2009.06.27
韮崎から教来石
本日の万歩計42,896(32.88Km)
今日は、4:40に自宅を出て、八王子6:35発の松本行きで韮崎には8:28に着く。ずいぶんと、遠くまで来たものだ。韮崎はサッカーの中田英寿の出身地であるためか、駅前広場にはサッカー少年の像があるが、これを横目で見て、ガードをくぐって駅出口と反対方向に進む。ガード内には韮崎高校美術部の生徒が描いた絵が6つある。落書きを防ぐため、先に良い絵を書いておくことにしたという。
土曜日の早朝で、街道に通じる道は人通りも無くひっそりとしていた。街道に出る直前に右折して雲岸寺に寄る。須玉に海岸寺という寺があるそうだが海抜は1000mで、元来そちらが雲岸寺で、ここが海岸寺となるはずが、京都から命名書を持ってきた僧が間違えたとの言い伝えがあるそうだ。
雲岸寺そのものは、普通のお寺だが、右側の崖に窟観音という観音堂がある。中は、3部屋に分かれていて、千体仏、次に窟観音本尊聖観世音菩薩、一番奥は弘法大師御尊像が祀られていた。千体仏と観音本尊には、お賽銭を投げ旅の無事を願った。
観音堂の横には洞穴が口を開けていて、石仏が並んでいる。奥に進むと、反対側に出られ、韮崎駅のホームが見える。下に下りる急な階段もあったが、下りると駅に逆戻りなので引き返した。
街道に出て歩く。市役所東の交差点までは電信柱のない街並みが美しい。一ツ谷の交差点で国道に合流して歩いて行くと、ますます右の七里岩の威容が迫ってくる。崖の崩落防止の工事は行っているとはいえ、このような崖の下に住むのは勇気が要りそうだ。
さらに進むと、武田信玄が晴信と名乗っていた若いころに治水工事を行った史跡の「十六石」の史跡が残っていた。大きな石も一つ残っていたが、ずいぶんと大きな石を用いたものだと思う。
やがて、国道から離れ下祖母石の集落に入って行く。街道の面影を思わせる美しい家並みが続いている。
家並みが切れ、田園風景が目に入ったころ、突然赤みがかった南無阿弥陀仏と刻まれた石仏が現れた。背景の七里岩の緑、田圃のみどりと相まってよく映えている。集落を過ぎて国道に近づくと、九頭竜大神を筆頭に石仏が集められている場所があった。やはり治水を祈るためのであったのだろう。
国道に合流して、500mほども国道を戻って釜無川に架かる桐沢橋を渡る。対岸から盛んにクレー射撃の銃声が聞こえる。橋の左側には、鮎釣りを楽しむ釣り人が大勢竿を操っていた。
橋を渡って、右の方に進むと直ぐに「山梨県立韮崎射撃場」の看板があった。釜無川に向って射撃するので、対岸に危険はないのかと心配になるが、クレー射撃では最大到達距離は235mとのこと。しかし、周辺の人家では毎日のように響く銃声が、うるさくないのだろうか。道なりに進んで桐沢に架かる、新しい橋を渡って進んで行くと、道路わきに水量の豊富な水路が現れる。この水路は徳島堰と呼ばれ16Kmも続いていて、これから円野町上円井(まるのちょうかみつぶらい)まで延々と続く。徳島堰については後に詳しい説明板が設置されていた。
街道は宝蔵寺でしばし県道と別れ、1Kmほどで合流して戸沢を渡る。徳島堰は戸沢の下を暗渠となって跨いでいる。作られた江戸時代には大変な工事であったことだろう。
さて、ここで大変な間違いを犯した。戸沢を渡って進む道を間違え、戸沢に沿って延々と進んでしまい40分ほどロスした。途中には熊に注意の看板があったが、樹林帯の気持ちの良い道でもあり、良い気になって進んでしまい、引き返す羽目に落ちいったのである。ようやく街道に復帰して、下円井(しもつぶらい)の集落に入って行く。街道らしい家並みが現れほっとするが、お昼近くになり、お腹も空いてきた。
