2010.03.01
海老名から大山(バスの終点)まで
本日の万歩計37,526(24.8Km)
朝の8時に海老名駅で友人と待ち合わせる。 改札口は通勤客で賑わっていたが、これから街道歩きに行く身としては、申し訳なさそうな感じもするし、リタイアしたことの実感もわいてくる。
海老名駅も駅前は若者向けの商業施設ができ、昼間は賑やかだろうが、まだ店は開いておらず静かである。早速、厚木街道に出て進むと、ほどなく相模線の踏切を渡ることになる。
その後、相模川に出るまでは街道はハッキリせず、細かく折れ曲がりながら進むが、風化の進んだ道標に「大山道」の文字をかろうじて読み取り、歩行ルートの正当性を喜びながら進んで行く。ようやく相模川岸に出ても、昔の渡し跡もなく400mほど下流に見える「あゆみ橋」に向うことになる。
「あゆみ橋」を渡り、川の堤防上の道を上流に向って進んで行く。車の通りは激しいが、歩道もなく恐い道だ。 300mほどで、「厚木の渡船場跡」がある。江戸期は5艘の舟が備えられていて。旅人を渡していたとのことだが、冬の渇水期は土橋が設けられていたと説明板に書かれていた。
渡船場跡で左にUターンして折れ曲がって進むと、まだ閉まっているお店のシャッターには、それぞれの商う商品に即応した江戸時代の情緒を感じさせる絵が書かれていた。町興しを狙ったのか、落書き防止策か、絵が描かれたシャッターの通りが続くのは面白い。
東町郵便局前の交差点を過ぎると、左手に「厚木神社」がある。円融天皇(969-984)の時代の創建で祀神は「須佐之男の命」であり、那須与一も眼病平癒祈願をしたと言い伝えられているとのこと。
なお、厚木神社の呼称は明治以降で以前は牛頭天王と称し、今でも、お天王さまと呼び習わされていて、例祭には大いに賑わうという。
通りに戻ると「渡辺崋山滞留の地」の新しい石碑が建っていた。
700mほど南下して、ソニーの厚木工場が見えてくると右手に上杉氏建立の最勝時がある。一般公開していないのか、正門は鉄格子の門で閉じられていた。
その後、1.5Kmほど進み東名高速が見えてくると、左手に「三島神社」がある。東海道の三島大社を勧請した神社で村の鎮守であったようだ。
東名高速をくぐって、1Kmほど進み左折して小田急の「愛甲石田駅」方面に進む。
駅を過ぎてしばらく進むと、右手に今は珍しい茅葺の山門の「浄心寺」がある。天正2年(1574)相誉上人周貞が開山で本尊は南北朝時代の作の美しい阿弥陀如来を中尊とする三尊像であるとのこと。
大山街道も、人口増加に伴う宅地開発などで旧道がハッキリしなくなっているが、ところどころ道祖神が残っていて、大切に保存されているのを今でも見ることが出来る。そして、なんと最近になって作られた双体の道祖神もある。
成瀬小学校を過ぎて、1Kmほど進むと左に100mほど入ったところに太田道灌の菩提寺の「大慈寺」があり、立ち寄った。また、寺から道路を跨いで少し進むと、太田道灌の首塚があった。最近整備されたようだ。
大慈寺から街道に戻り、100mほど進むと、右手に茅葺の屋根が珍しい「高部屋神社」がある。境内にある銅鐘には至徳3年(1386)の銘があり、神奈川県指定重要文化財となっている。
その後、2Kmほどは、特別なトピックスもない住宅街のなかの道を進む。東名高速をくぐると、道祖神と兼ねた古い道標があり、ようやく大山に近づいた気分が高まってくる。ここからは、流石に大山詣での参道の雰囲気が強くなってきて、江戸時代の人々も胸の高まりを覚えながら歩いたのだろうと思いながら歩を進めて行く。
太田道灌の菩提寺の「大慈寺」には首塚があったが、地図を見ると太田道灌の墓所があったので、寄ることにした。墓所は、木立に囲まれて大事に保存されていた。
石倉橋の交差点を過ぎると、坂道の勾配も増し1Kmほどで「比々多神社」が左手に見えてくる。木花咲耶姫命が祀神で安産の神として崇拝を集めているという。
少し先には、いよいよ大山阿夫利神社の一の鳥居が見えてくる。
徐々に宿坊も増えてきた。傍らを流れる渓谷は「鈴川」で、進んで「加寿美橋」を渡り、自動車道から離れると、益々宿坊の密度が増してくる。垣の石柱には寄進者の名前が赤く刻まれている。
再び自動車道に「愛宕橋」で合流して、益々急になる道を上って、ようやく伊勢原駅からのバスの終点のロータリーにたどり着く。時刻は14時50分である。次回は最後となる阿夫利神社への登頂を思いながら、今日はここまでとすることとして、15時5分発の伊勢原駅行きのバスで帰宅することとした。