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2007.10.27

大津から京都

本日の万歩計35,380(23.7Km)
長かった、旧東海道歩きの旅も今日で最後となる。台風が近づいていて、関東では雨だが、京都あたりは曇りの天気予報を信じて、新幹線で京都駅まで行き、各駅停車で石山駅まで戻り出発したのは8時40である。
少し、雨がぱらついていて、傘を差して歩き出したが、この程度の雨なら歩くのに差し支えはない。
NECの大きな工場を左手に見ながら歩き、通り過ぎると「膳所城(ぜぜじょう)の勢多口総門跡」に着く。何年か前までは古い趣のある家なども残っていたようだが、完全に姿を消してしまっている。僅かに、駐車場の片隅に道祖神が所在なげに立っている。
kyoto_01.jpgkyoto_03.jpgkyoto_02.jpgこの総門跡から右に100mほど行くと、琵琶湖の「御殿浜」に出られる。琵琶湖もこの辺りでは、幅は1Kmぐらいである。左の方には近江大橋と、膳所城跡が見える。釣りをする人、ボートを楽しむ人など、この辺りでは海辺の人が海を楽しむように琵琶湖を楽しむ。
元に戻って歩き始めると、ベンガラ格子の家があり旧街道を思わせる。しかし、古さを思わせる家は、ほとんど残っていなくて、少し寂れた町の風情である。

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旧東海道を逸れて、琵琶湖に飛び出すようになっている、膳所城跡に行ってみた。もう少し後の季節なら綺麗な紅葉が見られるのだが・・・。
kyoto_06.jpgkyoto_06b.jpgkyoto_07.jpg進んで行くと、時計を付けた石碑のある、「石坐神社(いわいじんじゃ)」がある。祀神は彦坐王と、天智天皇、伊賀釆女宅子媛命とその子大友皇子、豊玉比古命、海津見神。かつて御霊殿山の山中の大岩上に祠があったことが石坐の社名の由来とか。時計は天智天皇が中国より、時計を導入したことを示したという。
kyoto_08.jpg大津の宿で、是非寄りたいと思っていたのは「義仲寺(ぎちゅうじ)」である。もう少し大きなお寺を想像していたが、小さなお寺であり、注意していないと通り過ぎてしまうほどである。入り口の説明板には、義仲寺の名は,源義仲を葬った塚のあるところからきていますが,室町時代末に,佐々木六角氏が建立したとの伝えがあります、とある。木曽義仲の墓の隣に芭蕉の墓もある。芭蕉は元禄7年(1694)10月12日午後4時頃に大坂の旅舎で亡くなり、遺言に従って義仲寺に葬るため遺骸を川船に乗せて淀川を上り伏見に至り、義仲寺に運んだという。
下の写真は、左が義仲の墓で、右が芭蕉の墓である。
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kyoto_12.jpgまた、芭蕉の門人又玄の「木曽殿と背中合わせの寒さかな」の句碑が2つの墓を飾っている。巴御前の小さな石塚もある。加えて、小さな展示室もあり、芭蕉の使っていた「椿の木で作った杖」などの遺品も並べられていた。
さらに、20基ほどの句碑が所狭しと建てられているが、芭蕉の句のみ紹介すると、
行く春をあふミ(近江)の人とおしみける
古池や蛙飛こむ水の音
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

kyoto_09.jpgkyoto_13.jpgkyoto_14.jpg旧街道を示す案内図が随所に建っていて、間違いなく辿って行ける。終に京阪京津線が路面電車のように走っている道路に出て、左折して逢坂に向かう。いよいよ市街地を離れる辺りに、東海道線と京阪京津線が立体交差する大正10年にできた美しいレンガ造りの橋がある。この橋の直ぐ後ろにJR東海道の逢坂山トンネルがある。
kyoto_15.jpg坂道も少しづつ傾斜を増してくるが、道路の右側を走る京阪京津線の線路を跨いで、妙光寺というお寺があった。興津にあった、清見寺を思い出して思わずカメラのシャッターを押した。直ぐにもう一つ、線路際に「蝉丸神社」の下社がある。
蝉丸神社の説明板には、蝉丸は延喜帝第四皇子であったが、生まれつき盲目で延喜帝が僧形にして逢坂山に捨てさせたと書かれているが、生まれについては諸説ありはっきりとは分かっていない。
宇多法皇の皇子、敦実親王の雑色(ぞうしき)であったが、親王は管弦の道に秀で、琵琶をよく弾いていた。それを常に聞くうち、蝉丸も琵琶が上手になったが、盲目となったので、役を辞したのではとの説が有力と思われる。いずれにしろ、今昔物語を出典とした謡曲「蝉丸」は、名曲とされる。蝉丸が琵琶の名手だったことから、音楽の神として崇拝されていて、楽器の腕の向上を願う絵馬が、神前に多く掲げられていた。
