2007.12.15
鴻巣から籠原・・・(中山道)
本日の万歩計42,030(28.2Km)
12月は集まりなども多く、それに加えて風邪を引いたりで、なかなか歩きに出かけられなかったが、今年も今日ともう一回歩くチャンスがあるかどうかだと思いながら出かけることとした。
それにしても、日が短くなり朝6時9分の電車に乗っても、まだ暗い。前回切り上げた「鴻巣駅」には8時頃に着き、歩き始めた。鴻巣ではその地名が示すように歩道にコウノトリの絵が嵌め込まれていた。昔はこの辺りでもコウノトリが普通に見られたという。
そして、少し進むと、右側に「鴻神社」。鴻神社は雷電、氷川、熊野神社が合祀されたもので、この辺りの地名には雷電町の呼び名が残っている。
加美の交差点で国道と別れ左の道を進んで行くと、「箕田(みた)」の集落に入る。この辺りは「箕田武士」の発祥の地で、「箕田観音」がある。この観音は永延元年(987年)に箕田源氏の渡辺綱(わたなべのつな)が源経基(みなもとつねもと)ゆかりの馬頭観音を守り本尊としてここに安置したと伝わる。
さらに進んで行くと、左手に「氷川八幡神社」があり、「箕田の碑」が建っている。また、説明板には下記のように書かれている。
「清和天皇の第6皇子、貞純親王の子である源経基が平安時代中期頃、武蔵介としてこの地方を治め源氏繁栄の礎を築く。その後、嵯峨源氏の流れをくむ源仕(みなもとのつこう)がここに土着し、箕田源氏を名乗る。知勇を兼ね備え、経基をよく助け大功があった。その孫である渡辺綱(わたなべのつな)は摂津源氏の源頼光に仕え剛勇の誉れ高く、頼光四天王の筆頭として活躍した。
箕田源氏三代(源仕・源宛(みなもとのあつる)・渡辺綱)の館跡は満願寺の南側の地と伝わる。」清和天皇の流れを汲むものが住むところに、後に嵯峨天皇の血筋がやってきて「箕田武士」が形成されたようである。ともかく、神社に向かって二拝二拍手一拝。
神社裏手の宝持寺は渡辺綱が祖父・仕(つこう)と父・宛(あつる)を追善するために建てたものとのことだが、参道の両側は「棕櫚の木」で、境内には「一休さん」の像があって面白い。
直ぐに「武蔵水路」を渡るが、水量が豊富だと思っていたら、東京の飲み水とのこと。
そして、民家の軒先に「伊藤の一里塚跡」の碑が半分文字の消えた状態で、誰にも注意されなげに建っていた。
その後は、車の通行量が多く、細くて満足に歩道も無い道を、ひたすら早く過ぎることを念じながら進んで行くが、北鴻巣を過ぎ、吹上駅前を通って本町で左折すると、やっと車の数が減る。直ぐにJR高崎線を横切ることになるが、バイパスもJRを横切っているので、これを利用して通路を設けてある。また、橋の下には「間の宿吹上」の凝った案内板があった。
進むと、ほどなく「権八地蔵」のお堂があった。鳥取藩士を父に持つ、平井権八(江戸は”ひ”と”し”の区別がつかず、白井となって歌舞伎では演じられる)が、江戸に向かう途中、金に困ってここで辻斬り強盗をし、その現場をお地蔵さんに見られ「誰にも言うな」と言ったところ、「わしは言わぬが、お前も言うな」と地蔵に言われたという。
しかし結局権八は自分でそのことを言い延宝七年(1679年)に磔刑となり鈴ヶ森に晒された。
地蔵はそれを見通した上で、上記の様に言ったとか、それ以来、この地蔵は「権八ものいい地蔵」と呼ばれる様になったのだという。お堂を覗き込むと、比較的新しそうで、柔和なお顔のお地蔵さんが安置されていた。もちろん、ものを言いそうには見えない。
そして、右には荒川の堤防への上り道。もう、この辺りは上州に近く、上州と言えば冬のからっ風。この堤防を「熊谷堤」と呼ぶそうだが、冬はとても寒いと脅かされて厚着をしてきたが、今日は風もなくほぼ快晴で途中でセータを脱ぐ羽目になった。
遠くまで眺望が利き気持ちがよいが、快晴に近いが富士山や浅間山を望めるまでには至らなかった。この「熊谷堤」は堤防と言っても、川筋は見えず、田園風景が広がるのみで、所々に屋敷林のようなものも存在する。これは、あまりにも激しい荒川の水害を避けるため、昭和15年に当時の新川村の移転計画が決定され、村の半分は堤防外に移転し、昭和22(1947)年のカスリーン台風で、ほとんどが村を去ったが、田畑はそのまま耕作を続けているからである。
堤防を歩いて行くと昭和22年に日本を襲った「カスリーン(KATHLEEN)台風」の時に決壊したことを示す「決壊の跡の碑」が建っていた。このときは「利根川」も決壊し、東京の江戸川区、葛飾区なども水に襲われ1000人以上の死者をだし、甚大な被害となった由。向こう側が見えない(1km以上?)ほどに広い河川敷で、これが一杯になるのは想像し難い。 しかし、昭和57年にもも決壊はしなかったが、水位は堤防の上端ギリギリまで達したという。
