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2009.10.09

杉戸から間々田(その1)

本日の万歩計49,579(32.2Km)

今回は、東武伊勢崎線の杉戸高野台駅よりJR間々田駅まで歩いたが、歩行距離は30Kmほどで、記載したい写真も多く、エントリーを2つに分けた。(その1)は、杉戸から古河市、中田までである。
杉戸高野台には7:30に着いたが、国道脇のマクドナルドで腹ごしらえをしてから歩き始めた。この辺りは他にもレストランが多いが、早朝で開いているのは、マクドナルドのみであった。
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歩き始めると、直ぐに東武日光線の踏切を渡り、その後、少し進むと幸手市南公民館がある。その前に、大正8年制定の旧・道路法にもとづく上高村道路元標があった。現在では、法律上の道路元標の規定はないが、東京日本橋の真中のみが歴史的経緯もあり、道路元標が置かれている。
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1.5Kmほど進むと、交通量の多い道路に突き当たる(歩いてきたのは写真左側の道路)が、ここが、将軍家が日光参拝に使用する日光御成道との合流点である。いつか御成道も歩いてみたいと思う。
合流点から少し進むと、左手に神宮寺がある。頼朝が欧州征伐の時、ここで鷹狩りをし、薬師如来に戦勝祈願したとのこと。中世は大きな寺で、この辺一帯の地名が神宮寺村と呼ばれるほどであったという。寺の山門前には、夥しい数の古い石仏が並んでいた。
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再び、東武日光線の踏切を渡って進むと、倉松川をわたり、直ぐ右手には神明神社がある。境内には明治7年に導入されたイギリス式の栃の水準点記号(几号水準と呼ばれ”不”の字形に似た記号)が刻まれた何かの礎石がある。
神明神社を過ぎた次の信号が幸手駅への入口であるが、そのまま真っ直ぐ進んで行く。
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進んで行くと、道路の右手にポケットパークと称する小公園があったが、ここが問屋場跡との由。そして宿の終わり近くには大きな常夜燈がある。見るからに新しそうなので、最近作られたものと思われる。
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荒宿の交差点を過ぎて、道路は右に大きくカーブする。この道路は次の信号で左折するが、真っ直ぐに続く細い道路を進み、国道4号線を跨道橋で渡る。写真は跨道橋から見た日光方面である。進んで行くと、権現堂川の名前の由来となったと言われる熊野権現社がある。昨日の台風のためか、夥しい銀杏の実が落ちていた。
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熊野権現社の前を通り、権現堂堤に登ると、見事な桜並木が1Kmほど続く。権現堂川は昭和初期の利根川の改修で廃川となったが、その権現堂川の堤である。かつては利根川の本流が流れており江戸の洪水予防用として築かれた堤であった。
少し進むと、母子巡礼の碑がある。説明板によれば、
享和2年(1802年)、長雨のため水位が高まり終に堤が決壊した。土手の修復に当たったが、激しい濁流で工事が進まずにいたその時、通りかかった巡礼の親子が自ら人柱を申し出て、逆巻く流れに身を投じ、工事が出来るようなった。これに対し、巡礼親子をが工事は無駄だといったのに怒った人夫が親子を川に投げ込んでしまったという説もある」と書かれていた。どうも、通りかかった巡礼親子を無理やり人柱にしたのが本当らしいが、何れにしろ、人身御供となった巡礼親子を供養するために昭和8年に建立された碑である。
側に歌碑、
そよ風に 花びらは舞う 巡礼の 碑かこむ 堤の桜」 郷子 
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それにしても、気持ちの良い桜堤である。途中にはトイレもあり、大勢の人が、ウォーキングやジョギングを楽しんでいる。桜の季節は、河川敷に植えられた菜の花の黄色とも相まって見事な景観を示すという。そして、桜堤の最後は、「明治天皇権現堂堤御野立所」の碑で終わる。
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中川を明治天皇の行幸にちなんで付けられた、御幸橋で渡り、直ぐ左に折れて進む。静かなたたずまいの街道が続く。
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進んで行くと、外国府間(そとごうま)という地域である。読みが難しい地名である。安永4年(1775年)に建てられた古い道標があった。石碑の正面には「右津くば道」と書かれていて、左側面には「左日光道」と書かれている。やがて旧街道の正面に雷電社湯殿社の合殿がみえてくる。現在の建物は平成13年に不審火で消失して、再建されたものとのこと。
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歩いて行くと、小右衛門村の一里塚がある。江戸から14番目の一里塚とのこと。塚の上には権現堂川に建っていた弁財天堂が移設されているが、権現堂川の改修時に弁財天堂の始末に困り、私有地でない場所ということで選ばれたのだろう。が、そのお堂も老朽化して貼られたビニールシートも劣化して用をなさず、全くかえりみられていないと思えるのは残念である。そして、行く手に「南栗橋」への道路のガードが見えてくると、その直前で右側のガードで国道4号線をくぐる。
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ガードをくぐると、権現堂川の水面が大きく広がる。権現堂川は、現在では閉じられた水系で、北端には利根川へ給排水する川妻給排水機場、南端には中川へ給排水する行幸給排水機場が設けられているにすぎない。そこで、閉じられた水系に伴う、富栄養化を防ぐため、超音波の振動を利用したアオコの除去吸引装置が随所に設置されている。向こう岸にはキューピーマヨネーズの大きな工場が見える。
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スポーツアミューズメントと称する「ラウンドワン」の大き建物が見えてきて、通り過ぎると国道に復帰し、300mほどで左に入って行く。その入口には「栗橋大一劇場」の大きな看板が見えるが、潰れたようである。この劇場は、栗橋ではゆかりの深い静御前より有名と言われたストリップ劇場で、交通の便が悪いが東京、大阪の劇場ともつながりがあったという。しかし、人気の高かった劇場も不況の波には抗しかねたのだろうか。
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1Kmほど進むと、「会津見送り稲荷」がある。会津藩の武士が江戸に書面を届けるためここまで来たが、地水のため通行できず、道が分からなくなったときに白髪の老人が現れて、道案内をしてくれた。また一説には書面を紛失し、死を決した時、狐の化身である白髪の老人が現れて死を思い留まらせたとも伝えられているという。その舞台となった茶店跡に稲荷神社が建てられたが、今では民家の庭先の神社のように見える。
進んで国道125号線をくぐると、ほどなく広い道になる。栗橋町である。街道右側に顕正寺がある。栗橋宿を開いた名主池田鴨之助の墓のあるお寺である。街道は市街地を通って真っ直ぐに続いている。
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市街地を進む道路が突き当たる場所には、八坂神社がある。元は牛頭天王社で、栗橋宿の鎮守であったが、明治維新になり、現在の八坂神社と改称された。ここの神社では狛犬では無く、鯉が飾られている。一対の鯉には「除災の鯉」、「招福の鯉」と書かれていた。
今までに、浦和の「調神社(つきじんじゃ)」の「うさぎ」にお目にかかったが、鯉は初めてである。
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八坂神社から少し戻り、利根川方面への細い道に入って行くと、「栗橋関所址」の碑がある。東海道の箱根、中山道の碓氷と並ぶ関東三大関所の一つであった。そして、利根川橋を渡って茨城県に入って行く。
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利根川は、昨日の台風の影響か水は濁っていた。そして、風が非常に強い。これも台風の余波であろうか。
橋を渡り終えて、左折して川に沿って100mほど進み、右折して中田宿に入って行く。500mほどで、左手に「鶴峯八幡宮」がある。源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮の神主高橋氏に創建させたという。その後、天福2年(1234年)には下総一の宮である香取神宮も祀って、八幡と香取の相殿となったとのこと。お昼時間だが食堂は見つからず、ベンチに座って休憩を取りながらコンビニで買った菓子パンをほうばる。
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街道に戻ると、直ぐ隣に「光了寺」がある。光了寺は静御前のゆかりの寺で、静御前が後白河上皇から下賜された蛙螟龍(あまりゅう)の舞衣が今でも保存されていて、寺宝となっているという。また、過去帳には静の戒名として「巖松院殿義静妙源大姉」が残されているという。鎌倉から開放された静御前が、どのような歩みを辿ったかは、定かでないが奥州に向った義経を追い、栗橋あたりで悲報に接し、尼となったが僅かの時をおいて、この地で亡くなったと言われているようである。
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少し先の道路の右側には、立派な本堂の「本願寺」がある。街道は進んで、次の宿に向う。
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杉戸から間々田(その2)

