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2017.05.31

日本橋から北千住・・・(旧水戸街道)

本日の万歩計17,692(11.5Km)

2012年5月24日に奥州街道の一戸まで歩いたところで都合により停止したが、5年が経過して健康維持の観点から街道歩きを再開することにした。 幸いにも、四国の88箇所のお遍路巡礼を始めた友人が私の街道歩きに付き合ってくれることになった。しかし、5年のブランクが有り、加齢と怠惰な生活による体力の低下、なかんずく脚力の衰えは覆うべくもない状態だが、無理をせず、のんびりと歩き始めることとした。
さて、水戸街道であるが、日本橋から北千住までは日光街道と共通であり、一般的には北千住からスタートするようであるが、友人は歩いたことがないこと、以前に日光街道を歩いたのは2009年で、8年経過して街の変わりようも見る意義があるのではと考え、再度日本橋をスタートすることとした。

東京駅の八重洲口で8時に待ち合わせ、歩き始めたが東京駅の八重洲口も美しく変貌していて、職場に足早で向かう人達を眺めながら日本橋に向かった。

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日本橋は全く変わらず、アリバイ証明のような感覚で、その佇まいと道路元標の表示柱をカメラに収め次に進むこととした。

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日本橋を後にしてスルガ銀行の角を右折して100mほど進んだ左側にある三浦按針の屋敷跡の碑を見に行った。以前に日光街道を歩いたときに見逃したが、今回も見つからず、諦めて戻ろうとした時に、小型トラックが止められている向こう側に、少しだけ見え何とか撮影できた。停車しているトラックのために、今回も見逃すところであった。三浦按針は、英国人ウイリアム・アダムスで、徳川時代初期に日本に漂着した水夫でイエズス会の宣教師たちが処刑を要求するなかで家康に重く用いられ大伝馬町の名主の娘お雪と結婚し1男1女を設けて生涯を過ごした人物だが、詳細はネットで検索すれば容易に見つかるので省略する。
元の通りに引き返し、特徴のある三越のライオン像を左手に見ながら進む。

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進んで日本橋三井タワーを左に見て、右折して大伝馬町本町通りに入って行く。昭和通りの交差点を過ぎて150mほど進んだ右手には、以前ホテルギンモンドがあったが、今は無く工事囲いの僅かな隙間に旧日光街道本通りの石碑が、侘びしげに建っていた。

少し街道から離れて、左に進み江戸通りを越えたところに、十思公園がある。ここは、江戸牢屋敷と刑場があったところで、公園の左にある老人ホームの前に、牢屋敷の発掘された石垣とその説明板が建っていた。公園には、以前にはなかった子供用の遊具なども設置されていて、かつての面影を偲ぶべくもないが、吉田松陰終焉の地の石碑と江戸市中に時を知らせた「時の鐘」は、残っていた。罪人の処刑もこの時の鐘を合図になされたとのことで、鐘撞(かねつ)きの辻源七という男はそんな時、わざと遅らせて鐘を撞いたという。

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返すがえすも残念なのは、吉田松陰の処刑で、生きておれば明治に大きな活躍をしたであろうと思えるが、井伊直弼は日本の大きな宝を無くしてしまったのである。元の通りに戻って進むと、馬喰町で、衣料問屋の集まっているところである。かつては、「小売お断り」と書いた貼り紙の店も多かったが、今回は一軒も見つからなかった。大規模店舗が増え、問屋を通さず直に仕入れることが多くなり、問屋の必要性がうすれ、やむなく個人客を受け入れざるを得なくなったと考えられる。まるで、衣料品の安売り商店街の様相である。

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大きな交差点にぶつかり、神田川を浅草橋で渡る。今も変わらず屋形船が多く係留されている。そして進むと人形で有名な久月本店があり、道路の向こう側には吉徳がある。

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蔵前橋通りの交差点を過ぎ、蔵前二丁目交差点で右にむと、駒形町でやがて左に有名な「駒形どぜう」が見えてくる。創業200年で、当時「どぢゃう」と表記するのが一般的だったが、初代店主が縁起の良い奇数文字数をと考え「どぜう」としたとのこと。そして、駒形橋西詰交差点を北進すると、雷門が見えてくる。観光客で賑わっている。近づくと、多くの外国人観光客が、雷門の大提灯をバックに記念撮影をしていた。

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浅草の仲見世は、大変な混雑ぶりである。8年前とは、大違いである。修学旅行の学生と外国人観光客が多く、まともに歩けない程であった。

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本殿の前で右折して、二天門を出て進むと花川戸公園があり、「姥ヶ池」の碑が建っていた。この辺りは、浅茅が原とよばれていて、その中の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。旅人に宿を貸しては深夜になって旅人を殺し、金品を剥ぎ取っていたが、殺された人が 999人になったとき浅草観音は若者に変装して老女のところに泊まった。老女はいつもように若者を殺して、明かりをつけてビックリ、殺した相手は旅人ではなくて自分の娘だった。老女は大いに嘆き、仏眼を開いて悔い、大きな竜となって池の中へ消えていったという。
そのまま進むと、隅田川に突き当たり、スカイツリーがよく見える。川沿いの隅田公園の入口付近にも観光客が群れており、ここでも記念撮影である。

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隅田川の堤防に上れば、言問橋とスカイツリーが見え、これも新しい風景である。ところで、東武伊勢崎線は愛称を東武スカイツリーラインと呼ぶことになったが、業平橋駅はスカイツリー駅に改称になった。在原業平が、「名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」詠んだ由緒のある場所の名前を変えるとは、いささか軽薄な気がする。まさか、言問橋をスカイツリー橋と変えることはないとは思うが。
更に隅田公園内を進むと、滝廉太郎作曲の花の歌碑が建っていた。作曲は滝廉太郎であるのは有名だが、作詞者が武島 羽衣(たけしま はごろも)であるのは、あまり知られていない。明治5年生まれの国文学者である。

