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2012.05.24

摺糠(すりぬか)から一戸・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計36,749(23.9Km)

摺糠(すりぬか)から一戸の歩行ルート

奥中山高原には温泉があり宿泊出来るとは知らず、盛岡駅前のホテルで宿泊し、7:32盛岡発のIGRいわて銀河鉄道で奥中山高原駅には、8:16に到着した。駅前に1台のタクシーが停まっていたので、昨日歩いた2kmをまた歩く気にもなれず、時間も節約したいと考え、タクシーを利用した。
昨日駅に向かった十字路から進むと、階段が続く神社のある丁字路に突き当たり右折して進む。
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またもや、摺糠(すりぬか)の標柱があり、100mほど進むと、民家の庭先を通る感じで左に旧街道の上り口がある。
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舗装されていない道を1Kmほど進むと、左の林を背にして「明治天皇御休憩之跡」の碑が立っていた。
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明治天皇碑より3000mほど進むと、突然に広い幅の舗装道路に出て、少し先には「奥州街道最高地点 標高484m」の標柱が立っていた。最高地点といってもそれほどの高地ではない。
進んで行くと、畑の向こうに「中山一里塚」が見えてくる。畑を開墾して街道の位置が変わってしまい、塚の片側もなくなってしまったのである。
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一里塚の横を通る道路に突き当たり、一里塚に近づいてみた。国指定の史跡だが、所有者(中嶋孫彦)が居る。
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一里塚から500mほどで、集落が見えて来る。旧中山集落である。入り口の左側には「青面金剛像塔」が建っている。説明板によると、安永4年(1775)と記銘され、一戸町で最も古い青面金剛像塔で、庚申塔として建てられたもの。庚申塔は、集落の入り口や分岐点に建てられることが多いと記されていた。
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2Kmほど進むと、火行(ひぎょう)の集落で、集落の中ほどに「火行伝馬所」の説明板が立っていた。
集落を抜けると十字路があり、直進する道が「ヨノ坂」である。火行と小繋の2つの集落を結ぶ坂道で、奥州街道でもかなりな難所で、山あいの沢に沿って進む1.5Kmほどの道である。
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奥州街道の歩行で初めて、熊よけの鈴を取り出しリュックにぶら下げて歩くことにした。倒木も多く、なかなか歩きにくい。下り坂でも昨日マメを作った足にはかなり堪える歩行となった。
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1Kmほど下って行くと、「小繋一里塚」が左側にある。片側のみ残っていて、盛岡から12番目の一里塚である。
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長い「ヨノ坂」を抜けて小繋の集落に入ると、直ぐの左側に「小繋御番所跡」の説明板が立っていた。盛岡以北で最初の御番所で、材木、馬、漆、蝋などの物資のほか女性の移動も監視したとのこと。
街道は集落を真直ぐ貫き丁字路にぶつかり右折する。
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丁字路を右折すると、長楽寺がある。説明板によれば、天台宗のお寺で桓武天皇の御代に坂上田村麻呂が大同2年(807)に東征の折、当地に地蔵堂を建立して鎮撫祈願をしたのが始まりで、嘉祥年中(850年頃)慈覚大師が、諸国巡錫の途上に当地に至り6尺5寸の延命地蔵尊を彫刻して授けたと伝えられている。南部藩主入国以来尊崇すること厚く隆盛を極めたが、度重なる火災でついに地蔵堂のみ残すことになった、と記されていた。 寺の脇には、「明治天皇御昼飯跡」と書かれた標柱も立っていた。
進むと下平踏切で、ここを渡って国道4号線に合流する。
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国道を2kMほど進むと、600mの長さの笹目子(ささめこ)トンネルである。国道のトンネルを歩いて通るのは初めてである。騒音が激しく、特に重量級のトラックが連続して走ると恐怖を覚えるほどである。
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トンネルを抜けると、右側に「笹目子トンネル」の大きな看板とともに「川底一里塚入口」
の手作りの道標が立っていた。
道標に沿って進むと、トンネルの外側を少し戻る感じになっていて、その後旧街道への細い取り付き道となって上って行くようになっている。
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旧街道に達すると、本来の道が左に続いているが、鉄道により遮断され通行できない旨の立て札が立っていた。右に進むのが一里塚への方向であり、下草刈りを行った歩きよい道が連なっている。先程通ってきたトンネルの上を通過して進む。
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200mも進むと。川底の一里塚である。この一里塚も国指定史跡だが、個人所有である。
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一里塚から600mほどで気持ちの良い旧街道の道は終わり、舗装道路に合流する。
舗装道路に出て進むと「上の井戸」がある。高地にある「高屋敷」の集落では、水の確保に貴重で重要な井戸であった。