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いよいよ、逢坂の峠に向かって上ってゆくことになる。国道1号線と京阪電車の線路に挟まれた歩道を上ってゆくと、国道の向こうに赤い鳥居の立派な「関蝉丸神社」の中社が見える。国道を渡るのも大変だし、なによりも高い階段に恐れをなして、国道を跨いで写真撮影のみで済ませた。
kyoto_18a.jpgkyoto_18.jpgkyoto_19.jpgこの辺りで、高速道路、京阪電車もトンネルとなり、もちろんJR線もトンネルだが、唯一国道1号線だけは切り通しを上ってゆく。道路の側面は石の雰囲気にデザインされたコンクリートで覆われているが、その上に「車石」と書いたプレートが取り付けられていた。昔は裏日本の新潟の米などは敦賀から深坂峠を越えて、琵琶湖北端の塩津で船積みされ、大津の港からこの峠を荷車で京に運ばれた。その交通量は江戸時代中期の1778(安永8)年には牛車だけでも年間1万5894輌の通行があったという。ところが、雨でも降ると道はぬかるみ荷車の通行に難儀することから、京都の心学者脇坂義堂は、1805(文化2)年に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋にかけての約12kmの間に牛車専用通路として、車の轍を刻んだ花崗岩の切石を敷き並べた。大変に手間の掛かる工事だったと思われる。
やがて、峠の頂上近辺に達したところの国道の右側に、逢坂山関址の碑と常夜灯が建っていた。押しボタン信号で右側に渡ると、300mほど旧道が残っていて、直ぐに「かねよ」があり、食事をすることにした。「うなぎ」を食べるなら、三島の「桜屋」か逢坂の「かねよ」で、優劣が付け難いと聞いていたので迷うことなく「特うな丼」を注文。うまかった。
kyoto_20.jpgkyoto_21.jpgkyoto_22.jpg食事を済ませ、満足して歩き始めると直ぐに「蝉丸神社の上社」がある。ここにも、神社の由来と、百人一首に採られている蝉丸の歌、
「これやこの 行くも帰るも別れては しるもしらぬも あふさかの関」が書かれていた。
kyoto_23.jpg短い旧道が終わり、国道に再度合流するところに横断橋があるので、左に渡り歩いて行くと、「月心寺」がある。入り口はまるで料亭のような感じで月心寺と書かれた風雅な軒行灯が吊られているが、これには訳がある。江戸時代は茶店で、安藤広重の大津に描かれている茶店が、それだとのことだが、明治以降に荒れ果て、大正時代の初めに日本画家の橋本関雪(はしもとかんせつ)が朽ちるのを惜しんで自分の別邸にし、その後月心寺となったためである。中にある湧き水は「走井の水」と呼ばれ古来より多くの歌に読まれたが、いまも清冽な水が湧き続けている。
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長い峠道もようやく終わりになり、名神高速のガードを潜ると直ぐに左の交番脇のほうに曲がり、国道と分かれる。しばらく行くと、「みき京みち」、「ひたりふしみみち」と書かれた古い道標があり、右に進む。
kyoto_26.jpgkyoto_27.jpgkyoto_28.jpg道は国道1号線にぶつかる。国道に向かって進んでいると、おばさんが横断橋を渡って行かないと行けないと教えてくれた。国道を渡って600mほど進むと、山科廻地蔵と、徳林庵と書いたちょっと変わったお寺があった。徳林庵は、仁明天皇第四皇子で琵琶の名手の人康(さねやす)親王の菩提を弔うため、天文年間(1532?55)に創建された寺であり、山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により852年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあったが後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じ、1157年、街道の出入口に配置させたものである。
JRの山科駅を過ぎて三条通りの道に出て、ガードを潜って、天智天皇御陵への道が始まるところで、細い道路を左に入って行く。しばらく行くと、写真ではそれほどに感じられないが、かなりキツイ上りで日ノ岡坂と呼ばれる所を通る。そして右にカーブするところに、亀水不動尊がある。日ノ岡峠を改良する際、その工事に着手した木食正禅養阿上人が建てた「梅香庵」の境内に設けられた、人や牛馬が休憩する場所だったそうだ。当時は「量救水」(りょうぐすい)と呼ばれていて、お不動さんは後に祀られたようである。
