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2009.07.19

金沢(青柳)から下諏訪

本日の万歩計37,879(24.62Km)

甲州街道を歩く旅は7月19日に下諏訪に無事到着し、完了。

今日は、3連休の真ん中であるが、小雨がパラつく天気予報である。
あと1回で甲州街道は歩き終えるが、今日を外すと夏の暑さが迫ってきているので、秋まで持ち越しになるとの思いもあり、決行を決意した。
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前回と同じ八王子発6:35の松本行きに乗り、9:24に青柳駅に着いた。早速国道となってしまった甲州街道に復帰して金沢宿を歩き始める。金沢宿は宿を国道が貫いたため、ほとんど昔の雰囲気が残っておらず、道路わきに時々街道風の建物が残っているに過ぎない。
国道を進んで行くと、旧家とおぼしき家が建っていて、庭先に大きな石があり、その前に穴の開いた馬繋ぎ石が置かれていた。かつての賑わいを想像させる。
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1kmほど国道を進んで宮川を金沢橋で渡り、直ぐ右に曲がり、もと枡形であった道を進む。元の国道に復帰するところに「権現の森」と石碑の建っている場所がある。説明板によると、この権現の森の由来は文化二年(1805)に金沢宿より幕府に提出した「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」の中に「宿持鎮守 除地 拾六間四方 金山権現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」とあり、この権現の森と石祠が報告されている。その祠は今でも鳥居の正面に鎮座し、また、その左側には、奉納された御嶽座王大権現、不動明王、摩利支天、牛頭天王などの石仏が並んでいる。
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「権現の森」を過ぎると、また国道歩きが続き1Kmほどで左にセブン・イレブンを見て進むと、左前方にピンク色をした虹色のメルヘンというホテルとともに、こんもりした森が見えてくる。木船の一里塚である。大きくホテルの裏側を通って迂回する以外には一里塚には辿り着けない。やむなく、遠くから写真を撮って先に進む。
一里塚を過ぎても国道歩きは続くが、突然民家の前に大きな布袋さんが現れた。他には、道祖神などのかすかな当時の残り香を残すのみ。進んで行くと、ようやく「木船(きぶね)」の交差点に着き、ここからは木船の集落が始まる。
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ようやく長い国道歩きも終わり、右にターンして国道を離れ、急な坂道を上って行くと、大きな石碑が建っていたが、風化していて文字は読めない。小さいながらも御柱らしきものも立っている。そして前方には東洋バルブ茅野工場へと向かう立派な橋が見える。
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東洋バルブへの橋を潜ると、宮川に沿った静かな道になる。腕を振り振りウォーキングを行っている女性に出会い、お互いに挨拶をして通り過ぎる。約1Kmほどのぞかな道が続くと、右側から県道の197号線が合流して、さほど広い道路ではないのに車の通りが激しくなる。抜け道として利用されているのだろうか。歩道もなく歩き難い。1Kmほどで宮川坂室の交差点で合流するが、その交差点脇には古い石仏群があった。
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宮川坂室交差点を過ぎると、直ぐに「弓振川」を「建倉橋」で渡る。川の名も橋の名も歴史を感じさせる名前である。少し進むと、向こうに中央高速が見えてくる。茅野の町も近づいた。
中央高速の高架が近づくと、諏訪のインターが近いせいか交通量が増え、狭い歩道は歩き難い。ようやく高速道路をくぐって宮川の交差点に着く。ここで国道から右に分かれて進むと、三輪神社がある。同じ境内に「鈿女神社(うずめじんじゃ)」もある。鈿女神社の祭神は古事記や日本書紀に書かれている天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸の前で舞を舞った「天鈿女命(あまのうずめ)」で後には猿田彦神と共に「道祖神」として祭られるようになり、「天鈿女命」の面は狂言の面としていわゆる「おかめ面」となった。境内の片隅には「明治天皇御小休所」の碑もある。
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上川橋を渡ると、そろそろお昼時になり、手ごろな食堂を探しながら進む。茅野駅が近づいてきて、うなぎを焼くにおいも漂ってくる。今日は「どようの丑」でもある。一軒「うなぎ」と書かれた旗の立った店を見つけ、入ったが蒲焼を売る店で、奥様連中が買いに来ている。残念ながら食堂ではない。やむなく茅野駅の方に進み、「蕎麦屋」を見つけて、昼食をとった。うなぎは逃したが、なかなか美味しい蕎麦であった。
昼食を終えて街道に戻り進んで行くと、国道に再び合流し奇妙な形のコンクリートの建造物を発見する。中央高速の諏訪インターで降りた車が、蓼科・白樺湖方面へ向かうのに茅野市街地を避けるためのバイパスを造り、この街道の下を「あけぼの隧道」と言うトンネルで通っている。そのトンネルの換気口である。
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この後、国道を2Kmほど進むことになるが、上原頼岳寺の交差点に達すると、柿澤翁、土橋翁の筆塚がある。次の交差点は信号も無い小さな交差点だが、ここを右折すると、真っ直ぐにJR中央線のガードに向う道になる。
