2011.06.04
国府多賀城跡と松島の旅
厳密には奥州街道歩きと関係ないが、仙台を訪れた機会に国府多賀城と松島にも足を延ばすことにした。
快適な目覚めで十分に疲労も回復して、ホテルの窓から東北本線を見下ろしながら、今日の行動の準備に取り掛かる。食事を済ませ、仙台駅に向かい東北本線で国府多賀城駅に向かう。
多賀城歩行ルート
多賀城駅は、新しい橋上駅で、線路を跨ぐ通路は悠久ロマン回廊と銘打っている。
多賀城は、畿内の大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置したもので、創建は神亀元年(724)、按察使大野東人(あぜち おおのあずまびと)が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われている。
下の写真の左側は、橋上駅から「館前遺跡」を見下ろしたものである。特別多賀城政庁と多賀城廃寺の中間にある小丘上に位置し、発掘調査の結果、6棟の建物跡が発見された。うち、中心となる1棟は、多賀城政庁正殿と同じ四面に廂(ひさし)の付く格調高いもので、多賀城に赴任した国司の館跡であったと推測されている。性格としては、多賀城の付属施設と考えられるが、多賀城の外郭の外にあることと、館の建つ丘の独立性が高いことから、別項扱いで特別史跡に指定されたものである。
館前遺跡から外郭築地塀の跡を通り、小高い丘にある多賀城の南門跡方面に向かう。小高い丘を超えると、多賀城碑が覆い屋によって保護されている。多賀城碑は、群馬県の多胡碑(たごひ)、栃木県の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)とともに日本三古碑のひとつに数えられており、平成10年6月30日に国の重要文化財(古文書)に指定された。また、この碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、江戸時代初めの発見当初から歌枕「壺碑」と結びついて広く世に知られていた。松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されている。
行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、覊旅(きりょ)の労をわすれて、泪も落つるばかりなり
「壷の碑」は、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、行方不明となっており、ここの多賀城碑とは異なるが、芭蕉も曽良も完全に信じていたようである。
碑文の、前半には京(平城京)、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国(まつかつのくに:中国東北部)から多賀城までの距離が記されていて、後半には、多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)によって設置されたこと、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)藤原恵美朝臣朝カリ(ふじわらのえみのあそんあさかり)によって改修されたことが記されているとのこと。また、最後に天平宝字6年12月1日と碑の建立年月日が刻まれている。
多賀城碑を後にして、多賀城政庁に向かうと、途中に多くの石仏が並んでいた。
そして、外郭南門から政庁にまっすぐに通じる大路の階段が見えてきた。自然石を用いた階段である。
階段を上ると、政庁の模型が展示されていて、多賀城南門跡の礎石が復元されていた。
進むと、政庁跡が一段と高くなって復元されていた。政庁前は、小さな石が敷き詰められた広場であったとのこと。
政庁正殿を通り抜けると、後村上天皇御坐之碑(左側石碑)と明治天皇記念碑が並んで建っていた。後村上天皇は、建武元年(1334)多賀城で6歳にして義良親王となり、延元4年(1339)3月吉野に戻り皇太子なり、同年8月に父後醍醐天皇の譲位を受けて12歳で践祚(せんそ)した。践祚とは皇嗣(こうし)が天皇の位を継承することである。
さらに多賀城敷地内を北に進むと、多賀城神社が建っていた。昭和27年(1952)に創建された神社で、後村上天皇を始め北畠親房、北畠顕家、伊達行朝、結城宗広ら南朝の忠臣が祀られている。