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道は三条通の合流点に向かって続くが、細い道で、ほんとうにここが東海道であったのかと思いたくなるほど寂れている。しかし、かすかにそれらしい香りもする。そして、やっと合流点に達すると、京都市営地下鉄東西線の開通で廃線にされた京阪京津線に使われていた舗石を利用して、昔の牛車道を表したモニュメントが作られていた。
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長い旅も終結を迎えようとしていて、やっと三条大橋にある尊皇派の「高山彦九郎」が皇居を遥拝する大きな像が見えてきた、そして鴨川の清らかな流れ。
kyoto_32.jpgkyoto_33.jpgkyoto_34.jpg三条大橋には、和歌山に住む妹夫婦が、90歳の母と姪を連れて来てくれた。写真は母と、姪と3人で写したもの。
今年の3月にスタートして、京都まで歩いて行くなど、本当に出来るのだろうかと思っていたが、達成することが出来た。23日(回)費やしたが、最初の2日は家の近くを短時間歩いただけなので、実質21日での達成となる。
以下は三条大橋に到着して以降の番外編である
皆で南禅寺を訪れた。南禅寺の山門は日本三門の一つと言われ、22mの高さで堂々たるものであり、石川五右衛門が「絶景かな」と見得を切るが、これは創作で、寛永5年(1628)に藤堂高虎が、大阪夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したものであり、五右衛門が釜茹でにされたのは、それより早い。
門前には高さ6mの大灯篭があるが、三門が大きいため目立たない。
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また、南禅寺は琵琶湖から疎水を引いた水路が通っていることでも有名だ。美大生がよく描く場所でもあるとのこと。
kyoto_37.jpgkyoto_38.jpgkyoto_39.jpgまだまだ、紅葉前であったが、紅葉すると美しく幻想的な様相を呈するだろうと思われた。もっとも、紅葉の時期には訪れる人で一杯で風情を楽しむこともままならぬことになるかもしれないが・・・。

2007.10.07

水口から草津

本日の万歩計47,708(31.96Km)
今朝は6時に起床して6時30分からホテルの朝食をとり、6時50分に出発した。
今日もよい天気で、特に早朝は涼しく気持ちがよい。
kusatsu_01.jpg歩き始めると、直ぐにJR草津線の踏み切りを渡るが、渡ると大きな石部宿への道標がある。
さらに進むと、天井川の大沙川にぶつかる。天井川といっても、川の下にトンネルのようして道路が続くのを見るのは初めてだ。川の下を通り過ぎた向こう側に、土手の上への上り口があり、上って見ると、コンクリートで固めた水路のような川があったが、水は流れていなかった。おそらく、雨でも降れば一気に流れ出すのだろう。それにしても、山から流れ出す土砂を土手に積み重ねているうちに、ドンドン土手が高くなり終には川床まで高くなって、道路を通すトンネルを穿てるほどになったのは驚きだ。
kusatsu_02.jpg川の土手には、弘法大師が植えたと伝えられる「弘法杉の大木」があった。樹齢は750年というから、弘法大師とは時代が合わないが、樹高は26メートル、周囲6メートル で、圧倒的な迫力を持つ大木である。
木の葉は確かに杉の木だが、何時も見る真っ直ぐに伸びる杉の木ではなく、太い枝がのた打ち回っているような形である。人間が利用するには不向きだが、本来の生命力旺盛な古代種の杉と思える。
真っ直ぐ伸びて天を突く杉も素晴らしいが、この杉も本当に素晴らしい。
kusatsu_03.jpgkusatsu_04.jpgkusatsu_05.jpgしばらくして、由良川という2つ目の天井川に出くわした。この川はトンエルの手前で川に沿って右に行くと土手に上る細い道が付いていた。上ってみたが、ここも水はなく、川床一面に雑草が茂っていて、まるで廃川の様相であった。
なかなかに、雰囲気のよい家並みが続くが、車の通りが多いのが難点だ。抜け道に使われているのだろう。
そして、1805年創業の北島酒造があり、伝統の暖簾が掛かっていた。
kusatsu_06.jpgkusatsu_07.jpgkusatsu_08.jpg続いて現れた「家棟川」も天井川であろうと見当を付けて歩いていったが、期待は裏切られ川の上を渡る普通の橋が掛かっていた。しかし、上流に目をやると急激に落ち込んでいる部分が見て取れ、川を改修(掘り下げ)して現在の姿になったのではないかと思う。
