2011.06.03
館腰から仙台
本日の万歩計36,294(23.6Km)
今日で、白河から続く仙台街道を終了しました。
東日本大震災で中断していた奥州街道歩きを再開した。
東京6:12発のやまびこで仙台に向かい、仙台から館腰駅に常磐線で戻って8:54に到着した。
駅から、街道に復帰して館腰神社参道脇に立つ奥州路の道標を見て歩き始める。
少し進んで、左折して雷神古墳脇を流れる水路に沿って設けられた、名取中学校までの2kmの遊歩道を進むこととした。この遊歩道の左側が、雷神山古墳で、東北地方最大規模の前方後円墳で、長さ168m、後円の径が96mとのこと。出土品や立地、築造方法から、4世紀後半から5世紀前半と推定され、名称は、頂上部に雷神を祀った祠があったことから名付けられたとのこと。
中間を過ぎた辺りに「親水公園」の案内板が立っていて、整備されて小公園となっていた。
ここから名取市飯野坂となり、更に進むと左に薬師古墳の上り階段があり、登り口の左右には多くの石仏、石碑が立っていた。案内板によれば、名取が丘の丘陵東端には、全長40m?50m規模の前方後方墳5基(宮山古墳、観音塚古墳、山居古墳、山居北古墳、薬師堂古墳)と、全長約14m規模の方墳2基(観音塚1,2号墳)からなる飯野坂古墳群があり、この中で一番東側の薬師堂古墳が全長66mの前方後方墳で、飯野坂古墳群最大の規模とのこと。また、築造年代は、形態、出土埴輪の破片から4?5世紀と推定されるとのこと。
すぐ右を走る旧街道に出ると、浄土真宗の明観寺がある。江戸時代には、付近に館腰一里塚があったというが、今は形跡すら見いだせない。遊歩道に戻り、名取一中の手前で旧街道に戻って進むと、東北本線の踏切がある。奥州街道(飯野坂)踏切である。
奥州街道踏切を渡ると、すぐに増田川を渡る。橋の上には、仙台空港線(平成19年開通)の新しい高架線が見える。仙台空港も津波の被害を受け破壊されたが、米軍の支援で滑走路は短期に復旧し、災害地域への物資輸送に大いに役立った。
そして、増田橋を渡って、増田宿に入って行く。
事前に調べて、江戸時代中頃の創業の鶴見屋の明治10年ころに建造されたという2階建のなまこ壁土蔵を見ることを期待していたが、大地震の被害を受け、ブルーシートに覆われて修復中であった。
鶴見屋は、現在でも食品やガソリン、灯油等の販売を行なっているとのこと。
そしてすぐ先には、街道左側の旧家の庄司氏宅がある。門より中をの覗かせてもらうと、庭に「明治天皇増田御膳水」の石碑が建っていた。明治9年と14年の東北巡幸の際に井戸の水を献じたとのこと。
この辺りは、歴史的な遺構が集中している。すぐ先に増田公民館があり、その前に名取市指定天然記念物の樹齢数百年の大傘の松(アカマツ)がある。ここは、名取郡の北方検断を務めた菊池家屋敷跡で、明治9年、明治天皇東北巡幸の折、ここに立ち寄られ随行した木戸孝充が詠んだ歌
「大君の 立寄りましし 陰なれば 衣笠の松とこそ いうなかりけり」から、衣笠の松と命名したとのことである。
その先の左手には、増田神社がある。増田神社は、文安年中(1444?48)に南朝の忠臣菊池武光の一族菊池豊後が奥州に下向し、居をこの地に定めた時、豊後は大和国の生まれだったことから同国城上郡笠山の社より分霊。その後、永正年中(1504?20)菊池左馬介の代に現在地に奉遷。藩政時代には笠山大荒神と称したが、明治の初めに笠山神社と改称、明治42年手倉田の諏訪神社、田高の神明社、上余田の天神社・琴平神社、手倉田堰根の玉嶋神社を合祀し、社号を増田神社と改称した。その後も同44年、下余田の鹿島神社を合祀し、北町区、手倉田区、田高区、上余田区、下余田区の氏神として厚く崇敬され今日に至っている。
進むと、名取駅前の交差点で、左に整備された駅前通りが続いていた。左の写真は、この近辺の街道の様相である。
進むと、名取市上余田(かみようでん)の標識が立っていて、東京から343Kmとなっていた。奥州街道はまだまだ続く。なお、余田(ようでん)とは荘園制で、土地台帳に載せられていない田で一般に地利が低く、地子(じし)は納めるが公事(くじ)は負担しない田を言う。
2Kmほど進むと、左の小道を入ったところに天満宮がある。ここの境内は、天神塚古墳で、南北30m、東西26m、高さ2.8mの方墳で、壺形埴輪・土師器等が発掘されていて、推定4?5世紀の建造とのこと。
天満宮に対する案内はなく、勧請年月・縁起・沿革等は全て不明であるが、境内には石塔群が並べられていた。
そして、街道に復帰して、左に「南仙台駅」を見て先に進んで行く。ここは中田宿で、大正14年の開業当時は「陸前中田駅」と呼んでいたが、仙台の大発展の余波で駅名を変えたのであろう。