多賀城神社のところで右折して進むと、多賀城の最も北の地域の六月坂地区で、行政的な仕事を行う建物があったと考えられている場所である。
六月坂地区を過ぎて、南方向に進み車の通りに出ると、その道路の南側に「あやめ園」がある。ここには、アヤメ、ハナショブなど250種200万本が植えられているそうだが、あやめ類は、古代からこの辺に自生する多年草で、古くは「多賀城古種」と言われる品種があったとのこと。
あやめ園を過ぎて、国府多賀城駅に戻る途中に浮島神社がある。多賀城繁盛の頃の創建と伝えられ、平安時代の延久6年(1074)塩竈島海社と共に朝廷から深く崇敬され、承保年間(1074?77)には国守も詣でた名社だったとのこと。また、古来歌枕で歌われた場所でもあり、新古今和歌集で「塩竃の前に浮きたる浮島のうきて思ひのある世なりけり」と山口女王が詠っていて、当時は田圃の中に浮いている島のようだったのが想像される。さらに、鳥居の左側には、明治天皇が詠まれた「旅衣あさたつ袖をふきかへす松風すゞし浮島が原」の歌碑が立っている。
浮島神社より、JR国府多賀城駅に戻ると駅前に扇畑忠雄の真新しい歌碑が立っていて「多賀城に 立ちて落日に 向かひけむ 家持をおもふ まぼろしの如 忠雄」と刻まれていた。
JR多賀城駅で、下り電車に乗り隣駅の「塩釜駅」に着いて歩いて仙石線の「西塩釜駅」に向かい、仙石線の下り電車を待つことにした。塩釜から西塩釜までは、1Km弱の距離である。
電車の連絡が悪く、思ったより時間を要して、ようやく松島海岸駅に着いたところ、遊覧船がほどなく出港するというので乗ってみることにした。遊覧船乗り場までの街並みは、津波の影響を感じさせないほどに回復していたが、まだシャッターを閉めた店も多く見られた。
観瀾亭(かんらんてい)松島博物館を回りこむ道を通り、見事な庭の樹木を眺めながら、波止場に向かう。
快適な遊覧船の乗り心地で、多くの島々をみることが出来たが、沖に出ると霧が出ており、肉眼では差し支えないが、写真撮影には厳しい状況であった。
船着場から見た五大堂(左)と観瀾亭松島博物館(右)である。
大津波でも何ら影響を受けることのない「かもめ」を眺めながら、五大堂の方に向かう。途中に日本三景(安芸の宮島、天橋立、松島)の碑が立っていた。
五大堂の建つ島に行くには、3つの橋を渡る必要があるが、2つ目と3つ目の橋が、透かし橋となっていて、下の海面が見えるようになっている。五大堂への参詣には、身も心も乱れのないように脚下を良く照顧して、気を引き締めさせるための配慮だという。
五大堂は、大同2年(807)坂上田村麻呂が東征のとき、毘沙門堂を建立し、天長5年(828)慈覚大師円仁が延福寺(現在の瑞巌寺)を開基の際、五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになり、秘仏とされる五大明王像は、五代藩主吉村が500年ぶりにご開帳した1700年代以降、33年に一度ずづご開帳されるようになった。
現在の建物は、 伊達政宗が慶長9年(1604)に創建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工したもので、堂四面の蟇股にはその方位に対して十二支の彫刻を配している。
次に、今日の主目的の瑞巌寺に向かう。門前のお店の並ぶ道を進み、山門を潜ると杉の大木の長い参道が続く。
瑞巌寺は最後にゆっくりと見学したいので、突き当たってまず左方向に進むと、李登輝ご夫婦の歌碑が立っていた。
松島や 光と影の 眩しかり 李登輝
松島や ロマンささやく 夏の海 曾文恵
松島では、誰でも一句詠まなければならないらしい。それでは、私も、
松島や 津波乗り越え 初夏の海
そして、一番奥で五郎八姫の墓所のある、天麟院を訪れた。
天麟院は、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)との間に生まれた娘・五郎八姫(いろはひめ)の菩提寺で, 陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられている。お寺の奥に、「定照」の扁額が架かった仮霊廟がある。元々は霊廟だったが、明治に墓所が出来、それで仮となったという。五郎八姫は、徳川家康の6男,松平忠輝の正室であったが,忠輝は父である・家康に嫌われており、大阪夏の陣遅参等もあって、高田65万石を取り上げられたため、五郎八姫は離縁されて仙台へ戻り仏門に入った。政宗は不幸な娘に同情して娘の信仰生活を全面的に支援したといわれている。 なお、松島町富山の大仰寺には、出家時の五郎八姫の遺髪、仏舎利があり、門外不出の寺宝となっているとのこと。
