2009.10.29
宇都宮から今市
本日の万歩計34,502(22.4Km)
前回の歩行以降、仲間の集まりがあったり歯医者に通ったりで10日ぶりの街道歩きとなった。宇都宮着は8:42で、駅前のモニュメントも輝いている。前回引き返したところまで行くために、9:10発のバスに乗る。
前回引き返した「上金井」に着く。時刻は9:45である。日光街道歩きで自宅からもっとも時間が掛かる地点だ。道路は119号線であるが、両側の歩道が遊歩道になっており、気持ちよく歩ける。
しばらく進むと、東北自動車道の下をくぐる。100mほど進んだ右側に、「第六接合井」がある。日光街道にほぼ並行にして敷設された延長26Km、標高差240mの送水管にかかる水圧を弱めるために標高30m毎に全部で6箇所作られたが、昭和24年の今市地震で倒壊してこの「第六接合井」だけが残っているとのこと。造られたのは大正4年で、西洋城郭風の八角形の煉瓦造りとなっていて、宇都宮市近代化水道施設の遺構の一つで、国の登録有形文化財に指定されている。
さらに、200mほど進んで信号を渡った左側に、大谷道と彫られた古い道標が生垣に囲われて立っていた。この追分を過ぎると、日光道中18番目の宿場徳次郎(とくじら)宿となる。
1Km進んだ次の信号の左側には、薬師堂がある。お堂はかなり荒れていて、墓地の中に建っている感じで、傍らには3体の石仏が立っていた。お堂に向う入口の民家には大谷石造りの立派な蔵が建っている。
500mほど進むと、「徳次郎」の大きな交差点である。地名の「徳次郎」であるが、奈良時代に、日光に勢力を持つ久次郎(くじら)一族が日光二荒神社より分霊し、智賀都神社を創建した時に日光の久次郎に対し、外久次郎(そとくじら)と称したのが始まりで後に、徳次郎(とくじら)と転訛したようである。しかし、県道路公社では、最近「とくじら」から「とくじろう」と呼び名を変え、交差点の名前も「徳次郎(Tokujiro)」となっている。「徳次郎」の交差点を左折し少し先で右側の小道を進むと、直ぐに「痣(あざ)地蔵堂」がある。願をかければあざやいぼが治るという霊験がある お地蔵さんである。
街道に戻って、1Kmほど進むと右側に「智賀都神社」がある。徳次郎町6郷(西根・門前・田中・上町・下町・中町)の鎮守であり、宝亀9年(778)日光二荒神社を勧請して千勝森(ちかつのもり)に祀ったという。この千勝から智賀都(ちかつ)となったという。参道入り口の両側にある2本のケヤキは、樹齢700年という大木で県の天然記念物に指定されていて、「長寿の夫婦欅」と命名されている。
少し先には、道路の真ん中に「徳次郎六本杉」の標札があり、六本の杉が植わっている。バス停の名前にもなっていて有名だったのだろうが、今は代替わりして小さい杉の木である。道路わきの民家の庭からは「かりん」の果実がのぞいていた。良い秋晴れである。
1Kmほど進んで、また国道119号線の左側の遊歩道を歩いて行くと、県道77号線との交差点で右手に六本木の一里塚がある。日本橋より30里。右手の塚だけが残る。一里塚を過ぎると、天保11年(1840)と刻まれた十九夜塔の如意輪観音が立っていた。
道路の右手に「第五接合井」が見えてくるが、これは地震での崩壊の後に、改修されたものである。そして、進むとリンゴ園の側を通り、見事に実ったリンゴを見ることになった。田川を渡る「田川大橋」の手前に「りんご」直売所があり、年配のおばさんが一人で営業していた。たまらず一つ買って、店先の空き箱に腰掛けてかぶりついたが、甘くてとても美味しかった。
田川大橋から100mほど先には八坂神社があり、また遊歩道が始まり、200mほど先には国道の向こう側(右側)に「地蔵堂」が見えた。
国道を右下に見ながら気持ちの良い歩道が2Kmほど進む。杉の木の幹には赤く色づいた蔦が絡み付いている。
左手に、赤い布で巻かれた地蔵さんが鎮座している。「うらない地蔵」である。地蔵の前に3個の石が置かれているが、そのいずれかを持ち上げて軽く感じれば願いが叶うといわれているそうだ。あまりに過大な願い事をすると石が重くなるのだろう。
次の信号を過ぎると、右側に新渡(にわたり)神社がある。新渡神社を過ぎると、宇都宮市から旧今市市(現日光市)となる。次は日光道中19番目の大沢宿である。
2Km近く特にイベントも無い道を歩くと山口交差点に着き、その先で旧道は、国道と分かれて右側に入って行く。鬱蒼と茂った杉並木に入って行くと、左手に杉並木寄進碑がある。杉並木は武州川越城主だった、松平正綱・信綱父子が寛永2年(1625)から20数年をかけて紀州熊野から取り寄せた20万本余りの杉苗を、日光道中・壬生道・会津西街道の三街道の両側に延長37Kmにわたって植えたものである。この寄進碑は、日光神領との境界にあったので境石(さかいいし)とも呼ばれており、ほかに日光神橋の前、今市市の大桑、文挟にも建てられている。
大沢の交差点で杉並木は途絶えるが、信号を過ぎるとしばらくして、また、杉並木が始まる。十分な歩道も無い国道から杉並木と遊歩道が始まると、本当にほっとする。杉並木は明治になったときに、経済的な苦境の助けとして伐採する話しが持ち上がったが、イギリス公使パークスの進言で止めたというが、本当によかったと思う。第二次世界大戦でも木材として使うため伐採の計画が持ち上がったが、反対の声が上がり2本のみの伐採で済んだ。
進んで、水無の交差点に向うと、歩道部が高くはなっていても畑が続いている感じで歩き難い。畑として有効利用されている気配も無いので、遊歩道として整備できればと思う。車道の左側は少しだけ広い歩行スペースとなっているので、途中からそちらを歩くことにした。直ぐ側を高速で通過する大型車に多少の恐怖を感じながらも・・・。
水無の交差点の少し手前には、水無の一里塚がある。日本橋より32里目の一里塚である。杉並木の中なので、表示板が無ければ気がつかない様子である。
水無の交差点から2Kmほど進んで森友の交差点に達すると、杉並木は途絶えるが、500mほど進んだ次の信号から、また見事な杉並木が始まる。車は一方通行で、時たま向こうからやってくる。直ぐ横が国道なので、この辺りの居住者以外の車は禁止すべきだと思う。
気持ちの良い杉並木を1Kmほど進むと、右側に七本桜の一里塚がある。塚上の大杉の根元は大人4人程も入れる空洞で「並木ホテル」という名が付いている。空洞の中は真っ黒で、昔地元民がたき火をしたためといわれている。七本桜の地名のいわれは不明だが、七本の桜の木があったのだろうか。
少し先には、七本桜の信号があり、その先には東武日光線が杉並木を横切って走っている。ようやく下今市の小倉町交差点にでる。日光例幣使街道追分である。左手には高さ2m程の大きな追分地蔵尊(石造地蔵菩薩坐像)がある。東日本有数の巨像で、日光市教育委員会の説明板によると制作年代は不祥であるが、8代将軍吉宗の日光社参の時にはすでに、この地にあったと記録されている。
お地蔵さんに手を合わせた後は、時刻は14時40分であったが、今日はここまでとして、東武日光線の下今市駅に向った。15時20分発の快速浅草行きに乗り帰宅の途についた。電車内は日光を訪れた中年女性でいっぱいで喧しく、寝ることもままならず。