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2009.10.04

草加から杉戸高野台

本日の万歩計50,302(32.7Km)

先週から秋雨前線による雨模様の日が続いて、やっと今日久々歩きに出かけられることとなった。横須賀線に乗り錦糸町で乗り換えて草加には7:00に着き、早速歩き始めた。
草加の駅前通りは、日曜日の早朝でまだ、ひっそりしていた。旧道に進んで街並みを見ると、やはり駅前との違いが際立つ。古きよき街並みである。
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草加煎餅は、草加松原で”おせんさん”という女性がやっている茶店で、売れ残った団子を平らにして天日に干し、焼き餅を作ったのが始まりと言われている。その「おせん茶屋」跡に休憩所が設けられており、日光街道の石碑も立っていた。


soka_06.jpg次に現れるのは、草加宿を開設した大川図書が慶長11年(1606年)に創建したという東福寺である。立派なな四脚門で、境内にある鐘楼も龍の彫り物のある立派なもので、共に市の指定文化財となっている。ちょっと残念だったのは鐘楼の前に白線が引かれて駐車場となっている事であった。


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何軒かの草加煎餅の店があったが、早朝で、まだ閉まっていた。宿の終わりには草加の鎮守の神明社があり、道は大きく右にカーブしている。ここが草加宿の枡形のあった所である。
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宿を抜けて県道に合流すると、「草加せんべい発祥の地」の大きな石碑があり、周りも宿にちなんだモニュメントを作るための作業中であった。
そして、伝右川(でんうかわ)を渡る。
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伝右川を渡ると、右側の「綾瀬川」の川べりに小公園が作られている。ここが「草加の札場河岸跡」である。穀倉地帯であるこの地より、米を江戸に運ぶ重要な拠点であり、望楼も再現されていた。
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松尾芭蕉のブロンズ像が立っていた。奥州に向けて江戸・深川を船で発ち、千住より歩いて最初の宿がここ草加宿で、「その日やうやう早加(草加)といふ宿にたどり着けにけり」と書かれている。
その後、綾瀬川沿いに続く1.5Kmは遊歩道として整備されていて、美しい松並木が続く。県道を跨ぐ「矢立橋」と名付けられた橋がある。
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矢立橋の頂上に立つと、見事な松並木が続いているのが良く見える。大勢の人が、散策をしたりジョギング、ウォーキングに汗を流していた。
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歩いて行くと「百代橋」と名付けられた第二の橋がある。そして、松尾芭蕉文学碑も建てられていた。本当に気持ちの良い道で、日本の道百選に選ばれているのも頷ける。
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さらに進むと、水原秋桜子(しゅうおうし)句碑もある。草加の地名を読み込んだ作品4句の内、草加煎餅の句を選んだと説明にあった。句碑には「草紅葉 草加煎餅を 干しにけり」と刻まれていた。秋桜子は本名水原豊(明治25年生)で医師であり、俳人であった人である。綾瀬川を眺めると、太公望が糸を垂れているのが見えるが、水があまり綺麗には見えないのが気にかかる。
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長かった綾瀬川堤防の遊歩道も終わり、上を東京外環道路が走る「重ね橋」のさらに下をくぐる。越えると、芭蕉の記念のタイル絵が作られていた。
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蒲生大橋で綾瀬川を渡る。川は水量が多く、ゆっくりと流れて行く。
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橋を渡ると、日光街道唯一残っている「蒲生の一里塚」がある。もう、形は崩れていて、枯れ木が残っているに過ぎない。横に小さなお堂があり、その前に植えられた銀杏の木の方が太く、大きく育っている。
蒲生茶屋街道と名付けられた川沿いの道を1Kmあまり進むが、かつての街道の面影は全く無い。そして、車の通行の激しい県道に合流する所に「清蔵院」がある。この山門の龍は左甚五郎の作と伝えられ、市有形文化財になっている。山門の龍が金網で覆われているのは、龍が夜な夜な山門を抜け出し畑を荒らしたためという伝承が残されているとのこと。
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車の多い道路を2Kmほど進む。ただひたすら歩くと、武蔵野線のガードが見えてきた。ガード直前で左に入ると東武線の新越谷駅である。
この辺りは、本当に歴史的な遺構が残されていない。その後3Kmほど進んで、「照蓮院」に行き着く。この辺りは瓦曽根という地域名である。

