江戸・四ッ谷に有ったのが、明治43年に当所へ移転したそうである。山門前の地蔵尊は1677年建立で300年以上の古いものである。左端にある庚申塔も古そうである。
首都高が上を走る国道20号線で昔の面影を偲ぶのは無理な相談かと思いながら、歩いていると茶器を売る店があり、所狭しと湯飲みが並べられていた。何となく懐かしい風情の店で、ほっとさせられる光景であった。竹細工の店も以前は30軒ほどあったそうだが、今は明治40年創業の「竹清堂」1軒とのことであったが、残念ながら閉まっていた。
最寄り駅が京王線の「桜上水駅」の辺りに来ると、覚蔵寺(左側写真)と宗源寺の名のお寺が並んでいて、宗源寺には不動堂(右側写真)があり、かつて高台にあった不動堂が高井堂と呼ばれ、高井戸の起源とも言われている。
上北沢でようやく、首都高速は右に逸れて行き、芦花公園が近づいて国道20号線も右に逸れてゆく。新宿から歩いてきた国道20号線ともしばしお別れである。
旧道に入って直ぐに、野菜の自動販売機に出くわした。今も農業を営んでいる家なのだろう、奥が見通せないほど広い屋敷の入り口に置かれていた。やっと都心から離れてきた感じがする。そして、「大橋場跡の碑」と「地蔵」が建っている場所があった。碑の形からしても、ここはかつては川が流れていたことが窺える。地蔵は、江戸時代にこの辺りで繁栄した下山一族が建立したものとのこと。だんだん街道らしくなってくる。
左の写真は千歳烏山付近である。2kmほど続いた旧道も仙川(右側の写真)を過ぎると、また国道20号線に合流する。
700mほど進むと、右側に「瀧坂旧道」の石碑が建っている。数百メーターで終わってしまうが、残っている本当の旧街道である。瀧坂旧道が終わると、直ぐに右の細い道路の奥に赤い門が見えてくる。大雲山 金龍寺である。
このお寺の開基は宋より茶の種を持ち帰り宇治に広めた、明庵千光国師栄西禅師で、義経・弁慶が梶原景時の讒訴のため奥羽に落ちるときもこのお寺に立ち寄ったいう。また、閻魔十大王の石像は源頼朝の祈願によるもので、川越から鎌倉に到る街道に十王街道の名として残るとのこと。境内には立派な銀杏の木もあり、保存木となっていた。
高速道路から分かれた、国道としての甲州街道は東京オリンピック当時に植えられた欅(ケヤキ)の街路樹が大木に育って延々と続く。菊野台交番の横には「妙円地蔵」がひっそりと建っている。若くして金子村に嫁いだ妙円は、夫に先立たれたうえ両目を失明して、尼僧となって村人のために毎日路傍で鉦を叩き、念仏を唱え続けたといわれいる。
村人からの浄財をもとにこの地蔵菩薩を建てたのは文化二年(1805)で、その後もこの菩薩の前で祈り続け村人に加持祈祷を行ってきたという。この話に感動した滝沢馬琴は玄同放言の中で紹介し、渡辺崋山もこの菩薩を描くことになったのである。妙円の墓は深大寺にあり、そのとき叩いた鉦も調布市郷土博物館に保存されているそうである。
700mほど歩くと、「野川」を渡り、その後再び国道20号線と分かれる。旧甲州街道入り口の表示がある。
京王線布田駅の近くに達すると、道路の左側には「円福寺」があり、赤い前掛けの六地蔵が旅人を見送っており、すぐそばの道路の反対側には、常性寺があり境内には成田不動尊の分身を祀り、布田のお不動さまとして近在の人々に信仰されてる。
調布駅北口入り口の交差点に着いた。11:30である。お腹も空いた。近くのラーメン屋で食事を取る。12:00に出発して布多天神社の長い参道を歩く。参拝客が三々五々歩いている。やはり菅原道真を祭る天神様で合格祈願の絵馬が多い。少し遅いが七五三で晴れ着を着せられた少女の姿が目に付く。
進んで行って、中央高速を潜る手前に「西光寺」があり、近藤勇の大きな像が山門前にある。近藤勇はこの辺りの出身であり、調布市の『近藤勇と新撰組の会』が観光事業の一助となることを願って没後百三十年を記念し、建立したとのこと。近藤勇の銅像は東海道の本宿(もとじゅく)の「法蔵寺」にあり、板橋駅前にもあった。ここで3つ目の銅像を見ることとなった。
車返団地入り口に達し、建っていた観音院で少し休むことにした。子供を遊ばせていた若い母親はこの観音院の関係者でもあるのか、本堂の階段で座っていると、休憩室がありますので、どうぞと勧めてくれた。墓参りの檀家の休憩所かなにかなのだろう。
甲州街道を歩いていると、調布あたりから元農家と思しき敷地の大きな家が多いが、中には大金を得て豪華な家を建てたのも多いように見える。写真は御影石の塀を施した家であるが、なんと周りの景色が写る塀である。それにしても、景色の写る塀を見るのは始めてである。
西部多摩川線の踏切を渡る。南武線の南多摩駅と多摩川を挟んで対岸の「是政駅」から中央線「武蔵境」を結ぶ短い路線である。1Kmほど進むと「常久神社」がある。領主に常久なる人物がいて多摩川の近くに名田を持つ村落があったが、度重なる洪水を避けこの地に住むようになったととのことだが、村落全員で引っ越して神社を建立したのだろうか。
府中が近づき、だんだん賑やかな街並みになってくる。府中市八幡町を歩いていると「武蔵国府八幡宮」があり、入り口には「八幡宿」のモニュメントが建っていた。
ついに府中の「大国魂神社」に到着する。神社名を刻んだ巨大な石碑がある。明治以前は武蔵国の主要な六神社を集めて祀ってあるので六所宮と呼ばれていたそうだ。大国魂神社は5月の「くらやみ祭」が有名とのことであるが、暗闇祭りは、いわば性開放の日であったとのこと。近年では風紀を乱すという理由で、祭りの場を明るくすることになったが、本来は、わざわざ、文字どおり暗闇にして行なったもので、昔はその日に子種をもらうことを、神の子をさずかることと同じに考えていたようだ。
長い参道は、沢山の提灯が吊り下げられていて、本殿に近づくと七五三でお参りに来た親子が目に付いた。本殿左脇には水神さまが祀られており、名水であったのかペットボトルに汲んでいる人がいた。もっとも用心してか煮沸しないで飲まないでくださいと書かれていた。
大國魂神社から1150mの府中市役所前の交差点には大国魂神社の御旅所(おたびしょ)がある。御旅所とはお祭りで神輿などが途中で休む場所である。ここに、高札場もあったが、もう少し整備してはと思わざるを得ない。
さらに、300mほど進むと左側に「高安寺」がある。平将門を討ち鎮守府将軍となった、藤原秀郷の館跡に建てられたもので、立派な仁王門と優美さの感じる山門がある。本堂も古刹を感じさせる気品がある。義経と弁慶もここに立ち寄り、頼朝の怒りを解くため般若心経を書写したことがあるとのこと。なお、藤原秀郷は俵藤太の名前でも知られており、瀬田の唐橋から三上山のムカデを弓で退治したとの話しも伝わっている。
3:00頃に分倍河原駅への入り口に達し、今日はここまでとして、駅前の喫茶店でコーヒーを飲みながら今日を振り返り休憩して、次回を約して帰宅についた。
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