2007.11.24
浦和から鴻巣・・・(中山道)
本日の万歩計47,527(31.8Km)
3連休の初日は所用でつぶれ、満を持して出発。浦和の駅には6時30分ころに到着した。まだ明けやらぬ様相。寒くなったので、備えはした積りだが、何しろ空気が冷たく、顔を刺す。ともかく、駅前のファーストフードでちょっと腹ごしらえをして歩き始めた。
前回引き上げた元の街道に戻ると、車道と歩道の境界線に、石柱が建っており、中山道浦和宿と書いてある。早朝で人通りは多くはないが、日中は大変な通りらしい。少し行くと、左手に少し入ったところに玉蔵院がある。平安時代の創建の真言宗豊山派の古刹で、感じの良さそうな石庭が見えたが、早朝で門は閉まっていた。
さらに進むと、常磐公園に通じる市場通りがあり、その入り口には、かつて、ここで市が開かれていたことを示す、野菜などを売る農婦の銅像があった。月の2と7の付く日(計6日)に市が開かれていたことから六斎市(ろくさいいち)と呼ばれていたという。
道は、JR線を跨いで北浦和に進む。特に記すべきものもなく、ひたすら歩いて与野駅入り口交差点に達すると、大きな欅(けやき)の古木がある。一里塚と一里塚の中間にあるので半里塚というとの説があるが、真偽は不明である。もし、半里塚であったとしても、残っているのはここだけであろう。
やがて、「さいたま新都心駅」が近づくと、新しく建てられた国の庁舎群が見えてくる。そして、立派な欅並木が続いていて、歩道もしっかりと確保されていて感じが良い。
欅の並木が切れたころ、「火の玉不動尊・お女郎地蔵」がある。最近、作り直したようで真新しい社(やしろ)になっていて、中には詳しい説明板も設けられていた。要約すると、「大宮宿に千鳥と呼ばれる大変綺麗な女郎がいて、材木屋の若旦那と末は夫婦にと約束していた。が、泥棒の神道徳次郎が横恋慕し千鳥を身請けし、身請けを承知しないなら宿に火をつけると凄んだ。千鳥は主家に迷惑は掛けられないと進退窮まり、近くの高沼用水に架かる高台橋より身投げしてしまった。そのころから千鳥の人魂が飛ぶようになったので、近所の人が地蔵を立て霊を慰めたという。
またそのころ、夜になると火の玉が毎夜の様に現れるので一人の男が、火の玉に切りつけたところ叫び声と共に火が消え、そこに物凄い顔をした男が立っていた名を問うと不動明王と答えた。翌日、近くの高台橋に、剣を切り取られた不動明王があった。以後、この不動明王を「火の玉不動」と呼ぶようになったとか・・・
直ぐに「氷川神社」の一の鳥居が見えてきて、2Kmにもおよぶ欅の見事な参道が続く。「氷川神社」は武蔵野国の一の宮で、大宮の名の由来も大きな宮に起因していて、いわゆる門前町であった。中山道はかつては、この参道を通って行くものであったが、通行量も増し、寛永5年(1628年)に関東郡代の伊能忠次が、神域を通るのは不敬として参道の左側に新しく道を作り、その両側に宿を移転させ、大宮宿としたという。
長い参道もようやく終わり、太鼓橋を渡り朱に塗られた「桜門」を通ると、舞殿と拝殿が見えてくる。日本の神社の特徴として、全国氷川神社の総本山といえども、それほど華美に流されることは無い。
東京奠都の際、明治天皇が当社を勅祭社と定め、明治元年(1868年)10月28日に当社にて親祭を行った。以来、例祭には勅使の参向があり、宮内庁楽師による歌舞が奉納される。
また、本殿の裏の境内には、青木昆陽の碑が建っていたが、これは昆陽が広めたサツマイモが埼玉県の名産になったことの記念のようであった。それにしても境内には桜の古木が多く、花の季節は見事であろう。
元の中山道に復帰して、どんどん進み「宮原駅」を過ぎてしばらく行くと、右手に「加茂神社」がある。小さな神社だが、祀神は別雷命(わけいかづちのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)、菅原道真公となっており、菅原道真公は例外としてとても古い神が祀られている。大国主の命に使えた加茂族の一部が、この地に移り住んだのであろうか。