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隅田川公園を離れて、待乳山聖天(まつちやましょうでん)に寄る。入り口の階段を上ると、7つの石仏が並んでいる。聖天の立地は10m程度の低い山上であるが、周りが平坦なため、江戸時代にはここから見る隅田川の眺望が良く江戸名所の一つであったとのこと。良縁成就、夫婦円満、そして商売繁盛のご利益があるとして広く信仰を集めてきたというが、現在でもお乳の出るように祈る女性が多いとのこと。

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吉野通りに出て進むと、山谷堀公園がある。吉野橋の名の橋柱が残っているが江戸期には「山谷掘」があり、「新吉原」に通う舟で賑わったという。

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時刻は、11時半。そろそろ昼食を考える時間で、目ぼしい食堂を探しながら進んで行く。ほどなく、良さそうな「蕎麦屋」があり、昼食をとった。
昼食を済ませしばし休息をとり、出発すると泪橋の交差点。昔はここには思川(おもいがわ)が流れていたが、今は暗渠になり交差点の名前として橋の名前が残っている。品川も鈴が森の刑場が近づいたところに、「泪橋(現在では浜川橋)」があったが、ここでも小塚原刑場を控えて家族が涙で見送ったのだろう。
少し先で、常磐線の貨物駅への線路を横断橋で渡ると延命寺があり、ここは小塚原刑場跡である。大きな石造りの「首切り地蔵」が野外に鎮座していた。刑場跡は、どこも気持ちの良いものではない。

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そして、つくばエクスプレスと常磐線の本線をくぐり抜けると、小塚原回向院があり、墓所は現在の墓地と歴史的な遺跡の意味もある墓所に別れていて、歴史的墓所の入り口を入ってすぐに226事件で銃殺刑となった磯部浅一とその妻登美子の墓がある。磯辺は吉田松陰を尊敬しており、松陰の近くに弔って欲しいと言っていたという。勤皇の志士を弔う大きな石碑も建てられている。また、一番奥には、松陰二十一回猛士墓」と書かれた、吉田松陰の墓がある。二十一回猛士とは「生きてるうちに二十一回の猛を発する」という意味で松陰が自分で名づけたという。松陰の墓に到る通路の両側には安政の大獄で刑死した多くの尊王の志士の墓石がある。

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鼠小僧次郎吉、片岡直二郎、高橋お伝、腕の吉三郎の墓も並んでいる。いずれも名うての悪人として名高いが、ここに墓石を置いているとは大したものである。大悪人の面目躍如といったところか。
回向院の入口横には、「吉展ちゃん誘拐事件」で亡くなった吉展ちゃんを弔うため、ご両親が建てた「吉展地蔵尊」がある。日本で始めての身代金誘拐事件で、大きな反響を呼んだ。

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進んで国道4号線に合流すると、このあたり一帯の総鎮守である素盞雄(すさのお)神社があり、少し先に隅田川にかかる千住大橋が見えてくる。

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千住大橋には、左側に歩道が付いており、渡って直ぐに左側から、橋の下に降りられるようになっている。階段を下ると奥の細道 旅立ちの地の大きな絵がコンクリート壁に描かれている。千住大橋の反対側に通じる鉄橋がかかっていたので、それを渡り、階段を上って国道4号線に添って進み、千住宿に入って行く。

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国道から旧日光街道が分かれるところに設けられているのが、松尾芭蕉が奥の細道に旅立つことを表したモニュメント。この千住宿で芭蕉が奥の細道への旅立ちに際しての初の句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠んだのである。そして、千住の商店街に入って行く。

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商店街を進むと、チンドン屋に遭遇した。昨今チンドン屋に出会うのは大変珍しい。5街道を歩いた経験からも、甲州街道を歩いたときに、八王子近くで一度出会っただけである。
北千住駅に向かう道路と交差すると、千住宿も終わりが近い。道の右側に小じんまりとした「街の駅」を見つけて覗き込むと、地図等も用意してあるので、休んで行ってと声をかけられた。案内地図だけもらって先に進むと、右側に江戸期の商家の様子を今に残す、横山家がある。以前通ったときは、NTTの作業車が停まっていて、邪魔であったが、今日は悠然とカメラに収めることが出来た。

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少し進むと、旧日光道中と旧水戸佐倉道の分岐となる。細い表示柱が建っていて右折して進むと、常磐線のガードが見えてきて、右手に氷川神社がある。素戔嗚尊を祀る村社である。

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次に、常磐線のガードをくぐると日蓮宗の清亮寺がある。かつて水戸街道に面して古松が茂り水戸光圀公ゆかりの「槍掛けの松」として有名であったが、今は山門を入ったところにある説明板に写真として姿を残すのみである。

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さて、つくばエクスプレスのガードを潜って、荒川に到達したが、この荒川は大正期に掘削された放水路で江戸時代の水戸街道は分断されることになった。当初、北千住駅から小菅駅まで電車で渡り、水戸街道を進む計画であったが、5年ぶりの街道歩きは、予想以上に筋肉の衰えが大きく足の太ももから股関節あたりにかけて痛みを感じる様になってきたので、今日はここで打ち切ることとして、北千住駅に向かい駅近くのカフェで十分に時間を費やし、帰宅することとした。


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