JR東北本線(宇都宮線)の中田踏切を渡ると古河市茶屋新田である。
踏み切りを渡って直ぐに、うどん屋さんがあり、ようやく昼食にありつけた。時刻は12:18であり、この辺りには他に食堂はなく、ボックス席でゆっくりしたかったが、込み合っていて、カウンター席しか空いていなかった。
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広い真っ直ぐな道が、4Km以上も続く。松も植えられ将来の成長が期待される。長い直線道路も終わり僅かに左にカーブして国道354線との交差点を過ぎると、左手に「古河二高」が見えてきて、その校庭には「古河一里塚」がある。校庭内であり、道路が少し低く切り下げられているので、なんとも見え難い一里塚である。
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1Kmほどで、古河の市街に入って行く。道路の左側に「日本三長谷観音参道」と書かれた石碑が立っている。小道に入って直ぐにの左手に、大きな楓(かえで)の木が塀の上に覗いていた。古河市指定の名木古木とのこと。たしかに、これほど太い楓の木は見たことが無い。
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500mほど進んで、ようやく「長谷観音」にたどり着いた。長谷観音は、古河城の鬼門除けとして明応2年(1493年)に古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したもので日本三大長谷観音の一つと言われている。そして、引き返し、途中で左折して「古河歴史博物館」への通りに入って行く。右の写真に見える古河城の家老鷹見宅跡の塀のたたずまいが、良い雰囲気を醸し出している。
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古河城の家老であった鷹見泉石(たかみせんせき)の屋敷跡が、今は鷹見泉石記念館として公開されている。鷹見泉石は古河城主の土井利勝に仕えたが、「土井の鷹見か、鷹見の土井か」といわれるほどに、その能力は賞賛を受けた。また、蘭学者でもあり、ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という蘭名も署名に用いているとのこと。