集落を過ぎ、田園地帯に差し掛かると、「かかしの里」の大きな看板があり、風で動く大きなモニュメントが立っていた。残念ながら風は吹いておらず、動く気配は無かった。進んで行くと徳島堰は寺沢と交差して、「寺沢サイフォン」として寺沢の下を潜って続いている。
やがて、徳島堰に沿って桜並木が現れる。さほど長くは無いが、ほどよい樹齢の桜でお花見に最適と思える並木であった。少し向こうには国道20号が見えてきて、下をくぐる歩行者通路で横断すると、上円井集落である。ここで街道は徳島堰と別れるが、進んで行くと「徳島翁のおはかみち」と書かれた石碑の建っている、細い路が左に現れた。
60mほどで、妙浄寺というお寺があるが、その上の国道沿いに「なかよし食堂」があるのを調べておいたので、何はともあれ食事をと上っていったが、既に潰れたようであった。仕方が無いので、妙浄寺の鐘楼の下で手持ちの菓子パンで空腹を少し満たして、次に食べられるところを探すこととした。ここのお寺の本堂の左には徳島堰を作った徳島翁と妻の墓が建っている。徳島兵左工門は江戸深川の商人で豊臣家の残党と言われ、堰を建設するに当たりその完成を祈念して深川の法華山浄心寺第二世日通上人の開眼による七面大明神をその守護神とし、この地に安置して建設に励んだ。しかし幕府の圧政にあい、この地を去り、その後を妻である妙浄尼に委ねた。それにより身延山法主日莚上人より妙浄寺の名称を賜り、この寺となったとのこと。徳島堰の完成により、どれだけ多くの水田を作ることができたかを考えると、私財をなげうって堰を作る人をいじめる当時の幕府役人の狭量には腹がたつ思いである。しかし、彼は後世にちゃんと名を残すことはできたのだから良しとするべきであろうか。
街道に戻り、進んで行く。300mほど進むと、明治天皇の小休所となった内藤家。立派な門から中を覗くと空き地であったが、「明治天皇園野小休憩所」の石碑が見えた。
上円井(かみつぶらい)の交差点で国道に合流して、小武川を渡る。橋の中ほどには「北杜市」の看板。入って行く宮脇の集落は、静かで小さな集落で食堂を見つけるのが気になって写真も撮らずに通り抜け、再度国道に合流して進み、武川町牧原への入口に来た。「武川村米の郷、武川町農産物直売センター」と看板の出ている建物があり、軽食ぐらいは取れるのではと入ったが、野菜や米の販売のみ。トイレがあるのは街道歩きにはありがたいのだが。しかたが無いので、隣の「山崎デイリーストア」で寿司を買ってきて、厚かましくも直売センター内の椅子に座って食べ、今日の昼食とした。やれやれ。
牧原の集落は800mほどで国道に戻るが、庭の植木の手入れが行き届いていて、風情のある集落だ。どうしてこのような形ができたのだろうと思うような松の木も見ることができた。
牧原の交差点を過ぎると、大武川を渡る。河原には、大きな石がごろごろとしている。堤防の石積みも大きな石でダイナミックな感じがした。国道から左に分かれて武川町三吹の小さな集落を通り過ぎると、田圃のなかの水車小屋を望見しながら、萬休院への路を上って行く。
疲れた体にはキツイ急な上りである。登りつめると、京の寺のような石庭があったが、かつて樹齢450年と言われる国の天然記念物の「舞鶴松(まいづるまつ)」がない。ご夫婦で訪れた方にお聞きしたら、松食い虫ににやられて、終に昨年に枯れて切り倒されたとのこと。その後どうなったか1年ぶりに見に来られたとのことであった。
やむを得ず在りし日の「舞鶴松」を写した説明板を撮り、お寺を後にした。急な坂道を下り、街道に合流するところに、大きな石仏が建てられていて、下諏訪から進んできても良い目印である。
武川町三吹の集落も街道らしく美しい集落であるが短くて500mほどで終わってしまう。が、尾白川の堤防の道になったところには、「甲州街道一里塚、甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」と書かれた真新しい石碑が立っていた。後で調べたら宮脇の集落を過ぎて国道に合流する地点に「六里塚」があったようだが、見逃した。
