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2007.09.23

庄野から土山

今日の歩行距離(31Km:万歩計を忘れ地図を使った計測値)
suzuka_001.jpg23日の朝食は、ホテルのバイキングで済ませ、7時過ぎに出発した。鈴鹿川の河川敷では熱気球の愛好家たちが、既に活動していた。空は曇りで、昨日よりは涼しいであろうと期待された。
suzuka_003.jpg歩き始めて、昨日離脱した庄野の本陣跡に向い、その後バイパスと国道1号線で分断された街道を複雑に進んで、中富田に達すると、ブナ科の「スダジイ」と呼ぶ珍しい木の大木があった。幹の周り5mとのこと。
suzuka_005a.jpg進んで行き、人家の絶えるあたりに、「従是東神戸領」の境界石と大きな石碑があった。
石碑の字は読めないが、以下のような言い伝えが残っている。
 
 鈴鹿川と安楽川の合流するあたりの左岸、汲川原ではしばしば水害に見舞われ、人命が失われることも多かった。村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たが、堤防を造ると対岸の城下町が水害に見舞われるようになるとして許可しなかった。「禁を破った者は打ち首」という。「男たちが打ち首になったのでは村が全滅する」と、村の女性たちが立ち上り、200人余の女性たちだけで工事をはじめた。6年かかって堤防は完成したが、やがて藩主の耳に入った。処刑者を出すところであったが、家老が身をもって諌めたため、女性たちに逆に金一封を送り功績を称えた。この堤防を人々は「女人堤防」と言い伝えた。今から180年ほど前の出来事である。

しかし、6年もかかって、その間藩主の殿様が気がつかなっかた筈がなく、村人が困っているのを承知していたが、対岸の手前もあり、表立って許可する訳にも行かなかったが、出来てしまったものは仕方が無いと、家老が身をもって諌めるという芝居をうったのではなかろうか。
そうでなければ、許したとしても金一封を送る訳がないと思うのである。
やがて、中富田に入ると「中富田一里塚跡」。
和泉橋を渡り、さらに進んで行くと、旧東海道を歩いているとよく目に付く「ひげのお題目」がある。
これは、日蓮宗の信者 谷口法春の子法悦が願主となり、「東海道刑場供養塔」として建てられたもので、天長地久、国土安穏を祈願したものとのこと。
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和田町に進むと、「和田一里塚」があるが、明らかに近年に作り直したもの。それでも、植えた木は、かなり大きく成長している。そして、しばらく進んで道の左側に国内市場占有率5割の「カメヤマローソク」の工場。
伊勢神宮の宮大工の棟梁だった初代社長 谷川兵三郎氏が引退後も何か神様につながる仕事をしたいと願い、ローソク会社を興したという。
初めは神仏用の洋ローソクの会社だったが、昭和12年にアートキャンドルを始め、海外へも輸出、世界にカメヤマキャンドルの名を広めた。結婚式などでお馴染みのスパイラル型のキャンドルなどはこの頃この会社で開発されたものだという。引退後の仕事で世界的な企業になってしまうというのもすごい。
suzuka_009.jpgsuzuka_010.jpgsuzuka_011.jpg亀山の宿に入ると、各戸の家の前に、江戸時代に何の商売を行っていたかを示す木札が付けられている。個人の家にも公共の建物にも付けられている。これは、亀山の宿を過ぎて「関宿」に入っても続いている。
何とか、江戸時代の情緒を出したいとの努力の現れであろうか。
道路の作りも整備されていて、訪れた旅人が歩くのに良い雰囲気に浸れるように気を使っている。
そして、梅厳寺は写真では明らかでないが、寺の左が落ち込んだ地形になっていて、安藤広重が描いた場所といわれている。
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「亀山の宿」の街並みは、まだまだ続くが、やがて「野村の一里塚」がある。ここのエノキの木は立派である。これほど立派なのは、他には富士川の一里塚ぐらいではなかろうか。
suzuka_015.jpgsuzuka_016.jpgsuzuka_017.jpgそして、参道の長い「布気皇館太神社」。
その後、関西本線を跨いで越し、国道1号線と東名阪神のガードを潜って、鈴鹿川の堤防をたどる道を延々と歩く。再び関西本線にぶつかり、踏切を渡って、左折し「関宿」の入り口に達する。
関宿の入り口を入って、直ぐに「関の小萬のもたれ松」の案内板があった。案内板によれば、
江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。
小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。