kusatsu_09.jpg石部宿に入って行くと、吉御子神社と対になって石部社と呼ばれる「吉姫神社」があり、1kmほど進むで直角に右折するところに、旅人の休憩所があった。吉御子神社もこの近くだが、街道から少し離れているのでスキップした。
休憩所には籠が置かれていたが、主に竹を使ったもので、簡単な構造である。重さを極力軽くする必要性からも合理的な造りであったように思える。
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石部宿では、休憩所の他、駅前の広場、小公園などを造り東海道の街道情緒を醸し出す努力をしているようだ。
kusatsu_12.jpgkusatsu_13.jpgkusatsu_14.jpg石部駅を過ぎて、ゴーシューという自動車部品の大きな機械工場の脇を通り、人気の薄い道を通って再び草津線の見える道を進んでいると、形のよい山が見え「近江富士」と呼ばれていることが分かった。
平将門の乱を平定したことで有名な俵藤太(藤原秀郷)が瀬田川に住む龍王に三上山の大百足退治を頼まれて、自慢の弓で射止めたという伝説が残っている山であり、本当の名前は、三上山と言い、432 メートルの高さの山である。
六地蔵の集落に入るとすぐに、土地の名前の由来になった六体の地蔵が祭られた法界寺がある。現在は無住のお堂に国の重要文化財にもなっている地蔵菩薩立像一体が安置されているとのこと。山門前に「国寳 地蔵尊」の大きな石碑があった。
そして、直ぐに見事な構えの「和中散本舗」があった。和中散は、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の必帯道中薬として重宝されたもので、最盛期にはこの梅木地区で7?8軒あったという。
建物は今まで見た内で最も勇壮な木造建築で、往時の繁栄が偲ばれる。まだ、住んでいる方がおり、解放されていないが、庭園も国指定名勝とされ素晴らしいとのこと。
kusatsu_15.jpgkusatsu_16.jpgkusatsu_17.jpgすぐに、「梅の木の一里塚跡」の真新しい石碑があり、手原駅の方に進んで行く。
手原駅前に通じる道路の交差点に「稲荷神社」があり、神社の前には手の形のベンチがあった。神社に寄ってみたが、5?6人の人が明日から始まる秋祭りの相談で集まっていた。呼び止められ、お茶をご馳走になり世間話をしたり、問われるままに今まで歩いてきた旅の話しをした。

kusatsu_18.jpgkusatsu_19.jpgkusatsu_20.jpg手原駅に行くと、駅前には「東経136度」の面白いモニュメントがあった。また広場の広範囲な面にソーラーセルが張られていて、街灯の電力をまかなっているようであった。手原には「手孕み伝説」があり、東海道名所記には馬方の話として、
いにしへ、この村の某、他国にゆくとて、その妻の年いまだわかく、かたちうつくしかりければ、友だちにあづけて、三年まで帰らず。友だち、これをあづかり、わがもとに、をきたりしに、人のぬすみ侍べらんことをおそれて、夜は女の腹の上に手ををきてまもりしに、女はらみて、十月といふに、手ひとつうみけり。それより、この村を「手ばらみ」といひけるを、略して、「手ばら」といふとかたりぬ。
よく出来た艶笑小咄である。
手原駅を過ぎ、栗東市上鈎(りっとうしかみまがり)に入ると、上鈎池があり、その堰堤に「九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」と刻まれた石碑があった。石碑の説明には、
応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れ、近江守護職佐々木高頼は社寺領等を領地として、幕府の返還勧告に応じないため、時の将軍義尚は長享元年十月近江へ出陣、鈎に滞陣した。滞陣二年病を得、延徳元年三月二十五歳の若さで当地で陣没した。本陣跡は西約三百米の永正寺の一帯であったとのこと。
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歩く道すがら、曼珠沙華があちこちで咲いていた。既に盛りは過ぎたようだが、あまりにもけばけばしい赤は好きになれない。コスモスの清楚な感じと対比して見てしまう。
そして、シーボルトと縁のあった「善性寺」。説明板には、
文政9年(1826)4月25日、江戸からの帰途、シーボルトがこのお寺を尋ねたのだそうだ.住職の僧恵は植物学者で、シーボルトは「スイレン、ウド,モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見学できたと自著に書き記しているとあった。