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ガードをくぐると、急な上り坂になり、左にカーブして上って行くと大門街道追分で、常夜燈、石碑が建っている、写真で右側が上ってきた甲州街道で、左は旧大門街道で白樺湖を経て中山道の落合まで続く。進むと、右の山の斜面には村社姫宮神社の急な階段が見えていた。
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少し先には、神戸公民館。あまりにも立派過ぎて街道のイメージには合わない気がする。そして、直ぐ先の右側に「頼重院」がある。諏訪頼重は武田信玄に攻められ、桑原城で破れ、甲府で切腹させられた。墓は甲府の東光寺にあるが、ここにも菩提寺として頼重院が建てられたのである。頼重を最後に諏訪氏は滅亡するが、娘の諏訪御料人(NKK大河ドラマでは由布姫)が信玄との間に勝頼を儲けた。
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静かな良い感じの道が続き、高台で住み心地の良さそうな住宅街とも言える。神戸の一里塚は、もう石碑だけになってしまっていたが、江戸から51番目の一里塚であり、甲州街道ではあと2つを残すのみになった。
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「雀おどり」の付いた蔵が建っていた。中山道の塩尻あたりには雀「おどり」の飾りの付いた屋根が多く見られるが、この辺りでは珍しいのではなかろうか。そして、旧国道への合流点の手前には秋葉山の石柱とともに双体の道祖神が建っていた。
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旧国道に入ると、古い様式を残した呉服屋があり、また高原はちみつの店がショーウインドウでミツバチの巣箱の構造を見せていた。
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現在の国道に合流して1Kmほど進むと、元町の交差点で街道は国道から右に別れてゆくが、その分岐点に宮坂醸造眞澄工場がある。中はお土産用のお酒の販売所になっていて、利き酒もできるコーナーも確保されている。
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元町の交差点を過ぎると、右手に浄土宗の「貞松院」。そして手長神社の長い参道が見えてくる。
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次に、形の良い松の木が見えてくる。諏訪市天然記念物の「吉田のマツ」で、推定樹齢270?300年と書かれている。説明板には、高島藩士吉田式部彦衛門が大阪城守備の任務から帰ったときに持ち帰ったと伝えられ代々吉田家の庭にあったものを昭和の初めにこの地へ移したもので、市内最年長寿と書かれている。それでは、江戸時代の旅人は観られなかったことになる。
上り坂を登って、進んで行くと「先宮神社」がある。先宮神社は古くは鷺宮神社と言っていて諏訪大社より古く、諏訪大社がこの地にやってきたとき、抵抗したが終には服従を余儀なくされ、他の場所へ移ることを許されず、境内前の小川には橋も架けられなかったと伝えられている。その後はまた、静かな街道が続いて行く。
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進んで行って、武居商店の脇には大きなケヤキの木が立っていた。注連縄まで貼られた大きな木であるが、裏に廻るとほとんどが損なわれていて、道路側の僅かな部分のみで生きていることが分かった。そして、裏側の狭い空き地には複数の石碑が建っていた。やはり、何か特別な場所ででもあったのだろうか。
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武居商店を過ぎて、坂道を下ると家の脇からちらちら見えていた諏訪湖の眺望が一気に広がる。江戸期の旅人も、諏訪湖の眺望で晴れやかな気分になったこととであろう。まだまだ、街道は続いているが両側にも立派な住居が並ぶ。
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街道の左側に、とても立派な家が見えてきた。前に突き出た灯篭も立派である。隣の庭にいた若い婦人に、どのようなお家なのかたずねたが、嫁いで来たばかりで良く分からないとのことであった。後に調べたら旧家の橋本家で、古くにはここに茶屋があったとのことであった。
右の土手には「明治天皇駐車址」の碑が、青竹の茂みに隠れそうになっていた。
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江戸から53番目の一里塚が現れた。52番目の一里塚は見逃して、この53番目の一里塚は甲州街道では最後の一里塚である。そして小さな川を渡ったら、「承知川の記」と書かれた説明板と石垣として埋め込まれた大きな石板があった。説明版には、
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
輝石安山岩 重量約拾参屯伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する
とある。
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突然に諏訪大社の秋宮まえに飛び出した。突然にオルゴールが鳴り出し、時計を見ると午後3:00であった。甲州街道もあと、百メーターで終わりである。その前に無事の旅を感謝して諏訪大社にお参りする。記念撮影も行った。鳥居の前で写っているの一緒に歩いた先輩で、大注連縄の前が小生である。本殿の両側には御柱が建っている。

