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2009.10.19

石橋から宇都宮

本日の万歩計46,6821(30.3Km)

今回は、前回より早く家を出て、石橋駅には8:10に着く。自宅のドアを出てから3時間だ。だいぶ遠くなってきた。
石橋町は、グリム兄弟の出身地であるドイツのヘッセン州ディーツヘルツタール(元シュタインブリュッケン(Steinbrücken)=英語ならStonebridge=石橋)と姉妹都市であるため、「グリムの里」として町おこしを進めたそうで、駅前にもグリム童話にちなんだ時計塔が立っている。駅前通りからふり返っても良く目に付く。
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下野(しもつけ)は「かんぴょう」が名産で、その看板を掲げたお店も何軒か目に付いた。国道4号線に出て、右折すると、直ぐに右手に「開雲寺」がある。天応1年(781)に東光寺として開山、文亀2年(1502)に開雲寺と寺号を変え、江戸期は将軍家の休憩所として境内に御殿が作られ、慶長9年(1604)には幕府より寺領7石を賜っている。
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境内には観音像が新設されていたが、山門には江戸期に設けられた丸や四角の銃眼や矢狭間が今も残っている。
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2Kmほど進むと、左手に「ジャンジャン、バンバン、ドンドン」と看板を掲げたパチンコ屋が目に付く。その少し先で、下古山の交差点を過ぎると、今度は「BIG MARCH」の看板を掲げた大きなパチンコ店。「BIG MARCH」の向い側は「下野警察署」だが、パチンコ店の方が堂々としている。本当にパチンコ店が多いのが、嘆かわしい。
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少し先には、甲冑を着た大きな武将像がある。韓国料理店で屋号「家康本陣」であったが、潰れたようだ。それにしても、派手で目につく建物だ。
目に付くといえば、ここにも大谷石作りの見事な蔵が建っていた。流石に大家石の産地の近くである。
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左手にこの地域名の元となった「鞘堂(さやどう)」がある。南北朝時代の1380年、南朝方となった小山義政が宇都宮基綱を破った時に、戦死者の鞘を集めて此処に埋めお堂を建てたという。この時には、基綱の一族三百騎余が全員討ち死にという壮絶な戦いであったとのこと。
その先の左側に小さな森があり、中に鞘堂の産土神の「星宮」神社が、ひっそりと建っていた。
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北関東自動車道を潜り次の信号を過ぎると、下野市から宇都宮市に入って行く。左側には陸上自衛隊の宇都宮駐屯所がある。昭和25年、旧軍需工場、関東工業?の跡地に創設されたもので中央即応連隊、第12特科隊、第5対艦ミサイル連隊等が駐屯しているとのこと。
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自衛隊駐屯地を過ぎたところに宇都宮社会保険病院があるが、その前には松が植えられれ松並木の様相を呈している。徐々に街道沿いに増やせればと思う。雀宮駅が近づくと、左側に脇本陣跡芦屋家がある。黒門は往時のままとのこと。
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雀宮駅への通りを右に見ながら、雀宮駅前の信号を通り過ぎると、右手に大きな馬頭観音があった。
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そして、雀宮地区の産土神の「雀宮神社」。長徳3年(997)、八幡太郎義家の創建。正徳3年(1713)に東山天皇から金文字で「雀宮」と書かれた勅許額が下賜され、今でも社殿に保管されているとのこと。お祭りの後なのか、地域の氏子の皆さんがハッピを着て、のぼり旗を下ろして後片付けをしていた。また、雀宮の謂れは「鎮めの宮」が転訛したとの説が有力らしい。
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宮の内二丁目の交差点を過ぎると、左側には自衛隊の北宇都宮駐屯地が始まる。この駐屯地には滑走路もある。航空機は飛ばないが、ヘリコプターが盛んに飛んでいる。大きな駐屯地が尽きる辺りの右手に菅原神社がある。菅原道真を祀った神社だが、境内のほとんどを地域の集会所に占領されている。
そして、1.5Kmほど進むと「一里」の交差点があり、ここは江曽島一里塚のあったところだが、遺構は何も残っていない。交叉点の名と、近くの酒店のIchiriyaに、その名残を残すのみ。
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「一里」の交差点を過ぎてしばらくすると、道幅が広くなり、やがて国道4号線が右に分かれて行き、直進している道路は国道119号線となる。地図には何故か東京街道と書かれている。119号線は宇都宮の大通りを過ぎると、日光街道の表記に戻っているので不思議である。そして、JR日光線を跨ぐ。単線である。
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不動前の交差点で119号線からも左に分かれて進むと、東武宇都宮線のガードを潜る。この辺りが、かつての宇都宮宿の木戸があったところである。直ぐ右手に蒲生君平勅旌碑(がもうくんぺいちょくせいひ)がある。君平は明和5年(1768)に宇都宮で生まれた学者・尊王家で前方後円墳の名付け親でもあったとのこと。明治天皇の命で、明治2年に宇都宮藩知事、戸田忠友奉行が、ここに勅旌碑を建立した。

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左からの道路が合流する三叉路を過ぎると、「蓬莱大黒通り」で細い道路沿いに寺の多い一画となる。三叉路から3つ目の信号で左に入ると「一向寺」がある。1276年宇都宮景綱が開基で重要文化財の本尊汗かき阿弥陀は、西隣の長楽寺(明治二年廃寺)にあったもの。宇都宮家に凶変がある時は仏体に汗が流れるという伝えがあったという。境内は墓地で埋め尽くされている感じであった。
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さらにその奥には、1639年宇都宮藩主奥平家昌の正室法明院が開山して、創建当時のままといわれる珍しい茅葺きの山門を持つ「報恩寺」がある。境内に戊辰戦争の官軍戦死者を弔った石碑が建っているが、お寺の中に堂々と鳥居が立っているのも珍しい。

