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2017.09.22

我孫子から藤代・・・(旧水戸街道)

本日の万歩計27,561(19.8Km)

夏の間はお休みしていた水戸街道歩きだが、秋の彼岸に入り涼しくなってきたので再開した。今日は、8時50分に我孫子駅から歩きはじめて取手を越して藤代までの予定である。

我孫子駅入口の交差点から200mほど進むと、志賀直哉邸跡、嘉納治五郎別荘跡、白樺文学館等、文人・有名人に由来する場所の案内板が立っていた。興味はあったがスキップすることにしたが、手賀沼湖畔の風景が多くの文人等に気に入られたのであろうか。

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少し先に進には、我孫子宿本陣が単なる表示杭として残っているだけであったが、一方で天保2年(1831)建造の脇本陣の茅葺屋根の小熊家住宅は残っていた。今となっては、我孫子塾で唯一残る歴史的家屋であろう。

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その後、成田街道分岐点を過ぎ、常磐線のガードを潜って進むが、道路を水道局のある側に渡るのに手間取ったが、ようやく道路の左側に柴崎神社が見えてきた。創建は天慶元(938)年と伝えられていて、日本武尊が東国討伐の途次立ち寄り武運を祈り、また平将門も祈願所として崇拝し、土豪芝崎左馬督は社殿を改築した。相馬家一門も累代の守護神として崇め、相馬重胤は奥州に分社を建立したとのこと。

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柴崎神社の少し奥まった場所に曹洞宗の東源寺がある。天文9年(1540)に北条氏康が開基したと伝えられる。本堂正面の左手前には、樹高約16m、幹周約4.5mで樹齢250年のカヤの木があり、県指定天然記念物に指定されている。枝は四方に広がり、昭和時代初期までこの木の下で漢学塾が開かれていた。光音禅師のお手植えのカヤと伝えられ、師は信州に生まれ、江戸の呉服商の伊勢屋に奉公していたが、茨城県取手市の長禅寺の幻堂禅師の弟子になり、宝暦~安永年間(1751~81)に、四国八十八か所霊場を訪れたとされる。その後、相馬八十八ヵ所を開基して、東源寺は第75番札所で、しっかりした太子堂も本蔵の左側に存在する。

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元の街道に復帰して進み、国道6号線に合流する。6号線の歩道を歩いて進むが、予めネットで調べておいた並行して進む道路に分かれて、利根川の堤防に達した。しかし、大利根橋の歩道に行く道が見つからない。道路は橋に通じているが、歩道はなく、特に10mほどは歩道が無いばかりか、大型車が道路の幅いっぱいの状態でひっきりなしに通るので、強引に歩くことも出来ない。
相当距離引き返してようやく歩道にたどり着いたが、少しは歩行者のことも考慮して欲しいと思った。

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大利根橋の長さは、1,209mで千葉県と茨城県を繋ぐ大動脈である。下を流れる利根川は、坂東太郎の異名を持ち、日本一の規模をもつ大河である。

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途中、道路の進み方を間違えて手間取ったりしたこともあり、大利根橋を渡り終えたときには、11時を過ぎていた。少し早いが、取手駅前で昼食を取ることにした。しかし、食事を済ませて外の出ると雨が本降りであった。スマホで雨雲の状態を見て、直ぐには止まないと思って、持参した傘を取り出して長禅寺に向かって進んだ。

長禅寺は、臨済宗妙心寺派の古刹で、京都の妙心寺の末寺であり、本尊は延命地蔵尊である。朱雀天皇の代の承平元年(931)に、平将門が勅願所として創建したと伝えらている。将門没後は「御厨三郎吉秀」という人物が、密かに本尊を守り伝えてきたものの荒廃が甚だしかったとのこと。承久元年(1219)には義門和尚を開祖として再興が計られ、また「吉秀二十九代後胤織部時平」は、文暦元年(1234)に将門の守本尊で安阿弥十一面観音像(快慶の作と伝えられる)を安置するために「四間四面御堂」を建立するとともに、寺の再興を計ったとも伝えられている。

長禅寺の急な石段を上り山門をくぐると、正面に県指定文化財の三世堂がある。外観は2層だが内部3層で、「さざえ堂」の形式になっており、上り階段と下り階段があり、堂内では参拝者が交差せずにまわれるようになっているとのことであるが、特別公開日以外は入ることができない。宝暦13年(1763)に建立されたが大破したため、享和元年(1801)に再建された。

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三世堂の前を左に進むと、太子堂が2棟建っている。

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太子堂の前を回り込むように進むと本蔵があり、さらに進むと最初に潜った山門のところに戻るので、また急な石段を降りて進むと旧街道の通りにぶつかるので、左折すると田中酒造がある。創業は1655年。取手市は造り酒屋が多かったが、そのなかで唯一残った老舗とのこと。田中酒造で造っている銘柄は「君萬代」で「君(日本国)が萬年続くように。その国とともに萬年続けられるるように」と名付けられたという。明治天皇がこの地域に行幸した際、田中酒造の井戸水を献上した功によって下賜されたものとのこと。店先には、古い酒樽を利用したモニュメントが飾られている。

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田中酒造から100mほど進むと、旧取手宿本陣染野家住宅がある。公開は金、土、日の午前10時から午後4時までである。歩行再開を金曜日の今日とした理由でもある。

旧取手宿本陣染野家住宅は、寛政7年(1795)に建築された。染野家の当主は、代々取手宿の名主を勤めていたが、貞亨4年(1687)に水戸徳川家から本陣に指定されたと伝えられている。水戸徳川家の歴代藩主だけでなく、江戸と水戸を行き来する水戸藩士や、ほかの大名も染野家を本陣として宿泊や休息に利用した。

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中の間と上段の間の写真であるが、これ以外にも、広間、二の間、三の間、茶の間、納戸、中納戸等多くの部屋がある。
今まで、現存する本陣の幾つかを見てきたが、茅葺きの本陣は始めてであった。家具調度品が全く置かれていなかったのが、いささか寂しい感じがした。

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県道11号を進んで、ファミリーマートが見えてくると、県道から左に離れて進む。高台に阿夫利神社がある。神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社の分神である。

阿夫利神社のところで右に曲がり進んで、吉田の信号のところで、旧街道に入って行く。民家の庭にはコスモスが咲き誇っていた。これからは、藤代宿手前の常磐線の踏切までほぼ真っ直ぐな道を4Kmあまりの距離を進む。

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道の両側には、ところどころ民家が散見されるが、ほとんど田圃の中の道をひたすら進む。2カ所ほど真新しい「水戸街道」の表示石柱が立っていたが、とにかく変化がなく、歩く以外には何もない平坦な道である。ようやく、常磐線の踏切に達して多少なりとも、気持ちに余裕がでて元気を取り戻す。

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藤代宿の中心部に入って進み、相馬神社のところで、右折すると藤代駅までもう一息である。遂に右手に愛宕神社を見て、その先で右折すると藤代駅であった。

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何時も歩行を終えてて駅前でカフェに入り、休憩して帰路につくのであるが、藤代駅周辺にはいっぱいのコーヒーを飲める店もコンビニもなく、駅は綺麗で新しい感じだが、いささか寂れた様相を呈した駅前であった。しかたなく、駅の売店で飲み物を買い、ベンチに座っていささかの休憩とする他なかった。でも、今までの街道歩きで、多くの無人駅に遭遇したことを思えば、良しとするべしと思った。


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