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いよいよ、草津宿に入る。既に廃川となった古い草津川に架かる草津川橋を渡る。既に河川敷は全面遊び場になっている。川の堤防から下りる途中には火袋付きの立派な道標があり、「右金勝寺志がらき道」、「左東海道いせ道」と書かれている。
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ほどなく、丁字路に突き当たるが、ここが東海道と中山道の追分(分岐点)である。ここで 、右に折れれば中山道、左に曲がれば直ぐに草津の本陣があって、京に続いている。東海道には現存する本陣は「二川宿」とここ「草津宿」だけである。入り口の門の前には今日の宿泊客の「関札」と呼ばれるものが立てられている。そしてこの門をくぐると白州と呼ばれる白い砂利の引かれた空間となり、玄関広間に到着する。
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玄関広間には大勢の大名の「関札」が並べられていた。
そして、畳廊下を通って一番奥の左手には最も格式の高い「上段の間」、その向い側には2番目に格式が高い「向上段の間」がある。
kusatsu_29.jpgkusatsu_30.jpgkusatsu_31.jpgkusatsu_32.jpgkusatsu_34.jpg本陣を出て進んで行くと、直ぐに東海道はアーケードになっていた。四日市、水口に続き3番目のアーケードになった東海道である。しかし、どこのアーケードも精彩を欠いており、シャッターの閉まった店も多いように感じる。東海道の街道が明治になって影響を受け衰退したところも多いが、果敢に生き残って繁栄した街も多くある。しかし、そのような街も再度の時代の変化の影響は避けられないものらしい。
少し進むと、「草津宿街道交流館」があり、本陣の入場券とセットで買っていて、見ることができた。興味を引いたのは、当時の旅籠の朝食と夕食が再現されていたことであった。上客用とのことだが、朝食などは現在と較べても遜色が無いように思える。また、「和宮様」が江戸に下向されたときに出された食事も記録が残っていて、再現されていた。確かに上品に作られているが、一般の旅籠の食事の方が良いようにも見えてくる。
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ここの資料館は、江戸期の書物や絵画を良く集めていて、「東海道中膝栗毛」や「東海道中膝栗毛双六」などがあった。
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進んで行くと、草津宿で一番古く767年創建の「立木神社」がある。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、神社で普通に見られる「狛犬」が「鹿」なのが特色である。歴史を感じさせる神社である。そして、矢倉橋を渡る。
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その後、国道1号線を渡り、旧東海道の続きを進もうとすると、小さな公園にぶつかり、この公園を通り抜けることになる。そして、この小公園には「野路一里塚」の石碑がある。
さらに、広い道路を横断して少し進むと、右側の民家の遠藤家の塀に案内板を見つけた。平清盛の孫にあたる平清宗胴塚があるとのこと。民家であるが案内板があるので、見せて貰っても差し支えないものと、入っていくと大きな旧家のようで、庭を進んで奥まったところに、その塚があった。
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菱で一杯で水面がほとんど覆われた弁天池を過ぎて、しばらく行くと、明らかに日曜大工か何か、プロでない人が作ったと思われる木製の常夜灯があり、ここから「大津宿」、「4.6Km瀬田唐橋」の表示があった。とてもありがたい表示である。下月輪池が近づき「新田開発発祥の地」、「明治天皇御東遷御駐輩之所」などの石碑が纏まって建っていた。
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石碑の前を通り、下月輪池に達すると「東海道立場跡」の真新しい石碑が建てられていた。
その後も左折、右折をしながら街道を辿ってゆくと、石善と言う屋号の山村石材店前に、しゃれた猫の夫婦の像があり、「左旧東海道」、「右瀬田・唐橋」との道標にもなっていた。
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ようやく、瀬田の唐橋に辿り着いた。時間は4時半ころだが、進行方向に向かって写真を撮ると、逆光で夕方のように写るので、通り過ぎてから振り返って撮影した。水面にはボートの練習をする選手達を見ることができた。
