2009.11.04
今市から東照宮
歩行距離は推定15Km
日光街道を歩く旅は11月4日に東照宮に着き、完了。
今日は、日光街道最後の日である。東武日光線の時刻表を見誤り、新栃木駅での乗り継ぎで30分も待たされるなどの失敗もあり、下今市駅に着いたのは、10時であった。
しかも、万歩計の電池が切れていて、距離も測れない事態であった。しかし、今日の歩行距離は、日光までは10Km以下で問題なしと元気に歩き始めた。まず、前回の街道からの離脱ポイントの日光例幣使街道追分に着く。
例幣使街道の方を見ると、こちらも立派な杉並木である。そちらに進めば、中山道で訪れた倉賀野の追分に行けるはずである。ふり返って小倉町交差点の先を見ると、対照的に現在の今市の市街が広がっている。
少し先には、「二宮尊徳翁の墓」の標識が立っていて、右折して「二宮尊徳神社」を訪れる。二宮尊徳は小田原の百姓の生まれだが、奉公先の小田原藩家老の服部家で財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて名前が知られるようになり、晩年は日光山領の農業振興を行い、下野国今市村(現在の栃木県日光市)で安政3年10月20日(1856年11月17日)に没し、ここに葬られたのである。二宮報徳神社の鳥居をくぐると、まず、「至誠勤労 分度に推譲 報徳教えは 今市の宝」と刻まれた今市田植歌の碑が目に付いた。
それにしても、身分制度の厳しい江戸期にあって、百姓出身でありながら、小田原、日光市今市、栃木県芳賀郡二宮町の三箇所で報徳二宮神社を造り、祀られるのは並みの才能ではなっかたであろう。以前には小学校の校庭で良く見られた柴を背負った「二宮金次郎像」も、ここにはもちろん立っていた。「人学ばざれば生まれざると同じ・・・」の考えが教育には大切と考えられていたのであろう。
神社の裏に回ると、二宮尊徳のリアルな銅像があり、墓がある。また、「ちちははも、その父母も、我が身なり、我を愛せよ、われを敬せよ」と刻まれた碑も立っていた。
報徳二宮神社の西隣には、室町時代中期の創建の浄土宗の如来寺がある。
寛永9年(1632)、三代将軍家光が東照宮造営の時ここに壮大な御殿を建設し逗留した。また、二宮尊徳の葬儀も、このお寺で執り行われたとのこと。
街道に復帰して、進んで行くと「今市宿」の大きな表示杭が立っていて、観光案内所と大きな駐車場があった。片隅には「明治天皇小休止蹟」の碑があり、美味しい「いまいちの水」(伏流水)と表記された水飲み場もある。
少し進んで、右手には、は戦国時代の元亀3年(1572)創建の浄泉寺。薬師如来が祀られていて、脇侍として運慶作と伝えられる日光月光十二神将が配置されているとのこと。そして、次の交差点では「瀧尾神社」の鳥居が見えてくる。
由来の案内板には、天応2年(782)勝道上人 日光二荒山(男体山)上に 二荒山大神を 祀ると同時に 当所 琵琶ヶ窪 笄の森に 之を祀るとある。祭神は大己貴命 田心姫命 味耜郄彦根命とのこと。拝殿前左側には、大己貴命・田心姫命・事代主命の三神像があったが、なぜ味耜郄彦根命でなく事代主命なのかは不明である。 参道の両側には、カラフルなかざぐるまがあり、よく見ると、軸の部分には、いろいろな願い事がくくりつけられていた。
交差点には、国道119号線と分かれて右側に杉並木の入口が見えている。当然、杉並木に入って行く。
杉並木で以前より気になっていたのだが、立派な杉の木には名札の掛かったものがある。これは、杉並木オーナー制度で、1本1,000万円でオーナーになってもらい、そのお金の運用益で、年間100本も倒れるという杉並木の保護事業に役立てるというものである。立派なことだとは思うが、軽く1,000万円出せる人が羨ましい。そして、江戸から34里の瀬川の一里塚の説明板が立っていたが、どこが塚の部分だったかは分からなくなっていた。
民家があり杉並木が短い間途絶え再び始まると、江戸期の原型に近いと思われる雰囲気の杉並木となった。そして、進むと「砲弾打込み杉」の説明板があった。「戊辰戦争時、ここ「十文字」に旧幕府軍の陣地があり、激しい攻防戦が行われた。その時、官軍が撃った砲弾が杉に命中し、今でも傷痕が残っている」とある。杉の木を見上げると、確かに窪みがある(下の右の写真)。
進むと、並木道の右側には、野口薬師堂があり、釣鐘の形をした大きな石が置かれている。昔ここには青雲山蔵寺という寺があったが、資力の乏しい寺のため金属製の釣り鐘を造ることが出来ず、日光廟造営にたずさわった石工に頼んで造らせたものであるという説と、明和5年(1770)村人たちが太郎山の月山大権現に銅の釣り鐘を奉納し、同時に地元の山王権現には石の釣り鐘をおさめたところ、竜頭が鐘の重みで壊れてしまった。村人たちは後難をおそれ、この失敗を口にすることを嫌い、薬師堂に放置されたままにしてあるという伝承もあるそうだ。