五郎八姫の仮霊廟にお参りした後は、隣のお寺の円通院に向かった。写真右は、円通院の山門である。
円通院は、伊達政宗の嫡孫(ちゃくそん)光宗の霊廟として、正保4年(1647)瑞巌寺第100世洞水和尚により開山されたもので、庭の美しさが際立っている。秋の紅葉も見事であろうが、今この季節の新緑も素晴らしく、心が洗われるようであった。
新緑の庭を進んでゆくと、別名御霊屋(おたまや)とも呼ばれている三慧殿(さんけいでん)が、端正な姿を見せている。建物は宝形造、本瓦葺で、四周に高欄付の縁を巡らし、東北地方では数少ない 格式ある方三間霊屋の遺構であり、霊屋建築としては宮城県下最古とされ、3世紀半もの間秘蔵とされた国の重要文化財である。
三慧殿の正面階段を上ると、ガラスが嵌められていて、中の宮殿型厨子を見ることができる。逗子には19歳で亡くなった光宗公の馬上像と殉死した家来7人の像が祀られている。
政宗の七男の宗高は政宗の七男で名君の誉れ高い武将であったが、京都で疱瘡にかかりこの世を去った。その時家臣10人が殉死し、ここに崖の岩を穿って配置された宗高塔を囲むように殉死者塔が立っている。
その後、山門の方に進んで行くと、樹齢700年以上のイチイ科の「おんこ」の木があり、その向こうに茅葺きの本堂である大悲亭が見えてきた。大悲亭は光宗君の江戸納涼の亭で、愛息の早逝を悼んだ忠宗公が解体移築したもので、寄棟造萱葺の瀟洒な姿は、禅寺らしい落ち着いた佇まいを見せている。
本堂では、数珠作り教室が開かれており、また、その前には、小堀遠州作の心字池と観音菩薩が住む補陀落山を中心にした庭園がある。約350年前に作られたとのこと。
円通院を出て、最後にゆっくりと見学しようと取っておいた、瑞巌寺前に引き返す。
入り口で入場料を払い、左手側の法身屈に進む。多くの岩窟の中で唯一、名前が付けられている岩窟で、鎌倉時代半ばに法身禅師と執権北条時頼が出会ったといわれいる。また、京都の南禅寺・西芳寺・天竜寺などの開山で有名な夢窓国師がここを訪れた時、誰もいないはずの窟の中から、天台止観(天台宗の瞑想修行法の1つ)を講ずる声が聞こえてきたという。両側に立つ2基の石碑は左側が鎮海観音、右側は楊柳観音と呼ばれ、原画はともに塩竃出身の画家小池曲江の制作である。
一方、右手側に進むと、大きな鰻塚の石碑が見える。大正12年8月16日に建立され、同年9月13日に開眼法要が行われた。当時松島では天然鰻がたくさん獲れたことから、北海道から東京までの蒲焼店や卸問屋の関係者の方の寄付金2,565円で建立に至ったとのこと。
その奥にには、岩窟が延々と続いているのが見えるが、大災害の影響で土砂崩れの恐れから立ち入り禁止となっていた。
進んで行くと、瑞巌寺庫裡がある。国宝で桁行23.6m、梁間13.8m、1重、切妻造、妻入、本瓦葺、玄関及び北面庇二ケ所からなる。本堂とともに慶長14年、伊達政宗によって建てられた。妻飾は梁と束で組上げ、海老紅梁や笈型で飾るなど、この種の禅宗庫裏建築の中でも最も美しいとされる。大きな切妻造の屋根の上に、入母屋の煙出しをのせているのが特徴である。
庫裏は、公開されていて電子プリントによる複製の襖絵などが見られる他、後ろの書院で伊達家歴代の位牌なども見ることが出来た。しかし、左奥の本堂は、修復中でシートで覆われていた。
伊達政宗公の正室、陽徳院愛姫の霊廟である陽徳院が本堂改修中の代わりとして、特別公開されていた。陽徳院への通路は、松島独特の岩窟のように岩を繰り抜き作られていて、美しく苔で覆われていた。
霊廟は、撮影禁止であったが、万冶3年(1660)に孫にあたる綱宗によって造営されたものを、創建当初の豪華絢爛な姿に復元すべく平成18年から3年の月日を費やし、黒漆で外面すべてを塗り浅唐戸や蟇股は金や極彩色に彩り、失われていた飾り金具も復元したという。
瑞巌寺を後にして、JR東北本線の松島駅に向かった。途中で復興支援隊と書かれた車が止まっていて、何か活動を行っているようであった。
その後、レストランで昼食を摂り、松島駅に向かい、仙台駅経由で帰宅の途についた。