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2010.03.13

阿夫利神社参拝

本日の万歩計16,849(11.1Km)

今日は大山街道の最後である。8時に友人と伊勢原駅で待ち合わせ、8時25分のバスに乗るため停留所に歩いて行くと、もう長い行列が出来ていた。流石に週末である。
20分ほどでバスの終点に着く。グループで来た人達が出発前の注意を受けている。「関東36不動札所・第一番霊場雨降山・大山寺」の石碑があり、いよいよ「独楽(コマ)参道」が始まる。
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「独楽参道」とは、道路に独楽の絵のタイルが埋め込まれていて、この独楽の数で1から29までを表わし、ケーブルカーの駅まで、どれだけ進んできたかが分かるようになっている。道の両側には、みやげ物屋や豆腐料理を食わせる食堂などが並んでいる。
大山は良質な水を利用した豆腐作りが盛んで、かながわ100名産にもなっている。
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「独楽参道」が終わると、右にケーブルカーの駅があり、大半の人々はそちらに進むが、徒歩で大山街道を極めるために、左の方に進み、階段を上って行くと途中に「男坂」と「女坂」の分岐がある。大山寺も訪れたいし、「女坂の七不思議」も見たいので「女坂」の方に進む。階段の多い上り坂である。
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七不思議の最初は「弘法の水」で、弘法大師が岩に杖を突いたら清水が湧き出したという。日本中の随所にある話である。第二は「子育て地蔵」で、普通の地蔵として安置されていたが、いつしかわらべ顔に変わっていたとある。
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第三は「爪切りり地蔵」で、弘法大師が道具を使わず、一夜のうちに手の爪で彫刻されたという地蔵とのこと。そして、第四は「逆さ菩提樹」で、逆さに生えたように見えるというが、菩提樹が二代目とのことで、逆さには見えない。
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ようやく、左手に龍神堂がある大山寺のお堂にたどり着く。龍神堂は雨乞いの本尊で、以前には二重滝にあり、1641年に再建されたとのこと。そして、長い階段を息も絶え絶えに上ったところが、本堂である。
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大山寺は、真言宗大覚寺派の寺で弘法大師が住職を勤めたこともあり、高幡山金剛寺、成田山新勝寺と共に「関東の三大不動」に数えられる。また、江戸時代は春日の局が頻繁に参拝し、徳川家光の大改修により江戸大衆の中にも不動参拝が広がり定着して大山寺の全盛時代を迎えることとなった。
本堂の左には、精巧な青銅造りの地上高約11mの宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。寛政7年(1795年)旧大山寺境内に建立され、大正3年現境内に再建されたという。刻印に東京市の文字が見えた。
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大山寺を過ぎて、山道に入って行くと、芭蕉の句碑があったが、碑の表面は風化が進み文字が読めない。しかし、傍らの立て札には「山寒し心の底や水の月」と書かれていた。そして沢に架かる橋を渡るが、この橋は「無明橋」と言い、話しをしながら渡ると悪いことが起こると立て札に書かれていた。これが第五の女坂の七不思議である。
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第六の七不思議は潮音洞で、ほこらに近づいて心を鎮め耳を澄ませると潮騒が聞こえるという。友人が試してみたが、何も聞こえないと言っていた。恐らく心が澄んでいなかったのだろう。
そして、最後の第七番目の不思議は、「眼形石(めかたいし)」で、観音像の左にある眼の形をした石に触れると眼の病が治ると言い伝えられているとのことだが、石が眼の形をしているようには見えなかった。
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終に、阿夫利神社下社前の参拝客相手のお店が並んでいる広場に到着した。下社はさらに、最近整備された真新しい石の階段を上って行く。
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流石に、ここからは展望が良い。残念ながら曇り空であったが、良く晴れた日なら遠く都心の高層ビル群も見えるのではなかろうか。そして、ようやく下社本堂に対面する。
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本堂右には大山名水・神泉と書かれた入口があり、入って行くと青銅の龍の口から水が流れ出しており、静かなたたずまいを感じさせる場所となっている。水は、美味しい。名水と言ってもやはりお金で買ったペットボトルの水に比べれば劣るものが多いが、ここのは文句なしに美味しくて、残り少なくなっていたペットボトルの水を補充させてもらった。ペットボトルを満たした後は、いよいよ阿夫利神社上社に向って出発する。
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上るにしたがって、どんどん温度も下がってきた。3日前に降った雪も徐々に多くなってきた。16丁目追分の大きな碑が建っていた。碑は強力が運び上げたとのことだが、信じられないほど大きな碑である。
ここから上は、溶けた雪で道はぬかるみ、さらに雪も深くなってきて首にカメラをぶら下げて置くことに危険を感じ、リュックにしまい、小型のコンパクトカメラを取り出しして撮影したが、途中で転んだときのショックか、SDカードの内容にエラーがあり、読み出せなくなり、残念ながら雪に囲まれ、強風が吹きすさび、それでも多くの人がお堂の影で風を除けながらおにぎり等をほおばっている阿夫利神社の写真も、帰りに撮った二重滝の写真も掲載できないのは真に残念である。下社は暖かかったが、上社は寒い寒い。ダウンのジャンパーとウインドブレーカーを二重に着て寒さを防いだ。
登山道の途中から上は、雪のために滑って歩きにくく難行苦行の連続であり、特に私の靴は、幾多の街道歩きで靴底が磨り減っており、何度も尻餅をつくこととなった。もちろん、靴とズボンの裾は、泥田の中を歩いたに等しい。滑るのを警戒して、無理な姿勢で下ってきたため膝を痛めて、駅の階段も下れなく身障者用エレベータを利用するはめになった。
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ほうほうの体で下ってきて、途中でベンチがあったので休憩したが、ここではリュックから取り出したカメラで撮影したのが1枚のみ残ることとなった。

