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2009.06.27

韮崎から教来石

本日の万歩計42,896(32.88Km)

今日は、4:40に自宅を出て、八王子6:35発の松本行きで韮崎には8:28に着く。ずいぶんと、遠くまで来たものだ。韮崎はサッカーの中田英寿の出身地であるためか、駅前広場にはサッカー少年の像があるが、これを横目で見て、ガードをくぐって駅出口と反対方向に進む。ガード内には韮崎高校美術部の生徒が描いた絵が6つある。落書きを防ぐため、先に良い絵を書いておくことにしたという。
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土曜日の早朝で、街道に通じる道は人通りも無くひっそりとしていた。街道に出る直前に右折して雲岸寺に寄る。須玉に海岸寺という寺があるそうだが海抜は1000mで、元来そちらが雲岸寺で、ここが海岸寺となるはずが、京都から命名書を持ってきた僧が間違えたとの言い伝えがあるそうだ。
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雲岸寺そのものは、普通のお寺だが、右側の崖に窟観音という観音堂がある。中は、3部屋に分かれていて、千体仏、次に窟観音本尊聖観世音菩薩、一番奥は弘法大師御尊像が祀られていた。千体仏と観音本尊には、お賽銭を投げ旅の無事を願った。
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観音堂の横には洞穴が口を開けていて、石仏が並んでいる。奥に進むと、反対側に出られ、韮崎駅のホームが見える。下に下りる急な階段もあったが、下りると駅に逆戻りなので引き返した。
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街道に出て歩く。市役所東の交差点までは電信柱のない街並みが美しい。一ツ谷の交差点で国道に合流して歩いて行くと、ますます右の七里岩の威容が迫ってくる。崖の崩落防止の工事は行っているとはいえ、このような崖の下に住むのは勇気が要りそうだ。
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さらに進むと、武田信玄が晴信と名乗っていた若いころに治水工事を行った史跡の「十六石」の史跡が残っていた。大きな石も一つ残っていたが、ずいぶんと大きな石を用いたものだと思う。
やがて、国道から離れ下祖母石の集落に入って行く。街道の面影を思わせる美しい家並みが続いている。
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家並みが切れ、田園風景が目に入ったころ、突然赤みがかった南無阿弥陀仏と刻まれた石仏が現れた。背景の七里岩の緑、田圃のみどりと相まってよく映えている。集落を過ぎて国道に近づくと、九頭竜大神を筆頭に石仏が集められている場所があった。やはり治水を祈るためのであったのだろう。
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国道に合流して、500mほども国道を戻って釜無川に架かる桐沢橋を渡る。対岸から盛んにクレー射撃の銃声が聞こえる。橋の左側には、鮎釣りを楽しむ釣り人が大勢竿を操っていた。
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橋を渡って、右の方に進むと直ぐに「山梨県立韮崎射撃場」の看板があった。釜無川に向って射撃するので、対岸に危険はないのかと心配になるが、クレー射撃では最大到達距離は235mとのこと。しかし、周辺の人家では毎日のように響く銃声が、うるさくないのだろうか。道なりに進んで桐沢に架かる、新しい橋を渡って進んで行くと、道路わきに水量の豊富な水路が現れる。この水路は徳島堰と呼ばれ16Kmも続いていて、これから円野町上円井(まるのちょうかみつぶらい)まで延々と続く。徳島堰については後に詳しい説明板が設置されていた。
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街道は宝蔵寺でしばし県道と別れ、1Kmほどで合流して戸沢を渡る。徳島堰は戸沢の下を暗渠となって跨いでいる。作られた江戸時代には大変な工事であったことだろう。
さて、ここで大変な間違いを犯した。戸沢を渡って進む道を間違え、戸沢に沿って延々と進んでしまい40分ほどロスした。途中には熊に注意の看板があったが、樹林帯の気持ちの良い道でもあり、良い気になって進んでしまい、引き返す羽目に落ちいったのである。ようやく街道に復帰して、下円井(しもつぶらい)の集落に入って行く。街道らしい家並みが現れほっとするが、お昼近くになり、お腹も空いてきた。