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少し先には、小さな枡形があり、ここを過ぎると通りは材木町通りとなり、広く立派な道路となる。進んで行くと、右手にはユニオン通りの始まりが見える。お昼どきなのでユニオン通りに入っていって昼食をとった。
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材木町通りに戻ると直ぐに大きな丁字路になり、右折して進む。次の信号で左折するが、ここが日光街道と奥州街道の追分で、説明板が立っていた。せめて石碑にならないだろうかと思う。
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追分で左折すると清住町通りで、直ぐ右側に上野本家がある。江戸時代には油売業としてスタートし、その後副産物の油粕を肥料として農家に販売しながら肥料店として基盤を固めてきたようである。現在は株式会社上野の看板を掲げている。
この辺りは駐車場が多く、右方向にある延命院への道が分からず、うろついた。延命院の山門前には「蒲生君平先生少年時代修学の寺」と刻まれた石碑があり、中に入ると延命地蔵堂がある。享保年間(1716?35)の建立で、宇都宮市最古の木造建築物の一つとのこと。本堂の方に廻ると、黒色の犬が鎖に繋がれていて、激しく吼えられたが、誰も出てくる気配は無かった。
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街道に戻ると、左側には住居に挟まれて三峰神社があった。少し先は、また小さな枡形になっていて、右側に「琴平神社」と「桂林寺」が並んでいた。向って右側が四国の金比羅山を勧請した「琴平神社」である。
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左側は蒲生君平の墓や戊辰戦争戦死者の墓がある桂林寺の山門で、入って行くと端正な本堂があり、六角堂が配置されていた。蒲生君平の墓もあるとのことであったが、案内板がハッキリせず見つけられなかった。

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進むと、古くて立派な旧家の建物が建っていた。「食と空間の創造する店・たまき」の看板を掲げている。大きく「最中」の文字も見える。器と工芸品の店で、新しく出した最中も評判とのこと。道は松原二丁目で新里街道の追分となる。新里街道は左方向で、宇都宮から今市方面へ向かう道で、日光街道の杉並木を通らないバイパス的な道である。
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さらに進むと、松原三丁目の交差点である。少し複雑な交差点だ。写真は跨道橋の上から眺めたところである。ここから、また国道119号線を進んで行くことになる。進むと、ここにも立派な大谷石の蔵が建っていた。
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3Km近く日照りの厳しい国道を進んで宮環上戸祭町の信号に到達する。ここから先は桜並木となっていて歩道が一段高く遊歩道のようになっていて楽しくなる。基本的には桜並木であるが、もみじ、檜なども混じっている。
1Kmほど進むと、左側に「文星芸術大」のキャンパスが見えてくる。学校の創設は明治44年の私立宇都宮実用英語簿記学校創立に遡るが、大学としては平成11年開学で新しい。

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1.5Kmほど進むと桜並木が途絶え、釜川(かまがわ)の小さな流れを渡るが、ここで上戸祭から野沢町に入って行くことになる。野沢町に入って1Kmほど進むと左側に「光明寺」がある。江戸期は将軍の日光参拝時の休息所でもあったところである。
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創建は鎌倉時代で、源義経を慕う静御前が当地を訪れ納めた守本尊の薬師如来が、今でも安置されているという。立派な竜宮門があり、通ると自動でご詠歌が鳴り出したのにはビックリした。境内は植木の枝払いの最中であったが、「ぼけ封じ観音霊場」の表示があるのが、現在風でおかしかった。しかし、他人事とは言っておられない。
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光明寺を過ぎると、再び並木道だが、今度は檜が多く、徐々に杉も目立つようになってきた。そして、1Kmほど進むと「東北自動車道」と交差する。下を潜って進むことになる。
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だんだん、並木の植木も密度をまし、益々気持ちの良い道になってきた。信号を2つ通り越すと、ようやく徳次郎町に入った。時計を見ると3時を過ぎていたので、今日はここまでと「上金井」と書かれたバス停で宇都宮駅行きを待った。10分ほどでバスがやって来た。
20分ほどで、宇都宮の市街に戻ってきた。二荒山神社を訪れようと「裁判所前」でバスから下り、歩き始める。左下の写真は大通りの「本町交差点」である。駅のほうに歩いて行くと、左手に大きな真新しい鳥居が建っていた。延喜式内社で、下野国一宮である。
宇都宮の語源となった神社である。いちのみやが転訛して宇都宮となった説と中世の奥州攻めの時、武将がここで祈願したことから、討つの宮が宇都宮になったとの説があるようだ。
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長い階段が続いている。途中の踊り場から一層傾斜が急になる。上り終えて、旅の無事を祈る。二礼二拍手一礼。
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階段の上から眺めると改めて高さが感じられる。大通りに戻って、駅に向う。既に日も傾き、夕暮れも近い。だいぶ日が短くなったものだ。
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駅が近づき、田川のほとりにある宝蔵寺の特徴のある鐘楼門が見えて来た。鐘は宇都宮氏の寄進と伝えられており、「およりの鐘」と呼ばれていて、市の指定文化財と成っている。身分の高い人が訪れた際に、鐘をつくことからおより(お寄り)の鐘と呼ばれるようになったとのこと。
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宇都宮駅前の田川に架かる「宮の橋」を渡る。橋から田川を見ると、両側にサイクリングロードが設けられていて、夕暮れ近い川面には薄っすらと街の建物を映し出していた。
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ようやくJR宇都宮駅である。時刻は16:25であるが、駅前のモニュメントは、既にシルエットを写すのみである。
駅で列車の時刻を見ると、湘南新宿ラインの厨子行きが16:57で30分ほどあるが、乗ればゆっくり寝て帰れると、待つことにした。