とあった。
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古い街並みがよく保存されていて、観光客も多い道を歩いて行くと、「関宿」の守り神の「関神社」があった。
空腹を感じ、やはり古い感じの建屋の食事処で食事をした。
歩いて行くと、郵便局の前が高札場で、郵便局そのものも街の雰囲気を壊さない装いの建物であった。
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途中の休憩所に立ち寄ると、2階から街を眺められるところがあり、また違った視点で興味深かった。
郵便局の向い側は、和菓子屋さんの深川屋、服部家があり、瓦屋根の付いた立派な看板が出ている。こういう看板を「庵看板」というのだそうだが、看板の文字は江戸側は「関の戸」、京側は「関能戸」と書き分けられている。旅人が向う方向を間違わないための工夫という。
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観光客の多い、賑やかな通りも終わりに近づいたころ、「福蔵寺」があり、関宿の東の入口に「関の小萬のもたれ松」の案内板があったが、その小萬のお墓がこのお寺にある。
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大きな神社仏閣の最後は、「関の地蔵に振袖着せて奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い「地蔵院」である。
天平13(741)年、奈良東大寺で知られる行基菩薩が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられる。日本最古の地蔵菩薩で、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されていると言われている。境内の本堂、鐘楼、愛染道の3棟の建物は国の重要文化財に指定。ここを過ぎると、観光客は激減するが立派な街並みは、まだまだ続く。
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鈴鹿峠への道を進んで行き、国道と合流し、再度分岐して進むと、鈴鹿川を渡るが、この辺りでは、庄野辺りの広い河川敷が嘘のような小川になっている。そして、常夜灯が旧東海道であることを示してくれているようで心強い。

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suzuka_034.jpg国道を歩いていると、突然有名な「筆捨山」の看板があった。見ると、何のことは無い山に見えるが、
「東海道名所図会」には次のように記されているそうだ。
一の瀬川の辺にあり。海道の左の方は、麓に八十瀬川を帯びて、山頭まで所々に巌あり。その間々みな古松にして、枝葉屈曲にして作り松のごとし。本名は岩根山という。里諺にいわく、狩野古法眼(狩野元信)東国通行の時、この山の風景を画にうつしてやと筆をとるに、こころに逮(およ)ばず、山間に筆を捨てしとぞ。
いまは、木が茂り岩が隠れて平凡な山に見えるようになったとのことだが、これほど期待外れの山も珍しい。
suzuka_036.jpgやがて、鈴鹿馬子唄会館に到着。案内板によると鈴鹿馬子唄は、
坂は照る照る鈴鹿は曇る
あいの土山雨が降る
馬がものいうた鈴鹿の坂で
お参女郎(上臈)なら乗しょというた

と続く。
ここに、到着するまでは今日はここでバスを待ち引き返すか、坂下まで足を伸ばして引き返すかと考えていた。
実は、昨日から左右の足に豆が出来、手当てしたが相当痛く、特に休んだ後で、歩き始めると、しばらく馴染むまではゆっくりしか歩行できない状態で相当酷い。
ところが、馬子唄会館のおじさんと話していて、まだ、これからなら鈴鹿峠を越えられる。越えて土山に着けば「貴生川」へのバスもあると言うのを聞き、その気になった。時刻は、2時8分であり、2時間半ほどで行けるでしょうと言われ、ゆっくり行っても着けると考え出発した。
鈴鹿馬子唄会館の右側に急坂が続いていて、日本橋から京都三条大橋までの各宿場名の書かれた杭が道端に建てられている。
suzuka_037.jpgほどなく、「坂下の宿」に着く。江戸時代は難所の鈴鹿峠をひかえ、一息入れる大名行列や、旅人達で賑わったという「坂下宿」も今では戸数も減り、何でもない寒村の状態にまで後退してしまっている。これも時代の流れであろう。
坂下宿を通り抜けて国道と合流する地点に岩屋観音がある。鉄の扉が設置されているが、鍵は掛けられていないので自由に中に入れる。中は別世界で樹木に覆われ、お堂の左には滝も流れていて、とても涼しい。
お堂は、旅人の道中安全を祈願し、高さ18メートルの巨岩に石室を作り、阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の三体が安置されてるとのこと。
滝からパイプで水が引かれている。飲んでみると、美味しい水で鈴鹿峠を越すための水を補給するには最適であった。
suzuka_038.jpgsuzuka_039.jpgsuzuka_040.jpg騒音のけたたましい国道から早く逃れたいと思いながら歩き、「片山神社」の石碑がある分岐点に達した。
直ちにコンクリートで舗装されているが、樹林帯の涼しく清々しい道になる。