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寺の説明板には「天正10年(1582年)武田家滅亡の際、家臣の秋山信藤とその次男長慶が武田勝頼の遺児千徳丸を伴い、ここ瓦曽根まで逃れて匿った。しかしながら千徳丸は早世してしまい、秋山長慶が照蓮院の住職となって菩提を弔ったという。墓地には千徳丸の供養のために建てられた五輪塔が残る」とある。秋山家はその後も現在に到るまで、この地で続いているようで、秋山家と書かれた真新しい墓石も建っていた。「照蓮院」を過ぎると直ぐに旧道が左に分かれて越谷宿に入って行く。やれやれだ。
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越谷の街並みには、ポツポツと古い建物を残している。今も営業してる「白屋旅館」、大正5年(1916年)建築の旧越谷郵便局を使っている横田診療所がある。
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立派な蔵を備えた塗師屋。昔、呉服屋で漆も扱っていたという。そして写真右は、明治以前は鍛治屋であり、現在は雑貨を扱う鍛冶忠商店。
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越谷の町外れで元荒川を大沢橋で渡る。元荒川と言えば中山道を歩いたとき、熊谷で源流を見て「ムサシトミヨ」という元荒川源流付近のみに生息する貴重な川魚がいることを知った。そして、現在の東武伊勢崎線にまつわる町ならば北越谷に入って行く。駅前の高いビルが目に付く。
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東武線のガードをくぐり進むと、静かな住宅街が続き、垣根になんと「あけび」が実っている家があった。誰に取られることも無く、道路に落ちて散らばっていた。そして再び東武伊勢崎線を今度は、踏み切りで渡る。
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本当に、歴史的な遺構に乏しい。その後、東武伊勢崎線の駅名で記すと、大袋、せんげん台、武里、一ノ割と進み、ようやく粕壁宿の入口にある「東陽寺」に着いた。東陽寺は芭蕉が泊まったお寺である。奥の細道では草加に泊まったことになっているが随行した弟子の曽良の日記には粕壁となっているとのこと。お寺の住職の奥さんが、子供を境内で遊ばせていた。3歳程度の子供が、大きな声で挨拶してくれたのにはビックリした。
粕壁を春日部の字になぜ変えたのかは知らないが、今は近代的で美しい街並みである。電線を地下に埋設すると、これほどスッキリするのかと思う。街灯のデザインもよい感じだ。
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春日部の町外れには名刹で「最勝院」の名の大きなお寺がある。ここには、後醍醐帝に仕え元弘の乱に功をなし、上総の国山辺南部と粕壁の地頭に任じられた春日部重行が葬られている。重行は足利尊氏と交戦して破れ、京都の修学院で自刃したが、遺骨はここに持ち帰られ葬られたとのこと。本堂の左手奥に「従四位市祖春日部重行公之墳墓」の石碑の立つ盛り土があり、大きな木が茂っていた。
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「最勝院」を後にして古利根川を新町橋で渡る。1Kmほど進むと、関宿への追分に達する。正面には「青面金剛」と書かれており、左側には「左日光道」と刻まれた石碑がある。右側は風化のため読めない。
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直ぐに国道4号線と合流するが、500mほど進むと、国道の左側に「小渕の観音院」がある。観音信仰の古刹で、境内には芭蕉の「ものいえば 唇寒し 秋の風」の句碑がある。しかし、山門などは老朽化がかなり進んでいる。
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さらに、500mほど進むと、杉戸町の入口でパーキングエリアの片隅に北緯36度の大きな地球儀のモニュメントがある。ネーミングを募集して、中学生のアイデアの「すきすきすぎーと36」が採用されたとのこと。なお、この辺りは江戸期は杉の木が茂っていて、杉の渡と呼ばれていたのが転訛して杉戸となったらしい。
進んで行くと本郷の集落で、道端に天明4年(1784)堤根村の農民42人が協力して建てた道しるべの石碑が立っていた。ここは、向かいの高野家が立場を開いていた場所でもあり、大勢の人が休憩して石碑を眺めたと思われる。また、農民でも石碑を建てる余力があったのが窺える。また、古い家屋も残されていた。
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再び現在の日光街道に合流して、堤根に入って行くと、左手に真新しい「馬頭院」がある。正確には「旦照山馬頭院観音寺」であるが、本尊は伝教大師作と伝えられているが、制作年代、沿革等は不明とのこと。門前には弘法大師の銅像もある。
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また、国道4号線と分かれて、清池に入って行く。杉戸町では65歳以上は無料の入浴券を差し上げると書かれた「巴湯」という銭湯があった。老人福祉を兼ねた銭湯維持政策なのであろうか。
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東武伊勢崎線の最寄り駅は東武動物公園前である。時々見かける古い家は蔵を備えて立派であり、かつての繁栄を窺わせる。
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杉戸宿の最後は道路が右にカーブしているが、これも枡形の跡である。「宝性院」というお寺がある。この寺は幸手城主一色宮内大輔義直が亡妻の菩提を弔うために永禄3年(1560年)に建立されたとのことで、明治になって一時杉戸学校も置かれたとのこと。ここで、かなり年配の方が一人で、山門前で三脚にフィルムタイプの立派な一眼レフカメラを乗せて自己撮影していた。自転車で走っているとのことであった。
その後、また国道に合流して2Kmほど進むと、杉戸高野台駅への入口である。時刻は午後3:30分で、今日はここまでとして駅の方に向った。ここは、もう東武日光線の駅である。幸いにも地下鉄半蔵門線に乗り入れている急行がやってきて、錦糸町乗換えでスムーズに帰宅できた。
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