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諏訪大社を後にして、最後の100mを中山道との合流点に進む。ここで甲州街道はお終いである。これで、東海道、中山道に続き甲州街道を完歩した。
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前2回は一人旅であったが、今回は会社の先輩と二人旅で、今までとは違った雰囲気も味わえた。無事に終わった感激に浸りながらも疲れた体に鞭打って、下諏訪駅に進む。途中でお土産の「塩羊羹」を買い、下諏訪駅には15:45に到着し、16:10発の特急あずさで帰宅の途についた。

2009.07.11

教来石から金沢(青柳)

本日の万歩計34,956(22.72Km)

kyoraishi_01.jpg今日も、朝4:40に自宅を出て韮崎に8:28に着き、8:38発のバスで40分掛けて前回歩き終えた下教来石(しもきょうらいし)に着く。韮崎を出発したときは乗客は10人程度であったが、最後は私たち街道歩きの2人のみとなった。
ところで、教来石(きょうらいし)の地名のいわれは、昔 日本武尊が当地を訪れ、村はずれの大石に腰掛けて休み、この石を村人が「経て来石(へてこいし)」と呼び、これを村の名前にしたが、経を教と書き誤りこの名前になったと言うが、ハッキリしない。
ともかく、バスを下り、9:30に出発。直ぐに国道20号の左側に「明治天皇御休憩所址」の碑を発見。通り過ぎて100mほどで国道から右の旧街道に入って行く。200mほどで左側に諏訪神社がある。本殿の中の彫刻は素晴らしかったが、周りに目の細かい網が貼られていて撮影は色々試みたが果たせなかった。
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この辺りは見晴らしが良く、下の方の田園地帯が良く望見できるが、明治天皇が訪れられたときは田植えの季節で、しばし田植えの情景を眺められたという。少し先には「明治天皇田植御通覧之址」の碑が建っていた。
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さらに先には、「御膳水跡」の碑があり、明治天皇がここの水を誉めたと書かれていたが、現在の旅人にはコンビニで水を買うより仕方が無い。とても立派な家も建っていた。
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1.5Kmほど進んで国道に出たところには教慶寺。国道を100mほど進んで再び右に入って行くと上教来石の集落である。街道らしいなまこ壁の蔵がある。旧家らしい豪壮な家であった。
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松の枝を見事に仕立てた家がある。少し先で大目沢橋を渡ると、山口の関所跡である。信州口を見張った国境の口留番所である。説明板には下記の記述があった。
ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永二年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。
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関所跡を過ぎると、田園風景が1Kmほど続く。植えられた稲も順調に育ち、風が吹くと葉先が美しい波を描く。