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集落を過ぎ、田園地帯に差し掛かると、「かかしの里」の大きな看板があり、風で動く大きなモニュメントが立っていた。残念ながら風は吹いておらず、動く気配は無かった。進んで行くと徳島堰は寺沢と交差して、「寺沢サイフォン」として寺沢の下を潜って続いている。
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やがて、徳島堰に沿って桜並木が現れる。さほど長くは無いが、ほどよい樹齢の桜でお花見に最適と思える並木であった。少し向こうには国道20号が見えてきて、下をくぐる歩行者通路で横断すると、上円井集落である。ここで街道は徳島堰と別れるが、進んで行くと「徳島翁のおはかみち」と書かれた石碑の建っている、細い路が左に現れた。
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60mほどで、妙浄寺というお寺があるが、その上の国道沿いに「なかよし食堂」があるのを調べておいたので、何はともあれ食事をと上っていったが、既に潰れたようであった。仕方が無いので、妙浄寺の鐘楼の下で手持ちの菓子パンで空腹を少し満たして、次に食べられるところを探すこととした。ここのお寺の本堂の左には徳島堰を作った徳島翁と妻の墓が建っている。徳島兵左工門は江戸深川の商人で豊臣家の残党と言われ、堰を建設するに当たりその完成を祈念して深川の法華山浄心寺第二世日通上人の開眼による七面大明神をその守護神とし、この地に安置して建設に励んだ。しかし幕府の圧政にあい、この地を去り、その後を妻である妙浄尼に委ねた。それにより身延山法主日莚上人より妙浄寺の名称を賜り、この寺となったとのこと。徳島堰の完成により、どれだけ多くの水田を作ることができたかを考えると、私財をなげうって堰を作る人をいじめる当時の幕府役人の狭量には腹がたつ思いである。しかし、彼は後世にちゃんと名を残すことはできたのだから良しとするべきであろうか。
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街道に戻り、進んで行く。300mほど進むと、明治天皇の小休所となった内藤家。立派な門から中を覗くと空き地であったが、「明治天皇園野小休憩所」の石碑が見えた。
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上円井(かみつぶらい)の交差点で国道に合流して、小武川を渡る。橋の中ほどには「北杜市」の看板。入って行く宮脇の集落は、静かで小さな集落で食堂を見つけるのが気になって写真も撮らずに通り抜け、再度国道に合流して進み、武川町牧原への入口に来た。「武川村米の郷、武川町農産物直売センター」と看板の出ている建物があり、軽食ぐらいは取れるのではと入ったが、野菜や米の販売のみ。トイレがあるのは街道歩きにはありがたいのだが。しかたが無いので、隣の「山崎デイリーストア」で寿司を買ってきて、厚かましくも直売センター内の椅子に座って食べ、今日の昼食とした。やれやれ。
牧原の集落は800mほどで国道に戻るが、庭の植木の手入れが行き届いていて、風情のある集落だ。どうしてこのような形ができたのだろうと思うような松の木も見ることができた。
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牧原の交差点を過ぎると、大武川を渡る。河原には、大きな石がごろごろとしている。堤防の石積みも大きな石でダイナミックな感じがした。国道から左に分かれて武川町三吹の小さな集落を通り過ぎると、田圃のなかの水車小屋を望見しながら、萬休院への路を上って行く。
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疲れた体にはキツイ急な上りである。登りつめると、京の寺のような石庭があったが、かつて樹齢450年と言われる国の天然記念物の「舞鶴松(まいづるまつ)」がない。ご夫婦で訪れた方にお聞きしたら、松食い虫ににやられて、終に昨年に枯れて切り倒されたとのこと。その後どうなったか1年ぶりに見に来られたとのことであった。
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やむを得ず在りし日の「舞鶴松」を写した説明板を撮り、お寺を後にした。急な坂道を下り、街道に合流するところに、大きな石仏が建てられていて、下諏訪から進んできても良い目印である。
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武川町三吹の集落も街道らしく美しい集落であるが短くて500mほどで終わってしまう。が、尾白川の堤防の道になったところには、「甲州街道一里塚、甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」と書かれた真新しい石碑が立っていた。後で調べたら宮脇の集落を過ぎて国道に合流する地点に「六里塚」があったようだが、見逃した。
