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2008.10.19

愛知川から草津・・・(中山道)

推定歩行距離37Km

旧中山道を歩く旅は10月19日に草津宿に無事到着し、完了。

彦根のホテルで1泊して、車両1両だけの編成の近江鉄道で「愛知川駅」にやって来た。旧東海道歩きで鈴鹿峠を越えて土山から水口に歩いたのを思い出す、貴生川(きぶかわ)行きの電車であった。中山道に復帰すると、地蔵堂が建っていたが、このような街角に建つ地蔵堂がこれ以降も時々お目にかかることになる。
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朝一番の歩き始めは心地く快適に進む。明治4年に郵便制度が始まったときに用いられたポストが復元して置かれていた。もちろん、普通に葉書、手紙を投函できる。少し先に、何の看板もなく使われていないようだが、立派な建物があった。銀行かなにかの建物だったのだろうか。
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枝振りの良い赤松がある料亭竹平楼があった。昔の旅籠竹の子屋で、創業は宝暦8年(1758年)とのこと。明治天皇も巡幸の時ここで休憩された。
そして、不飲(のまず)川に架かる不飲橋である。欄干には愛知川の伝統工芸の「びん細工手まり」を模した置物が飾られている。伝承によると、この不飲川は源流である不飲池で激戦があり川が血で真っ赤になった。それ以来、忌み嫌ってこの川の水を飲まなくなり「不飲川」と呼ばれるようになったとのこと。
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国道に出てしばらく進むと、愛知川を御幸橋で渡る。川幅の大きな川であるが、水量は僅かである。この辺りは水田が多く慢性的に水不足で農業用灌漑ダムでほとんど全量堰きとめられているためだとのこと。これでは琵琶湖にもほとんど流れ込まない。橋を渡って五個荘宿へと進んで行く。
東嶺禅師御誕生地の碑があった。9歳で出家し、白隠禅師に師事したとのこと。白隠禅師は臨済宗の中興の祖と言われる名僧で晩年は旧東海道で沼津の次の原にある松陰寺で過した。街道は手入れが良く歩き易い道が続いていた。
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五個荘に入ってから、何軒かの茅葺の家が目に付いた。まだ、茅葺を保っているとは驚きだ。それにしても手入れが行き届いていると思っていたら、旧家片山家立場本陣で、大名や公家がここで休憩したという。そして「天秤の里」のモニュメント。近江商人を多く輩出した五個荘に相応しい。流石に、歩いていてもどっしりとした立派な家が多い。
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街道は国道に合流するが直ぐに右に分かれて、清水鼻町に入って行く。直ぐに「清水鼻の名水」がある。現在でも大事にされていて、もちろん美味しい水を飲むことができる。清水鼻の町は短く、直ぐに終わり、国道と新幹線に交差して進むが、その直前に広い田圃一面ににコスモスが咲いていた。地元の人達が大勢あつまり「コスモス祭り」とでも言えばよいのか、大人も子供も花を見ながら楽しもうとしていた。
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地下歩道を通って国道を渡り、200mほど進むと、奥石神社の大きな鳥居がある。神社を囲む森は老蘇(おいそ)の森と呼ばれる。説明板には、「今から約2250年前、孝霊天皇のとき、この地一帯は、地裂け水湧いて、とても人の住むところではなかったが、石辺大連(いしべのおおむらじ)という人が神の助けを得てこの地に松・杉・桧を植えたところ、たちまち大森林になったと伝えられています」とある。参道、拝殿、本殿ともに立派な神社である。
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老蘇町を歩いて行くと、次に出会うのは「武佐宿(むさしゅく)」である。武佐宿に入って直ぐに牟佐神社があった。途中に蕎麦屋ぐらいあるだろうと思いながら歩いてきて、お昼時間もだいぶ過ぎた。食事の出来る処は見つからず、しかたが無いので神社の境内で朝買った、おにぎり、菓子パンで空腹を満たした。
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武佐宿を進むと、武佐町会館の場所に冠木門があり脇本陣跡の表示が出ていた。その次には文化庁の登録有形文化財になっている「旧八幡警察署の武佐分署庁舎」があり、引き続いて武佐本陣の門のみが残っていた。
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近江鉄道の武佐駅の踏切りを渡ると、伊庭貞剛(いばていごう)の屋敷跡がある。伊庭家は、近江守護佐々木家の流れを汲む名家である。近年になって、長屋門を構えた広大な建物は解体され、楠だけが残されたとのこと。
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国道を歩くのは騒音が酷くて辛いので、国道からの分岐点に一刻も早く到着できることを願って、ひたすらに歩く。1.7Kmほどで旧道に復すと、早速綺麗な茅葺屋根の家屋に出会った。静かで良い感じの街並みが続いている。東横関町である。