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国界橋の手前で国道に出ると、今回の歩行で唯一のコンビニのセブンイレブンがあり、その脇には、「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」の教来石出身の山口素堂のとても大きな句碑がある。田中角栄書、世話人 金丸信とある。しばし、当時の政界に思いを馳せる。
コンビニの横の運送会社のサンコーラインの駐車場の中を通って草道になってしまっている旧道を進み、旧国界橋を渡る。この橋を渡ったところには、街道歩きの人達にはすっかり有名になった電撃ネットがある。このネットは猿の侵入を防ぐためであるが、7000ボルトのパルス状の電流を流していて、触れると激しい電撃を受ける。電圧は高くても電流は小さいので触れても生命にかかわることは無いが、やはり恐ろしい。棒の黒い部分を持って開け閉めするように注意書き(我々は予備学習してきた)がなされているが、教来石側からは分からない。写真は渡り終えてからふり返って撮ったものである。公道にもかかわらず恐ろしく感じて、やむなく国道の新国界橋を渡る人も多いようであるので、注意書きは両側に、しかも図入りで親切なものが欲しいと感じた。
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国道に出て100mほどで右に急坂があり、上って行くと「日蓮上人の高座石」と書かれた説明板のある場所がある。説明板によれば日蓮上人が流罪を許され、佐渡から鎌倉に帰り、その後ここ下蔦木に立ち寄ったとき悪疫が流行っていた。そこで、三日三晩この岩上に立って説法と加持祈祷を行い、霊験を表わしたので村人全て日蓮に帰依し、当時真言宗であった真福寺の住職も名を感応から日誘と改め日蓮宗に改宗したと書かれていた。進むと、日蓮宗に改宗したという、真福寺の立派な鐘楼門が見えてきた。境内では紫陽花が涼しげに揺れていた。
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進んで行くと、真下に国道を見ながら進むようになり、応安の古碑と書かれた石碑の建つ場所があった。応安とは北朝時代の1368年からの8年間を指すが、この当時の石碑群を集めたようである。そして、少し先には「古代米の里」とかかれた木の看板が有り、右の土手をのぼると、少し黒っぽい葉を持つ稲が植えられていた。
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国道を真下に見ながら進んで行くと「甲州街道・蔦木宿」の看板があり、ここから蔦木宿に入って行くことになる。小さな川を渡ると、大きな常夜燈を2基配して参道とした石のお堂があった。宿の入口の守り神ででもあったのだろうか。
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100mほど進むと、枡形の説明碑があり道は左に曲がるが、そちらに進む前に「三光寺」に立ち寄ることにした。曹洞宗のお寺で、参道の植木の緑と石畳が美しく、お堂、鐘楼も立派である。
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枡形に戻り、国道を100m進むと、石の鳥居が見えてくる。十五社大明神である。鳥居をくぐって石畳の道を進むと本堂があり、その中には「めどでこ」がある。「めどでこ」とは棒に縄のリングが付いているもので、御柱祭りで大木の先端に角のように付けるものである。この十五社大明神も御柱祭りを行うのである。