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尾白川橋を渡ると、国道の左側に「甲州街道 古道入口、はらぢみち」と書かれた案内の石板が立てられていた。この古道は江戸時代に甲州街道が整備される以前の道で、忘れ去られていたのを地元の人がを通れるように整備し復活したものとのこと。
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草道で少し進むと3体の馬頭観音があり、その側面には「右かうふみち」「左はらぢ通」とある。その後で道は林の中に入って行くように続いていたが、突然葡萄畑の傍らを通るようになり、尾白川が左に沿うようになり、台が原下の交差点に出る。
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国道を横切って進むと「台ケ原宿」で入口には日本の道百選、甲州街道、台ケ原宿とj書かれた看板が立っていた。やはり、綺麗な家並みの通りである。
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樹形の立派な松の木が塀越しに見えていた。本陣は跡のみだが、隣には大きな秋葉常夜燈がある。しかし、この常夜燈は新しいので最近整備されたものかも知れない。
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進んで行くと、台ケ原宿では有名な、造り酒屋の「七賢」がある。天保六年(1865)この酒蔵の母屋を新築の折、高遠城主内藤駿河の守から竹林の七賢人の欄間をいただき、その後七賢の銘柄を冠したとのこと。中に入ると醸造用水が流れていたので、飲んでみたが美味しい水であった。別に湧き水を汲む場所も作られていた。また、試飲、直売コーナーも設けられている。
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七賢を過ぎると直ぐに「問屋場跡」があり、引き続き「明治天皇菅原行在所」の石碑があった。その向かいには、金精軒という和菓子屋がある。有名な信玄餅の元祖を作る店でもあり、店構えが江戸期風を保っている。
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金精軒を過ぎても、素晴らしい家並みが続き、明治24年に作られた登記所跡、田中神社とその境内に遷座した祭神が日本武尊の荒尾神社と説明板、修験智拳寺跡などがある。宿の終わりが近づくと「つるや旅館」、「梅屋旅館」が建っていたが、旅籠時代から綿々と続けているのだろうか。写真左には古い講中札も見える。
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台ケ原宿を過ぎ、白州小学校脇の道を進む。田圃の中を進むと、土手の草を野焼きにしている場所を通った。かなり激しい煙で通り過ぎるには大変な迷惑であった。旧甲州街道といえども天下の公道であり、通行に差し支えある行動はどうかと思うのだが。そして、前沢上の交差点が近づいたころ、道路の左側に草に半分隠れて、玉斎吾七と言う人の石碑があった。新しい石碑だが説明も無く、後にネットで調べたが、どのような人かは不明である。さほどの有名人でもない人の新しい石碑を建て、草に隠されていても誰も気にせず、説明も無いのは不思議である。
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国道の前沢上の交差点に差し掛かり、歩いて行くとサントリーの「白州製樽工場」の看板がある。直ぐに右に旧道の入口に入って行く。夜間照明も付いた立派な白州総合グラウンドを右に見ながら進み、荒田の集落に入って行く。田舎暮らし情報館というリサイクルショップがあり、面白い掘り出し物がありそうに思えたが、疲労に加えて、足も痛くなってきて、マメができる前触れでないかと、気になりだし、とても寄る余裕はない。
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下教来石(しもきょらいし)の集落を、ともかく帰りのバスの停留所に着くことを思いながら進む。写真撮影の頻度も極端に少なくなる。やっとの思いで「下教来石の交差点」にたどり着くが、バスの停留所が見つからない。聞こうと思っても誰も見当たらなかったが、何とか庭に出ている婦人を見つけることが出来、交差点から30mほど韮崎方面に戻ったところであるのを知る。山梨交通の専用のバスが折り返せる広さがある場所があった。時間は16:40でバスは17:33である。ベンチも無く日陰もない場所で1時間以上もひたすら待ち続けることとなったが、韮崎駅には18:13に着き、やっと帰宅の電車に乗ることが出来た。
今日の歩行距離は30Kmを越え、流石に疲労困憊であった。