1Kmほど進むと、名取川である。上流方向には、手前に東北本線、向こう側に東北新幹線の鉄橋が見える。東北本線の鉄橋は、先の大震災で傷みが生じたのか、補強工事がなされたように見える。
その先で、小さな流れの旧笊川を渡る。河川敷は草で覆われている。丘陵部の水に依存する笊川は、降雨による水量の変動が大きく、降れば降っただけ流れ、すぐに涸れてしまうので、川名が「ざるがわ」となったとのこと。なお、古くは座留川と書かれていたようである。
また、1Kmほど進むと2007年開業の新しい駅舎の「太子堂駅」がある。「太子堂」は現存しないが、現在の地名である「太子堂」にちなんで付けられたという。
太子堂駅の脇で東北本線に対して、左側に抜けて進むと、やはり1Kmほどで右側に長町駅が見えてくる。この辺りは、新しく整備され広い歩道で綺麗な通りとなっている。ちょうどお昼時にさしかかったので、ここで昼食をとり、小休止した。
昼食を済ませて進んでゆくと、広瀬橋の手前の左側に十八夜観音堂がある。名取三観音の一体である裏木観音を安置したもので、観音堂は康平7年(1064)天台宗の般若坊主達によって開かれ、もとは鏡ヶ池の前から大年寺門へ通じる北側で、今も枝垂桜の老樹のある所にあった。現在の堂宇は寛政元年(1789)に建てられたもので、明治に長町に大火があり「これは長町の通りが鬼門に当たっているからだ」といわれて移されたとのこと。
広瀬橋の左袂に、橋姫明神社がある。昔、この地にはじめて橋を架けることになった時に雨が降り続いて川が氾濫。これを鎮めるために根岸の長者の一人娘・愛姫が人柱になったという悲しい伝説があり、その愛姫を橋姫として祀ったという。明治42年に架けられた橋で日本で最初のコンクリート橋と道路標識に書かれていた。
広瀬橋から上流を見ると、仙台市街の建物が望見される。
広瀬橋を渡って最初に入って行くのは河原町で、細い路地のような道路を辿ってゆく。河原町の交差点で、少し広い道路に出て進み、右折して南材木町に入ろうとすると、その角に天明元年(1781)に建てられた旧丸木商店(薬種業)の店蔵がある。仙台最古の建物で、市の景観重要建造物に指定されている。
その先にも、針生(はりう)家の見事ななまこ壁の建物がある。針生は針惣(はりそう)旅館を営んでいて、地主で河原町入り口の木戸の鍵番を務めていたとのこと。
針惣屋敷隣の金刀比羅宮は、もともと針惣の屋敷神として祀られていたが、明治になって荒廃していた。その後、昭和23年(1948)町内有志により再興されたとのこと。
その先で道路は桝形となって続いて行く。
桝形を抜けると、穀町(こくまち)に入る。ここの石の標柱には「穀町、畳屋丁」と刻まれていた。真っ直ぐ進んで突き当たったところに、三宝荒神社がある。鍛冶職人の住む南鍛冶町の火伏せの神として建立され、火伏せの樹木としてイチョウが植えられた。現存のイチョウは樹齢320年、樹高21mである。通常公孫樹は雌雄異株だが、ここのイチョウは雄株にもかかわらず実を結ぶと不思議がられていたが、後に雄株に雌株が接木されていたことが分かったのだという。
三宝荒神社の境内には、耳権現さまがある。説明文によれば、御奉像は、720年前元寇の役に出陣した勇士の慰霊を供養したと思われる正応3年(1291)と刻名のある自然石で出来た卒塔婆で、古くは、荒町の仙性院という修験道場境内に安置されていたものを、後になってここに堂宇を建て遷座された。耳患いで苦慮していた旅の修験者の夢枕に権現様が現れ、言われたまま修行場にあった卒塔婆に祈ったところ見事に完治したので、そのご利益に感涙し、益々修行を積み、人に教え多くの耳患いの人々を助けたとのこと。
南鍛冶町の広い通りを進んでゆくと、右手に泰心院がある。創建は永禄10年(1567)に伊達14世稙宗夫人の菩提を弔う為に、伊達晴宗が米沢に堂宇を建立したのが始まりで、その後、奥州仕置きで政宗が岩出山に移封されると随行し、仙台開府と共に現地へ移された。泰心院の山門は旧藩校養賢堂正門(仙台市指定有形文化財)を移築したものとのこと。
更に進むと、右側に毘沙門堂がある。「毘沙門堂は、寛永20年(1643)の造営とされているが、唐門の建築年代については、様式手法から江戸時代中期と推定されている。安置されている毘沙門天は藤原秀衡が運慶につくらせたと伝えられてる。
次に道路左側に仏眼寺が現れる。日蓮正宗(しょうしゅう)のお寺で嘉元3年(1305)に創建され、祈祷で政宗の病気を治した功で米沢に呼ばれ,以後岩出山、仙台と移った由である。初め上染師町にあったが寛永13年(1636)に火事で焼け、現在地に移った。3代藩主綱宗の側室,椙原品(すぎはらしな)の墓がある。
