2007.10.27
大津から京都
本日の万歩計35,380(23.7Km)
長かった、旧東海道歩きの旅も今日で最後となる。台風が近づいていて、関東では雨だが、京都あたりは曇りの天気予報を信じて、新幹線で京都駅まで行き、各駅停車で石山駅まで戻り出発したのは8時40である。
少し、雨がぱらついていて、傘を差して歩き出したが、この程度の雨なら歩くのに差し支えはない。
NECの大きな工場を左手に見ながら歩き、通り過ぎると「膳所城(ぜぜじょう)の勢多口総門跡」に着く。何年か前までは古い趣のある家なども残っていたようだが、完全に姿を消してしまっている。僅かに、駐車場の片隅に道祖神が所在なげに立っている。
この総門跡から右に100mほど行くと、琵琶湖の「御殿浜」に出られる。琵琶湖もこの辺りでは、幅は1Kmぐらいである。左の方には近江大橋と、膳所城跡が見える。釣りをする人、ボートを楽しむ人など、この辺りでは海辺の人が海を楽しむように琵琶湖を楽しむ。
元に戻って歩き始めると、ベンガラ格子の家があり旧街道を思わせる。しかし、古さを思わせる家は、ほとんど残っていなくて、少し寂れた町の風情である。
旧東海道を逸れて、琵琶湖に飛び出すようになっている、膳所城跡に行ってみた。もう少し後の季節なら綺麗な紅葉が見られるのだが・・・。
進んで行くと、時計を付けた石碑のある、「石坐神社(いわいじんじゃ)」がある。祀神は彦坐王と、天智天皇、伊賀釆女宅子媛命とその子大友皇子、豊玉比古命、海津見神。かつて御霊殿山の山中の大岩上に祠があったことが石坐の社名の由来とか。時計は天智天皇が中国より、時計を導入したことを示したという。
大津の宿で、是非寄りたいと思っていたのは「義仲寺(ぎちゅうじ)」である。もう少し大きなお寺を想像していたが、小さなお寺であり、注意していないと通り過ぎてしまうほどである。入り口の説明板には、義仲寺の名は,源義仲を葬った塚のあるところからきていますが,室町時代末に,佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります、とある。木曽義仲の墓の隣に芭蕉の墓もある。芭蕉は元禄7年(1694)10月12日午後4時頃に大坂の旅舎で亡くなり、遺言に従って義仲寺に葬るため遺骸を川船に乗せて淀川を上り伏見に至り、義仲寺に運んだという。
下の写真は、左が義仲の墓で、右が芭蕉の墓である。
また、芭蕉の門人又玄の「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句碑が2つの墓を飾っている。巴御前の小さな石塚もある。加えて、小さな展示室もあり、芭蕉の使っていた「椿の木で作った杖」などの遺品も並べられていた。
さらに、20基ほどの句碑が所狭しと建てられているが、芭蕉の句のみ紹介すると、
行く春をあふミ(近江)の人とおしみける
古池や蛙飛こむ水の音
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
旧街道を示す案内図が随所に建っていて、間違いなく辿って行ける。終に京阪京津線が路面電車のように走っている道路に出て、左折して逢坂に向かう。いよいよ市街地を離れる辺りに、東海道線と京阪京津線が立体交差する大正10年にできた美しいレンガ造りの橋がある。この橋の直ぐ後ろにJR東海道の逢坂山トンネルがある。
坂道も少しづつ傾斜を増してくるが、道路の右側を走る京阪京津線の線路を跨いで、妙光寺というお寺があった。興津にあった、清見寺を思い出して思わずカメラのシャッターを押した。直ぐにもう一つ、線路際に「蝉丸神社」の下社がある。
蝉丸神社の説明板には、蝉丸は延喜帝第四皇子であったが、生まれつき盲目で延喜帝が僧形にして逢坂山に捨てさせたと書かれているが、生まれについては諸説ありはっきりとは分かっていない。
宇多法皇の皇子、敦実親王の雑色(ぞうしき)であったが、親王は管弦の道に秀で、琵琶をよく弾いていた。それを常に聞くうち、蝉丸も琵琶が上手になったが、盲目となったので、役を辞したのではとの説が有力と思われる。いずれにしろ、今昔物語を出典とした謡曲「蝉丸」は、名曲とされる。蝉丸が琵琶の名手だったことから、音楽の神として崇拝されていて、楽器の腕の向上を願う絵馬が、神前に多く掲げられていた。
いよいよ、逢坂の峠に向かって上ってゆくことになる。国道1号線と京阪電車の線路に挟まれた歩道を上ってゆくと、国道の向こうに赤い鳥居の立派な「関蝉丸神社」の中社が見える。国道を渡るのも大変だし、なによりも高い階段に恐れをなして、国道を跨いで写真撮影のみで済ませた。
この辺りで、高速道路、京阪電車もトンネルとなり、もちろんJR線もトンネルだが、唯一国道1号線だけは切り通しを上ってゆく。道路の側面は石の雰囲気にデザインされたコンクリートで覆われているが、その上に「車石」と書いたプレートが取り付けられていた。昔は裏日本の新潟の米などは敦賀から深坂峠を越えて、琵琶湖北端の塩津で船積みされ、大津の港からこの峠を荷車で京に運ばれた。その交通量は江戸時代中期の1778(安永8)年には牛車だけでも年間1万5894輌の通行があったという。ところが、雨でも降ると道はぬかるみ荷車の通行に難儀することから、京都の心学者脇坂義堂は、1805(文化2)年に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べた。大変に手間の掛かる工事だったと思われる。