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suzuka_043.jpgほどなく、片山神社に到着するが、本堂はさらに急な階段の上で、足の痛みもありスキップすることにして、写真で本堂の方を写して、左の方の道を進むが、これが後ほど大間違いであったことが分かる。
滑り止めの切れ目を入れたコンクリートの急坂を上ると、直ぐに国道1号線に出たが、次にどう進んで良いか分からない。地図を良く見ると、先ほどの片山神社を通り抜けて進めばもう少し上のほうで国道を横切り歩道が続いているようである。 引き返す元気も出ないので国道に沿って上って行き、片山神社からの道が国道と交差する地点を目指す。しかし、歩道は国道の下を潜っていて、国道から降りる手段がない。
国道の向こう側を見ると小広場になっていて、そこからさらに上るようになっているようだが、国道を渡るための信号がないのは当然としても、国道はガードレールで歩道からは閉じられている。
考えても仕方が無いので、リスクを冒すことにして、ガードレールの継ぎ目の隙間から、車の途絶えるのを見計らって一気に駆け抜けた。
小広場には芭蕉の句碑もあり、
「ほっしんの 初(はじめ)に越える 鈴鹿山」   芭蕉
とあった。
suzuka_044a.jpgルート案内板もあったが、東海道遊歩道と書かれており、これから上るルートが赤い線で描かれているが、鈴鹿峠から先は大きく右にカーブして切れているような描き方で、この道で良いのかと不安を感じたが、他に歩道はないので、ともかく進むことにした。
上り始めると、いきなり急な道で、少し上ると馬の水のみ場の水槽のようなものもあった。その後もまるで山道のようで、最近の雨で道が相当に荒れている場所もあった。

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suzuka_046.jpg15分ほどで平らなところに達し、鏡岩への道標があった。鏡岩には、霧でも出れば確実に迷子になりそうな杉林の中を進むと150mほどで到着する。
鏡岩は、盗賊が旅人の姿が岩に写るのを見て、襲ったと言われているが、表面が荒れた唯の岩で、どうして姿が映るのかと思った。昔は輝いていたが、風化して現在の姿になったのであろうか。
後に調べたら、山火事でこういう姿になってしまったとのことであった。
峠道を抜けて開けた場所に、また道標があり国道との合流点まで1Kmとありほっとした。案内板のルートは、ここで右に分かれて辿る道を示したものであった。そして、茶畑が広がり不思議な服装でちょと可愛い絵の道標もあった。この絵の道標は土山に向かって歩く途中でも時々見かけた。
数百メータほどで、大きな常夜灯がありさらに安心感が高まったのは昔も同じであっただろう。
それにしても、これほどの大きな岩をどうやって運んだのだろう。
suzuka_047a.jpgsuzuka_047.jpgsuzuka_048.jpg国道に合流して歩いて行くと、山中というところに、鈴鹿馬子唄の歌碑やモニュメントがあった。最近作られた新しいもので、国道を車で通る人は立ち寄ることも無く、旧東海道歩きにとっても歴史的遺構でもなく、休憩場所にもなりそうに無いもので、作った意図が分からない。
さらに進むと、一里塚公園と書かれた小公園があり、また鈴鹿馬子唄の歌碑が設けられていた。馬と馬子のモニュメントも作られていたが、ベンチは無かった。
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そして、終に土山の入り口に達し、「田村神社」に至る「街道橋」に到着。この橋を渡ると、長い参道の「田村神社」がある。田村神社は、征夷大将軍として蝦夷を平定したことで有名な坂上田村麻呂を祀った神社であるが、流石に正一位の田村麻呂を祀った神社だけのことはあり、広大な広さの杉の大木の境内のなかに燐として建っていた。付属建築物も立派なものだ。
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神社を出ると、「あいの土山道の駅」があり、今日はここまでとバス時刻を見ると17:01で腕時計は16時57分。
1時間に1本のバスが直ぐに来るとは、全く運が良い。待つまもなくバスが来てJR草津線の「貴生川駅」まで行き着いた。
電車は30分ほど待つ必要があるが、やむを得ないと思っていたら、前の電車が車両故障で遅れており、直ぐに乗ることが出来、1時間ほどで京都駅に着き。またまた運のよい事に発車2分前の「のぞみ」の切符を買って駆け込み新横浜へと帰途についた。