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街道は日野川にぶつかり、当然渡しは無いので、国道に架かっている「横関橋」に回る。橋を渡ると直ぐに右に曲がって旧街道の方に向かう。誰も通っていない道で心配になるが、国道を進むよりはるかに心地良い。小さな集落を通り過ぎて行く。
西横関と書かれた信号機のところで、一旦国道に合流すると竜王町で、300mほどで間の宿の鏡の集落に入る。江戸時代は間の宿だが、それ以前(東山道)では、ここが宿場であったとのこと。宿は直ぐに終わり再び国道にでると鏡神社がある。この神社は近江源氏佐々木氏の一族鏡氏が守って来た源氏ゆかりの神社だったので、この地で義経も元服し、源氏の再興と武運長久を祈願した。
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境内に鏡山古窯址が鏡山一帯に広がっているとの案内板があり、どうしてだろうと思い神社の縁起板を読むと、鏡神社の祭神は日本書紀による新羅国の王子、天日槍命(あめのひぼこのみこと)で垂仁天皇3年の御世(BC3年)に須恵器の技術者集団を連れて来朝し、この地で亡くなったとのことであった。この辺りの鏡の地名も王子が持ってきた神宝の日鏡をこの地に納めたことから生まれ、その神社は陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師などの多くの技術者を供にして渡来して文化を伝えた王子を祀る古社なのであった。
進むと、義経元服の池と石碑がある。牛若丸が、藤原秀平配下の金売り吉次と東国に下る途中、ここで元服し、源義経となったところである。平家の追っ手が迫っているのを警戒して、ここの池で前髪を剃って元服することになったのであろう。
余談だが、NHKの大河ドラマでは元服の場所が義朝が殺された、尾張・内海庄になって、ここでは観光で潤うと期待していたのにと怒りの声が上がったらしい。
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またまた、国道歩きである。野洲市に入り進んで行くと、左手に「村田製作所」の広い工場が見えてくる。工場の前を通り抜けると東池と呼ばれる大きな溜池があった。野洲は多数の溜池があり、少し先にも西池の堰堤が延々と続く。水田の灌漑用として作られたのであろうが、歴史は古く、雄略天皇(418?479年)が近江に築いた48池の一つとされているとのこと。広く稲作が広まって行った時代なのであろう。
国道と別れ辻町に入って行く。これ以降は草津まで国道を歩くことはない。やはり旧街道は落ち着いて歩ける。家棟川の橋を渡る。以前は天井川で、川の下をトンネルで潜ったが、今は河川が整備され真新しい橋を渡る。旧東海道の水口から石部の間にも幾つか天井川でトンネルを通ったのを思い出す。
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桜生(さくらばさま)史跡公園がある。知っていないと読めない読み方だ。公園内には、国指定史跡の大岩山古墳群があり、円山古墳、甲山古墳(かぶとやま)古墳と名づけられた古墳がある。銅鐸も多量に出土したそうだ。見学したかったが相当に広く、日も傾き時間も気になり道路から写真撮影だけで通り過ぎた。直ぐ横を新幹線が空気を震わせ通り過ぎて行く。
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小篠原の集落に入ってきた。中山道以前の東山道では篠原宿があった場所だ。何となく古い街の匂いがする気がする。そして、野洲市行畑に着くと、「背くらべ地蔵」がある。鎌倉時代のものとされている。子供達がお地蔵さんと背比べをして、右の小さい方の地蔵と同じくらいの背になれば一人前と言われたという。ここで毎年7月に「行畑地蔵まつり」が行われているそうだ。
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野洲川橋を渡る。水量は少ないが大きな川だ。中山道では一番大きい川ではないだろうか。
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野洲川を渡れば「守山宿」である。南井金物店という昔ながらの金物屋さんがある。今では見ることがなくなった、ハサミ・包丁研ぎを致しますの立て看板もでている。
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甲(かぶと)屋の跡と言うところがあった。甲屋は、全く知らなかったが、仇討の舞台となった宿屋で、謡曲「望月(もちづき)」に出てくるとのこと。謡曲では旅籠となっているが、実際は本陣であったという。中央の四角いものは、昔の防火用井戸である。
歩いて行くと、左は読めないが「右 中山道 美濃路」と書かれた道標があった。
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守山宿の終わりが近づき東門院というお寺があった。最澄が793年に比叡山延暦寺を建てたときに、このお寺も建てたとのこと。比叡三千坊の中の東の端にあったことから東門院と呼ばれるようになった。また、比叡山延暦寺を守る寺と言う意味から守山寺とも言い、守山宿もこれから名付けられた。江戸時代には朝鮮通信使の宿ともなっていた。山門は仁王門となっていたが、中山道沿いのお寺で仁王門を見たのは初めてである。