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少し進むと「高屋敷」の民家が見えてきて、「中の井戸」がある。また。道端には「高屋敷」の標柱が立てられていた。
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そして、「下の井戸」を過ぎると、小さな集落はもう終わりである。
ちょうどお昼である。今日は食事をする食堂などはないところを歩くことが分かっていたので、コンビニで買っておいた、おにぎりを道の脇に積まれた材木に腰を落として食事とした。
坂道を小型トラックで上ってきた方に呼び止められ、先週50人の団体が通ったこと、小鳥谷駅までは3Km程度であることなどを伺い、奥州街道のこの辺りの案内パンフレットをいただいた。
集落から山道を下り2Kmほど進むと、左側に五月舘の追分石と呼ばれる石があり、「右ハ山道 左ハもり岡」と刻まれている。説明板には、追分石は街道を歩く人の目印となるよう造られ多くの道の分岐点に設置されている。「五月舘の追分石」は、南北に伸びる奥州街道と南西の尾根へと向かう道の分岐点に設置された、と記されていた。
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山道を抜けて小鳥谷(こずや)バイパスのガードをくぐり進む。左側に立派な建物と「明治天皇御小休所跡」の標柱が立っていた。この建物は、小鳥谷村長をされていた庄屋さんの住居だったとのこと。
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小鳥谷小学校の方に進むと、その先に国指定天然記念物の藤島のフジがある。樹齢は数百年で日本一大きいフジとして知られてるとのこと。元々はすぐ隣のカツラの木に巻き付いていたが、重みでカツラの枝が折れて、現在は鉄骨のヤグラと支柱で支えられている。この地は、古くから仁昌寺の境内に相当し、天正19年(1591)九戸政実の乱の際には豊臣秀吉軍の蒲生氏郷が姉帯城攻略のため陣を張った場所とも伝えられている。当時、フジのあるところは周囲三方に掘りが巡り、あたかも島のように見えたことから藤島の呼び名がおこったようである。
すぐ近くの観音堂の敷地の端に「観音堂の藤」がある。こちらも随分大きく立派である。
地元の人の話では、あと3日ぐらいで相当に花が開き見ごたえのある様になるであろうとのことであった。
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街道に戻り進むと、小鳥谷駅がある。写真は駅前通りである。さらに進むと、木で作った人形が庭の藤棚でチェーンを使ったブランコに乗っていた。兄と弟を表したのか、可愛いものである。
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真っ直ぐ進んで国道4号線を横切り、馬渕川に沿うように進む。やがて道は右に折れて急な坂道となる。上り切ると小性堂の集落である。
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小さな集落で、通りすぎて進むと左側に「明治天皇御野立所の碑」がある。明治9年と明治14年の巡幸記念の碑であるようだ。
ドンドン坂道を下って行くと、左側に「雷電神社」があり、その先は丁字路となっている。
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丁字路には「女鹿口」の標柱が立っていて、ここで左折すると、直ぐに橋を渡って進み、舗装道路から右に別れて荷坂と呼ばれる急な山道を上って行く。
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荷坂の坂道を上り詰めたところに、老ヶ舘(おいがたて)の標柱がある。この先で道が2つに分かれているが、事前学習により右の道を下りて行く。少し下ると「国指定史跡 奥州街道 白子坂」の標柱があり、正しい道であることが分かる。
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白子坂を下ってゆくと、「百姓一揆終結の地」の石碑と説明板が立っていた。
説明板によれば、天保7年(1838)、連年の凶作と重税、高利貸しの悪徳商法で困窮を極めた農民が窮状を代官に訴えることとしたが、血気にはやって町内になだれ込み、商店を壊し、果ては御番所にまで乱入した。その結果多くの農民が捕らえられ訴えは失敗に終わった。そして、1年後、女鹿の大工・佐吉は首謀者として関屋川原で打首となり、他の主だった人達は遠隔地に追放された、とある。
直ぐ先で、IGRいわて銀河鉄道のガードを潜ると、馬渕川沿いの広い道路に出る。左折して一戸駅に向かって進む。
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1Kmほど進むと、一戸中学校への馬渕川に架かる立派な橋があり、男女の学生像のモニュメントが配されていた。
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ようやく、一戸駅にたどり着いた。3日目の歩行で疲労も溜り、なにより足のマメが痛むので、今日はここで切り上げることとしたが、二戸に向かう列車が直ぐに来るタイミングであったので、急いで切符を買い、一戸駅の写真を撮る間もなく、二戸に向かった。
しかし、二戸では15:10分の新幹線がちょうど出た直後で、次は16:40で1時間30分も待つ事となってしまった。時間があるので、駅の周りをウロウロしたが、下の写真は二戸駅の西口側である。
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続いて二戸駅の東口である。町はこちらの方が賑やかな側である。
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街道を歩き始めて2泊3日の歩行は初めてであったが、2日目に足にマメを作ってしまったのが悔やまれる。いずれにしろ、3日連続の歩行は、私にとってかなりハードと感じられるが、こなせないことはないと自信を持った。


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