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2009.07.11

教来石から金沢(青柳)・・・(甲州街道)

本日の万歩計34,956(22.72Km)

kyoraishi_01.jpg今日も、朝4:40に自宅を出て韮崎に8:28に着き、8:38発のバスで40分掛けて前回歩き終えた下教来石(しもきょうらいし)に着く。韮崎を出発したときは乗客は10人程度であったが、最後は私たち街道歩きの2人のみとなった。
ところで、教来石(きょうらいし)の地名のいわれは、昔 日本武尊が当地を訪れ、村はずれの大石に腰掛けて休み、この石を村人が「経て来石(へてこいし)」と呼び、これを村の名前にしたが、経を教と書き誤りこの名前になったと言うが、ハッキリしない。
ともかく、バスを下り、9:30に出発。直ぐに国道20号の左側に「明治天皇御休憩所址」の碑を発見。通り過ぎて100mほどで国道から右の旧街道に入って行く。200mほどで左側に諏訪神社がある。本殿の中の彫刻は素晴らしかったが、周りに目の細かい網が貼られていて撮影は色々試みたが果たせなかった。
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この辺りは見晴らしが良く、下の方の田園地帯が良く望見できるが、明治天皇が訪れられたときは田植えの季節で、しばし田植えの情景を眺められたという。少し先には「明治天皇田植御通覧之址」の碑が建っていた。
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さらに先には、「御膳水跡」の碑があり、明治天皇がここの水を誉めたと書かれていたが、現在の旅人にはコンビニで水を買うより仕方が無い。とても立派な家も建っていた。
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1.5Kmほど進んで国道に出たところには教慶寺。国道を100mほど進んで再び右に入って行くと上教来石の集落である。街道らしいなまこ壁の蔵がある。旧家らしい豪壮な家であった。
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松の枝を見事に仕立てた家がある。少し先で大目沢橋を渡ると、山口の関所跡である。信州口を見張った国境の口留番所である。説明板には下記の記述があった。
ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永二年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。
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関所跡を過ぎると、田園風景が1Kmほど続く。植えられた稲も順調に育ち、風が吹くと葉先が美しい波を描く。
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国界橋の手前で国道に出ると、今回の歩行で唯一のコンビニのセブンイレブンがあり、その脇には、「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」の教来石出身の山口素堂のとても大きな句碑がある。田中角栄書、世話人 金丸信とある。しばし、当時の政界に思いを馳せる。
コンビニの横の運送会社のサンコーラインの駐車場の中を通って草道になってしまっている旧道を進み、旧国界橋を渡る。この橋を渡ったところには、街道歩きの人達にはすっかり有名になった電撃ネットがある。このネットは猿の侵入を防ぐためであるが、7000ボルトのパルス状の電流を流していて、触れると激しい電撃を受ける。電圧は高くても電流は小さいので触れても生命にかかわることは無いが、やはり恐ろしい。棒の黒い部分を持って開け閉めするように注意書き(我々は予備学習してきた)がなされているが、教来石側からは分からない。写真は渡り終えてからふり返って撮ったものである。公道にもかかわらず恐ろしく感じて、やむなく国道の新国界橋を渡る人も多いようであるので、注意書きは両側に、しかも図入りで親切なものが欲しいと感じた。
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国道に出て100mほどで右に急坂があり、上って行くと「日蓮上人の高座石」と書かれた説明板のある場所がある。説明板によれば日蓮上人が流罪を許され、佐渡から鎌倉に帰り、その後ここ下蔦木に立ち寄ったとき悪疫が流行っていた。そこで、三日三晩この岩上に立って説法と加持祈祷を行い、霊験を表わしたので村人全て日蓮に帰依し、当時真言宗であった真福寺の住職も名を感応から日誘と改め日蓮宗に改宗したと書かれていた。進むと、日蓮宗に改宗したという、真福寺の立派な鐘楼門が見えてきた。境内では紫陽花が涼しげに揺れていた。
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進んで行くと、真下に国道を見ながら進むようになり、応安の古碑と書かれた石碑の建つ場所があった。応安とは北朝時代の1368年からの8年間を指すが、この当時の石碑群を集めたようである。そして、少し先には「古代米の里」とかかれた木の看板が有り、右の土手をのぼると、少し黒っぽい葉を持つ稲が植えられていた。
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国道を真下に見ながら進んで行くと「甲州街道・蔦木宿」の看板があり、ここから蔦木宿に入って行くことになる。小さな川を渡ると、大きな常夜燈を2基配して参道とした石のお堂があった。宿の入口の守り神ででもあったのだろうか。
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100mほど進むと、枡形の説明碑があり道は左に曲がるが、そちらに進む前に「三光寺」に立ち寄ることにした。曹洞宗のお寺で、参道の植木の緑と石畳が美しく、お堂、鐘楼も立派である。
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枡形に戻り、国道を100m進むと、石の鳥居が見えてくる。十五社大明神である。鳥居をくぐって石畳の道を進むと本堂があり、その中には「めどでこ」がある。「めどでこ」とは棒に縄のリングが付いているもので、御柱祭りで大木の先端に角のように付けるものである。この十五社大明神も御柱祭りを行うのである。