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左側に今宿の一里塚が現れた。滋賀県では現存する唯一の一里塚で、大きな榎は2代目とのこと。日本橋から草津までは、一里塚は全部で129箇所あり128番目の一里塚である。草津まではあと4Km(1里)であるが、だいぶ日も傾いてきた。急ごうと思うが、疲れたし、足も痛い。
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栗東(りっとう)の町に入ってきた。大宝(だいほう)神社がある。大宝神社は名前の通り大宝年間(701?704年)の創建で、この地の産土(うぶすな)神である。広い境内は大宝公園となっているが、時間が無く通り過ぎる。
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琵琶湖に注ぐ葉山川の支流を渡ると、もう草津である。JR琵琶湖線と草津線の低いガードを潜る。さらに、低いガードもあるらしいが、ここはそれほどでもない。写真は入り口と潜り抜けた出口て振り返って撮影したもの。
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JR線を横切ると、排水溝の蓋の上になっている中山道を通る。目隠しのための薄い生垣の中で洗濯物を取り入れる物音が聞こえる。これも中山道であることに間違いないのは、写真の左上に貼り付けた手作りの「中山道」の道標でもわかる。少し進むと伊砂砂(いささ)神社が左手にある。変わった名前の神社である。明治以前は渋川大将軍社とか天大将軍社と呼ばれていて、渋川の産土神である。祭神が、石長比売命(いしながひめのみこと)と寒川比古命(さむかわひこのみこと)そして、寒川比売命(さむかわひめのみこと)であることから頭の1文字をとって「いささ、伊砂砂」となったとのことである。
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草津駅前を通り過ぎて「サンサン通り」を横切ると中央分離帯に「一里塚跡」の手作りの表示板があった。今宿の一里塚から4Km歩いてきたことになる。旧中山道では、始めての屋根つきアーケ?ドである。「カラーモール夢大路」と名付けられている。東海道でも四日市と水口がアーケードになっていたが、かなり衰退していた。しかしここでは、草津の街の規模であってみれば当然だが、賑やかである。
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既に廃川となっている天井川である草津川の下を抜けると、ようやく中山道と東海道の追分に達する。「左 中山道 美のぢ、右 東海道 いせみち」と書かれた常夜燈がある。
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10mほど先には東海道で既に訪れた草津本陣があるので、そこまで行って中山道の旅を終えることにした。「本日は休館日です」と書かれた札が架かっていた。時刻は午後5時である。草津駅に向い、米原まで新快速のJR琵琶湖線に乗り、新幹線「こだま」に乗り、再度名古屋で「のぞみ」に乗り換え帰路に着いた。最後は少し駆け足のようになってしまったが、ともかく無事に終えた感慨に浸りながら・・・


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