2009.06.20

石和から韮崎

本日の万歩計37,874(24.59Km)

もう、梅雨が始まっておりハッキリしない日が続いている。幸いにも今日は晴れ空に恵まれ、午前9時11分に石和温泉駅に着き、早速歩き始めた。石和温泉は1961年果樹園で突如温泉が湧き出し、東京からも近く急速に発展した温泉である。駅前にはショッピングセンターもあり、なかなか賑やかさだ。
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駅から国道に向う途中に、古くは笛吹川であった流れを整備し直した第二平等川があり、河童の石像や笛吹権三郎の像がある。そして、国道に出て右折して、こちらは本当の平等川を渡るが、葦が一面に茂る川となっている。そう言えば、葦簀(よしず)なども最近は目にすることは無くなった。
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街道歩きとしては楽しいとは言い難い国道歩きが続くが、たまには旧家らしい立派な門を持つ屋敷も現れる。そして松原の交差点を過ぎ「南の風 風力3」の目立つ看板のホテルが見えてくると、酒折駅も近い。
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次の交差点の「山崎三叉路交差点」は新宿3丁目で分かれた青梅街道との合流点で、南無妙法蓮華経の大きな供養塔が立っている。この場所は大きな刑場跡でもあり、供養塔は日蓮宗の信者だった法悦が建てたと伝えられる。江戸時代の歌舞伎役者の市川海老蔵は、甲州武士の子孫と言われるが、甲州での興行へは甲州道中を使っていた。しかし、川渡しで法外な金を取られてからはこの青梅街道で甲州へ入ったと伝えられる。
さらに少し進むと、「日本武尊」と書かれた大きな古い石碑がある。これはこの先にある日本武尊を祀った酒折宮への道標とのこと。
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道路の左側には「山梨学院大学」見えてくる。綺麗なキャンパスに釣られて、少し内を歩かせて貰った。箱根駅伝の活躍でも有名で、幼稚園から大学院までの総合的な教育機関として地域の発展にも寄与しているように見える。
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甲府に向って、道は続く。中央線の向こうには「甲斐善光寺」が見える。永禄元年(1558年)、甲斐国国主武田信玄によって創建され、川中島の戦いで戦火が信濃善光寺におよんだときに、信玄は本尊をここに移した。本尊は、さらに織田信長の手で岐阜へ、豊臣秀吉により京の都へ、更に徳川家康の手で尾張へ移されるなど転々としたが、1598年(慶長3年)秀吉の死の前日に信濃へ返されたとのこと。
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身延線のガードをくぐると直ぐに枡形になっていて、左折して40mほどで右折する。右側に重厚な立派な家が現れた。まだ、住居として使用されているようだが、写真では十分に重厚さを示せない。
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天正10年(1582)創業の印傳屋の垢抜けした店舗と印傳博物館があった。印伝とは、インド羊や鹿の皮をなめしたものをいい、細いシボがたくさん有り、染色した皮に漆で模様を描いたものとのこと。なお、家長は代々上原勇七を名乗り、手法は門外不出として口伝で伝承されたという。
NTT甲府支店西の交差点で左折して、最初に交差する通りは銀座通りの名前で、既に七夕を考えたと思われる飾りつけがなされていた、
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問屋街入口で最後の枡形を過ぎると、大きな通りに出て左折する。商工会議所の立派なビルが見えてきて、甲府駅に続くメイン通りの「平和通り」を歩道橋で渡る。甲府駅前には「武田信玄」の銅像もあるが、駅までは1Kmほどあるので、そのまま次に進む。
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大きなビルが林立する市街地であるにもかかわらず、立派な土蔵が残っている。そして、荒川を渡る。この荒川は奥秩父の金峰山に源を発し、有名な昇仙峡を下り、笛吹川へ合流し更に釜無川と合流し富士川となって駿河湾へ注ぐ。江戸に非常事態が起こったとき、家康が駿河に逃れる想定脱出路でもあった。
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続いて貢川(くががわ)という小さな川を渡る。架かっている橋は「貢橋(くがはし)」で昭和6年竣工で時を感じさせた。少し先には、天然記念物の「サイカチ」の木が2本立っていた。「サイカチ」は川に生える木であるので、かつて貢川の流れが、この辺りまでおよんでいたことを窺わせる。川原でサイカチはよく見かけるが、確かにこれだけ太いのは始めてである。
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前田橋南交差点を過ぎると、右側に「クリスタルミュージアム」。興味はあったが、お昼の時間となり、お腹も空いてきてスキップして次に進むことにした。
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直ぐ先には、芸術の森公園があり、県立美術館にはミレーの「種をまく人」、「落穂拾い」などがあることで有名である。「落穂拾い」はパリのオルセー美術館、「種をまく人」はボストン美術館にあるのが有名だが、ミレーは同じ主題の絵を何度か書き直しているので、その内の1つがここにもあるのである。そして、中央高速をくぐって、ようやく今日の昼食予定の「うな竹」に行き着き、浜松から移ってきた主人の作る「うな重」で空腹を満たして、しばし休息した。
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時間は1時で日差しは強く暑い中を出発する。「竜王駅前」の交差点を過ぎると、しばらくして国道と分かれて、街道は右に入って行く。60mほど進むと、右側に大きな丸い石が祀られている。竜王新町下宿道祖神で、神体の直径は45Cmとのこと。丸い道祖神は、珍しいが山梨県に入ってからたまに見かけるようになった。
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時々、立派な白壁の家が見受けられるのは街道らしい雰囲気を醸し出している。中央線の踏切を渡ってから、道は上り坂になり途中には「諏訪神社」がある。
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進んで行くと、右手に「HAL研究所」があり、上り坂の頂上の左側に「山梨県営発電総合制御所」。県内の18の発電所の集中監視制御をしているとのこと。子供用の見学展示室があり、その前には琴川第一発電所で実際に使用していた水車が展示されていて、大月の駒橋発電所を思い出した。坂道を上ってきた暑さを冷やすべく案内の女性が1人いる展示室で少し休憩させて貰った。
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下り坂になって、少しは楽になって進んで行くと、下今井で寺町と呼ばれている地域となり、なまこ壁を配した家が続いていた。街道らしい感じである。そして、植木の手入れがよく、石畳の参道が美しい自性院がある。
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静かな住宅街で、本当に立派な家も現れる。
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下今井の複雑な交差点を抜けて塩崎駅方向に進むと、道路右の土手には子供のレリーフがあり、少し進むと大きな石が見えてくる。「泣石」である。説明板には以下のように書かれていた。
下今井字鳴石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約3.8m、幅約2.7m、奥行き約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言い伝えがある。
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「泣石」を過ぎると直ぐに塩崎駅入口で大きな「三界萬霊塔」がある。そして、殊更に立派な家。なまこ壁が延々と続く。一体、どのような方が住んでいるのであろうか。維持していくのも大変であろうと思うのだが。