国道と分かれていた杉並木が国道と合流すると、歩道スペースも無いところが多く緊張を強いられる歩行となる。しばらく進むと、「並木太郎」の説明板が立っていた。日光杉並木の中で一番大きな杉で、周囲5.3m、樹高38mで、高さでは他の杉と比べて同じように見えるが形が美しく、端正な姿が並木太郎と呼ぶに相応しいと書かれている。そして、右の写真は、銀杏の葉のように根っこが広がっていて、「銀杏杉」と呼んでいるものである。この雄大な根張りがあれば樹木ばかりで無く大丈夫と言うことで「人生杉」とも呼ばれていると書かれている。全く歩道の無い国道で、写真撮影も命がけである。
杉並木が切れたと思ったら、明治天皇七里御小休所跡である。そして、「宝殿(ほうでん)」の交差点を過ぎると、短い区間だが杉並木は国道から左に分かれ、直ぐ先に、「異人石」がある。「明治の頃、杉並木を愛した一人の外人がいた。その外人はこの石を石屋に頼んで座りやすくしてもらい、毎日ここで並木を眺めていたので異人石と呼ばれている」とある。夏の夕涼みぐらいなら分かるが、日がな一日座っていたとは考え難い。
200mほどで国道に合流し、JR日光線のガードを潜り進むと、右側に「JR日光駅」がある。ようやく、ここまで来たかの思いを強くする。時刻は12時を回っており、何はともあれと駅前の蕎麦屋に飛び込んだ。もう石油ストーブに火が点いており、直ぐ側の席を勧めてくれる。聞くと、昨日は雪が舞ったとのこと。
食事を終えて山の方を眺めると、日光連山がそびえているのがくっきりと見える。左の写真は、男体山(2484m)。
「男体山の影を湖面に映す中禅寺湖」という教科書で習った一節が、突然頭に浮かぶ。
下の写真の左は、大真名子山(2375m)、小真名子山(2323m)で、右側は、女峰山(2483m)、赤薙山(2010m)である。
100mちょっと進むと今度は「東武日光駅」である。こちらの方が、乗降客も多く駅前広場も賑やかで華やいでいる。ここに来て、日光が観光地であることを改めて知らされた感じである。駅を過ぎると、日光街道の最後の宿の「鉢石宿」である。ここも、電線を地下に埋めてスッキリとした街並みとなっている。
まだ、整備途上なのか、途中から電線が復活する。家並みの向こうには、男体山が益々大きく見えてきた。右手の奥には、頼朝の信頼が篤かった畠山重忠の三男重慶の開基と言われる、天台宗の龍蔵寺がある。
少し進むと、右手の奥には旧家が見え、さらに先には「ひしや」の看板の羊羹屋がある。明治元年創業で、一本1,500円の竹皮包みの羊羹一種類のみの商品である。店構えも古く重々しく、冷やかしの客など寄せ付けない威厳を保っている。興味を持ちながらも恐れをなして通り過ぎたのが残念である。
大谷(だいや)川に架かる、日光橋が見えてくると、家康のブレーンとして知られた天海大僧正の銅像がある。東照宮の創建に尽くした「日光山中興の恩人」と説明にあるが、私には黒幕的イメージがあり、高僧には似つかわしくない思いで好きになれない人物である。日光橋の上流には、神橋(しんきょう)が架かっている。神橋は山口県の錦帯橋、山梨県の猿橋と合わせ日本三大奇橋の一つに数えられていて、国の重要文化財に指定され、世界遺産にも登録されている。橋の長さは28m、巾7.4m、高さ(水面より) 10.6mあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ(乳の木)と橋板の裏は黒漆塗で、その他は朱に塗られている。奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられてから、もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)を架けて通行することとなったとのこと。
日光橋を渡って、歩行者用信号が変わるのを待っていると、道路の向こう側に「杉並木街道寄進碑」が立っていた。いよいよ神域で、この日光は、現在では東照宮、二荒山(ふたらさん)神社、輪王寺を合わせて日光二社一寺と言われているそうだ。しかし、これは明治4年の神仏分離令により分離されたからで、それ以前は神仏習合により一体で日光山と総称されていたのである。道路を左に進みたいが歩道も無く危険を感じて、道路を渡って階段を上り、直ぐに左への階段を通って行き、輪王寺への坂道を上って行く。途中の楓は、綺麗に色づいていた。
坂道を上り詰めると、日光を開いた勝道(しょうどう)上人の堂々たる銅像が迎えてくれる。ここでも、真っ赤に色づいた紅葉が美しい。
下の左の写真は国重要文化財の輪王寺の三仏堂(本堂)である。本尊は阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音であり、日光山内では一番大きい木製の建物とのこと。