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国道に戻って進むと、本陣の門と、その脇に石碑がある。本陣の建物は無くなっていて、門のみが残っている。
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さらに進むと、蔦木宿の大きな案内板があり、この案内板にも描かれている北の枡形に向って歩いて行く。「枡形道路」の石碑があり、分かり良い。
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枡形の出口には沢山の石仏があり、国道に復帰する。700mほど国道を進むと、また左側に外れて、岩田建材の作業用道路のような堤防の道を進む。再び国道に合流するところにも道祖神や庚申塔がある。ちょうど昼時で、ここの木陰で今日の昼食をとることにした。今日はレストランが期待できないものと考え、おにぎり等をコンビニで買込みリュックに入れてきた。
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600mほど国道を進むと、右に逸れて旧道への坂道を上って行き、机の集落に入って行く。美しい家並みを眺めながら進むと、国道に合流して瀬沢大橋を渡る。橋を渡ると直ぐに国道と分かれて左折して進む。
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瀬沢の郵便局を過ぎると、左手方向に石段が続く神社があり、その先には古い様相の「吉見屋」というお店がある。吉見屋の前の自動販売機で冷たい飲み物を買い、飲み干してここから始まる急坂を上って行く。
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急坂は短く、上り終えると道は左にカーブして小さな沢を渡るが、本当の登りはここからであった。民家も無くなり坂道は森の中に入って行く。道祖神が見送っている。登りは辛いが、立ち止まると風が涼しく心地よい。標高もだいぶ高くなってきたようだ。この辺り一体は瀬沢古戦場で、天文11年2月(1543/2)、北から信玄を攻めようとした小笠原・諏訪・木曽・村上の4将は、動きを察知した信玄に奇襲され敗走したところである。
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峠を過ぎると高原の小さな「とちの木」の集落がある。八ケ岳もずいぶんと大きく見えてくる。集落を過ぎて、静かな高原の道が続く。
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街道は、また峠道の雰囲気になり、石仏が旅の無事を願って見送ってくれているようだ。立派な松の木の並びが見えてきたと思ったら「とちの木風除林」の説明板が立っていた。説明板によれば、とちの木では風当たりが強く五穀は実らず、寛政年間(1789?1800)に村では高島藩へ願いを出して、防風林として外風除けを村の上に仕立てた。そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っているとのこと。
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防風林から少し先には、江戸から四十七里の重修一里塚がある。そして、今日始めての甲州街道コースの立て札がひっそりと立っていた。
街道の両側は高原の別荘地の様相になってきて、三菱マテリアルの私有地にぶつかり、甲州街道は行き止まりにになるので、左折して迂回して進む。広大な土地である。
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三菱マテリアルの敷地を過ぎると、原の茶屋の集落である。500mほど進むと、右側に明治天皇御膳水の碑があり、冷たい水が流れていた。飲んでみたい誘惑に駆られたが、飲んでも良い旨の掲示もなく我慢した。
集落の終わりには、新しい双体の道祖神、庚申塔の石碑などが集められていた。
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原の茶屋の集落を過ぎると、カゴメ富士工場の裏を進む道になる。カゴメの工場を過ぎ、道が下りにさしかかると「御射山神戸(みしゃやまごうどう)」の集落である。この辺りも松の植木の手入れが良く行き届いている。
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道端には多くの石仏が集められているのを見ながら進むと、国道に合流する。合流した国道の右側には「小川平吉先生生誕之地」の大きな石碑があったが、知らない人物である。後で調べたら、政治家・弁護士で長野県生まれで1903年衆議院議員に当選して、司法大臣、鉄道大臣等を歴任したが、1929年の私鉄疑獄事件に連座して入獄した人物であった。大きな石碑に見合った人物か、はなはだ疑問である。
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国道を進んで行くと、御射山神戸(みしゃやまごうどう)の信号が現れ、少し先の「すずらんの里駅」への入口の交差点には八幡神社がある。
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300mほどで、街道は国道より左に分かれる。分岐点には石碑が建っているが、文字は風化が進んでいて読めない。少し先には、馬頭観音の石碑群がある。真新しい石碑が建てられていたのは驚きである。
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馬頭観音を過ぎたあたりから、街道は上り坂になり樹林帯の様相を示し始め、直ぐに欅(けやき)の大木が見えてくる。日本橋から四十八番目の御射山の一里塚である。塚は道の両側にあり、ほぼ完全な形を保っているが、進行方向右側の欅は明治初期に枯れ、左側のみ慶長年間から380年間を生き延び、目通り幹囲6.9m、樹高25mとなっている。またここには標高917mの標柱も立っていて、高原の風は冷たく汗ばんだ体には心地よい。
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林を過ぎて、家並みが現れ始めると、富士見町上水道・神戸第二貯水池と書かれた門柱が建っていた。やがて、エプソンの大きな社員寮が見え始め、国道に合流する。
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国道に出て、青柳駅の方に折り返すと、線路の向こうに「穂屋之木大明神」と「鬼子母神」の像が見える。そして、無人の青柳駅に着く。時刻は午後3時で、30分ほどで高尾行きの電車が来た。
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