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ずんぐりした形の鳥居が現れた。舟形神社の鳥居である。説明板によれば、室町期の建造とのこと。現在の若者なら確実に頭をぶつける高さである。
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塩川沿いの道に出て進んで行き「塩川橋」を渡ると、線路ぎわの道を延々と進む。
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下宿(しもじゅく)の交差点には、「鰍沢横丁(かじかざわよこちょう)」の石碑がある。江戸時代には富士川舟運の拠点であった鰍沢河岸が設置され栄えるが、近代には鉄道や道路など交通機関の発達に伴い商業圏の拠点としての役割は低下し、近年は過疎化が進行しているとのこと。
また、この交差点からは、電信柱を廃止して、美しい街並みになっている。
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進むと、「韮崎宿本陣の跡」の石碑のみが残っていた。そして、本町の交差点で「韮崎駅」方面に進み、ガードをくぐて駅の正面に着いた。駅構内の売店で「アイスコーヒー」を飲んで一息つき、15:40分の帰りの電車に乗ることにした。
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駅のホームからは、韮崎名物の「観音像」、反対方向には「八ケ岳」がかすんで見えていた。梅雨の季節だが今日は快晴に恵まれ、暑さがこたえる1日であった。今日の晴天を見越して、行きも帰りも大勢の登山客が電車の座席の大半を占めていた。
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2009.06.07

阿弥陀海(笹子)から石和

本日の万歩計44,477(28.89Km)

