2011.06.12
仙台から吉岡宿(大和町)
本日の万歩計44,320(28.8Km)
先週に続いての街道歩きである。今日からは、いよいよ奥奥州街道で青森県三厩に向かって歩き始める。前回と同じく「やまびこ251号」で仙台に6:30に到着。まずは、出発地点の芭蕉の辻に立つ。国分通りを北に向かって出発すると、左に宮城県の歯科医師会館があり、その前に昭和26年建造の歯の塚が立っていた。このような歯の塚は、全国的に各地の歯科医師会が歯の供養として建てていて、6月4日に供養祭が行われているようだ。
芭蕉の辻の交差点には、日銀の仙台支店があることでも分かるように、国分通りはしばらくは金融街が続く。しかし、広瀬通りとの交差点を過ぎると、様相が一変して東北随一の歓楽街となる。そして、少し先で定禅寺通りを横切るが、定禅寺通りは中央分離帯が並木道の様相で、この日もまだ朝は早いがイベントでもあるのか、大勢の人だかりで出店まで目についた。
定禅寺通りを過ぎると、雑居ビルやマンションの多い地域となり、国道48号線を過ぎると、左側に創業元禄8年(1695)の元祖仙台駄菓子・熊谷屋がある。ゆべし、餅菓子、あめなどを販売している。覗いて見たかったが、まだ閉まっていた。もうこの辺りは、町並みもかなり閑散とした雰囲気で、向こうには青葉神社の丘が見えてくる。
進んでゆくと、左側に大きな二体の仁王像が目に付く玄光院がある。若林区にある龍泉院の末寺で青葉城築城以前、青葉山に龍川院の別院の玄光房としてあったが、慶長5年(1600)青葉城造営に際して独立し、玄光庵として当地に移転。本堂内の寿老人像は仙台七福神の一つである。すぐ隣に、熊野神社がある、土御門天皇(1199?1209)の御代に御勅宣をもって宮城郡荒巻邑総鎮守とされ、近郷近在の崇敬をうけた。現在の社殿は享保7年(1722)の建立で明治12年(1879)村社とされるが境内はゴミの収集場所となっており、現在では篤く崇拝されているとは思えない。
青葉通りに達すると、角に検断屋敷があり、市の指定文化財との事であったが、今回の大震災で主要部分が崩落してしまったようである。そして、正面を見ると、青葉神社の大鳥居も完全に崩落していた。
階段を登って本殿にお参りする。仙台藩祖伊達政宗を祀る神社で神号は武振彦命(たけふるひこのみこと)である。元は仙台城(青葉城)内にあったという。慶応4年(明治元年)7月14日(1868)、有志が仙台藩祖伊達政宗を祀る神社の創営を請願し、許可され明治7年(1874)に創建された。その後、大正11年(1922)より社殿の改築を行い、昭和2年(1927)に現在の社殿が完成した。
隣には、伊達4代目の政依建立の東昌寺がある。東昌寺はいわゆる伊達五山の一つで、京都五山に倣って建立したもので、始祖朝宗の菩提寺として観音寺、朝宗夫人結城氏の菩提寺として光明寺、母の菩提寺として光福寺を創建し、次いで自らの菩提寺として東昌寺を建立、伊達五山の筆頭としたという。最初鎌倉時代に陸奥国伊達郡桑折に建立され、陸奥国の安国寺に指定された。寛政5年(1464)ころには伊達氏を檀那とし、僧衆200人を擁する寺で、住僧は黄衣を着ていたという。その後東昌寺は伊達氏と共に米沢、岩出山、仙台(1600年)へと移ったものである。
次は伊達氏始祖朝宗の夫人の菩提寺の光明寺である。本尊は千手観音で弘安6年(1283)伊達政依が福島県伊達郡光明寺村に創建。その後慶長9年(1604)にこの地に移った。慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡航した支倉常長の墓と、使節団の案内人であった宣教師ソテロの記念碑が建っているそうだが、見逃した。
最後が、鹿島神社である。弘安2年(1279)伊達政依(4代目)が福島県伊達郡に勧請。政宗が慶長9年(1604)光明寺と共に当地に遷祀したもの。千葉の香取神宮が総本宮である。
すぐに、JR仙山線の踏切を渡る。仙台線は仙台と山形の羽前千歳駅58.0kmを結ぶ路線で日本で最初に交流電化(1955)された。写真は北仙台駅方面であるが、仙山線は単線である。
踏切を渡って進むと、左側に日蓮正宗の日浄寺がある。寛永20年(1643) に日蓮正宗第17世法主日精上人により開基。檀家は当地産物の堤焼きの檀家が多いとのこと。