また、進んで行くと、土手の下に「久下(くげ)の一里塚跡」。なぜか小さなお堂が祀られている。そして、近くには古い馬頭観音も・・・。
堤防の土手は子供たちの遊び場として最適に見えるが、子供は1人も見えない。
2.5Kmほどの長い堤防を歩いて、やっと堤防を下ると「久下神社」がある。久下は南北朝時代に足利方として活躍した久下氏の発祥地である。家祖である久下直光は八幡太郎源義家の七男の源義隆の子として産まれ、南北朝時代には足利方として数々の武勲をあげ、全盛期を迎える。しかし室町時代末期の明応2年(1493年)の政変で将軍足利義材(よしき)についたことがわざわいして衰退の一途を辿り、ついには戦国時代、明智光秀による丹波攻略によりその地位を追われ、久下氏の名は歴史から消えた。
そして、民家の前に現在の街道碑。
少し先の左に「東竹寺」。久下村の領主であった久下直光(くげなおみつ)の開いた寺で一族の墓があるとのことだが、分からなかった。
そして、少し行くと「元荒川」の源流付近で綺麗な流れを渡る。現在の荒川は洪水を防ぐために、寛永6年(1629年)に関東郡代の伊奈忠治によって熊谷市石原で入間川水系の和田吉野川筋に付替えられたが、残された元荒川は湧き水と荒川の水産試験所の水を集めて現在の川となっている。ここには、「ムサシトミヨ」という「とげうお」の一種で背びれや腹びれに棘があるのが特徴な魚が、世界でここだけに生息する。以前は、関東一円の綺麗な水のあるところに生息したが、いまではここだけだという。
熊谷の街が近づいた。住宅街の小公園には、「八丁の一里塚跡」があった。時刻は12時半。だいぶお腹も空いてきた。秩父鉄道の踏切を渡り、直ぐに上越新幹線の高架下をくぐって、また高崎線の踏切を渡ると、やっと熊谷市街で、手近なレストランに飛び込み、少し遅い昼食をとる。空腹で何を食ってもうまい。
腹も満たされ、歩き始めて市役所通りに達し、高城神社を訪れる。創建は不明だが熊谷直実も氏神として崇拝していたという。境内入口付近には天保12年(1841年)に建てられた青銅製の常夜灯がある。台座には熊谷をはじめ、各地の紺屋の名前が150名も刻まれており、江戸時代の藍染業の活況を示している。
本町を過ぎ、鎌倉町に達すると、凝った作りのバス停留所。「八木橋デパート」の横の道を通って、「熊谷寺(ゆうこくじ)」に行くが、境内の開放は日曜日のみで入れなった。ここはかつて、熊谷氏の屋敷があったところで、出家した熊谷直実が元久元年(1204年)に蓮生庵(れんせいあん)を建てた所。その後、天正年間(1573?1592年)に幡随意上人が蓮生庵の跡に熊谷寺(ゆうこくじ)を建立。見られなかったが、本堂左手に、熊谷直実の墓と伝えられる塔が建っているという。
本陣は明治17年(1884年)の火災と昭和20年(1945年)の戦災で跡形も残っていないが、近くに本陣竹井家の別邸であった庭園が星渓園の名で公開されている。これは竹井澹如(たけいたんじょ)が慶応年間(1865?68年)から明治初期にかけて作った回遊式庭園で、玉の池の周りに施された木々と名石を優雅に楽しむことができる。明治になり、大隈重信、徳富蘇峰などの名士の他、昭憲皇太后も来遊されたり、三笠宮が宿泊されたりしている。
「八木橋」のデパートの敷地内を旧中山道が横切っていて、律儀にデパートの出口には旧中山道跡の石碑が建っていた。旧街道は直ぐに国道17線に合流するが、熊谷警察署の前を過ぎると500mほどで国道から左に分かれ、進んで行くと「新島の一里塚」がある。日本橋から16里の一里塚で樹齢300年のケヤキの大木が立派である。
そして、「忍領の石碑」。忍領(おしりょう)が他藩との境界に建てた16個の境界碑の1つだが、明治になって撤去されたのが、昭和14年に石碑が再発見され、立て直したという。そういえば立派な枠の石に囲まれているが、これは最近に作ったもののようだ。「従是南忍領」と彫られている。
また、進んで行くと、ミニ開発らしい建物の前に国土交通省の一等水準点があった。こんな場所にと思える場所で、なんの特徴も無い場所である。珍しいので撮影した。
玉井の町に入ってくると、熊谷市玉井団地と書かれた看板のある小さな小公園があり、大きな玉が飾られていた。若い母親が娘とラグビーボールを投げあっていたが、大きな玉と下の枠の井で「玉井」ですねと話しかけたが、そうなんでしょうかと、考えたことも無いという反応。それにしても、母と娘でラグビーボールと言うのも珍しい。
時刻は3時になり、今日は「深谷」までと思っていて時間はありそうだが、久しぶりの歩行で足が痛く、とても深谷までは歩く気がしない。左折して「籠原駅」に向い、3時33分の電車で自宅に向かった。
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