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鷹見泉石の屋敷を出た左手には、古河歴史博物館がある。涼しげな噴水で、霧になった水滴が噴出している。古河城の大部分は、渡良瀬川の改修工事によって水没して、古河城出城に当たる、諏訪廓跡に建てられたのがこの「古河歴史博物館」とのこと。時間の関係で入館しなかったが、建物の外観、庭の造りも洗練されている。


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博物館から古河文学館の方に進む。途中の水路は、元のお濠(ほり)を思わせるもので、新たに整備したのであろうか。そして、古河文学館の前を進んで行く。
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街道に戻るため、古河第一小学校の前を通る。レンガ作りの立派な校門である。周りの緑の樹木とも良くマッチしている。
そして、ようやく、本町二丁目の交差点に出た。この辺りが市街の中心らしい。古河駅入口は、次の信号である。
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古河駅から帰宅することも考えたが、時刻は2時半であるので、次に進むことにした。歩いて行くと、歩道に「左日光街道」の石柱が立っていて、左折の場所を示していた。枡形の始まりである。
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道路は花形のレンガを敷き詰めて、心地よい雰囲気を出しているが、街道には不似合いな「ないものはナイ」の派手な看板の雑貨屋があった。この雑貨屋を過ぎて、右折して、「よこまち柳通り」に進んで行く。
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まず、目に付くのが、明治初期の建物の「うなぎ料理の武蔵屋本店」である。食事どきに通ったら、是非入ってみたいお店である。歩道には、ところどころ休憩のための石の椅子と水飲み場までも配置されていて、旅人の便を図っている。
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「若杉鳥子」の文学碑があった。寡聞にして若杉鳥子は知らなかった。調べると、豪商の妾腹の子として明治25年(1892)、東京に生れ、古河町の芸者置屋の養女となるが、学齢まで貧農に里子に出され、尋常小学校4年卒業後は芸者の修行をさせられるなど、厳しい人生を余儀なくされた。しかし、12歳のころから、「女子文壇」「文章世界」などに投稿を始め17歳の時、中央新聞の記者を経て雑誌記者なども歴任。女子文壇の投稿仲間の水野仙子、生田花世、今井邦子らと交友を結び、19歳の時板倉勝忠と結婚。その後、プロレタリア作家としての評価を受け、宮本百合子、佐多稲子らと「働く婦人」の編集などに従事。昭和12(1937)年病没した。
文学的な才能に恵まれたのが幸いであったが、まだまだ女性には厳しい世相であったのであろう。
そして、4枚の大きな屏風風のモニュメントでレンガ敷きの道路は終わるが、道はまだまだ続く。
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大きな道路にぶつかると、古河宿も終わりで、松並という地名の地域に入って行く。名前の通り、昔は松並木が続いていたそうだが、今は全く気配もない。1Kmほど進むと、左側に「ザ・カナルハウス」という洒落た建物がある。ウエディングパークだとのこと。
続いて、「マーケットシティー古河」の名の郊外型の大きなショッピング施設群がある。
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少し先には、左に「野木神社」の長い参道が見える。本殿は1Kmほど先なので、参拝はスキップした。街道が続いて行く。
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野木宿の木戸があった場所が示されていた。せめて石碑ぐらいは、建てて欲しいと思う。そして大きな「十九夜」の大きな石碑が立っていた。大きくて立派だ。中山道を歩いた折には「二十三夜」の石碑を良く見かけたが、この辺りは「十九夜」が多いようである。
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「十九夜」の石碑に感心していたら、そこは「満願寺」の入口であった。この寺は野木神社の別当寺だったという。
それから200mほどで、浄明寺がある。
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さらに進むと、古い道標が立っていたが、風化が激しく文字は読めなかった。説明書きによれば、「是より大平」と刻まれているとのこと。例幣使街道の栃木宿太平山に抜ける道で日光道中の裏道ともなっていたという。
道路が、緩やかに右にカーブする手前で、少し奥まったところに「観音堂」があり、入口付近には、江戸時代の石塔群が立っていた。「日光道中絵図」にも描かれている名所であったとのこと。