その先で、緩やかな坂を下って行くと、左側に「つつみのおひなっこや」と書かれた小さなお店がある。友人の奥様に立ち寄ることを勧められたお店で、堤町の伝統の焼き物のお人形を製作販売しているが、残念ながら閉まっていた。
「おひなっこ」の隣の「佐大商店」との間の細い道を入って行くと、大正7年(1918)に築造した、6連の登窯があるが、今回の大地震で上部の3基が崩れ落ちていた。300年以上の歴史を持つ仙台の伝統工芸「堤焼」の登り窯であり、旧仙台城下の庶民の暮らしを伝える貴重な遺産だけに、関係者は胸を痛めているとのこと。
この先で、県道22号線に合流して、500mほど進むと、左側に「青笹不動尊」がある。堤町から北上する奥州街道の旧七北田(ななきた)村までを七北田街道、北根街道とも呼ばれていた。七北田村には元禄3年(1690)頃から明治維新まで約180年間にわたり一般庶民層に刑罰が執行された仙台藩七北田刑場があり、一般庶民層に磔刑(はりつけ)、火刑(ひあぶり)、斬罪(うちくび)等の刑罰が執行されたところで、処刑された人は実に7,000人にのぼるとのこと。囚人は仙台の城下町を引き回され、この街道を刑場へと引かれていった。当時、この付近に周囲に青い笹の葉が生茂る泉があり、囚人はここで末期の水を飲まされたという。泉のほとりに置かれていた石碑を祀ったのが青笹不動尊の始まりといわれていて、現在の本尊、不動明王像は天保9年(1838)に作られたもので昭和53年(1978)道路拡張のため現在地より約100m北側より移転新築された。
進んで行くと、右手に仙台文学館への入り口が見えてくる。仙台文学館は、郷土にゆかりのある近代文学に関する作品、文学者の遺品その他の資料を収集、保管、展示するとともに、その調査研究及び文学に関する知識の普及活動を行っているとのこと。
進んで、黒松北入り口の信号を過ぎると、泉区に入って行く。泉区はもとは、和泉市で仙台市のベッドタウンとして発展し、石巻市をも抜く人口であったが、昭和63年(1988)に仙台市に合併編入され、そのまま泉区となった。ここで、県道の左脇の道路に入って行く。徐々に上っていて、22号を右下に見下ろすようになる。
400mほど進むと、左側に仙台藩の七北田刑場跡がある。ここも、大震災で髭文字の題目碑は倒壊していた。七北田刑場は、仙台藩の一般庶民を対象にした処刑場であり、元禄3年(1690)頃米ヶ袋より移され、幕末まで180年間この地にあり、この間の処刑者は約6,000人に及んだと云う。仙台藩では処刑された人の霊を弔うことはなかったが、五代藩主・吉村公夫人長松院(久我貞子)の遺言により、55年も経った延享2年(1745)に刑場を境に南に河南堂、北には河北堂が造られたとのこと。なお、ここで、寛政10年(1798)、長崎でオランダ医学を学んだ仙台藩医・木村寿禎(きむらじゅてい)が腑分けを行ったといわれ、供養碑がたっていたが荒町の仏眼寺に移設されたとのこと。
七北田刑場跡から下の県道22号線に降りられる小さな階段があり、ここを降りるとすぐ先が地下鉄八乙女駅前の交差点である。地下鉄の開業は昭和62年と新しい駅であるが、泉区では地下鉄でも高架線路となっている。開業前の駅の仮称は七北田であったが、開業時には旧宿場名は採用されず、八乙女駅となったのは時代の流れであろうか。
八乙女駅を過ぎると、左に奥羽自動車学校のコースが見えてきて、七北田川を七北田橋で渡る。上流にに見えるのは、ユアテックスタジアム仙台で、ベガルタ仙台のホームスタジアムであり、ラグビーアメリカンフットボールの球技場でもある。所有者は仙台市であるが、仙台市に本社を置く電気工事会社のユアテックが命名権(ネーミングライツ)を取得している。
橋を渡って直ぐの左側にある無量山善正寺は、浄土真宗の寺で、慶長10年(1605)に開山されたお寺である。仙台藩の三大飢饉は、宝暦、天明、天保の飢饉で、七北田地方は奥州街道の宿駅に当たる事から、馬子、人夫等の外他方面からの遊民で路頭等で餓死する者が数多くいたと云われていて、三百余人の死者を出したとの記録も残っている。犠牲者の霊を弔うため、生き残った人々によって、供養碑が建立されたが、現在七北田には善正寺の宝暦飢饉のみが残されているとのこと。