やがて、峠の頂上近辺に達したところの国道の右側に、逢坂山関址の碑と常夜灯が建っていた。押しボタン信号で右側に渡ると、300mほど旧道が残っていて、直ぐに「かねよ」があり、食事をすることにした。「うなぎ」を食べるなら、三島の「桜屋」か逢坂の「かねよ」で、優劣が付け難いと聞いていたので迷うことなく「特うな丼」を注文。うまかった。
食事を済ませ、満足して歩き始めると直ぐに「蝉丸神社の上社」がある。ここにも、神社の由来と、百人一首に採られている蝉丸の歌、
「これやこの 行くも帰るも別れては しるもしらぬも あふさかの関」が書かれていた。
短い旧道が終わり、国道に再度合流するところに横断橋があるので、左に渡り歩いて行くと、「月心寺」がある。入り口はまるで料亭のような感じで月心寺と書かれた風雅な軒行灯が吊られているが、これには訳がある。江戸時代は茶店で、安藤広重の大津に描かれている茶店が、それだとのことだが、明治以降に荒れ果て、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪(はしもとかんせつ)が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、その後月心寺となったためである。中にある湧き水は「走井の水」と呼ばれ古来より多くの歌に読まれたが、いまも清冽な水が湧き続けている。
長い峠道もようやく終わりになり、名神高速のガードを潜ると直ぐに左の交番脇のほうに曲がり、国道と分かれる。しばらく行くと、「みき京みち」、「ひたりふしみみち」と書かれた古い道標があり、右に進む。
道は国道1号線にぶつかる。国道に向かって進んでいると、おばさんが横断橋を渡って行かないと行けないと教えてくれた。国道を渡って600mほど進むと、山科廻地蔵と、徳林庵と書いたちょっと変わったお寺があった。徳林庵は、仁明天皇第四皇子で琵琶の名手の人康(さねやす)親王の菩提を弔うため、天文年間(1532?55)に創建された寺であり、山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により852年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあったが後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口に配置させたものである。
JRの山科駅を過ぎて三条通りの道に出て、ガードを潜って、天智天皇御陵への道が始まるところで、細い道路を左に入って行く。しばらく行くと、写真ではそれほどに感じられないが、かなりキツイ上りで日ノ岡坂と呼ばれる所を通る。そして右にカーブするところに、亀水不動尊がある。日ノ岡峠を改良する際、その工事に着手した木食正禅養阿上人が建てた「梅香庵」の境内に設けられた、人や牛馬が休憩する場所だったそうだ。当時は「量救水」(りょうぐすい)と呼ばれていて、お不動さんは後に祀られたようである。
道は三条通の合流点に向かって続くが、細い道で、ほんとうにここが東海道であったのかと思いたくなるほど寂れている。しかし、かすかにそれらしい香りもする。そして、やっと合流点に達すると、京都市営地下鉄東西線の開通で廃線にされた京阪京津線に使われていた舗石を利用して、昔の牛車道を表したモニュメントが作られていた。
長い旅も終結を迎えようとしていて、やっと三条大橋にある尊皇派の「高山彦九郎」が皇居を遥拝する大きな像が見えてきた、そして鴨川の清らかな流れ。
三条大橋には、和歌山に住む妹夫婦が、90歳の母と姪を連れて来てくれた。写真は母と、姪と3人で写したもの。
今年の3月にスタートして、京都まで歩いて行くなど、本当に出来るのだろうかと思っていたが、達成することが出来た。23日(回)費やしたが、最初の2日は家の近くを短時間歩いただけなので、実質21日での達成となる。
以下は三条大橋に到着して以降の番外編である
皆で南禅寺を訪れた。南禅寺の山門は日本三門の一つと言われ、22mの高さで堂々たるものであり、石川五右衛門が「絶景かな」と見得を切るが、これは創作で、寛永5年(1628)に藤堂高虎が、大阪夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものであり、五右衛門が釜茹でにされたのは、それより早い。
門前には高さ6mの大灯篭があるが、三門が大きいため目立たない。
また、南禅寺は琵琶湖から疎水を引いた水路が通っていることでも有名だ。美大生がよく描く場所でもあるとのこと。
まだまだ、紅葉前であったが、紅葉すると美しく幻想的な様相を呈するだろうと思われた。もっとも、紅葉の時期には訪れる人で一杯で風情を楽しむこともままならぬことになるかもしれないが・・・。