尾白川橋を渡ると、国道の左側に「甲州街道 古道入口、はらぢみち」と書かれた案内の石板が立てられていた。この古道は江戸時代に甲州街道が整備される以前の道で、忘れ去られていたのを地元の人がを通れるように整備し復活したものとのこと。
草道で少し進むと3体の馬頭観音があり、その側面には「右かうふみち」「左はらぢ通」とある。その後で道は林の中に入って行くように続いていたが、突然葡萄畑の傍らを通るようになり、尾白川が左に沿うようになり、台が原下の交差点に出る。
国道を横切って進むと「台ケ原宿」で入口には日本の道百選、甲州街道、台ケ原宿とj書かれた看板が立っていた。やはり、綺麗な家並みの通りである。
樹形の立派な松の木が塀越しに見えていた。本陣は跡のみだが、隣には大きな秋葉常夜燈がある。しかし、この常夜燈は新しいので最近整備されたものかも知れない。
進んで行くと、台ケ原宿では有名な、造り酒屋の「七賢」がある。天保六年(1865)この酒蔵の母屋を新築の折、高遠城主内藤駿河の守から竹林の七賢人の欄間をいただき、その後七賢の銘柄を冠したとのこと。中に入ると醸造用水が流れていたので、飲んでみたが美味しい水であった。別に湧き水を汲む場所も作られていた。また、試飲、直売コーナーも設けられている。
七賢を過ぎると直ぐに「問屋場跡」があり、引き続き「明治天皇菅原行在所」の石碑があった。その向かいには、金精軒という和菓子屋がある。有名な信玄餅の元祖を作る店でもあり、店構えが江戸期風を保っている。
金精軒を過ぎても、素晴らしい家並みが続き、明治24年に作られた登記所跡、田中神社とその境内に遷座した祭神が日本武尊の荒尾神社と説明板、修験智拳寺跡などがある。宿の終わりが近づくと「つるや旅館」、「梅屋旅館」が建っていたが、旅籠時代から綿々と続けているのだろうか。写真左には古い講中札も見える。
台ケ原宿を過ぎ、白州小学校脇の道を進む。田圃の中を進むと、土手の草を野焼きにしている場所を通った。かなり激しい煙で通り過ぎるには大変な迷惑であった。旧甲州街道といえども天下の公道であり、通行に差し支えある行動はどうかと思うのだが。そして、前沢上の交差点が近づいたころ、道路の左側に草に半分隠れて、玉斎吾七と言う人の石碑があった。新しい石碑だが説明も無く、後にネットで調べたが、どのような人かは不明である。さほどの有名人でもない人の新しい石碑を建て、草に隠されていても誰も気にせず、説明も無いのは不思議である。
国道の前沢上の交差点に差し掛かり、歩いて行くとサントリーの「白州製樽工場」の看板がある。直ぐに右に旧道の入口に入って行く。夜間照明も付いた立派な白州総合グラウンドを右に見ながら進み、荒田の集落に入って行く。田舎暮らし情報館というリサイクルショップがあり、面白い掘り出し物がありそうに思えたが、疲労に加えて、足も痛くなってきて、マメができる前触れでないかと、気になりだし、とても寄る余裕はない。
下教来石(しもきょらいし)の集落を、ともかく帰りのバスの停留所に着くことを思いながら進む。写真撮影の頻度も極端に少なくなる。やっとの思いで「下教来石の交差点」にたどり着くが、バスの停留所が見つからない。聞こうと思っても誰も見当たらなかったが、何とか庭に出ている婦人を見つけることが出来、交差点から30mほど韮崎方面に戻ったところであるのを知る。山梨交通の専用のバスが折り返せる広さがある場所があった。時間は16:40でバスは17:33である。ベンチも無く日陰もない場所で1時間以上もひたすら待ち続けることとなったが、韮崎駅には18:13に着き、やっと帰宅の電車に乗ることが出来た。
今日の歩行距離は30Kmを越え、流石に疲労困憊であった。