さらに、16号のバイパスを潜って進むと、「南方神社」があり、地元では「お諏訪さん」と呼ばれているそうである。確かに、九州地方では「諏訪神社」の系統の神社は「南方神社」と呼んでいるが、何故ここで「南方」なのであろうか。小さな神社で境内に人気はなかったが、境内に建つ集会所の建物からは中学生であろうか、太鼓の練習をする声と音が聞こえていた。
上尾に向かって歩いて行くが、見るべきものも無く寂しいと思っていたら、道端に道標を兼ねた不動明王が建っていて、川越への分岐点となっていた。やっと、「上尾駅」が近づき、「氷川鍬神社」があった。この辺りは鍬(くわ)や鋤(すき)を作る職人が多く住み着き、ここで作られたものは評判もよく近隣からも多く買い求めに来たという。それで、鍬二丁をご神体とする神社が作られ、その後、氷川女体神社と合祀したので氷川鍬神社と名を変えたものである。小さな境内であるが、7,5,3の参拝客がちらほら見られ、また右手の方には聖徳太子の線刻碑もあった。
お昼時になり、お腹も空いたので上尾駅前の丸広デパートに入って昼食をとり、しばし休憩の後に歩き始めると、駅前には近代的なモニュメント。健康的だ。
桶川宿に入ると、江戸時代に「紙屋半次郎」の名前の旅籠であったのが、今に続いてビジネス旅館として営業している「武村旅館」がある。繁盛しているのであろうか。今なら泊まるが、現役時代に仕事で来ることがあってもこの旅館を選んだかどうか。そして、少し行くと本陣の遺構が残っていた。門のみで中は、単なる小広場。
そして、敷石の通路が美しい「大雲寺」。この寺で珍しいのは、境内にある3体の地蔵の内の右端の地蔵である。この地蔵は「女郎買い地蔵」と呼ばれ夜な夜な女郎を買いに行くので、怒った住職が鎖で縛りつけたという。そのための、鎹(かすがい)が背中に残っている。「桶川宿」には「飯盛り女」が多かったことをうかがわせる話しだが、若い修行僧に対する戒めとして行ったのであろう。
間の宿である「北本宿」に着くと「多門寺」があり、境内に樹齢200年という天然記念物の「無患子(むくろじ)」がある。古木で瘤だらけで、幹回り3.6m、根回り7.6m、樹の高さ27mとある。属名のSapindusは、ラテン語で“石けん”を意味する“sapo”と“インド産”を意味する“indus”をつなぎ合わせたもので、丸い実がなり、この皮をこすり合わせると泡立ち、アジア諸国では今でも洗剤として利用されているとのこと。また、中にある種子は硬くよく弾むので、羽根突きの羽に用いられた。しかし、今の日本では、果実は全く利用されなくなったとのこと。
北本駅の近辺はJR線が作られたとき、中山道は崩されたようで現在中山道と呼ばれている道路から外れて、JR線の踏切を渡り線路に沿って歩くと、一里塚がある。訪れてみると、確かに一里塚らしい土山があり、説明板も設置されていた。馬室原の一里塚である。
「鴻巣宿」に入ると「人形店」が、次から次へと現れる。街の名前も人形町。1580年頃に京都伏見から人形職人が移り住み、参勤交代の大名も人形を土産に買い求め、発展したそうである。そして、本町交差点の近くの「勝願寺(しょうがんじ)」。勝願寺は約700年前に創建され、現在の寺院は、天正元年(1573年)に再興されたものである。寺に三つ葉葵の紋があるのは、かつて家康が鷹狩で度々この地を訪れ当寺の不残上人の学識に感銘して帰依し、葵の紋を使用することを許したとのこと。
関東郡代の伊奈忠次、忠治の墓や譜代の牧野家信州真田藩祖真田信之の夫人・小松姫、信之の3男真田信繁夫妻の墓等が残されている。人形の供養碑も境内に築かれているのは、人形の街の鴻巣らしい。(実は郡代の墓は撮り忘れ、後日撮りに行ったもの)
既に、時刻は3時半を回り、今日はここまでとすることとし、鴻巣駅に向かった。10分ほどで幸いにも湘南新宿線の小田原行きが来た。
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