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今日は瀬田の唐橋までと考えていたし、時間的にも肉体的にも限界が近づいているため、この辺で切り上げることにして、JR石山駅に向い、まず京都に向い(電車は通勤時間帯ほど混んでいた)、幸いにも直ぐ発車の新横浜停車の「のぞみ」に乗ることができた。

2007.10.06

土山から水口

本日の万歩計36,042(24.14Km)
今週も3連休。旧東海道歩きに行かない訳には行かないと出かけた。
tsuchiyama_01.jpg前回に終えた土山宿入り口の「あいの土山道の駅」に行くには、貴生川からバスで40分ほどかかる。貴生川には9時29分着が最も早く行ける方法だが、貴生川発のバスは9時20分で、その次は10時50分だ。しかたがないので、6時53分新横浜発で米原、草津経由で貴生川に10時15分に着く列車を選んだ。ところが、10月から9時55分発のバスができていて、ちょっと損した気分になったが、ともかく10時50分のバスに乗った。道の駅は麺類しかなかったので、「天婦羅うどん」を食べて出発する。まともに食事を取る場所が無いことが分かっていたので、コンビニの「おにぎり」もリュックに入っている。時刻は11時50分であった。
今までで、一番遅い歩き初めだが、ここが私の自宅から時間的に一番遠い場所だ。土山宿の始まりはこの石碑から始まるが、宿場町としての街並みの維持には並々ならぬ努力が払われていて、各戸の玄関には、江戸時代の屋号を示す板の看板を付けていた。「土山の街並みを愛する会」というのがあり、活動しているようだ。
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古い街道の雰囲気の街並みが続き、途中にある「来見橋」の欄干も和風で安藤広重の絵を模したものが描かれていた。
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旅籠があったあたりには石碑を建て、森鴎外が泊まった旅籠の「平野屋」の前には説明板があった。
説明板には、「森家は代々津和野藩亀井家の典医として仕えた家柄である。白仙は長崎や江戸で漢学・蘭医学を修めた篤学家であった。参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち, この井筒屋で病のため息をひきとったのである。 のちに白仙の妻清子、 一女峰子の遺灰も, 白仙の眠る常明寺に葬られた。」とあった。
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宿の途中に「伝馬館」という、古い旧家を改修して「資料館」としたところがあった。
中には、伝馬制の説明をはじめ、土山宿の模型、東海道53次の全ての宿の安藤広重の絵に対応した粘土細工があり、また100個の人形による大名行列もあった。
おじさんが居て、とても詳細に宿の歴史などを説明してくれ、てっきり、この「伝馬館」の説明員と思っていたら、説明が終わると帰っていった。あとには、それほど詳しくない女性職員が残った。どうもおじさんは、土山の町おこし活動の役員かなにかの方だったようである。
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さすがに、本陣は石碑のみで家屋は残っていない。そして、先ほどの説明のおじさんが訪れることを勧めた、「常明寺」。森鴎外の祖父の森白仙が井筒屋で病死して、田村川のほとりの墓に埋葬されたが、鴎外が明治13年(1900)に当地を訪れ、墓がひどく荒れているのを見て常明寺の境内に移した。その供養等があるとのことであったが、見つからなかった。現在も土山の人々の多くの墓石が立っていて、人の墓地を探し回るのも気が引けたからでもある。
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土山の家並みも途絶え、水口の宿に向かう途中に「歌声橋」という、人と自転車専用の橋があった。映画の「マジソン郡の橋」で屋根つきの橋を見たが、実際に屋根つきの橋は始めて見た。
そして、川の下には「野洲川」の清らかな流れが見える。
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しばらく行くと、「垂水の斎王の頓宮跡」がある。旧街道から国道に出て国道を横切る必要があったが、信号も無く苦労した。ときの天皇が内親王の1人を「伊勢神宮」に差し出す風習が南北朝時代まで続いたそうだが、このときの伊勢路に宿泊所として作られたのを「頓宮」という。昔は田, 甲賀, 土山( 垂水),鈴鹿, 一志の5 ケ所あったが、いまはっきりと「頓宮跡」として残っているのはこの土山だけだという。