先週に続いて、街道歩きに来ることができた。笹子駅を9時に出発して、直ぐにJR線のガード潜り進んで行く。登山を目指すと思われる人達も5?6人が同じように出発して行く。
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しばらく、進むと頭に厚い笠のようなものを載せた「笠懸地蔵」がある。由来はハッキリしないようだが、領民を襲う大飢饉等の災害や苦渋の救済を心願して作られたものであろうとされている。そして、1Kmほど進むと臨済宗妙心寺派の普明禅院がある。江戸日本橋より25里とある。
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国道から左に別れ、平行した橋を渡り進んで行く。突き当たって道標を見ながら左折し「新田下」のバス停を過ぎて右折する。右折すると甲州街道の道標があるが、これでは入口を示す役には立たない。ともかく、笹子峠越えの旧街道が始まる。
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杉の葉が降り積もった路を1Kmほど進むと舗装道路に出るが、数百メーターで再び樹林間の道への入口がある。
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数百メーター進むと開けた場所に出る。ここは三軒茶屋跡で「明治天皇野立所跡」の碑がある。明治13年6月19日にご巡幸されたと顕彰の記と書かれた金属板に書かれていた。
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明治天皇巡幸碑を過ぎると、急に勾配がキツクなり、普段の運動不足を実感させられながらあえぎながら進んで行くと「矢立の杉」に到着する。「矢立の杉」は昔武将が出陣に際して矢を立てて武運を祈ったとされる杉で、根廻り幹囲14.80メートル、目通り幹囲 9.00メートル、樹高約26.50メートルと書かれている。
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中山道の「大湫の杉」は目通りが11.0m、樹高60mで、「矢立の杉」は大きさでは2番目であるが、木の中が空洞になっていて天が見えるのが特徴である。休憩できる東屋も造られているので、疲れた体を休めるのに都合が良い。健脚を誇る先輩も東屋で流石に疲れた風情だ。
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「矢立の杉」の直ぐ上には真新しい地蔵があるので、何だろうと見てみると、建立は昨年(2008年)で杉良太郎の歌う「矢立の杉」を記念して作ったようで、集まった浄財は「矢立の杉」の保存に役立てるとのことであった。ここで街道歩きは地蔵の前を右に進んで林道を進むのが無難な方法だが、元来の街道は左脇を進む。登山の様相の道で、いささか急峻だが、危険は無いのでゆっくりと進んで行く。「矢立の杉」までの道に比べて通る人が少ないのが、踏跡から見て取れる。
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急な尾根道を登り終えて林道に出て進むと、「笹子遂道」が見えてくる。286,700円掛けて昭和13年に完成したものだという。優美さの感じられる入口のデザインで平成11年には登録有形文化財に指定された。それにしても、3分で通り抜けられるこの遂道の完成以前は、上の峠道を30分ほど掛けて歩いていたとは、大変なことであったろうと思う。もちろん街道歩きとしては、当然トンネルの上の峠道を歩んで行く。なんと熊出没注意の立て札まである。
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峠は色々な方面への分岐点で、賑やかな道標が立っていた。我々は「かいやまと駅」方面に進むことになる。下りてゆくとトンネルを通る林道に出る。
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ふり返るとトンネルの出口が見えている。林道のガードレールが切れていて、林道をショートカットして進む歩行路に入って行く。
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延々と杉林の間の道を下って行く。上質な絨毯のように柔らかく気持ちが良いが、なかなか林道には出られない。お昼までには通り過ぎられると思っていたが、まだまだと思われたので、途中でいただいた「おにぎり」を食べて休憩した。
ようやく林道に出て、長い長い林道を進んで「駒飼宿」に到着した。宿場の面影はほとんど残っていないが、立派な庭木、太く曲がった松の木が僅かに宿場であったことを主張しているように感じる。そして、中央高速の下を潜れば、また国道20号線と再会である。
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国道にぶつかって左折するのが甲州街道だが、右折して「甲斐大和駅」の方に300mほど進んだところにある「うゑのや」という食堂に入って遅い昼食をとる。もう1時だ。
食事を終え1時30分に勝沼方面に出発した。直ぐに「鶴瀬宿」の杭があった。ここが鶴瀬宿の本陣跡である。やがて、国道は洞門とトンネルとなる。
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洞門を過ぎるとトンネルの左側に旧道があり、途中に左に延びる吊り橋がある。かつて集落の交通に利用された長垣の吊橋だが、車社会の到来とともに使われることもなく、今は、もう朽ちて通行は不能である。そして、昨年できたばかりの真新しい洞門が姿を見せた。
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道路の左側に「大和YAMATO」と書かれたモニュメントが見えてきた。ここが大和町と勝沼町の境界である。長い単調な国道歩きも終わりに近づき深沢の交差点を過ぎると、近藤勇の石像が建っていた。ここは、1868年3月6日に近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊300と板垣退助率いる官軍3000が甲州勝沼の戦いとして激突したところである。官軍の圧倒的な火力に甲陽鎮撫隊はたちまち敗走して、近藤勇は江戸に逃げ帰った。その後、さほどの時も置かず、近藤勇は捕らえられ、板橋で露と散ることになった。
それにしても、この近藤勇の石像は漫画チックで、全く重厚さは感じられない。
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直ぐに、道路の左側に大善寺。ぶどう栽培の発祥のお寺という。しかし、境内に入るだけで入場料500円の商魂に嫌気がさして外から本堂を撮影するのみで通り過ぎた。
そして、上行寺前の交差点に到着した。午後3時である。ここから「勝沼ぶどう郷駅」に向い帰宅の途に着くか、先に進むか迷ったが、先に進んで「石和駅」に向うことにした。