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国道に戻って進むと、本陣の門と、その脇に石碑がある。本陣の建物は無くなっていて、門のみが残っている。
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さらに進むと、蔦木宿の大きな案内板があり、この案内板にも描かれている北の枡形に向って歩いて行く。「枡形道路」の石碑があり、分かり良い。
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枡形の出口には沢山の石仏があり、国道に復帰する。700mほど国道を進むと、また左側に外れて、岩田建材の作業用道路のような堤防の道を進む。再び国道に合流するところにも道祖神や庚申塔がある。ちょうど昼時で、ここの木陰で今日の昼食をとることにした。今日はレストランが期待できないものと考え、おにぎり等をコンビニで買込みリュックに入れてきた。
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600mほど国道を進むと、右に逸れて旧道への坂道を上って行き、机の集落に入って行く。美しい家並みを眺めながら進むと、国道に合流して瀬沢大橋を渡る。橋を渡ると直ぐに国道と分かれて左折して進む。
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瀬沢の郵便局を過ぎると、左手方向に石段が続く神社があり、その先には古い様相の「吉見屋」というお店がある。吉見屋の前の自動販売機で冷たい飲み物を買い、飲み干してここから始まる急坂を上って行く。
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急坂は短く、上り終えると道は左にカーブして小さな沢を渡るが、本当の登りはここからであった。民家も無くなり坂道は森の中に入って行く。道祖神が見送っている。登りは辛いが、立ち止まると風が涼しく心地よい。標高もだいぶ高くなってきたようだ。この辺り一体は瀬沢古戦場で、天文11年2月(1543/2)、北から信玄を攻めようとした小笠原・諏訪・木曽・村上の4将は、動きを察知した信玄に奇襲され敗走したところである。
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峠を過ぎると高原の小さな「とちの木」の集落がある。八ケ岳もずいぶんと大きく見えてくる。集落を過ぎて、静かな高原の道が続く。
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街道は、また峠道の雰囲気になり、石仏が旅の無事を願って見送ってくれているようだ。立派な松の木の並びが見えてきたと思ったら「とちの木風除林」の説明板が立っていた。説明板によれば、とちの木では風当たりが強く五穀は実らず、寛政年間(1789?1800)に村では高島藩へ願いを出して、防風林として外風除けを村の上に仕立てた。そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っているとのこと。
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防風林から少し先には、江戸から四十七里の重修一里塚がある。そして、今日始めての甲州街道コースの立て札がひっそりと立っていた。
街道の両側は高原の別荘地の様相になってきて、三菱マテリアルの私有地にぶつかり、甲州街道は行き止まりにになるので、左折して迂回して進む。広大な土地である。
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三菱マテリアルの敷地を過ぎると、原の茶屋の集落である。500mほど進むと、右側に明治天皇御膳水の碑があり、冷たい水が流れていた。飲んでみたい誘惑に駆られたが、飲んでも良い旨の掲示もなく我慢した。
集落の終わりには、新しい双体の道祖神、庚申塔の石碑などが集められていた。
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原の茶屋の集落を過ぎると、カゴメ富士工場の裏を進む道になる。カゴメの工場を過ぎ、道が下りにさしかかると「御射山神戸(みしゃやまごうどう)」の集落である。この辺りも松の植木の手入れが良く行き届いている。
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道端には多くの石仏が集められているのを見ながら進むと、国道に合流する。合流した国道の右側には「小川平吉先生生誕之地」の大きな石碑があったが、知らない人物である。後で調べたら、政治家・弁護士で長野県生まれで1903年衆議院議員に当選して、司法大臣、鉄道大臣等を歴任したが、1929年の私鉄疑獄事件に連座して入獄した人物であった。大きな石碑に見合った人物か、はなはだ疑問である。
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国道を進んで行くと、御射山神戸(みしゃやまごうどう)の信号が現れ、少し先の「すずらんの里駅」への入口の交差点には八幡神社がある。
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300mほどで、街道は国道より左に分かれる。分岐点には石碑が建っているが、文字は風化が進んでいて読めない。少し先には、馬頭観音の石碑群がある。真新しい石碑が建てられていたのは驚きである。
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馬頭観音を過ぎたあたりから、街道は上り坂になり樹林帯の様相を示し始め、直ぐに欅(けやき)の大木が見えてくる。日本橋から四十八番目の御射山の一里塚である。塚は道の両側にあり、ほぼ完全な形を保っているが、進行方向右側の欅は明治初期に枯れ、左側のみ慶長年間から380年間を生き延び、目通り幹囲6.9m、樹高25mとなっている。またここには標高917mの標柱も立っていて、高原の風は冷たく汗ばんだ体には心地よい。
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林を過ぎて、家並みが現れ始めると、富士見町上水道・神戸第二貯水池と書かれた門柱が建っていた。やがて、エプソンの大きな社員寮が見え始め、国道に合流する。
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国道に出て、青柳駅の方に折り返すと、線路の向こうに「穂屋之木大明神」と「鬼子母神」の像が見える。そして、無人の青柳駅に着く。時刻は午後3時で、30分ほどで高尾行きの電車が来た。
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