右の写真は、明治4年に本坊が消失したときに、唯一焼け残った門跡寺の格式を持つ黒塗りの門で、黒門とも呼ばれている。これも重要文化財指定である。
東照宮への参道を進んで行くと、正面に大鳥居が見える。この鳥居は高さ9m、柱の太さは3.6mと大変大きく、国の重要文化財に指定されている。そして、右の写真は仁王門である。総門とか楼門とも言われ、ここで身を清め、草履に履き替えたという。ここから先に進むには拝観料1,300円が必要である。
仁王門をくぐると、色彩鮮やかな三神庫(さんじんこ)があり、神厩舎(しんきゅうしゃ)の長押(なげし)に彫られた御馴染みの三猿があり、カメラを構えた人々でごった返している。昔から猿は馬の病気を守るとされていたことによるとのこと。
そして、あまりにも有名な「陽明門」である。絢爛豪華な門で、彫刻も多彩で眺めていると、日が暮れるほどであるので、日暮門とも呼ばれていた。また、陰陽道(おんみょうどう)の影響で、鳥居とこの陽明門の中心を結んだ上に、北極星があり、真南に伸ばせば江戸へ着くように配置されているとのこと。向って右手には、鐘楼が配置されており、左には、ほぼ同じ造りの「鼓楼」がある。
門をくぐって、陽明門をふり返ると、こちらから見たほうが、色彩は鮮やかに感じる。日射量の違いであろうか。
正面の「唐門」は改修中のようである。右手に回ると、回廊の坂下門に、これもまた、あまりにも有名な左甚五郎作の眠り猫がある。思ったよりも小さな猫である。
坂下門をくぐると、奥社参道で、207段の急な石段を上ることになる。疲れた足には、相当堪える。ようやく上りつめ鳥居をくぐると、右手に外部全体を青銅で包んだ「御宝蔵」があり、朝廷から贈られた文書などが収められたという。
そして、最後の数段を上ると拝殿があり、拝殿の先には、慶安3年(1650)に屋根、柱、扉等を唐銅で鋳造して組み立てた鋳抜(ちゅうばつ)門がある。
特別公開で、鋳抜門の前を右に進んで、東照宮の奥宮御宝塔を一周できるようになっていた。ここは紳域で、以前は未公開であったが、350年弐年大祭記念で公開されている。御宝塔は始め木造であったが、やがて高さ15mにも及ぶ巨大な大石造の宝塔となり、天和の地震(1683)に倒壊したので、五代将軍綱吉の時、現在の唐銅製に改造した。
この宝塔こそが、家康の墓であり、棺が収められており、日光道中の終点である。<br clear="all".
東照宮を終えて、仁王門を出て右折して「二荒山神社」の方に歩いて行く。正一位勲一等の額がかかる門をくぐって、境内に入って行く。右の写真は、拝殿で拝殿の奥にある本殿と共に国の重要文化財に指定されている。
二荒山神社を鳥居から退出して右折し、さらに大猷(だいゆう)院に向う。大猷院とは家光の諡号(しごう)で、祖父家康を崇敬していた家光の遺言で造られた家光の霊廟である。しかし、東照宮より大きく造ってはならないとも遺言していたという。階段を上り、重要文化財で世界遺産の仁王門をくぐる。先には、ここでも「もみじ」が真っ赤に色づいていた。
仁王門を潜って左に折れると、やはり重要文化財で世界遺産の二天門を仰ぎ見る。この門は下層正面左右に、持国天、広目天の二天を安置していることから二天門と呼ばれているが、背面にも風神・雷神の二神が配置されている。二天門の階段は途中で左りに直角に曲がり、そこが踊り場となっていて、見下ろすと、灯篭が並ぶ趣のある庭園がある。そして二天門を潜ると、立派な鐘楼と鼓楼が左右に配置されている。
二天門の次は、夜叉門(下の左の写真)である。もちろん重要文化財で世界遺産である。この門をくぐると、拝殿に通じる唐門である。
唐門をくぐると、右の方に回りこむ通路が用意されており、拝殿、本殿が側面から見学できるようになっていた。ここは国宝で世界遺産である。
さらにその奥には皇嘉門(こうかもん) があり、家光公の御廟への入口となっている。中国、明朝の建築様式を取り入れたその形から、一名「竜宮門」とも呼ばれてるが、ここからは流石に入れてもらえない。ぐると回って、夜叉門の方に引き返す。取り囲んでいる塀にも意匠が凝らされている。
夜叉門のところまで戻って配置された灯篭を眺めても見事としか言いようが無い。
風神、雷神像を見ながら二天門を出て、改めて階段の上から眺めると、踊り場まででもかなり高い。疲れた足で慎重に下りる。
大猷院を訪れ、何だか東照宮より充実した感じがした。観光客が少ないのもありがたかったが、訪れた人は異口同音に「来てよかった」と話していた。
これで、全ての予定を済ませて、また紅葉を愛でながら日光山を後にした。
途中で看板に誘われてコーヒーを一杯飲んで休憩し、バス停のある通りに出た。時刻は14:30であった。その後、バスで東武日光駅に着き、帰宅の途についた。
延べ7日間の歩行の旅であった。