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上行寺前から100mほど進んで上町の交差点を過ぎると、勝沼本陣跡の「槍掛けの松」が目に入る。大名や公家が本陣に泊まったときに槍を立てかけた松の木だという。少し進むと、古い2階建てと3階建ての蔵が残っていた。葡萄がもたらした富が窺える。
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明治30年代に勝沼郵便局舎として建てられた当時の洋風建築で、その後大正9年から昭和7年ころまで、山梨田中銀行の社屋として利用された建物に遭遇した。銀行当時のカウンターや時代を経た家具調度類。特にゼンマイ式の蓄音機で鉄の針で「夕焼け小焼け」の童謡が聴けたのは郷愁を誘われるものであった。
いただいた小冊子によれば、第二次世界大戦中は北白川宮が疎開された。平成9年5月に国の登録有形文化財になり、平成10年12月に田中逸策氏より勝沼町に寄贈されたとある。現在は街道を歩く人々の無料休憩所として、ボランティアの方が建物の説明とお茶のサービスを行ってくれる。
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この辺りから、葡萄棚を配した家が多く見られ、ワイナリーも何軒か見掛けられた。特に有名なのが白百合醸造で、工場見学もできるが、今日は先を急ぐ旅で樽や自動車の廃材で作ったロボットのモニュメントを見ながら通り過ぎて行く。
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時間の経過を気にしながら暑い陽射しの中を石和に向って歩き続ける。白百合醸造から2.5Kmほど進んで日川橋を渡り、さらに、2Kmほど川に沿って進む。日川は途中で合流して笛吹川となるが、笛吹川を渡ると、川の堤防に沿ってしばらくは松並木となったところを進む。松並木を過ぎると、笛吹権三郎之像があり、ここで笛吹川と別れ、石和温泉の市街に向うことになる。
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市街への道を進んでいると、「テアトル石和」という昔懐かしい感じの映画館があり、2本立てで日本映画を上映していた。
そして、国道に合流したところに遠妙寺(おんみょうじ)がある。仁王門を備えた寺は珍しい。ずいぶん立派な仁王門だと思っていたら市指定文化財であった。また、この遠妙寺は、謡曲の「鵜飼」発祥で有名とのこと。

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少し進むと、石和本陣跡があった。本陣跡は駐車場となってしまっていたが、蔵が1つだけ残っているのが見受けられた。国道の向こう側には石和小林公園がある。30際のとき富国徴兵保険相互会社(現富国生命)の第一部長、44歳で社長、52歳の時に日本開発銀行初代総裁。その後東南アジア移動大使、インドネシア賠償交渉日本政府代表、アラビア石油社長、海外技術協力事業団初代会長、財政制度審議会会長、外資審議会会長を歴任し、勲一等旭日大綬章を賜った石和の英雄、小林中(あたる)の屋敷跡である。
等身大の銅像の他、足湯があり女性が数人楽しんでいた。
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ようやく、石和温泉駅入口の交差点に着いた。久しぶりの長距離歩行で疲労がつのってふらふらである。ここから、駅までは800mほどだが、無限の遠さに感じられた。それでも午後5時30分に石和駅に着き運よく直ぐの電車に乗ることができた。