Home > 2月, 2010

2010.02.22

江田から海老名

本日の万歩計41,788(27.6Km)

2月に入って寒い日が続いたが、雨水(うすい)を過ぎ、ようやく寒さも緩んできた。 昨年11月21日から日にちを明けての歩行である。朝の8時に江田駅前のマクドナルドで待ち合わせ、軽くエネルギーを補給して歩き始めた。
246号線を少し進み、電車のガードをくぐって線路脇の道路のを800mほど進み、右の住宅街の中を進むと、600mmほどで「市ヶ尾の竹下地蔵堂」がある。統誉上人が病に罹り入定したとの伝承があり、境内に宝暦元年(1751)と刻まれた墓碑もある。
eda_01.jpgeda_02.jpg
地蔵堂下の信号を過ぎて左折すると、猿田坂と呼ばれる坂道を下り、十字路にぶつかると、左前方に旧旅籠「綿屋」の建物が残っている。大山街道で古い旅籠の建物が残っているのは珍しく、長く保存して欲しいと思うが、重要文化財指定にもなっていないので危惧されるところである。
eda_03.jpgeda_04.jpg
進んで行くと、鶴見川を川間橋で渡るが、昔は、今よりも少し下流に橋があり、利用者から三文の渡り賃を取ったので、「三文橋」とも呼ばれていたという。橋を渡って、400mほど進んだ柿の木台の交差点には、田中屋マートがあるが、ここは三代将軍徳川家光を治療したと伝えるマムシ治療薬を販売していた田中屋の跡だとのこと。
eda_05.jpgeda_05a.jpg
さらに、300mほど進むと、医王山薬王院東光寺(真言宗)が明治初年改宗されたという「医薬神社」がある。その後、くねくねと曲がる道を進んで、青葉台駅前の交差点に達した。
eda_06.jpgeda_07.jpgeda_08.jpg
国道246は、殊更に車の流れが激しく、極力歩くのは避けたいところである。幸いにも同行のMさんは青葉台在住であり、この辺りの土地勘があるので、国道より一筋入った道路を進んで恩田川に架かる恩田大橋で国道に合流した。
500mほど進んだ、片町の交差点で、再び国道から右に分かれ、1Kmほど進むと、長津田駅南口入口で、その南方向に「大林寺」がある。山門、本堂ともに最近建替えられたのか真新しい。山門の両側には仁王様が睨みを効かせていたが、かなり格のあるお寺なのであろう。
eda_09.jpgeda_10.jpg
交差点から300mほど進むと、大石神社参道の女坂と呼ばれる坂道が右側に現れ、上ると天保14年(1843)長津田宿内の秋葉講中が建立した上宿の常夜燈がある。その奥には長津田鎮守の大石神社がある。由緒はつまびらかでないとのことだが、祀神は在原業平と伝えられるという。
eda_11.jpgeda_12.jpg
長津田小学校の方に進んで、その手前で左に進むと、竹薮と右手の斜面に挟まれた未舗装の道路となる。この道が旧大山街道とは思えないが、ふっと一息つけるような道である。246に合流して、すずかけ台駅の手前で右に分かれると、展望が開け街並みが望見され気持ちが良い。
eda_13.jpgeda_14.jpg
直ぐに国道246に合流して、町田市辻の交差点で左に外れ、大和バイパスを横切り進むと、右手に「円成寺」がある。町田市指定文化財で室町時代後期の作の木造聖徳太子像があるとのことだが、本堂は、鉄筋コンクリート造りとなっている。246に突き当たり、くぐり抜けると「観音寺」がある。 武相卯歳観音第1番札所として名高く、高野山真言宗で山号を鶴間山東照院観音寺と称する。拝殿にある厨子は、大和市指定文化財とのこと。 ここも本堂は鉄筋コンクリートである。
eda_15.jpgeda_16.jpg
少し先には、大山阿夫利神社御分霊社が赤い鳥居とともに現れる。その傍らには「南朝忠臣新田氏縁の家」高下家の説明碑や、「新田義貞軍鎌倉進撃路」の説明板がある。また、相州鶴間村宿の石碑も建てられている。
eda_17.jpgeda_18.jpgeda_19.jpgeda_20.jpgeda_21.jpg
相州鶴間村宿の石碑を過ぎると、立派な門構えの家が現れる。塀の意匠も趣のあるものであり、名家の家と思うのだが、なにも分からない。そして、その先で信号のある交差点を渡ると、下鶴間宿に入る。十字路の角に旧家小倉家と高札場跡が復元されている。また、ここは旧家小倉家を利用した「下鶴間ふるさと館」となっているが、月曜日は休館で見学は出来なかった。

eda_22.jpgeda_23.jpg
100mほど先には「鶴林寺」がある。宗派は浄土宗で山号を宝亀山寿翁院鶴林寺である。開山は永禄12年(1569)以前といわれ、境内には、即身仏となった瀬沼嵩信を弔う地蔵や鶴間学校跡、不動明王座像などがあるとのこと。
eda_25.jpgeda_24.jpg
少し先には江戸期に「まんじゅう屋」の屋号の旅籠跡がある。まんじゅうも商う旅籠で渡辺崋山が泊まったことで有名とのこと。
現地の案内板には「江戸時代後期の洋学者で、画家として知られる渡辺崋山は、第十代田原藩主三宅康明の弟友信の命により、高座郡早川村(綾瀬市)に住む友信生母お銀の消息を尋ねるため、天保2年(1831)九月二十日、弟子の高木梧庵といっしょに江戸の青山を立ちました。その日は都筑郡荏田村(横浜市緑区)に泊まりましたが、翌二十一日には矢倉沢往還下鶴間宿に着き、俗に”まんじゅうや”(土屋家)といわれる旅籠屋に一泊しました。」とある。
屋敷跡の角には古い道標も建っていたが、読めなかった。
eda_27.jpgeda_26.jpgeda_28.jpg
進むと、右側に地蔵尊があり、さらに進んで滝山街道と交わるところには、日枝神社がある。鳥居の脇には、古い石碑が建っていたが、風化が激しく文字などは全く読めなかった。

eda_29.jpgeda_30.jpg
この辺りは、「矢倉沢往還」の真新しい石碑が、ところどころ建っている。歴史街道をアッピールする意欲が感じられ、好感が持てる。その後、鶴間駅の近くで昼食をとり、しばし休息の後に歩き始めたが、これと言ったトピックもなく、6Kmほど進んで相模国分寺跡の石碑に遭遇した。古い石碑も4つほど建っていた。国分寺跡は、広場となっていて説明板のみが建っていた。
そして、少し先には、現在の国分寺への入口があり、エノキの古木が建っていた。
eda_31.jpgeda_32.jpgeda_33.jpgeda_34.jpg
国分寺の境内に入って行くと、薬師堂と鐘楼があり、鐘楼の銅鐘は国指定重要文化財となっている。
eda_35.jpgeda_36.jpgeda_37.jpg
ようやく、今日の目的地の「海老名駅」に到着した。ショッピングビルが駅前広場を囲んで建っている。コーヒーを飲みながら休憩し、次回の楽しみに思いを馳せながら、各自帰宅の途についた。