2010.03.01

海老名から大山(バスの終点)まで

本日の万歩計37,526(24.8Km)

朝の8時に海老名駅で友人と待ち合わせる。 改札口は通勤客で賑わっていたが、これから街道歩きに行く身としては、申し訳なさそうな感じもするし、リタイアしたことの実感もわいてくる。
海老名駅も駅前は若者向けの商業施設ができ、昼間は賑やかだろうが、まだ店は開いておらず静かである。早速、厚木街道に出て進むと、ほどなく相模線の踏切を渡ることになる。
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その後、相模川に出るまでは街道はハッキリせず、細かく折れ曲がりながら進むが、風化の進んだ道標に「大山道」の文字をかろうじて読み取り、歩行ルートの正当性を喜びながら進んで行く。ようやく相模川岸に出ても、昔の渡し跡もなく400mほど下流に見える「あゆみ橋」に向うことになる。
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「あゆみ橋」を渡り、川の堤防上の道を上流に向って進んで行く。車の通りは激しいが、歩道もなく恐い道だ。 300mほどで、「厚木の渡船場跡」がある。江戸期は5艘の舟が備えられていて。旅人を渡していたとのことだが、冬の渇水期は土橋が設けられていたと説明板に書かれていた。
渡船場跡で左にUターンして折れ曲がって進むと、まだ閉まっているお店のシャッターには、それぞれの商う商品に即応した江戸時代の情緒を感じさせる絵が書かれていた。町興しを狙ったのか、落書き防止策か、絵が描かれたシャッターの通りが続くのは面白い。
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東町郵便局前の交差点を過ぎると、左手に「厚木神社」がある。円融天皇(969-984)の時代の創建で祀神は「須佐之男の命」であり、那須与一も眼病平癒祈願をしたと言い伝えられているとのこと。
なお、厚木神社の呼称は明治以降で以前は牛頭天王と称し、今でも、お天王さまと呼び習わされていて、例祭には大いに賑わうという。
通りに戻ると「渡辺崋山滞留の地」の新しい石碑が建っていた。
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700mほど南下して、ソニーの厚木工場が見えてくると右手に上杉氏建立の最勝時がある。一般公開していないのか、正門は鉄格子の門で閉じられていた。
その後、1.5Kmほど進み東名高速が見えてくると、左手に「三島神社」がある。東海道の三島大社を勧請した神社で村の鎮守であったようだ。
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東名高速をくぐって、1Kmほど進み左折して小田急の「愛甲石田駅」方面に進む。
駅を過ぎてしばらく進むと、右手に今は珍しい茅葺の山門の「浄心寺」がある。天正2年(1574)相誉上人周貞が開山で本尊は南北朝時代の作の美しい阿弥陀如来を中尊とする三尊像であるとのこと。
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大山街道も、人口増加に伴う宅地開発などで旧道がハッキリしなくなっているが、ところどころ道祖神が残っていて、大切に保存されているのを今でも見ることが出来る。そして、なんと最近になって作られた双体の道祖神もある。
成瀬小学校を過ぎて、1Kmほど進むと左に100mほど入ったところに太田道灌の菩提寺の「大慈寺」があり、立ち寄った。また、寺から道路を跨いで少し進むと、太田道灌の首塚があった。最近整備されたようだ。


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大慈寺から街道に戻り、100mほど進むと、右手に茅葺の屋根が珍しい「高部屋神社」がある。境内にある銅鐘には至徳3年(1386)の銘があり、神奈川県指定重要文化財となっている。
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その後、2Kmほどは、特別なトピックスもない住宅街のなかの道を進む。東名高速をくぐると、道祖神と兼ねた古い道標があり、ようやく大山に近づいた気分が高まってくる。ここからは、流石に大山詣での参道の雰囲気が強くなってきて、江戸時代の人々も胸の高まりを覚えながら歩いたのだろうと思いながら歩を進めて行く。
太田道灌の菩提寺の「大慈寺」には首塚があったが、地図を見ると太田道灌の墓所があったので、寄ることにした。墓所は、木立に囲まれて大事に保存されていた。
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石倉橋の交差点を過ぎると、坂道の勾配も増し1Kmほどで「比々多神社」が左手に見えてくる。木花咲耶姫命が祀神で安産の神として崇拝を集めているという。
少し先には、いよいよ大山阿夫利神社の一の鳥居が見えてくる。
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徐々に宿坊も増えてきた。傍らを流れる渓谷は「鈴川」で、進んで「加寿美橋」を渡り、自動車道から離れると、益々宿坊の密度が増してくる。垣の石柱には寄進者の名前が赤く刻まれている。
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再び自動車道に「愛宕橋」で合流して、益々急になる道を上って、ようやく伊勢原駅からのバスの終点のロータリーにたどり着く。時刻は14時50分である。次回は最後となる阿夫利神社への登頂を思いながら、今日はここまでとすることとして、15時5分発の伊勢原駅行きのバスで帰宅することとした。
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