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野木松原の交差点の手前に、門構えの立派な農家があった。昔の豪農でもこだれけの家は無かったのではなかろうか。ともかく、この辺りの農家は立派な家が多い。
その後、友沼の交差点、役場入口の信号と2Kmほど進むと、道路の左側に「法音寺」がある。法音寺は立派な2つの山門を備え、その間には弘法大師像があり、見事な本堂であった。また、芭蕉の「道ばたの むくげは 馬に喰われけり」の句碑が立っていた。「道ばたの・・・」は「道のべの・・・」とする諸本も多いと説明板に書かれていたが、小生も「道のべの・・・」と憶えていた。
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道路の右側には、「友沼八幡宮」があり、日光参詣の途次、ここで将軍が休憩したところであった。古河を出た一行が最初に休憩する場所で筑波山が正面に見える景勝地であったとのこと。
進んで行くと、道ばたにも小さな鳥居を備えた、2つの小さな石の祠があった。小さくとも、これだけ立派なものを見るのは初めてである。
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さらに1Kmほど進むと、左側に「若宮八幡宮」があり、境内に大日如来坐像がある。説明板によれば、宝永6年(1709年)、江戸湯島の渡邊九兵衛が父母の供養のため鋳造しその生国に安置したと伝えられている。戸外に安置されていたため濡れ仏と呼ばれていたが今は立派な屋根が造られている。
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時刻は午後4時半を過ぎ、流石に足も悲鳴を上げ始めた。また、1Kmほど進むと、300mほど奥まったところに八幡宮があるが、訪れるのはスキップし、一の鳥居を撮影していたら、子供が2人自転車で飛び出してきた。なるほど地図で調べると、神社境内に乙女小学童保育クラブがある。さらに、乙女八幡宮の右側の道路を1Km程西へ向かうと思川(おもいがわ)の乙女河岸(かし)があったところで、元和2年(1616年)、日光東照宮の造営が始まると思川は御用川となり、江戸より運ばれた資材は乙女河岸で陸揚げされ、小山宿経由壬生街道で日光へ運ばれた。
それ以前には、関ヶ原の戦いの前の小山会議の後家康が、この乙女河岸より船に乗り急遽江戸に戻ったとの記録もあるとのこと。古くから船の便の発達したところで、その後も、江戸との船運の要地で、商取引の中心であったとのこと。道路の反対側には大きな寺名碑の「佛光寺」が静かな佇まいを見せていた。
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さらに、境内には一休さんの像とおぼしき石像が置かれていた。中山道で鴻巣を歩いたときの「箕田観音(みたかんのん)」でも同じ石像にお目にかかった。その後、ようやく間々田駅入口の交差点にたどり着き右折して間々田駅に到着した。
いままでの日光街道歩きでは東武鉄道を利用していたが、ここはJRの東北本線(宇都宮線)である。幸いにも、湘南新宿ラインの厨子行きの列車が入ってきて、私の住んでいるところの最寄り駅(東戸塚)まで、全く乗り換え無しで帰ることができた。疲れて睡魔に襲われながらも、ゆっくりと休みながら帰宅することが出来たのである。
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