国道4号線を北町交差点で渡り、左折して北目町に入って行くと、右側に二十三夜堂がある。
別当は天台宗北目山賢聖院(けんしょういん)で、延久元年(1069)北目(現在の仙台市太白区郡山)に創建され,その後荒廃したが,康暦2年(1389)北目館主藤原宗房の祈願により中興再建された。その後、慶長年間(166?1615頃)に伊達政宗が当地に移建している。午年生まれの守本尊「勢至菩薩」が祀られている。この二十三夜堂という名称は、月の化現である勢至菩薩の月縁日が23日であり,この夜に人々が集まって飲食をしながら月の出を待つ講(二十三夜講)を行ったことに起因する。
道路の左側を見ると、東北大学片平キャンパスに接して、通りからは玄関の赤い柱がよく目立つユニークな外観の建物がある。仙台の華僑会館である。
北目町の交差点を直進し、丁字路にぶつかると、大日如来堂がある。柳町通りの名が残るこの辺りは、藩政時代のお茶屋の町で、伊達家が米沢領だった時代からの譜代町であった。
伊達政宗が仙台に城下町を造り出した慶長6年(1601)、大手門近くに町を構えたが、繁華街から離れていた為、都合が悪く、寛永4年(1727)に現在の地に移転。藩から茶の専売権を与えられていたそうである。
終に、芭蕉の辻の交差点である。交差点の右前方には、日銀の仙台支店のビルがある。
左前方の明治安田生命仙台ビルの前に、芭蕉の辻のモニュメントと奥州街道の里程標が立っている。江戸時代に仙台の城下町の中心であった十字路であり、現在の仙台市青葉区に位置し、宮城県の道路元標(里程元標)が設置されている。
芭蕉の名の由来は、松尾芭蕉とは関係なく、伊達政宗のスパイとして働き、恩賞として辻の四隅の建物を授かった芭蕉という名の虚無僧が住んでいたからと、『封内山海名蹟記』に記されているという。
なお、里程標には、「南 江戸日本橋迄 六十九次九十三里、奥州街道」、「北 津軽三厩迄 四十五次百七里二十二丁」と刻まれていて、日本橋まで約366Km、三厩までは423Kmで、まだまだ先の方が遠いが、ともかく白河から続く仙台街道は歩き終えたことになる。
仙台街道を歩き終えても、青葉城を訪ねずば、画竜点睛を欠くとばかりに、大町(おおまち)通りを青葉城の大手門に向かって歩いて行った。広瀬川に架かる大橋に達すると、橋の袂の右に林の中に降りる階段があり、降りてゆくと、仙台キリシタン殉教碑が建っていた。
1624(寛永元)年、ポルトガル人宣教師のカルバリオ神父をはじめとする9人のキリシタンが、
2月の厳寒期に広瀬川で、胸まで浸かる姿勢で杭に縛られるという水責めの拷問を受け、殉教した。残酷な歴史に翻弄されたキリシタン達を忘れることのない様に、1971(昭和46)年にこの像が建てられた。写真の真ん中の像がカルバリオ神父で。右の農民像と左の武士像で殉教者たちを象徴したのだそうである。
下の2枚の写真は、下から見上げた大橋と、大橋から広瀬川の上流方向を写したものである。
大橋を渡ると右側に、仙台国際センターの名で呼ばれる立派な外観のコンベンションセンターがある。その左手先は、三の丸堀跡である。
さらに、緩やかな上り坂を登って行くと、再建された脇櫓があり、この先で左折して青葉城跡に進めるはずであったが、東日本大震災で、石垣も一部崩れていて残念ながら立ち入り禁止になっていた。
道路の反対側には、支倉 常長(はせくら つねなが)の銅像が建っていた。
支倉常長は伊達政宗の命を受け、スペイン人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使に自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れスペインを経てローマに赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦を出帆し、太平洋、メキシコ、大西洋経由で元和元年(1615)にマドリードに到着し、スペイン国王フィリップ3世に謁見、当地でキリスト教の洗礼を受けた人物である。その後ローマで教皇パウロ5世に謁見して、ローマ市民権や貴族の称号を与えられたが、スペインとの通商交渉は成功せず、元和6年8月24日(1620)に帰国した。しかも、支倉 常長が出国の後には、キリスト教環境は悪化して、帰国した2年後に元和8年(1622)に失意の内に52歳の生涯を閉じている。
まだ、2時過ぎであるが、久々の歩行で疲れ、国際センター前から仙台駅前までバスに乗った。ホテルにチェックインして、シャワーを浴びて生き返り、今晩会うことを約束していた、友人夫婦に電話した。その後は、ご夫婦と午後4時半に仙台駅近くで落ちあい、美味い料理と楽しいおしゃべりの良い時を過ごせました。本当に楽しかった!!