その先で、左に長い参道を入ると、二柱神社がある。万壽2年(1026)に市名坂の修林壇に祀られたのが創祀といわれ、その後、天正年間(1573年?)に国分氏の荘園33ヶ村の内、市名坂・七北田・北根・野村・上谷刈 古内・松森・鶴谷の8つの村の総鎮守として祀られるようになったといわれている。寛文2年(1662)現在地に遷座。昭和4年(1929)社殿が全焼し、現在の社殿は昭和16年造営のものとのこと。仁和多利大権現(にわたりだいごんげん)ともいわれ、子供の無病息災の神として知られているとのこと。
泉中央駅に通じる市名坂の交差点で、ちょうどお昼時となり、近くのお店に入って昼食をとり、小休止とした。
休憩の後、進むと浄満寺が左手にある。このお寺は、慶長元年(1596)に教如上人の法弟長念が現在地に開基。この寺は藩政時代、歴代の住職によって寺子屋が開かれていたという。境内には安政5年(1858)に建立された筆墓がある。
そして、次のY字路が七北田宿の出口で左の道を進み、七北田字白水沢の集落に入って行く。
進むと、右側に日露戦役記念碑が立っていた。近代日本が国運をかけての戦争であった。
七北田字白水沢を抜け国道4号線に合流して、将監トンネルからの道路との交差点で、友人が車で迎えに来てくれて、自宅に案内され美味しいコーヒーとケーキをごちそうになった。しばし歓談の後に、交差点まで送っていただき歩き始めた。そして、1Kmほど進んで東北自動車道の泉インターチェンジのそばを通過することとなったが、歩行者用の通路があり、問題なく通過できた。
東北自動車道をくぐると4号線は、下の写真のように大変賑やかとなる。そして、1Kmあまり進むと、向こうに富谷配水場の配水池に立つシンフォニータワーが見えてくる。富谷町のシンボルともなっていて、夕方5時と夜8時に音楽が流れるのだそうである。
進んで、右側のマツダの販売店過ぎたところに、「大清水石盥(おおしみずせっかん)」がある。説明板には、新妻豊前という武士が病気で倒れた家臣ののどを潤すため、持っていた槍の石突で岩を掘ったところ冷水が湧き出たといわれる。その後水は、四季を通じ冷たい清水がこんこんと湧き出し、街道を行き交う人々から大変親しまれたと、書かれていた。なお、石盥は町の有形文化財に指定されている。
少し先には、鷹乃杜団地入口のが見えてくる。その後も、あけの平団地入り口が続く。
3Kmあまり国道4号線を進んで、ようやく一枚沖の信号で右の旧道に入って行く。
少し進むと、右側に急な階段があり、上ると赤い鳥居が見えてきて、さらに上ると拝殿が見えてくる。天保大飢饉のころ疫病がこの地一帯に流行したので、槻木(現柴田町)の入間田から祇園社として勧請した。祭神は素盞嗚尊(スサノオノミコト)、あるいは牛頭天王(ゴズテンノウ)とのこと。牛頭天王は疫病除けの守護神として知られ、天王を祀れば疫病は直ちに平癒すると信じられていた。
静かな町並みを進むと、熊野神社の大きな神名碑と鳥居が見えてきた。大震災にも影響を受けていない。
熊野神社の境内に入ると、背後に鎮守の杜を控え、灯籠や絵馬の奉納が多く、富谷が宿場として栄えた古の繁栄を思い起こさせ、本殿も素晴らしい造りであった。
勧請年月は不詳だが、伝承によると古くは現社地の東方に鎮座していたといわれていて、元和4年(1618)伊達政宗公が当地へ宿場を開設したとき現在地へ遷座されたものと伝えられている。明治41年には日吉神社、雷光神社が合祀された。
街道は、熊野神社で右折していて、その少し先には、『恋路の坂』の木製の常夜灯が立っていた。この坂を上ると小規模の茶畑があるが、往時は一帯で茶が栽培され、富谷茶として知られていたという。
坂名のいわれは、女流歌人・原阿佐緒(はら あさお 1888-1969)と恋仲になった石原純(東北帝国大学教授が人目を避けて手に手にとって富ヶ岡公園に通ったとのエピソードがあるそうだ。常夜灯側面には「奥州路 恋路の坂や 茶の香り」と書かれており、裏面には、「我人を愛すれば、人もまた我を愛す」と書かれていた。
左側に本陣跡があった。富谷宿は伊達仙台藩によって元和4年(1618)から仙台以北の奥州街道整備が始まると、七北田宿と吉岡宿の中間宿場が計画され、富谷村の中に富谷宿が新たに作られ、その建築には元黒川旧臣で帰農していた内ヶ崎筑後(のちに織部)が命じられた。