頓宮が使われるのは何年かに一度だが、内親王が特別な役目を負って泊まる特別な場所であるため、とても立派なものであったという。入り口は茶畑への入り口にもなっていて、草が茂りこれが貴重な史跡への入り口とは思えない。土山宿の人達も街並みのみに気を使っていて、「頓宮跡」には、全く無関心であるのが残念である。
斎王といえば、3年間の勤めを終えて16歳で無事都に帰ってきた三条帝の皇女,当子内親王がいたが、匂うばかりの美しさであったという。自然の成り行きで当時26才だった三位中将藤原道雅が彼女に近づき、ふたりは恋仲となったが、一度「斎王」となって神に仕えた身は一生一人で過すのが慣わしであった。
三条帝の知るところとなって、引き裂かれ道雅は、全ての職務を取り上げられ「いまはただ 思い絶えなんとばかりを 人づてならで
      言うよしもがな」
の歌を百人一首に残している。
一方の当子も23歳で失意の内に没している。悲恋物語である。
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さらに少し進むと、東海道反野畷碑がある。これは水害に悩まされた住民が願い出て、1699(元禄12)年から4年間かけて野洲川へ流す延長504間、川幅4間の排水路を掘割した跡である。
また、その後に距離は短いが、松並木が見られた。
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歩いて行くと面白いものを見つけた。酒屋さんの店先に大きな酒樽に窓を開け、屋根を付けたのが置いてある。
覗き込むと、中には何種類かのお酒の容器とおぼしきものがあり、道行く人にコップ酒でも販売しているのだろうか。そして、ようやく水口が近づき、今郷の一里塚に対面した。江戸期の一里塚は壊され、最近になって作り直したもので、方形に石で囲われ、土の盛り方も少なめである。なにより植えられた木がまだ若木の様相であるが、年輪を重ね立派になってくることだろう。
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やっと、水口宿の江戸方見付けのモニュメントに達した。そして市街地の入り口には仕掛け人形が動く時計台がある。市街地の出口にも別の型の時計台があった。
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水口の市街地を通ってゆくと、途中から旧東海道がアーケードになっていた。旧東海道がアーケードになっているのを見るのは、四日市の諏訪神社脇から続くのに続いて2回目である。
旧東海道は「近江鉄道」の「水口石橋駅」の直ぐ傍を通っているが、その名前の元となった「石橋」があった。しかし、流れの幅は1mぐらいで、注意していなければ見過ごしてしまうほどのものであった。かつては、立派な流れが、水路の変更などで小さくなったのであろう。
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水口の市街地を抜けて田園地帯を歩いているとき、5体ほどの道祖神がまとめて祀られている場所があった。その1体を写したのだが、前掛けの図柄が面白い。周りを見れば、家々の庭にはコスモスの花が、風にそよいで、秋の彩を演出していた。
tsuchiyama_25.jpgtsuchiyama_26.jpgtsuchiyama_27.jpg少し日も傾いてきた。急がねばと思っていたら柏木公民館前に半鐘を鳴らす鐘楼の模型なのか、実物大ではと思える銅像があった。公民館そのものも凝った造りで、何故それほど経済的余裕があるのか不思議に思った。
いよいよ、野洲川の「横田の渡し跡」が近づいて来た。野洲川の方に曲がると、「泉の一里塚」があったが、これも、近年に作り直したもので、「今郷の一里塚」と同じつくりである。作った時期も同じであろう。
そして、「横田渡し跡の常夜灯」である。高さ10.5m, 笠石2.3m四方で火袋は人が通れる大きさで、周囲17.3m の玉垣もあり、街道一の大きさと説明板に書かれていた。江戸時代には、夜でも渡る人が絶えず、水流の激しい川で方向を失って亡くなる人も多くいたので、常夜灯を設置した。これで事故はなくなったという。
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さて、今日の予定は全て済ませ、あとは予約した三雲のホテルに向かうだけだ。かなりくたびれたが、足の状態は前回よりずいぶんと良くなった。