内ヶ崎織部は以後大肝煎りや本陣を務め、酒造業として今に続いている。
本陣の先には内ヶ崎酒造店があり、二代目作右衛門が寛文元年(1661)に創業して、今も営業している。地酒の「鳳陽(ほうよう)」は評判で、平成22年の新酒鑑評会では金賞を受賞している。
右側に内ヶ崎作三郎生誕地と書かれた門構えの家が見えてきた。内ヶ崎作三郎は、内ヶ崎宗家の分家、4代目作太郎の長男として明治9年(1876)に生まれ、第2高等学校在学中、吉野作造らと親交を重ねたあと、東京帝国大学を卒業してオックスフォード大へ留学し、早稲田大学の創立者大熊重信侯に懇請されて教授の任に就いた。大正13年(1924)衆議院議員に選ばれるや、政界でも頭角をあらわして副議長にまで栄進した。
街道左側にある「冨谷宿」と看板を掲げた店蔵がある。富谷宿の資料展示と、ふるさと物産店である。天保14年(1843)創業「佐忠」さんが、明治末期に呉服店として建てた土蔵を改修し、しんまちの資料館・地場産品販売所として開店した。なお、「冨谷宿」の「冨」という字は、お店に伝わる資料をもとに、宿場町時代の字を使用しているとのこと。
右側に脇本陣跡が残っていた。脇本陣は、本陣に次ぐ格式が求められ、名望家の気仙屋が務めた。1876年と1881年の東北北海道行幸で明治天皇が御小休なされたこともあり、その部屋は現在も保存されているとのこと。
その先にも、富谷宿の旧家の建物が残されている。
街道を進んで行くと、道は左にカーブし、その角に本陣を務めた内ヶ崎家の別邸がある。内ヶ崎酒造店の店主が明治時代の後期に作ったもので、この建物の裏には、回遊式庭園も造られている。
道を曲がると、西川という小さな流れがあり、架かっている御所橋を渡ると、富谷宿も終わりである。短い距離の宿場であったが、古い遺構がよく残っていた。
広い道路に出て、すぐに西沢公園を右に見る小道に入って行くと、西沢溜池がある。
その後、1Kmほど進むと、「いぼ取り太子堂」と書かれた、祠がある。地名の由来になっている「聖徳太子」と刻まれた石塔 が祀られていて、供えてある小石でいぼを擦すれば、たちどころに消えるといわれ、治った人は石を2倍にして返す習慣があるとのこと。
その先の左手側には宮城交通の広いバスの駐車場があり、その後国道4号線に合流する。
単調な国道歩きは、本当に疲れる。2Kmほど進んで、吉田川を高田橋で渡ると、ようやく大和町(たいわちょう)で、町名のモニュメントが見えてきた。
そして、さらに1.5Kmほど進んで、旧奥州街道71番目の宿場・吉岡宿の入り口にたどり着いた。「なごみ」と看板のかかった派手な外観の居酒屋の角を曲がり、吉岡宿に入って行くと、すぐ右に浄土宗の九品寺があった。山門前には石仏が並んでいて、境内は静かで落ち着いた佇まいであった。
吉岡宿の志田町の街並みである。そして、少し先の右手に、曹洞宗の宝珠山竜泉院がある。
真っ直ぐ進んで丁字路で右折して、すぐに左折する。吉岡宿の桝形である。
ここからは、上町となる。上町は、本陣や検断屋敷があったところである。
歴史的な遺構は、残っていないが宿場風の建家の酒屋が1軒目についた。
街道は、突き当たった丁字路で左折して続いているが、午後5時となり今日の宿泊ホテル(大和パークホテル)に急ぐべく左折して進み、チェックインした。
夕食には、まだ時間があるので、チェックイン後天皇寺を訪れることとした。
そもそも、吉岡宿は元和元年(1615)、伊達政宗の三男伊達宗清が3万8千石で吉岡城を築城、城下町として整備された。宗清は34歳で死去し天皇寺に葬られるが子がいなかった為、寛文2年(1662)から奥山氏、宝暦7年(1757)から但木氏が館主となり領地を統治した。又、吉岡宿は奥州街道の宿場町としても整備され、本陣や伝馬役など置かれる要地となり、奥州街道以外にも出羽街道など四方に枝道が広がる交通の要所として多くの物資が集められた。なお、天皇寺の門前には、宗清の墓所の表示杭とともに、飯坂の局(吉岡の局)の墓所の表示があるが、飯坂の局は、飯坂城主飯坂宗康の次女で、伊達政宗の側室で、宗清の養女であった人である。
参道を進むと、山門は完全な茅葺きであった。中に入ると、鐘楼が大震災で崩れ落ちていた。
本堂両脇の石燈籠も倒壊している。
これで、今日の行動は終にして、ホテルに戻った。